Friday, October 2, 2015

第三十八章 「グラス」と「コップ」

 現代社会は明らかに連動がフルスピードであり、だから一度過密ダイヤでフルスピードの列車が愉快犯的テロで滞ると狼狽えてしまうシステム完全性への依存が顕在化している。つまり多少の些細な障害が起きてもそれ程動じない様な、つまりもっと大まかなシステム全体が融通の利くシステム管理ではないということだ。つまり過密ダイヤもそうだし、都市空間全体に遊びがない。だから渋滞が一向に解消しない様な意味で、車間距離を予め取っておく心の余裕を失っている。そのことと「グラス」という語彙は相補的である。つまり「グラス」と日本人が言う様になったのは明らかに70年代後半から80年代バブル期を頂点とする一つの時代であった。「グラス」はワインやウィスキー、ウォッカ等の要するに洋酒を注ぐ為の容器なのであり、それは日本が高度成長期から低成長期に入った辺りから台頭したものの言い方なのであった(そう言えば当時のポップス、未だJ-popという言い方さえなく、歌謡曲とニューミュージックが同居していた時代のポップスには「グラス」を使用した歌詞のものも多かった)。
 「コップ」は戦前から在ったし、それ迄の時代の明らかに主流だった。しかし「グラス」が語彙として定着すると、今ではさながら昭和酒場的雰囲気でこの「コップ」という語彙は使用される。「コップ酒」という様にである。
 今では路上をステテコ姿で歩く親父は居ない。だが昭和期迄なら辛うじて存在したし、昭和後期はそれでもかなり稀になっていたが、昭和初期から戦後十数年はかなり大勢居たと思う。私が幼少の頃は東京都内でもそういうスタイルは珍しくなかった。
 だから都市空間がコンヴィニエントで合理的に雑居して、サブナード等が各駅に配備するにつれて「コップ」はあくまで家庭内の歯磨きに使うものであったり、夜寝る前に飲む錠剤等の薬類を飲んだりする為に水を注ぐものなのである。お茶を飲むのは「湯呑茶碗」だし、コーヒーを飲むのは「マグカップ」、紅茶を飲むのは「カップ」なのだ。
 だから昭和色の強い「コップ」は戦後直ぐ位から十数年はセルロイド等で出来ており、ガラス製になっても寸胴でボトムが窄まっていない形態のものである。
 「グラス」はあくまでボトムが窄まっていて、飲み口が開いていたり、少しだけ一番太くなっている部分より唇をつけて飲みやすい様に内側へ織り込まれていたりする。
 「カップ」が明らかに昨今すっかり定着しているカフェスタイルのチェーン店で使用される仕様のものであり、マグカップはその中でも一際取っ手も容積も大きいものである。
 「コップ」は口を濯ぎ、嗽をする為のものであるか、薬を飲む為のものであり、「グラス」は洋風居酒屋、バー、レストランで出されるものなのだ。
 だけれど、昭和コップの庶民性は、洋風のディナースタイルではないタイプの、和風昭和居酒屋のコップ酒に代表される安くて一々のディナーマナーを踏襲していなくてもいい、ホームな感じがある。つまり都市空間全部が平成以降の都市空間の合理化とフルスピードの連動の中で次第に全部がアウェー的、つまりパブリックになっていく時代的推移の中で明らかに「コップ」の持つ響きには気安さ、懐かしさ、或いは庶民的で堅苦しくなさが息衝いている。「グラス」が高級志向が当然であるという振舞いの語彙であるとすれば、明らかに「コップ」は形式やマナーより居心地優先という響きがある。この昭和的語彙はこれからも滅ぶことはあるまい。つまり一方で「グラス」の持つ固有の都市空間のアウェー性、パブリック性に対抗するかの如くの熾烈さではない、もっとざっくばらんな居心地の良さとして「コップ」という響きは消滅しないだろう。勿論ビジネスシーンでも学術的なパブリックな場でも人々は「グラス」優先していくだろうけれど、何処かで自宅へ帰宅した後はコップで気楽に野球でもテレビで観戦しながら酒や焼酎のお湯割りとかを飲みたいという気分は誰にでもある。
 そういう二元的な生活の仕方の中から我々日本人はきっと「グラス」と「コップ」という語彙を無意識的な意図として使い分けていると言うことが出来る。
 隣の人と名刺等を交換することできちんと正式に知遇を得るというのは「グラス」で、そうでなく昭和和風居酒屋で隣の人同士を勝手に綽名とかで呼び合って、社会的地位とか経済力等の格差を忘れて、一時を寛ぐ風情にこの「コップ」が似会っていると言えないだろうか?