Tuesday, February 11, 2014

第三十章 インスタレーションとコラージュ・モンタージュからアプリの画面遷移へ/アルペン競技やスノボーの連動とノルディック競技の鍛錬に就いて

 二十世紀のアートで重要なメソッドにインスタレーションがあるが、この方法論の背景には広場へアーティストが飛び出た、つまりアトリエやスタジオに籠っているばかりが能ではないと気付いたことがある。しかもそのモティヴェーションは印象派の持つアウトドア性と本質的に違った。印象派は画架を置き、そこにキャンヴァスを立て掛け、タブローを外光の下で制作することだったが、二十世紀のアーティストは広場全体をカンヴァスに見立てた。要するに広場全体にイメージを展開させること、それは広場自体をタブローの支持体とすることを選び取ったということだ。彼等は幾分彫刻家を憧れていた。しかし画家に拠って牽引された広場アートのムーヴメントは当然彫刻家も巻き込んだ。
 二十世紀の人間精神では一方では戦争の世紀として武器の利用と爆弾の消費、戦争に拠って傷ついた負傷兵や市民の治療という医療ニーズに拠って多大の薬理学的進化を人類は持った。しかし文明の破壊の連続に拠って精神は統合失調的センシビリティを一般市民へ齎した。それがインスタレーションのアートソッドへも影を落としている。広場に集まった画家達は一篇の平面に全体的調和を求めるには余りにもインバランスとハーモニーの失調をこそリアリティとしていた。全体性とハーモニーは喪失した空白として君臨していた。だからこそアーティスト達は身体を直接動かす広場全体へのイメージの布置ということへ意識を向かわせた。彼等は行為性を極点迄追求した。行為=イメージの定着であり、それはそうする時事性に於いて存在と時間の相関性を浮上させた。
 しかし同時に彼等の様なアーティスト以外に二十世紀では、映像の大いなる進化が映画監督や映像作家達に拠って齎されていた。とりわけ編集をモンタージュ理論で定式化させたセルゲイ・エイゼンシュテインはその後のフランスのヌーヴェルバーグ、ジガ・ヴェルトフ集団を刺激した。そのジャン・リュック・ゴダールは日常的抒情的情景と都市空間での存在の悲劇をある部分ではイタリアンネオリアリズムの作家である『無防備都市』の映像で世界を戦慄させたロベルト・ロッセリーニにも魅せられたと言ってもいい。
 彼は明らかに日常的抒情の奥底に潜む残酷な時代状況的悲劇を映像で切り取っていった。それは修辞学的・哲学的でもあって、映画製作と映像作成の形式性の持つメッセージを映画内容と一致した地点で表現したと言っていい。
 実存としての映像という意識が編集に於いて文字メッセージ(記号的表示)と衝撃的音響とを接合させた。ある種のフラッシュバックを用意周到に仕掛けたゴダールはユニヴァーサルな映像定式を求めたが、それを民族的生活のアイデンティティーの側から追求したのがジョナス・メカスであり、アッバス・キアロスタミであったし、あると言っていい。創造モティヴェーションは異なっていても顕現される映像編集に拠るフラッシュバック自体は奇妙に異なったライトモティーフの映像作家同士を同時代共時性に於いて接合させてしまう。
 二十世紀の表現娯楽に於いて最大の発明の一つが明らかにインスタレーションであり、一つがコラージュ(シュルレアリスムに拠って齎されたイメージ同士の連結の意外性の追求)そして編集モンタージュである。
 この二つは時代状況的には並行して進化していった。
 しかし無数の映像作家達がゴダールからインスパイアされても、一般市民はあくまでその特権的なプロフェッショナルな映像作家達の仕事を享受するだけであった二十世紀後半(1980年代)迄と違ってその後の三十年の時代は明らかに、個々人が端末を所有し利用することで映像的スウィッチを手にして、都市空間を闊歩する様になっていたプロセスと言ってもいい。その都市空間彷徨者達は脳裏に二十世紀アーティストに拠る広場でのパフォーマンスとその作為的なメッセージ性を十二分に伝えるべく設定されたメソッドであるインスタレーションという並置的行為があった。それは現在の端末のアプリに該当する。個々の使用意図に沿って選択し、自分自身で使いいい様に利用する(カスタマイズ)ことの無意識の欲求は明らかに都市空間全体をGoogle Mapアプリに拠って端末画像の液晶画面を通してアプリをインストールしてそれを利用すること、そして個々の異なった用途のアプリを転換させて画面遷移を促進する行為に内在する日常的生活スタイルのツール同士のコラージュ性と、編集的センシビリティの持つモンタージュ的メソッドが明らかにアプリのカスタマイズで応用されている。
 我々は日常的生活体験の中で誰しもが非特権的に市民都市生活上でインスタレーションとコラージュ・モンタージュをアプリのカスタマイズと画面遷移を確認することでインスタレーションアーティストであり且つ映像編集作家であることを自然に享受しているのである。
 しかし既に述べた都市空間闊歩での連動に於いて我々は冬季スポーツであるスノーボードスロープスタイルに拠って示されるスロープを移動するアスリートの通路を確保する身体的バランスでエスカレーターに乗り、動く歩道に乗る。そしてスノーボードハーフパイプの持つ特別の技の展開とその身体的バランスの瞬発力で満員電車に乗ってほんの少しの空間的余裕に自己身体を挿入させたり、ある時には満員電車に乗る乗降客の波を巧みに一時的に避けてやはり限られた空間へ自己を退避させたりしようとする。或いはその退避の身体的なアフォーダンスは明らかにアルペン競技である大回転等を応用していると言える。
 しかし仕事それ自体はオフィスに到着すればルティンワークからPDF端末を利用して行う営業でも全てノルディック競技の持つ持久力、持続力に拠る日常的鍛錬を行っているのだ。
 つまりこの連動と落ち着いて腰を据えて行うルティンワークと営業の蓄積という切り替え的な反復は一人のビジネスパーソンの生活と人生が宛らアルペン競技とノルディック競技とを巧く協働させることに拠って日々実現させていることが分かる。そしてその切り替え作業に於いてツールとしてのアプリをカスタマイズし、ディヴァイスとしての端末を利用することで、二十世紀アートと映像の持つメソッドを応用しているのである。
 しかし前章で述べた時間論的伝承、つまり神話的奉納儀礼の持つハレとケ的な民俗文化的伝承に観られるある種のブリコラージュとそういった日常的に反復される異なった性質の行為の切り替え(switching)とでは一見全く無関係に感じられるが、実はそうではなく、あくまで一個の人間の存在者としての意識の上では常に相互にフィードバックされ応用されているのである。
 つまり通時的伝承と共時的伝搬、つまり行為の連動性とは協働のシステムに知覚生理学的にも精神病理学的にも組み込まれていると言えるのだ。
 次回はその臨床精神医学的な協働性と、知覚生理学・神経学的協働性から連動と反復に拠る経験則的な鍛錬とに就いて考えてみよう。