Tuesday, November 4, 2014

第三十五章 個体数の数値確保的な世界戦略Chart2 記憶と想起の変容とリアルに拠るフィクションの模倣

 20世紀以降の人類の記憶と想起は固有だ。映像(ニュース、ワイドショー、ヴァラエティ番組)の記憶と想起、ニュース説話的対話ナレーションエピソードの記憶がリアルエピソードと重なっているからだ(今日自転車に乗っていると、ボリス・エリツィンの名を突如脳裏に抱き、連鎖的連想的に二日酔いで式典の臨み、其処で倒れかけ、側近が助けようとして大統領が正気を取り戻したので何も無かったかの如く取り澄まして素知らぬ振りをして起立し直した映像を想起した)。
 21世紀以降の人類はゲームソフトとスマホ画像とタブレットやPC画像・動画画面遷移的記憶(youtube編集画面遷移とクリック画面遷移等)が我々の視る夢の内容迄変えていっているに違いない。我々はビジネス思考をする時、管理職者でも一般従業員でも過去の全映像で語られたエピソードや経営者や従業員の生き方や人生での展開をその都度思い出し、栄枯盛衰への読みから自分自身のビジネスをその映像想起を糧に(参考にして)決定しているとさえ言える。
 映画<バイオハザード>シリーズは美女女優ミラ・ジョボビッチ主演で何作も作られているが、そもそもがゲームソフトの作品のリメイクである。其処ではかなりリアルな血しぶき等も丹念に描かれ、その凄惨さ自体をリアルテロリスト、例えばイスラム国等の面々も参考にしているのではないかと思う。つまり映像のリアルな凄惨さ自体がリアルのテロリスト集団にヒントを与え、フィクション自体が現実へ影響を与えているのだ。リアル社会の現実がフィクションに影響を与えるスピードより余程逆のベクトルの方が多いし、速いのではないだろうか?
 バイオハザード的な凄惨な映像は正視に耐えられるか否かのバロメータとして提供されている感があるが、それらに影響を与えてきた音楽はロックでもビートルズやストーンズではなく、ステッペンウルフのBorn to be wildやブルース・スプリングスティーンのBorn to the U.S.A 、ディープ・パープルのHighway star等だろう。何処か刹那的な快楽に打ち興じる現代人の切なさ、儚さを示している様な歌達ではないだろうか?
 この同じ様なスピリチュアルなものは当然アンディ・ウォーホルの肖像画シリーズにもあるし、ジャン・リュック・ゴダールの映画も先駆けていた。とりわけ<勝手にしやがれ>では虚無的生き方をして自分自身で「俺ってサイテーだぜ」と死ぬ前に呟かせる。サイテーな生き方をすると自負するくらいなら、サイコーの生き方にそれを変えてやれという意識がイスラム国にもあるのかも知れない。そういった映像や音楽がインスパイアするものを未来に肯定的価値へ転換させていこうという意識がテロリスト集団にはある。ウイグル族がテロ行為を北京で繰り広げてきたのにも、ゴダールの<中国女>の持つリアルワールド自体へのシニシズム的視点とメッセージ映像的な詩情が却ってリアルワールドの安穏とした変えられなさ、執着するリアルのリアルっぽさへのニヒリスティッシュな向き合い方が背景にあって、それならいっそ自爆テロにでも赴く方が形而上的価値があるのではないかと思考して挙に及んできたと言えないだろうか?
 我々の想起が既にリアル出会い遭遇記憶でなく、ニュース映像やテレビ番組エピソードも含まれていて、それが21世紀以降の人達にはゲームソフトの刹那的な画面遷移やスマホ映像の画面遷移の持つスピードがスピリチュアルにメカニックなシステムを優先させる、ゆったりとした感性を磨滅させ、数値主義的な冷酷さを我々に「リアルはそうなのだし、それは変えられない」という気分を煽っている。記憶と想起のシステム自体が徐々にアップル、グーグル、マイクロソフト、ヤフー等に管理されつつある。そういったコングロマリットを進化させてきた背景にロックシーンのハードロック、パンクロックがスピリチュアルに与えた影響も無視出来ない。ゆったりズム自体が成立し難い生活環境に我々が居る以上、そしてリアルテロ集団がゲームソフトを模倣するベクトルが、フィクションがリアルを模倣するスピードよりずっと速い、という事自体が我々を数値主義以外のバロメータを成立し難くさせている。
 未来予想的に言えば恐らく数値主義は無くならないだろう。しかし数値主義の限界、つまり死者数やニュースで伝えられる数自体が持つ無名性に真の意味でのリアルさはないのだ、という事自体への反省的視点もずっと維持され続けるだろう。その二つの「この侭でいいのか」と「この侭変わらぬのではないか」という二つの想念自体が我々が睡眠中に見る夢にもずっと影響を与えていくことだろう。何故なら夢とは記憶の整理に外ならないからだ。記憶自体がリアル出会い遭遇記憶だけでなく映像や端末画像記憶も混入してその二つの境界さえ曖昧化していく様な想起的な脳内リアルの変容自体が、先程の二つの想念を延々維持させていくに違いない。

Friday, July 25, 2014

第三十四章 個体数の数値確保的な世界戦略Chart1

 ウクライナ上空を飛行する民間旅客機が撃墜され乗組員、乗客全員が死亡したニュースが世界を駆け抜けると、それ迄大問題とされた多くのニュースが一挙に影を潜めた。
 マレーシア航空のこの悲惨な事故以来何度も似た様なニュースが飛び交った。そしてその度に事故原因調査とかいう名目とフライトレコーダーとかヴォイスレコーダーという語彙が登場した。これらの機器の設置は、あくまで非常事態に直面した時その原因を突き止め、それ以降似た事故が起きない様にする為であり、その時に生きている幸運な人達の為であり、あらゆる不幸な事故とそれに伴う犠牲者の死とは後世に役立てるものでしかないという認識がある。
 其処には安全性の数値目標と、個体数的な犠牲者の少なさを誇る為に、用意周到に設えられた世界戦略が仄見える。その数値を獲得する為に仮に犠牲となっていった場合に、その犠牲を無駄にしない為の方策が全ての飛行機に搭載されている。まるで生きている人達全員の為に生きてきたけれど不幸な事故で死んでいく人達の死は無駄にしてはならない、というお触れの様に見える。
 この様な不幸な航空機事故だけではない。世界全体に張り巡らされているあらゆる軍備がそういう事を目的として、生存者の安全の為という名目の為に設定されている。町中至る所に設えられている監視カメラもそうである。一切悪い事をしない人達の為にどんな些細な悪事も見逃すまいという名目でそれらは設えられている。
 監視盗聴システムの全ては一切犯罪とは無縁で生活する善良な市民の為に、あらゆる挙動不審な行動を全てチェックする為に設えられているのだ。
 人に拠って感じ方は違うだろうが、そういう風にあらゆる監視盗聴が日頃の治安の為にも、そして非常時の事故の時の為にも設えられているというリアル自体に、だから安心だ、安全なのでほっとするという感性もあるのかも知れないが、そうではない、そういう風に全てが過去に起こった不幸で不届きな事故や事件を二度と起こすまいという名目で過剰にイフを全体に設定されている、という事自体は極めて異様な社会様相だと言える(と少なくとも私の様な感性の人間には思える)。
 そういう事故が起きない様にする、そういう犯罪が起きない様にする為に考えられる方策が、もしそういう事故が起きた時に備えて、もしそういう犯罪が起きた時に備えて設置させておこう、という意図が全面に出ている。まるでそれ以上の最良の策などありはしないのだ、又仮にあった所でそれを探している内に時間がどんどん経ってもし事故や事件が起きたならうろたえるだけではないか、という主張なのである。結局全ての事態が起こるべくして起こるが、その真の原因を突き止める為に、更なる犠牲を要すというこのリアルを誰もどうする事も出来ないのだ。
 警察や軍隊等の存在は、人は悪い事をする、集団でも悪い事をする、或は過ちも犯す可能性があり、その為にいざそういう事が実際起きた時の為にそれらが必要だという発想で設えられてきたインフラなのである。つまりそれらは全て人間の考え得る理想や相互の信頼とは本来脆弱なものであるとか、本来人間に作った科学技術とはどんな日常的な航空であっても不完全な部分は必ず残っているのだという事自体を認めた方策に拠って設置されているのだ。
 これはある意味では自然科学の知識や科学技術の進化がそれ程ではなかった時代にはなかった事である。つまり現代社会に進化したテクノロジーが登場する様になってから初めて直面した性悪説的に人を見たら泥棒と思え、科学技術だって所詮不完全なものでしかない、という事を予め認める所から出発しなければいけない事態なのだ。
 結局何か不測の事態へ対処する為の方策が立てられ、その不測な事態の対処が万が一にも失敗した時の為の方策というメタ的な対処の無限背進的な思考に基づいている。
 そしてこの矛盾は個人内部では誰しも思っていても、それをではどうするかという決裁に於いては、やはりそうする以外にないというある意味では最も平凡な判断こそが一番信頼が出来るという事を示してもいるのだ。つまり一番消極的な対処法が結局一番無難で、それ以外の一切の理想的対処法を退けていってしまう、という訳なのだ。
 唯この問題は一方では確かにセンチメンタリズムでしかあり得ないという批判を完全に躱す事が出来ないという難点はある。しかし他方そういう考えではこの何となく誰しもが不安になっていく、つまりシステム的整備というリアル自体が進化し過ぎると、まるで機械やツールとかインフラ自体が人類の精神的安定や安心を打ち砕き、過大に不要なストレスを生じさせていくという漠然ではあるが、想定しやすい未来へ何も提言しない事を招聘してしまうのだ。(つづき)  

Tuesday, June 3, 2014

第三十三章 生活空間とBGM・資本主義/経済自由主義・社会倫理と個人の価値Part3 国家という形で落着する処に人類の限界があるのか?Ⅱ システムの鼬ごっこに於ける未来展望①

 凄く重要な事はツールやディヴァイスの進化は、その利用スキルとは切り離されているという事だ。その証拠に人類は文明の発展順に今の世界で社会インフラを進化させている訳ではない。つまりもし今アマゾン流域に住む原住民がA、B、Cと三部族居たとして、彼等が一切現代文明を知らず、即ち大型コンピューターからMS-DOSやXP、VISTAから8迄の歴史を知らずしても尚、現代のスマホ等のPDF端末やタブレット端末を利用するスキルは直ぐに教えれば覚える、習得し、或いは現代文明を熟知する現代文明圏、先進国市民達より速いスピードでそれ等を利用する事に習熟する事さえあり得るという事だ。つまり文明の発展や社会制度や法律の進化、全面戦争時代とその後の戦後秩序の形成等の歴史を一切すっ飛ばしていきなり現代の最新鋭の機器を一切の文明を知らぬ原住民に渡しても、習熟してそれ等の利便性を享受する事は充分可能だ、という事である。
 更に重要な事は現代文明自体が既に集団や組織の一員でなくても充分PC遠隔操作事件でも明らかな様に個人のスキルだけで(少なくとも天才的ハッキングスキルさえあれば)サイバーテロを通して全世界へテロを仕掛ける事さえ可能だ、という事だ。だが当然の事ながら新種のウィルスを開発する悪徳業者と結託して更に新種のウィルスへの抗体を維持し得る新機種開発メーカーがハッキングスキルを持つ天才ハッカーを採用して、その鼬ごっこは留まる処を知らないと、その現実自体を利用しようとする荒手の天才犯罪者が更に登場するという鼬ごっこも継続していってしまう。
 今日のニュースではSTAP細胞の発見自体が、或いはES細胞とTS細胞が融合してしまった結果STAP細胞という新たな万能細胞だと錯覚してしまったのではないか、と報じられていた(さてその錯覚自体が新発見へ繋がる価値のある錯覚なのかは専門家に委ねるとして)が、実はこういった功を焦る自然科学研究分野へさえ、ハッキングスキルと新種のウィルス対抗ソフト開発の鼬ごっこと同様時間との勝負となっているという現実も浮かび上がり、短期間に業績を上げないと出世コースから外されるというシヴィアな現実に直面した研究者達が写真の合成等をはじめとする行為へ無意識か意識的かは問わず心理的に誘われる事は極めて必然的な現実展開だとさえ言える。
 かつて本ブログで都市空間の連動に就いて述べたが、連動ということが研究成果の発表と、その発表の為に支払われる研究努力やその短期間での成果達成というプレッシャーが奇妙な事にも天才的個人のハッキングスキルを自己顕示欲的に匿名的な犯罪者となって世間一般、世界のマスコミに連日報道される事で充足されるナルシス的愉悦獲得欲求とまさに現代社会で連動しているとさえ言い得るのだ。
 この様な個人犯罪と研究者の成果達成プレッシャーとが社会内リアルに於いて連動してしまう、つまり時間との勝負という現代社会の必然的運命が、ツールやディヴァイス利用を通して、結局個人の幸福感の充足より、集団、組織、法人、国家等のマスそのものの利益、国家レヴェルで言えばGDP競争へのみ加担する構造を作り出し、蜥蜴の尻尾切りで一旦はゴーサインを出した研究さえ引っ込めさせ様とする理研の生き残り欲求自体も、この現代社会全体のシステム論的な鼬ごっこの一端を図らずも示してしまっているという事それ自体はパロディではなく現実なのである。
 入試ミスが相次ぐ昨今の大学入試とこのSTAP細胞発見を巡る研究者と理研という組織が取る態度とはよく似ている。もしアマゾン川流域近辺の非文明社会の原住民に直接コンピューターの歴史自体を一切教えず、ハッキングスキルを教えれば現代人よりは多少時間がかかっても、中には天才的な闇ハッカーとして暗躍し得る成員さえ登場する可能性も決してゼロではない。つまり現代社会のシステム化されたコミュニケーションのリアル自体が、個人の愉快犯的犯罪者のナルシスと実際にはモラル論的にはそうであってはならない研究者の心理とを極々接近させる様な暗黙のネットが現代社会には張り巡らされているという事を彷彿させる様な片山容疑者ケースとSTAP細胞発見のニュースであった、と後代の歴史家が叙述する日も来るかも知れない。(つづき)

Monday, March 17, 2014

第三十二章 生活空間とBGM・資本主義/経済自由主義・社会倫理と個人の価値Part2 国家という形で落着する処に人類の限界があるのか?

 国家成立以前的に、既に貨幣が使用されていたことは分かっている。そしてそれよりずっと後に法が明文化され国家が成立したとされる。中国では国家起源は古く、朝鮮半島もそうであるが、日本は紀元後にやっと国家が成立した。
 しかし我々は昨今ウクライナでのクリミア市民共和国のロシア編入を巡るロシア対西側諸国の対立を巡って国家というもの自体の矛盾をひしひしと感じ取っている。それは一体本当に全ての世界市民を幸福にするものなのか、という形で。
 今もしタイムマシンに乗って国家成立以前の取り敢えず貨幣経済自体が成立していた(と言っても今の様なグローバル経済ではない)時代に我々が行ったとして、そこで我々が使用している携帯電話やらスマホ等のPDF端末とかタブレット端末をその時代の人達に渡して使い方だけを教えれば或いは国家等成立しなくても何とか経済活動だけで人類はその後の歴史を構築し得るだろうか?
 不可能だろう、という意見も出るかも知れない。その根拠はそもそもそこではグローバル経済用語として英語は通用するというわけではないし、第一各部族毎に異なっているから、そして中には既に文字を使用している部族もあるだろうが、それはない部族も多いだろうから、文字を送信するという行為自体が成立し得ないだろう、というものであろう。
 しかしもしそこである程度日常会話的に送信しやすい文字のみを教えてそれを端末に記憶させて絵文字を送信する様な仕組みを我々が提供してやりさえすれば、恐らくたちまちの内にその当時の世界中に端末利用が広まるに違いない。その時代では各部族固有の語とピジンが各エリア毎に異なった形で使用されていたのだろうと思われるが、それを一旦反故にしてでも、もっと人類全体に共通の命題はあった筈であり、それを絵文字化することさえ教えればかなりの程度で国家というものを成立させないで、と言うことは国家が強いる民族性とは無縁に世界が運営されていっている可能性はあるのだ。
 文字送信を記号送信という風に置き換えれば、何も日本語だとか英語だとかハングルだとかロシア語だとか中国語だとかの固有の語学に纏わるアウラ等無しに人類の共通資産にし得る。
 今現在のリアルの我々にとっての世界とは当然そういった歴史を辿らずに、国家毎に結集するという部族ではない民族を形成し、やがて民族間の抗争に入り、世界戦争へと至るという歴史を辿ってきた。そのプロセスで武器が発明され、車が発明され、それが後に核兵器や個人携帯のものとして拳銃等へと進化し、車は自家用車となって個人に所有される様になっていった。しかしその個人所有(それは当然携帯電話やPC端末所有というものも現在では含まれる)という形へなる迄は個人では一切自由の利かない大いなる各エリア毎の統制的秩序があり、日本で言えば士農工商の身分制度とか関所等のインフラが厳然と存在していたのだ。
 そして明治期を日本は迎え、脱亜入欧をして、世界戦争へと参戦していった(それ以前に日清日露戦争の参戦とその勝利があった)。結局そういう形で人類は広島と長崎に原子爆弾を投下されるという悲劇無しには現在の平和国家を成立させることが出来なかったし、ホロコーストという忌まわしい過去の記憶無しに、現代の国際的な人権意識が発生することもなかったというのがリアルな世界史の事実である。
つまり我々はどうやら長い歴史を通じて、国家をまず成立させることで社会秩序とか文化とか伝統を作って継承してきたのだし、その国家統一の途上でも大いなる分裂とか、日本では戦国時代とかアメリカでは南北戦争とかを通過してやっと全国的な統一を果たしてきたらしいのである。と言うことは現在の様に世界中にウェブサイトが張り巡らされる形で世界の共時性を意識したりして、リアルタイムで世界中の出来事が報道されることを当たり前にして、何処の国で起きる事でも必ず世界中の審判を仰ぐというリアル自体がまず国家統一に至る迄の大いなる民族内部での内乱や抗争に明け暮れ、その後に今度は国家対国家間の世界戦争へと至って行き、その末の被爆とかホロコーストといった悲劇を体験して初めて世界平和や世界秩序の安定というものを意識し始めたという訳である。
 と言うことは即ち、我々は結局国家というものを否定することは出来ないのだろうか?と言うより国家へと落着するしか全ての集団とは統一的には成立し得ないのだろうか?そして民族とは国家と共に成立していく経路しかあり得ないのだろうか?それ等三つの問いが産出される様に思われるのだ。
 つまり今でも頻繁に続出するレイシズムでもナショナリズムでもエスノセントリズムでもヘイトスピーチでも、とどのつまり国家間の軋轢や衝突、相互不理解、相互誤解に端を発する現象である。従って国家という体裁を世界中で全ての国が取っている限り、真の意味でグローバルでなどあり得ない世界しか実現し得ない。何故なら今現在のグローバリズムとは完全にアメリカがリーダーであると提唱されているものの事を指すに過ぎないからである。しかし事実上中国もロシアもイスラム諸国も事実上それを安易には容認していない。これは決定的な真実である。
 従って現在の世界とはあくまで体裁上では国家とそこへの帰属を前提にした世界市民性なのであり、何処の国でもかつて提唱されたエスペラント語の様なものを使用しようと言う風にはならないし、恐らくそれは未来永劫そうであろう。
 では何故そういう風にある程度の民族集団の纏まりへと人類は文化伝統的にも分岐していったのだろうか?恐らくそれは、一つは脳神経的なネットワークの在り方と似た構造で人類は分岐していったというものである。例えば記憶とはそれぞれ自分自身の生きてきた時代のそれぞれの枠を与えられて記憶されている様に思われる。学校時代の学校で起きたこと、家庭内で起きたこと、家にも学校にも居ない別の場所で在った事等の様に。そしてそこに対人関係が加わる。其処で似た記憶同士が連結するということはあり得る。
 これが要するに脳内の記憶の時間論的な相互連絡的なネットとなっていく可能性はある一つの仮説である。これが人類の共時的なグループでもあり得るとしたら、要するに似た考え方とか、狩猟方法とかで纏まって集団作業をする内に強大な部族となって、それが国家へと至る様な道筋を構成していった、というものである。似たアイディアを持つということはツール利用に拠って示されていたであろう。そして非常に親密な外交を持つ国家同士とは、共通利害で結びつき、要するに相互に欠如を補完し合う形で進化していく。向うがこちらの武器を求めていれば、貨幣を鋳造する為に必要な銅を入手したいので、交換し、其処で貨幣が鋳造されれば、それを交易では双方の国家で使用するという様に。
 脳神経細胞的なネットワークで各成員同士が結束することで徐々に階層的秩序が構成され、それが国家へと発展していったとまず考えられるのである。(つづき)   付記 しかし重要なことは国家毎に人口もスケールも著しく異なり、従ってどれくらいの人口が理想的国家であるかということは、恣意的であり、何か法則的なことは人類史的にも無いということである。この点は次回考えてみる。(Michel Kawaguchi)

Monday, March 3, 2014

第三十一章 生活空間とBGM・資本主義/経済自由主義・社会倫理と個人の価値Part1

 現代社会の都市空間はある程度意図的に作られている。全てのインフラが意図と目的を持っている。従ってその都市空間で快適に生活する為には、その個々の時代に於ける社会全体の意図を反映している都市空間のインフラを利用していかなければいけない。
 ATM全般を巧く使いこなさなければ生活していくことは困難だし、PC端末でもPDF端末でもその利用を滞りなく履行出来なければ様々な情報発信から受信、色々な事の申し込みも出来ない様になっている。そういった意味では神経学的な協働性を無視して現代の生活空間を生き抜くことは出来ない。つまりあるマナーで良かったことは、時代の変化と共に次第にマナーの善悪も変化していき、その時代と共に移行しつつあるリアルに逆らうことは出来ない。あらゆる差別語とされた語彙を気軽に使用することは既に出来なくなっているし、生活空間に様々なユニヴァーサルデザインをあしらっていることを否定することも出来ない。
 一つ大きく今迄ずっと変わらなかったものとは、大型スーパー等で使用されるBGMであろう。銀行や郵便局等で使用されるミューザック(Muzac)と同様大型スーパーでは売り場が日常食品売り場であるなら必ずと言っていい程1920~1930年代のディキシーランドジャズやジョージ・ガーシュウィンのチューンを利用している。そういった売り場で1960年代のロックの名曲や反戦フォークの名曲(例えば『花がどこへ行った?』や『風に吹かれて』等の)をかけていることは少ない。それは偶然ではなく、そういう風に仕掛けられているのだ。デパートが出来て全盛期であった時代の名残から、そういう売り場では販売促進、消費者へ消費を気持ち良く促す仕組みとしてそういった選曲が為されているのだ。
 しかし同時に我々の感性はそういった売り場でのBGMの選曲が恣意的であるから、全く違う音楽を聴きたいと迄は通常思わない。何故なら全てのTPOということを考慮に入れる処があるからだ。だから本質的にはどうしてもディキシーランドジャズやガーシュウィン等よりジミヘンやジャニス、ドアーズが聴きたければ、それはCDやウェブサイトからYoutube等を通してダウンロードすればいいと考えているのだ。
 これはある部分では我々がパブリックスペースとプライヴェートスペース、パブリックタイムとプライヴェートタイムという認識を持っている証拠である。
 我々は臨床精神医学的な解析も恐らく可能である様な精神安定維持の為の知恵と工夫を個人でも持っている。そして大型スーパーの売り場でそういう音楽を耳にすれば、そのBGM選曲をする人の意図を理解し、汲む様に脳が働くのである。そしてそういったTPO的な意図を恣意的であるけれど、悪意であるとは受け取らない様に主体的に心がける様にも脳が働くのだ。
 しかしそれとプライヴェートに聴く音楽、聴いて感動出来る音楽は異なっていていいのだし、マーチの様な曲が相応しい式典の時にムーディーなジャズが流れていれば、それがアイロニーとかギャグとかパロディ的意図以外なら、相応しくない、場違いであるとそう受け取る感性も持っている。
 このことは言ってみれば、感性というものが自分自身に拠る完全チョイスということと、そうではなくパブリックな状況で相応しいものとを明確に区別することが誰しも可能だということを意味している。これは神経生理学的な協働性とも言える。又臨床精神医学的な協力意図でもある。これはつまり個人の価値とはそれ自体を社会や他人から強制的に禁止されない限り(この条件は絶対的に重要であり必要であるが)、決して何もかもその個人の価値に公的なインフラが従っていなくても、その部分では進んで協力し、又その様にプライヴァシーとパブリシティとを分けておくということに不快感よりは、進んで協力する部分も我々にはある、ということを意味している。
 しかしそれはあくまで個人の価値を否定されない限りであることは重要であるが、それでもそのインフラの持つ様相が余りにも何時迄経っても変わり映えがしない侭であるなら、少しはリニューワルすべきではないかとか、模様替えをすべきではないかと感じる感性も持っている。だからこそ時々どんな店でも新装開店をするものだし、それを利用者や消費者、購買者や来客は希望していることを経営者達も知っていて、それを実践するのだ。
 これらの社会インフラの時々行われる模様替えという行為は、当然食品売り場でのBGMでも行われるだろうし、編曲に拠っては過激なメッセージの歌曲でも徐々に流される様になっていくということは大いにあり得る。そしてその際にはかなり重要なこととしてその流される場所と場所の持つ意図とか状況に即した編曲が必要だということである。
 知覚生理学的、神経生理学的な心地良さを極端に逸脱したことはオーディトリー的にもヴィジュアル的にも我々は決して望まない。これは確かである。余りにもその場その状況に相応しくない色彩や物質、或いは生き物(例えば一般的にギャラリーや美術館にはこれを持ち込むことは禁止されている)、大音量の音楽や聴いていてその場に相応しいとは思えないと誰しもから感じられると予想されるものは忌避されるということは絶対的に言えている。
 だからこそ逆に批評的な美学からすれば我々の日常的感性とは極めて多くの悪しき制約をそういったTPO認識、それはかなりの度合いで民族国家モラルとか時代性に加担しているし、それらに制約を受けているものだが、そのステレオタイプへ謀反を起こしたいという気分にもなるし、それをある程度声高に叫ぶ必要性を思想的批評的に持つこともあり得る。そしてある部分ではどういう時には体制的なTPO認識に従い、どういう時にはそういった固定化されたTPOに対して無思考的だと批判すべきかという個人の価値判断とがどう拮抗すべきかということへの個人毎に持たれる信念や信条というものが必要となってくるとも言い得るのだ(しかし価値ということ自体は別ブログである『価値のメカニズム』で言及していくつもりである)。
 唯今回の論述で重要なこととは、我々は知覚生理学的、神経生理学的な精神神経の安定を常に誰しもが望んでおり、そういった外的なインフラから多大の精神神経的な影響を受けるということもよく知っていて、ある部分ではどんなに反体制的な人間でもその都市空間や生活空間での公的な意図へ協力する部分があり、だからこそ逆に個人的な価値としてはそれらとは一切そりの合わない、そしてそれら全てのインフラの持つ存在理由を否定する様な過激なものを嗜好するということもしばしばあるのだ。そしてこの様に公的制約と個人の選択の自由を使い分けることで、却って精神の安定と、神経学的な平衡を維持しているということを誰しも知っているのだ。
 つまり却って反抗したり抵抗したりする為には積極的に否定する前提としてのインフラからの制約を必要とするということである。従って最初から余りにも野放図に全てが許されているというインフラの状況では却って保守的な嗜好というものが個人の価値としても芽生えてしまうということも充分あり得るとは言えるのだ。
 勿論それはあくまで外界の知覚情報に左右される我々自身の内実的な真理として言っているのであり、基本的に雁字搦めの都市空間や生活空間の荷重なる制約、つまり商売をするにも何をするにも全て決められているということを我々が望んでいる訳ではないとは言い得ることであるのだが。

Tuesday, February 11, 2014

第三十章 インスタレーションとコラージュ・モンタージュからアプリの画面遷移へ/アルペン競技やスノボーの連動とノルディック競技の鍛錬に就いて

 二十世紀のアートで重要なメソッドにインスタレーションがあるが、この方法論の背景には広場へアーティストが飛び出た、つまりアトリエやスタジオに籠っているばかりが能ではないと気付いたことがある。しかもそのモティヴェーションは印象派の持つアウトドア性と本質的に違った。印象派は画架を置き、そこにキャンヴァスを立て掛け、タブローを外光の下で制作することだったが、二十世紀のアーティストは広場全体をカンヴァスに見立てた。要するに広場全体にイメージを展開させること、それは広場自体をタブローの支持体とすることを選び取ったということだ。彼等は幾分彫刻家を憧れていた。しかし画家に拠って牽引された広場アートのムーヴメントは当然彫刻家も巻き込んだ。
 二十世紀の人間精神では一方では戦争の世紀として武器の利用と爆弾の消費、戦争に拠って傷ついた負傷兵や市民の治療という医療ニーズに拠って多大の薬理学的進化を人類は持った。しかし文明の破壊の連続に拠って精神は統合失調的センシビリティを一般市民へ齎した。それがインスタレーションのアートソッドへも影を落としている。広場に集まった画家達は一篇の平面に全体的調和を求めるには余りにもインバランスとハーモニーの失調をこそリアリティとしていた。全体性とハーモニーは喪失した空白として君臨していた。だからこそアーティスト達は身体を直接動かす広場全体へのイメージの布置ということへ意識を向かわせた。彼等は行為性を極点迄追求した。行為=イメージの定着であり、それはそうする時事性に於いて存在と時間の相関性を浮上させた。
 しかし同時に彼等の様なアーティスト以外に二十世紀では、映像の大いなる進化が映画監督や映像作家達に拠って齎されていた。とりわけ編集をモンタージュ理論で定式化させたセルゲイ・エイゼンシュテインはその後のフランスのヌーヴェルバーグ、ジガ・ヴェルトフ集団を刺激した。そのジャン・リュック・ゴダールは日常的抒情的情景と都市空間での存在の悲劇をある部分ではイタリアンネオリアリズムの作家である『無防備都市』の映像で世界を戦慄させたロベルト・ロッセリーニにも魅せられたと言ってもいい。
 彼は明らかに日常的抒情の奥底に潜む残酷な時代状況的悲劇を映像で切り取っていった。それは修辞学的・哲学的でもあって、映画製作と映像作成の形式性の持つメッセージを映画内容と一致した地点で表現したと言っていい。
 実存としての映像という意識が編集に於いて文字メッセージ(記号的表示)と衝撃的音響とを接合させた。ある種のフラッシュバックを用意周到に仕掛けたゴダールはユニヴァーサルな映像定式を求めたが、それを民族的生活のアイデンティティーの側から追求したのがジョナス・メカスであり、アッバス・キアロスタミであったし、あると言っていい。創造モティヴェーションは異なっていても顕現される映像編集に拠るフラッシュバック自体は奇妙に異なったライトモティーフの映像作家同士を同時代共時性に於いて接合させてしまう。
 二十世紀の表現娯楽に於いて最大の発明の一つが明らかにインスタレーションであり、一つがコラージュ(シュルレアリスムに拠って齎されたイメージ同士の連結の意外性の追求)そして編集モンタージュである。
 この二つは時代状況的には並行して進化していった。
 しかし無数の映像作家達がゴダールからインスパイアされても、一般市民はあくまでその特権的なプロフェッショナルな映像作家達の仕事を享受するだけであった二十世紀後半(1980年代)迄と違ってその後の三十年の時代は明らかに、個々人が端末を所有し利用することで映像的スウィッチを手にして、都市空間を闊歩する様になっていたプロセスと言ってもいい。その都市空間彷徨者達は脳裏に二十世紀アーティストに拠る広場でのパフォーマンスとその作為的なメッセージ性を十二分に伝えるべく設定されたメソッドであるインスタレーションという並置的行為があった。それは現在の端末のアプリに該当する。個々の使用意図に沿って選択し、自分自身で使いいい様に利用する(カスタマイズ)ことの無意識の欲求は明らかに都市空間全体をGoogle Mapアプリに拠って端末画像の液晶画面を通してアプリをインストールしてそれを利用すること、そして個々の異なった用途のアプリを転換させて画面遷移を促進する行為に内在する日常的生活スタイルのツール同士のコラージュ性と、編集的センシビリティの持つモンタージュ的メソッドが明らかにアプリのカスタマイズで応用されている。
 我々は日常的生活体験の中で誰しもが非特権的に市民都市生活上でインスタレーションとコラージュ・モンタージュをアプリのカスタマイズと画面遷移を確認することでインスタレーションアーティストであり且つ映像編集作家であることを自然に享受しているのである。
 しかし既に述べた都市空間闊歩での連動に於いて我々は冬季スポーツであるスノーボードスロープスタイルに拠って示されるスロープを移動するアスリートの通路を確保する身体的バランスでエスカレーターに乗り、動く歩道に乗る。そしてスノーボードハーフパイプの持つ特別の技の展開とその身体的バランスの瞬発力で満員電車に乗ってほんの少しの空間的余裕に自己身体を挿入させたり、ある時には満員電車に乗る乗降客の波を巧みに一時的に避けてやはり限られた空間へ自己を退避させたりしようとする。或いはその退避の身体的なアフォーダンスは明らかにアルペン競技である大回転等を応用していると言える。
 しかし仕事それ自体はオフィスに到着すればルティンワークからPDF端末を利用して行う営業でも全てノルディック競技の持つ持久力、持続力に拠る日常的鍛錬を行っているのだ。
 つまりこの連動と落ち着いて腰を据えて行うルティンワークと営業の蓄積という切り替え的な反復は一人のビジネスパーソンの生活と人生が宛らアルペン競技とノルディック競技とを巧く協働させることに拠って日々実現させていることが分かる。そしてその切り替え作業に於いてツールとしてのアプリをカスタマイズし、ディヴァイスとしての端末を利用することで、二十世紀アートと映像の持つメソッドを応用しているのである。
 しかし前章で述べた時間論的伝承、つまり神話的奉納儀礼の持つハレとケ的な民俗文化的伝承に観られるある種のブリコラージュとそういった日常的に反復される異なった性質の行為の切り替え(switching)とでは一見全く無関係に感じられるが、実はそうではなく、あくまで一個の人間の存在者としての意識の上では常に相互にフィードバックされ応用されているのである。
 つまり通時的伝承と共時的伝搬、つまり行為の連動性とは協働のシステムに知覚生理学的にも精神病理学的にも組み込まれていると言えるのだ。
 次回はその臨床精神医学的な協働性と、知覚生理学・神経学的協働性から連動と反復に拠る経験則的な鍛錬とに就いて考えてみよう。