Thursday, October 29, 2009

第七章 自由と意図

 人間は主体的自由の獲得を自己内の価値とする。それは価値システム論的な優位性として確固とした信念である。強制されたつまり押し付けられた自由、つまり与えられた自由も、全く自由がない状態よりはましだが、やがて満足出来なくなるのだ。だから逆にどんなことをしてもいいよ、何も義務を果たさなくていいよ、と言われれば逆に自分で自分に何らかの高いハードルを課して目標を持ち、自分を束縛したくなるのだ。他者からではなくても自己によって自主的に強制することに人間は耐えられるのだ。勿論仕事上で求められて仕方なしに他者から強制されて、それをこなすという事態は日常的な出来事であろう。しかしそこには報酬が付帯するから未だ我慢が出来る。勿論それで自己内の満足感が得られなくてそういう生活から脱出したくなる人もいるらしい。しかしそういうケースというのも殆ど例外的なことであろう。というのも世界中には独裁国家による強制で殆ど自由のない成員の方がずっとそういう例外的なケースの成員よりも多いだろう。あるいは独裁国家でなくても、貧困は自ずと生活レヴェルでの自由は限定する。あるいはあまりにも莫大な財産を遺産として継承した者には、また誰にも理解出来ないある種の不自由というものがあるのだろう。しかしこれもまた例外的なケースで想像しやすいとは言えない。
 人生において他者とか外部的圧力によって追いまくられるスケジュールで生活するだけであるのなら、それも立派な強制なので、そういう状態から一刻も早く脱出したいと願うので、意図的な自由というものは偶然的なものではないものの方により価値システム的には意味があると言えるだろう。例えばその典型的なものが夢である。金銭的に恵まれない者にとって金銭的な自由が夢の内容となる。しかしそれが十分満たされた者にとって夢の内容は別個の次元に転換するだろう。しかしどのようなケースであれ、人間は自己内の夢に、その夢という奴はそう容易に叶えられるものではないから夢と呼べるのだが、邁進し努力することが可能であるものにより価値を置くものである。だからたとえ偶然的に宝籤が当たって大金が転がり込んできても尚、自分の努力によって得た幸運以上の感動はないに違いない。勿論偶然幸運が舞い込んでくることは、不幸に見舞われるよりはずっとましだということは当然のこととしてもである。だから意図というのは、それを抱くことで価値システム的な意義を見出し得ることにおいてのみ、正当化し得るものである。というのも世の中には悪意に満ちた意図も物凄く多いからだ。そしてそれは自己欺瞞に陥りつつ正当化しているのだ。善的な努力を必要とする意図において正当化は正当である。つまり真の自由とはある意味では障害を必要とするものなのだ。
 しかし自由がそのように敢えて立ち向かうという側面を持っているにしても、自由の行使そのもの、つまり行動の選択に関しては意図的であっても、その仕方、つまり個々の行為の方法そのものは意図的なものではない。例えばある発言をするとしよう。しかしその語り方はいくら個性的な表現方法を採っても、言語構造とか文法とかそういう面から言えば、全てある規則に沿ったものであり、例えば言語習得から歩き方、食事をする時に口にものを入れて、噛むといった一切は全て非意図的に学習したものばかりである。我々は言語的思考を巡らせて、これこれこういう目的で語るということを思いついてこうして語り方を覚えたわけでは決してない。ただ只管両親が話すのを観察して耳で覚えいつしかそれを模倣しながら習得していったのである。それは鉄棒で逆上がりをしたり、自転車を乗り回すようになるようになのである。つまり行動の選択においてのみ意図的であっても、その仕方や他者に対して態度をも含めた全ての示し方は全て非意図的に学習し、それを利用しているに過ぎない。方法の選択とは殆ど無意識のレヴェルで執り行われることなのだ。
 つまりそのように全ての行為の仕方そのものの非意図性こそが我々を行動レヴェルでの選択という面に自由を見出す契機ともなっているのだ。意図的であるということに意味があるとすれば、それは方法の大半、生活様式の大半、身体的行為の大半が規則以前的な無意識の本能的発現によってなされているからこそ逆に意図という面での心的作用が殊更問題とされるに至るのである。
 このことはウィトゲンシュタインもシュレーディンガーも主張しているのだが、例えば今例に出した言語とは習得する際にその意味を問うたりはしない。それらは我々が生まれて社会という荒波に揉まれて成長する際にその様々な習得過程で半ば強制された現実に即応した形で身に付けてゆく。つまりそれらは彼等の言うように使用によって身に付けるものである。意味とか意義とかは技術を習得して然る後に考え出すものである。だから何故イヌをイヌと呼び、ネコをネコと呼ぶかということに関して習得する時には考えない。そういうことは「それ」をイヌと呼び、「これ」をネコと呼ぶという習慣を身に付けてから後のことなのだ。これは意図ではない。しかしそれを無意識と決め付けてもいけない。確かに言語発声ということには無意識もある。しかしそれは語彙と語彙選択とか文章選択という脳内の判断をし得るようになってからのことであり、言語習得期には幼児はそれなりに意識的に学習している筈なのだ。それは幼児なりの意図に基づいている。
 そして彼等は言語使用するようになり、やがて既に身に付けた語彙や語彙選択や文章選択によって発語行為を執り行い、その言語的思考においてものを考え、意味を捉え、哲学するようになるというわけだ。その時意図は明瞭に言語的に説明のつくものとなる。それがたとえ言語的に説明のつかない理由によってなされる行動においてさえ、「言語的には説明が尽かない。」と説明することが出来るように思念することが出来るようになる。それらには必ず言語というものが絡んでいるだろう。そういう意味では厳密には大人には完璧な非言語的思考というものはあり得ないだろう。あるのは恐らく言語的観念外的な思考領域というようなものだけだろう。しかしそれすらそのように「前言語的である」と思念されるだろう。
 つまり意図とは言語的な意味では自由にはなれないということにその本質がある。意図の発生そのものは非言語的であることもあるだろう。例えば感情こそは脳科学者の田中冨久子氏の「最近の神経科学のトピックは感情が脳をつくる、という概念である。」という謂いに象徴されるように(彼女は脳でもとりわけ扁桃体を初めとする古脳にも大きく注目して男女の脳能力の傾向を研究している。「脳の進化学」より)、我々は感情を契機に言語的思考をすらしている。しかし一旦思考に入れば言語が必ず介入する。意図の発端は感情だろう。しかし意図が意図として顕在化されてゆく段になると、今度は言語がかなりな比重で活躍するようになる。そして思考とはそれ自体で生理的自然ではなく思惟の自然だから、それは自然をただ傍観すること、静観することではなく、自然自体に関わろうとする意志を含む。思考は必然的に意思疎通へと誘う。意思疎通とりわけ言語行為とは法哲学者の大屋雄裕によれば、法の存在を疑うという「よどみ」を解消すべく、あるいは法意義を確認するためにこそ執り行われるとされる。つまりこういうことである。イヌをイヌと呼び、ネコとネコと呼ぶことそれ自体に我々は何の疑問も差し挟まない。そう呼ぶからこそイヌやネコを我々は指示し得るのだ。しかし何故そう呼ぶのかという疑問を抱くことは自由である。それと同じように言語が意図されたことではなしに自然に半強制的に設定された自己にとっての社会環境との関わり合いによって学習されてゆくような意味で我々は言語以外にも数多くの法という記号を知らず知らずの内に援用してきている。常識、マナー、自転車の乗り方、挨拶、自動車の免許を取ること、お金を使って生活すること、寝ること、食事を取ること等。それらは意図的な事態では決してない。全て規則遵守を運命付けられた行為と行為に対する記号理解である。だからこそ逆に我々はそこに生じる疑問という「よどみ」を発語行為によって他者意見交換して意味を見定めようとする。またそういった行為の中から法の在り方そのものに対する認識も生じてくる。だから自由とはある意味では「何故そのようになっているのだろうか?」とか「何故そのような仕組みや仕来りに我々は従わなくてはならないのだろうか?」ということを考えることにこそあるとも言える。そう考えるからこそのように考えていることを信頼出来る他者に伝え合い、あるいはそう考えながら何かを提案したり、発案したり、他者の意見に耳を傾けることが可能となるのである。だから意図とはそのような自由を行動に置換する時に他者との関係におい自己の思念を捉える時に発生する心的作用であると捉えることも可能である。
 では考える自由を行動に置換するとはどういう事態なのだろうか?それは端的に言って、自分の考えというものは、それ自体は何を考えても自由であるが、考えられたその考えは一体全体他者に伝えるべき事項なのだろうか、という思念がまず浮かぶ。然る後、それが伝えても構わないということになれば、それを誰に伝えるかという思念が浮かぶ。そしてその度毎に選択してゆくわけだ。最初のステップで、誰かに伝えたいと思えば、そこで意図が生じる。勿論誰にも伝えるべきではないとなればその考えをそっとしまっておこうということが意図となるか、それともそれほど大したことではない場合には忘れ去るだろう。しかし少なくとも一旦誰かに伝えようと決心すれば、あとは意図が活躍するだろう。誰に伝えるべきかと考える。それがいい考えでればあるほど誰かには伝えなくてはならないと考える。そう考えながら誰かを特定することが意図である。要するに自由は思念の自由から行動の自由へと転換される時に、必ず自己内の検閲を潜るのである。
 そしてこれがかなり顕著なこととしてあるのだが、自己検閲においてかなりいい考えも多く自己規制というタブー視によって葬り去られるのである。また逆に下らない考えを述べてしまう、よりにもよってそれを最も伝えるに相応しくない者へ伝えるというミスを犯すことがあるのだ。そうした時しばしば我々は「しまった。」と後悔したり、自己嫌悪に陥るのだ。大屋が言う「よどみ」に対する解消のためになされ得る言語行為は、実は他者に対する用心とか警戒心によって自己規制されている。しかし必要な自己規制というものは内的に誰しも理解しているが、本当は伝えた方がよいのに伝え淀んでいるという事態もまたそう珍しいことではないのだ。寧ろ率直に伝えた方が全てが早く解決するのにしばしば我々は伝えるべき他者に対してある種のステレオタイプを勝手に自己内で捏造して、それに対する対処として自己規制し、発語行為も、発語内行為(ある言辞によって齎された内容を発話者の意志として顕現させること。言語哲学者のJ・L・オースティンの提唱した概念)あるいは発語媒介行為(ある言辞の請求に対してそれを伝えた他者がその請求に従うように促進すること、これもオースティンの発案によるものである。)も臆してストレートに他者に自己の真意を告げないで終わることが多いのだ。この自己検閲とか自己規制といったものはフロイトが超自我と呼んだものであり、ある種の免疫作用の第一段階として予防措置ということとも考えられるだろう。しかしこれもまた常識とか習慣といった行為に対する記号理解(つまりあらゆる行為はある特定の目的に供せられるという認識で自動券売機で切符を買うのは電車に乗るためであり、自動車に乗るのは歩いてはとても行けない距離の地点へ移動するためであり、歩くのは前進移動するためであり、食事を取るのは空腹を満たし、栄養を取るためであり、挨拶をするのは地域、法人、社会全体へ人間関係促進のためであるというように捉える認識である。これはソシュールのような記号学者からハイデッガーのような哲学者に至るまで考えていたことである。)の一つとして黙っておく方が得策と判断しているのだ。尤もどんなに伝えるに相応しい相手でも、時と場所と場合というものがあるので、我々はそのTPОに常に苦慮するのである。
 つまり言語行為というものは全て何かを伝えることに意味を見出し(無意識なりにも)それを有効な伝え方で処理することが求められる。どのような被伝達者として相応しい人物であっても尚、その伝え方、伝える場所、伝える機会というものを伺うことが要求される。その時初めて我々は自己内の原羞恥感情を他者の中にある原羞恥感情と重複させて相同な立場に置き、要するの他者の身になって考えるのだ。その時伝えるという行為の意図が鮮明になる。伝える内容、伝える相手、伝える機会、場所といった選択において我々は自己の考えを行動に移す時の意図を明確にせざるを得ないのだ。もし自己内においてその意図が明確化されなければ、我々はその伝達内容に関しては沈黙しておいた方がよい、と考えるか、じきに忘れ去るのみである。そしてその選択においても自由は介入してくる。
 本当に伝えるべき事項であるかどうかの思考も自由であるが、その思考如何に関わらず、それを伝える行動に移すか否かという選択もまた自由である。つまり敢えて共感を誘うことを拒否することを選択するのも、順当にいい内容伝えるべき他者に伝えるように行動に移すことも全て自由の領域である。そしてこのようなケースで初めて我々は意図的であることが極めて自由と直結した事態であることを知るに至るのだ。
 そしてここで再び記憶の問題が浮上する。つまりある<考えられた内容>に対する発語意義は、ある意味ではそれは以前口にしたことだったのだろうか、という経験則(これは記憶が不可欠である。次章で詳しく述べる。)を検閲機構として利用しているのだ。あるいはその内容を語るに相応しい他者の選別という事態は、実は他者一般に自己による理解、つまりその選別以前の他者に対する評定(被伝達者としての資質論的な意味での)、自己内の対自己の態度といった全てのデータが検索されるのだ。
 「こういう内容であるなら、あの他者が被伝達者としては有効だが、別のそういう内容であるなら寧ろこちらの他者の方が相応しいだろう。」とか「彼にはこういうことはああいう場所でこういう機会に伝えることが好ましいであろう。」というような目測が必然的に選択基準として採用されるに至るのだ。実はこの検索行為を支えているのがあらゆる種類の記憶作用である。ある成員(他者)に対して検索事項が多ければ多いほどよく知る人物ということになる。よく知る人物でも好ましい人物とそうではない人物というものはある。そしてあながち好ましい人物だけがある被伝達者として望ましいとは言えないということこそが自由の定義を再び困難なものにもしているのだ。例えば行動の際の意図における悪意の典型的なものとは好ましくない他者に対する理性的理由の欠如した攻撃であろう。カント的倫理観を採用すれば敢えて好きであるとか嫌いであるとかとは別に伝えるべき内容を正確に伝えることの自由の権利の行使であるということにもなる。ということは逆に自己にとって好ましい人物に対しても狎れ合う(あるいは馴れ合う)ことを差し控えるべき場面もあるということを表してもいるのだ。
 ここで本章の自由と意図の関係について纏めておこう。私たちはある社会環境に生物学的にも社会学的にも適応して生活している。例えば私は東京から小一時間くらいで電車に乗って来られる埼玉県の地方都市に生活するようになってから、約十九年が経過したが、その間色々な変転が街自体にあったが、そういう変化に対する対応力をも含めて最初に暮らした五六年というものは殆どこの街に暮らすに当たって学習すべき色々の社会常識(どの都市にも地方にも、その地域固有の考え方があるし、社会常識も微妙に異なっている。)を把握し、地政学的にも人間関係的にも順応することに追われる毎日だった。しかしその後月日のたつに連れて、私の生活はほぼ固定化されていった。今では私の方からこの地方都市の生活に順応することが固定化されたために、変化を作る当の側に廻っているとも言える。生活に必要な場所記憶(これは海馬が媒介するとされるが)は、徐々に固定的な機関の場所に関しては長期記憶の部類に入って来ている。今のところ当分引越しをする予定はないので、恐らくその中の幾つかはこの地方に住み続ける限り長期記憶として定着するであろう(余程何らかの自然災害による急激な変化さえなければ)。
 要するに居住も、幼児の言語習得も、ある規則とか習慣的な所作とか、表現とか慣用性に基づいた使用による学習、反復記憶であり、それらは各自第二章で述べたパラメーター・セッティングの変数なのである。短期記憶というものはその都度絶え間なく変化する事態に対応して場所に関してであれ、人間に関する認知であれ(役所勤務者にはありがちな事態であるし、それ以外でも大きな組織ではありがちなことである。)、細々とした法律的な事項であるとか、テレビや新聞のニュースであるとかは余程印象的なことでない限り、全てを記憶することはないだろうし、また意味もないだろう。少なくともジャーナリズム関係の職に就いていない通常の市民にとっては。
 つまり記憶するべき事項というものは不可避的に我々自身の生活という実体において我々を強制するが、同時にその社会環境自体に適応する我々の主体的な関わり方そのものが、自由の定義をその都度更新しながら、自己にとっての最適な生活態度や行動パターンの標準値とか不動点を求め、設定してゆくようになる。
 自然選択においては生物進化論的にも遺伝学的にも良好な状態でも不良の状態でもない平均的な状態に常に収斂されてゆく傾向があるという。つまり不良な遺伝子もそれに伴う表現型も、あるいは改良されたそれらも共に突然変異型であるに過ぎず、共に自然選択の平衡的な安定希求には寄与しないということである。自然選択とは長い時間ではゆっくり確実に変化してゆくが、我々が生物学的にも考察しやすい例えば百万年単位(これは進化の時間からすれば極めて短い時間である。)で考えればなかなか変化しない強情なくらいに安定を望むものと捉えることが出来るという。(ジョージ・ウィリアムス著「生物はなぜ進化するか」草思社刊より)
 これと同じことが我々の生活の安定という生での事態にも言える。私の住む街にも私自身の身体とか精神とかも長い時間をかけてゆっくり変化しつつある部分というものは誰しもあるだろう。しかし同時にそうたやすく何十年単位では変化しない部分も多く所有しながら我々は人生を過ごすのである。そのための固定化された価値観、使用する場所といったものは長期記憶に分類され、絶えず細かく変化するもの(日本の内閣のメンバーとか細々した法的事項)は短期記憶に分類される。そして我々が意図的に長期的に人生の目標にするべきものはそうおいそれとは変化しないし、また変化させるべきではないとも思うものだ。
 あるいは我々は意図的な行為を長期的な展望にたって考える時、それらは生き甲斐とか人生観とか、夢と呼ばれ、またころころ変わるような意図は生理的自然に則った生活上の智慧(方法的記憶は尾状核が媒介するとされる)のその場その時の適用ということであろう。そして自由を定義する時我々は前者の長期的不変な意図において述べることがより多いだろう。それが例えば日常の些細な場面で後者のその場その時の対応とか方法的処理において応用され、その人間の行動のパターンとか考え方の傾向として顕現されるのだ。
 要するに意図とはより短期的なこと、自由とはそのような幾多の意図が積み重なって経験則として統合されたものが価値規範とか価値システム論的に弾き出した結論と考えてもよいだろう。だから自由と意図の関係を考えるのには必ず記憶と経験という事態が考慮されねばならないのである。またそのことは同時に我々が瞬時にも長期的な期間においても何を行動として考え方として選択し、何を捨てているのかということ(これは次章で詳しく考えてゆくが、我々は何もかもを克明には記憶出来ないし、また出来ないからこそ未来を展望出来、現在を生きることが出来るのだ。)、それは単純な知覚レヴェルでもそうだし、人生観とか世界観とか友情とか人間関係でもそうなのであるが、要するに何を重要視し、何を軽視して生活しているかという実体論へと我々を誘うのである。

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