Friday, April 22, 2011

第十七章 五百年後の世界では人類の遺産の何が残っているだろうか?Part1

 人類の未来を考える時四五十年先なら何とか見通せるとも言えるが、五百年となると中々創造がつき難い。そこで五百年前の世界から現代迄のことを参考にすることは無意味ではあるまい。つまり人類は何を求めてきたかということはここ五百年の人類の歴史から換算していけば、今後を見通す鍵くらいは見つけられよう。
 徐々に偉大なる先人を遡っていくと、ヨハン・セバスチャン・バッハ(1685―1750)、アイザック・ニュートン(1642―1727)、ディエゴ・ベラスケス(1599―1660)、ウィリアム・シェークスピア(1564―1616)、ガリレオ・ガリレイ(1564―1642)、レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452―1591)という風になる。すると今から丁度五百年前に偉大なる仕事をしたのがダ・ヴィンチということになろうか?
 それから現代までのことを考えると、それは加速度的に都市文明が構築され人口が増加し、科学技術が進歩した時代だったということになる。
 しかし同じ加速度的進歩が人類に今後齎されるかということになると、疑問を抱かざるを得ないという考えも考慮に入れると、人類はどういう風に進路を決定していくのだろうかという思念に及ぶ。
 しかし少なくとも世界全体が宗教とか哲学とかだけに加担して、科学技術なんでもうどうでもいいという方向に行くとはとても思えないし、芸術や文学や演劇だけに現を抜かすという方向に行くとも思えない。恐らく相変わらず科学技術は最前線で我々の文明を維持しようとしつつ、芸術、文学、演劇などを人々は楽しみ、音楽や絵画を鑑賞したり、映画や舞台を楽しむということは変わらないだろうし、スポーツは依然エンターテインメントのトップポジションに君臨し続けることらだろうし、野球やサッカーを観戦しながらビールを飲んだり、ロックコンサートを聴きながらビールやハイボールを飲んだり、ジャズを聴きながらワインを飲んだりということは変わりないだろう。クラシック・コンサートも今迄の様に礼服に身を包んで行くという習慣も残るだろう。
 しかし重要なことはここ数十年の間にあったIT情報化社会による国際的な国境の無化はそのまま継続され、恐らくビル・ゲイツ、スティーヴ・ジョブズ、スティーヴ・ウォズニャック、マイケル・シュミット、ジュリアン・アサンジ、マーク・ザッカーバーグ等が思想家として歴史に刻まれ、実際に文筆業としての思想家は一エッセイストして数行だけしか歴史書には登場せず(エドワード・サイードも)、哲学者もご他聞に盛れず、ガンディーやマザー・テレサは宗教家として残り(人道主義者はそういう側面から人生を考えていたが故に)、孔子、ゴータマ・シッダールタ、老子、荘子、イエス・キリスト、ムハンマドといった人達は神話的存在となり、今の様に聖典は残るだろうし、音楽家で世界を席捲した一部の人達は音源も残るだろう(チャーリー・パーカー、マイルス・デイヴィス、エルヴィス・プレスリー、ザ・ビートルズ、シカゴ、クィーン、マイケル・ジャクソン他)。
 只我々の生活上でずっと残ってきている車がどうなるかということは極めて興味深いことである。今迄の様に世界中の誰しもが車を乗り回すという方向に行くのだろうか?
 それは車だけでなく飛行機もである。ここら辺がエコ的観点で気になるところではある。
 映像的な世界、つまりヴィジュアライズされたイメージの世界は益々世界を席捲していき、多機能モバイルが携帯電話とパソコンの境界を無化し、要するに移動生活は益々世界規模となっていくだろう。宇宙計画がどうなっていくかということだが、世界中で宇宙にまで旅行出来る人達はやはり一部であるということは、宇宙旅行の是非とは別に変わらないという気はする。それは宇宙に全ての人類が等しく関心を注ぐとも思えないからである。
 生殖医療・遺伝子治療も益々盛んになり、デザイナーズベイビーも今よりもっともっと増えるだろう。しかし同時にそういったこと自体への反発心も一部では根強く残る気はする。不妊治療とサロゲートマザーの共存、そしてそういったこと全体への臓器移植などをも含めた医療合理主義に対する人類の中での一部の反発心を持った人々との間の延々と繰り返される思想的対立は今よりももっと表面化していくだろうし、クローンベイビーも今よりももっと多くなるという気もする。
 地域的な紛争はずっと絶えずに残るとも思われるし、時々今でもしている米軍による空爆もなくならないだろう。もっとも五百年後も依然アメリカが世界のトップリーダーである可能性は五分五分といったところかも知れない。しかしもしアメリカ以外の国が世界のトップリーダーになっていても、尚今の様な世界秩序の様なものは維持されるだろう。
 又民族というものもなくなりはしないだろうし、民族固有の言語も少なくとも現在維持されてきている国家公認の公用語は残っていくだろう。それに対して案外クリオールやピジンなどは然程隆盛を極めないだろうとは予想される。それを無化しているのが航空技術の進歩であろう。今現在船によって世界的規模の移動をする人はことビジネスではいないからである。今よりももっと世界都市空間は均質化していくことは避けられまい。そして各国の文化遺産に対する観光産業という形で民族宗教や伝統行事は残っていくのである。
 これからは鉄道自体もトンネル(海洋や山岳も含めて)などの建設によって益々無国境化されていくことだろう。そういう意味では世界が全ての市民にとって徐々に未知の部分が少なくなっていくことだろう。勿論これからも自然の脅威は地震、津波、雪崩その他幾つも起こり得るだろうから、当然人が住める地域とは世界全体からすれば、今とそう変わりないとは言えるだろうが、人類は世界的規模で農業その他の食の確保を考えていくだろうから、森林伐採などを国際法的に罰則を設けるなどして対処していくということは考えられる。
 延命医療が人類の身体を益々サイボーグ化していくという方向も考えられるが、その点でもそういった疾病対策と障害克服に関しても尚、徹底的合理主義で考える国家規模の医療ヴィジョンと、非合理主義者が徹底的に論争していくという絵図は思い描ける。
 その根拠は次回以降考えていくことにしよう。