Friday, October 2, 2015

第三十八章 「グラス」と「コップ」

 現代社会は明らかに連動がフルスピードであり、だから一度過密ダイヤでフルスピードの列車が愉快犯的テロで滞ると狼狽えてしまうシステム完全性への依存が顕在化している。つまり多少の些細な障害が起きてもそれ程動じない様な、つまりもっと大まかなシステム全体が融通の利くシステム管理ではないということだ。つまり過密ダイヤもそうだし、都市空間全体に遊びがない。だから渋滞が一向に解消しない様な意味で、車間距離を予め取っておく心の余裕を失っている。そのことと「グラス」という語彙は相補的である。つまり「グラス」と日本人が言う様になったのは明らかに70年代後半から80年代バブル期を頂点とする一つの時代であった。「グラス」はワインやウィスキー、ウォッカ等の要するに洋酒を注ぐ為の容器なのであり、それは日本が高度成長期から低成長期に入った辺りから台頭したものの言い方なのであった(そう言えば当時のポップス、未だJ-popという言い方さえなく、歌謡曲とニューミュージックが同居していた時代のポップスには「グラス」を使用した歌詞のものも多かった)。
 「コップ」は戦前から在ったし、それ迄の時代の明らかに主流だった。しかし「グラス」が語彙として定着すると、今ではさながら昭和酒場的雰囲気でこの「コップ」という語彙は使用される。「コップ酒」という様にである。
 今では路上をステテコ姿で歩く親父は居ない。だが昭和期迄なら辛うじて存在したし、昭和後期はそれでもかなり稀になっていたが、昭和初期から戦後十数年はかなり大勢居たと思う。私が幼少の頃は東京都内でもそういうスタイルは珍しくなかった。
 だから都市空間がコンヴィニエントで合理的に雑居して、サブナード等が各駅に配備するにつれて「コップ」はあくまで家庭内の歯磨きに使うものであったり、夜寝る前に飲む錠剤等の薬類を飲んだりする為に水を注ぐものなのである。お茶を飲むのは「湯呑茶碗」だし、コーヒーを飲むのは「マグカップ」、紅茶を飲むのは「カップ」なのだ。
 だから昭和色の強い「コップ」は戦後直ぐ位から十数年はセルロイド等で出来ており、ガラス製になっても寸胴でボトムが窄まっていない形態のものである。
 「グラス」はあくまでボトムが窄まっていて、飲み口が開いていたり、少しだけ一番太くなっている部分より唇をつけて飲みやすい様に内側へ織り込まれていたりする。
 「カップ」が明らかに昨今すっかり定着しているカフェスタイルのチェーン店で使用される仕様のものであり、マグカップはその中でも一際取っ手も容積も大きいものである。
 「コップ」は口を濯ぎ、嗽をする為のものであるか、薬を飲む為のものであり、「グラス」は洋風居酒屋、バー、レストランで出されるものなのだ。
 だけれど、昭和コップの庶民性は、洋風のディナースタイルではないタイプの、和風昭和居酒屋のコップ酒に代表される安くて一々のディナーマナーを踏襲していなくてもいい、ホームな感じがある。つまり都市空間全部が平成以降の都市空間の合理化とフルスピードの連動の中で次第に全部がアウェー的、つまりパブリックになっていく時代的推移の中で明らかに「コップ」の持つ響きには気安さ、懐かしさ、或いは庶民的で堅苦しくなさが息衝いている。「グラス」が高級志向が当然であるという振舞いの語彙であるとすれば、明らかに「コップ」は形式やマナーより居心地優先という響きがある。この昭和的語彙はこれからも滅ぶことはあるまい。つまり一方で「グラス」の持つ固有の都市空間のアウェー性、パブリック性に対抗するかの如くの熾烈さではない、もっとざっくばらんな居心地の良さとして「コップ」という響きは消滅しないだろう。勿論ビジネスシーンでも学術的なパブリックな場でも人々は「グラス」優先していくだろうけれど、何処かで自宅へ帰宅した後はコップで気楽に野球でもテレビで観戦しながら酒や焼酎のお湯割りとかを飲みたいという気分は誰にでもある。
 そういう二元的な生活の仕方の中から我々日本人はきっと「グラス」と「コップ」という語彙を無意識的な意図として使い分けていると言うことが出来る。
 隣の人と名刺等を交換することできちんと正式に知遇を得るというのは「グラス」で、そうでなく昭和和風居酒屋で隣の人同士を勝手に綽名とかで呼び合って、社会的地位とか経済力等の格差を忘れて、一時を寛ぐ風情にこの「コップ」が似会っていると言えないだろうか?

Saturday, March 21, 2015

第三十八章 便利さの追求と過当競争が齎していること

 SNSの進化は日を追う毎に過剰さを増している。あらゆるゲーム的機能との融合等を含めると日々企業がより自分達のSNSへ市民の気を惹く為にありとあらゆるディヴァイスを提供してくる。だがユーザーは何か一つのSNSの仕方に慣れると、それをも超える便利さや豊富な機能のものへとそうおいそれとはシフトし難くなる。従って利便性、便利さ自体とは一体どういうことなのか、ある機器Aよりある機器Bが優れていて便利である理由とは何なのか自体を把握する事に我々は時間を取られてしまい、肝心のその機器の使いこなしにはなかなか到達しないという喜劇的状況も齎される。SNSだけでなく、あるSNSをする為により便利なPC機器迄探し出すと、もう既にSNSをする事自体が目的化してしまい、例えば色々と調べものをしてあるブログに記事化していたことが、もう記事化する事自体が目的化し、しかもブログ来場者を増やす事の方に比重が移行し、調べものをする為に本を読む時間が無くなってしまうという本末転倒的事態が到来する。
 便利さの過当競争が一体どういう機器やツールがより便利なのかを益々混乱させ分からなくさせてしまう。
 其処で重要となってくることは一体自分はどういう機能の便利さを優先させるか、ある意味では何を目的にSNSをするのか、何を目的にPCを利用するのか、何を目的にあるゲームに関わるのかを徹底的に明白にして、凄く金をかけてでも便利さを追求する部分と、そうではない部分、つまり多少今迄の様に不便の侭でもいい部分とを認識して、全てに対してアップ・ツー・デートさを求めないということだ。いっそ皆が使っているからという理由だけでは何もしないという決意が必要なのだ。
 あるSNS機能に対して、其処には無い別の機能や有用性を追求すれば必ず別のSNSが作られる。だが一から始めるSNSは其処から又新たな仲間を物色しなければいけない。その物色する事自体が目的なら、それでもいいが、一定期間以上自分をフォローしてくれていたフォロワーをTwitterで大切にしたいなら、それを継続してし続けながら、その仲間とLINEを時々するという様にすればいい。結局全てを最初からし直す必要迄はない。勿論そのやり直しが目的ならそれでもいい。
 ある便利さAは別の便利さBを生む様になっている。だが必ずしもBがA全てに勝っている訳ではない。別の意味では便利さBが便利さAにあった部分を損なっているかも知れない。だがそれを知る為には一度は便利さAに固執せず、便利さBを知る為に便利さAから離れる必要がある。だがそれを全ての新ツール、ディヴァイスで試すことは出来ない。従って当然何処かで何かを諦め、何か特化された目的に応じて便利さをチョイスする必要がある。それは趣味で聴く音楽の選択でも言える。全世界の全ミュージシャンの音楽を聴く時間は我々にはない。従ってある部分からはある程度一度絞った関心領域の音楽を中心にそれに付随する関係する、似たモードや傾向のものを物色する様になる。
 アマゾンで何かを購入する場合でもyoutube検索する場合でも、自分で選んだテイストに傾向の近いものを表示するシステムが完備され、似た傾向のものを検索しやすい様にウェブサイト自体が計らっている。しかしそれも一定程度の時点で断念する必要がある。
 だが今日浅田次郎がニュースヴァラエティ(テレ朝)で語った日本社会にかつて在った和の心の復権、今と個より未来と集団というテーゼは現代社会では切実味はない。実際には科学技術とテクノロジーに人類がついていけないという部分があるし、そのことで自殺する人も居るかも知れないが、やはりそれはきっかけであり、自殺の根底的根拠ではないと思われる。つまり重要な事は自己でチョイスする決然とした意志の欠如であり、それは時代と関わりなくどんな状況でも自殺を自己へ誘引する可能性はある。
 確かに加速度的な科学テクノロジーの進化が社会を忙しくしているかも知れないが、その忙しさで却って余暇が増えているとも言えるからだ。
 勿論テクノロジー自体に振り回されるなら本末転倒だが、ビッグデータシステムで監視カメラや盗聴システムが利用されることを全人類が抵抗を試みるとも思われない。大半の市民はその有効利用に期待を寄せている。
 だからこそ先述の様に自己決裁、つまりある部分では有用性をとことん追求するが、別の部分ではそれ程は追求しないという追求の進化と、その為に別の部分での進化の断念を自分なりに決定させていく意志だけが現代社会の利便性と科学テクノロジーを共存していく為に必要なことなのだ。
 ビッグデータは無差別テロ等を未然に阻止する為に必要な方策だと多くの市民は思っている。少なくとも犯罪を起こそうと思っている様なタイプの市民以外であるなら。だが確かに誰にでも小さな出来心とはあり得るので、そういった場合にどんな小さな悪戯も発見されてしまうという事へのある種の恐怖とは常に背中合わせで居るしかなくなるが、立小便も出来ないという事は、かなり過疎エリアではあり得ないし、一定の住宅街ではそう容易に立小便も出来ないことくらいは仕方の無い事として、日頃からそういう事をせずに済ますだけの用意だけは全てに於いて行っていくべきなのだろう。
 前回示した様に正論と邪論が刹那的なメッセージ発信願望で共存している様なTL自体に自然さを汲み取る現代人は、ある意味では過去には無かった禁欲性を取り込んでいくしかない。つまり生活スタイルは時代毎の社会全体の要請から変化していかざるを得ないのだ。だからこそ自分は一体何を追求し、何をそれ程は追求しないかという断念を含めた決意が必要だと言えるのである。

Monday, January 26, 2015

第三十七章 正論と邪論の混淆した情報社会

 TwitterではFacebook以上に重要な存在理由がある。それはツイート自体が自分自身の関心領域等へのオタク的興味で行う事以外に、色々な時事世相的な発言、それ以外でもぼやきからジョーク、駄洒落等に内容の層が広く、凄くテーマを絞り込んでその内容だけをツイートし続けるツイーター以外にも大勢居るのが、多様な要するにテーマを一つの絞り込まないタイプのツイーターが居る。そして彼等は正論から邪論、あらゆるツイートをするので、その玉石混交的部分にこそ凄く重要な意味があるのだ。正論だけとか2ちゃんねる的な邪論だけでない、それ等どれもが一人のツイーターに於いてもだし、誰もが閲覧するTLにも共存しているところに凄く閲覧する意義があるのだ。
 凄くよく考えて書くツイートと、その時の気分や思い付きだけで書くツイートが併存していること、そしていずれが正しいとか本格的だとか説得力があるとは言い切れないこと、つまり凄く考えて凄く詰まらないことしか書いていない場合もあれば、その逆で気分に任せてかなりいい事を書くこともあるし、正式なことと、全くその場凌ぎ的でインフォーマルなこととが何の矛盾もなく脈絡も無く併存しているという状態自体が凄く意味のあることなのだ。SNS一般は恐らくミクシーもFacebookもLINEもそういう意味としてTL自体も、それを閲覧することも意味があるし、存在理由があると言える。
 一人の人間の考えとか思想というものが如何に矛盾しているかという事自体は手に取る様に分かるという意味でもそうだし、逆にどんなに矛盾していても、自分のある日のツイートに関しては他人のツイートと違って手に取る様にその矛盾の理由を察せられるのに、他人のツイートに関してはそうではないという事もよく分かる所にも存在理由がある。
 ところで話は変わるが、音楽ではクラシックミュージシャンよりジャズミュージシャンの方がコードに関する知識は上だ。だがもうこれ以上人類は新しいコードを見つける事が出来ないか、と言えばそんな事はない、きっと新しい発見は今後も為されるだろう。
 楽理上で一つの音と一つの音(ドとレとか)の間にも無限分割的に異なった音が存在すると考える向きがあるらしいが、私はそうでないかと思う。もしそれが正しいなら、ドとレの間を十分割させて、丁度ドから三つめの目盛で、レから八つ目の目盛の音と、音階の違うもっと低い音階の何等かの音(無限分割的な意味での音)と相性が良くって聴いていると心地良いということはあり得るのではないだろうか?
 このことはSNS一般では正式と非正式な呟きが併存していること、本気とジョークとも隣接している(人は本気で何か言った直ぐ後にジョークを言うこともあり得る)こととか、ぼやきをしたかと思えば希望に胸を膨らませたことも呟くことが出来るということと似ていないだろうか?
 つまり音という聴かせる為のものの無限に分割し得ること、そして和音、和声ということがかなり恣意的に聴いている者にとって心地よく感じられること、そしてそれが未だ無発見のものもきっと多く含んでいるに違いないということは関係がある気がする。
 この全く雑然な様でいて、或いはきちんとした美音の構造とか心地良さの仕組みが存在するのかも知れないけれど、只我々は未だそれを知らない、発見していないだけなのかも知れない、ということと、SNSの呟き傾向が整然として決定されているのではなさということは何処か共通性があると言えないだろうか?
 例えば人の感情はその時その時で全く意味は違う。同じ切なくて泣いているという状態であっても、切なさ、哀しさ、可哀想さ、後悔の念を持っている意味は全て違う。その時何に対してであるか(悲しいにせよ、不快で怒りを感じているにせよ)その事態や事実の違いに拠って全く個別的である。そのこともツイートの性格がばらばらでも、それを呟いた本人にとってのみよく気持ちが分かるということ似ている。構造的には全く同じである。だから当然真理的には言葉とはその言葉を齎すその時々の感情的気分なのだ。
 ある音を凄く聴き心地良く聴けるということとか、そうではないということも、実はこのその時々での感情の固有の理由とも関係があって、あるコードを美しく感じるということはその時々の気分に拠っても違うだろう。只プロの演奏家は常にそれでも全てのコードを相対的に把握することは出来るのだろうが、プロでもある時には弾きたい曲があり、別の曲は弾きたくならないということはあり得るし、又美しく心に響くコードもその時々で違うだろう。
 この気分の問題で必ずしも同じコードが何時も同じ様に心に響くのではない、ということは、SNSで一日の内に一人の人間が凄く正論も呟けば、邪論も呟くということ、そのことときっとかなり深い所では結びつき得る何かがあるのではないかと思えるのだ。
 そして現代人は社会全体にも気分があることをよく知っていて、だから個人的にも自分のある日の呟きを反省的に読み直してみたり、或いは人のことを知りたくてある他人のある日の呟きを読んでみたりしたくなる、ということなのだ。現代社会では正論と邪論が常に入り混じっている事の方を自然と感じられる、少なくともSNS利用頻度の高い人はそうである、ということは言えるのではないだろうか?
 その点では近代迄の人達より現代人はより正論と邪論の何の矛盾もない共存、併存、つまりその正統性からすれば矛盾自体を自然に感じる感性はどの社会成員もずっと近代等の成員より優れているとは言えるのではないだろうか?

Wednesday, January 21, 2015

第三十六章 幼稚化を相互に容認し合う現代社会

 自己顕示欲的快楽を示したく、そしてそうすることによって世間が騒ぎ自分の発言権が増すという幻想で爪楊枝を商品に見立てたものに刺して世間を騒がせる愉快犯が19歳青年だったニュースは其の数日間はさして重大な犯罪ではないからこそ逆にマスコミは騒然となった。勿論それもイスラム国に拠る日本人誘拐人質身代金脅迫youtube動画に拠って一気に吹き飛ぶ。だからアンディ・ウォーホルが世界中の市民が誰しも15秒だけは有名になれる時代と言った事は刹那的な知名度的栄光を求める人類の幼児化、幼稚性に根差している。だから誰しもがTwitterで本音を暴露し、ブログで日記を公開する(日記とは人に読ませる目的で本来書かれているものではないにも関わらず)という私的行為の露出願望が現代人にはある、ということだ。自己生殖器を晒す映像をネット動画として投稿したりして、自己内、分析哲学命題である現象性自体を誰しも持っていることそれ自体を露出するマゾヒスティックな願望が人類に共有されていることの根拠として、あらゆる大人的態度、大人主義、管理者的節度への感性レヴェルでの極度の信頼出来なさが現代人の深層心理を支配しているという事が言える。
 全世界の全人類世界市民がエゴイストでオナニストであり得て、その事実自体をメッセージ化することが可能となったウェブサイトとSNSと動画投稿社会世界性を持つ現代人は、実は核戦争、つまり20世紀中盤に実現してしまった広島・長崎の事例に対して、誰しもが潜在的にはノーモアヒロシマ、ナガサキ的前提で生活している。誰しもがどんなに理性を失っても核戦争だけは避けておかなければサヴァイヴァル自体が覚束ないと自覚しているからこそ、そのストレスは誰しもが過大であるが故に、時折ガス抜きを求めていて、それは刺激的な動画(以前ならイラク元大統領フセインの処刑動画等から最近ではイスラム国の処刑動画等)を発信していく側も、それを好奇心で検索し視聴する側も何処かでは結託し共謀的(狂暴的でもある?)に存在し続けているのだ。
 現代人はナッツ姫事件でも顕著な様に既に全人類的規模で我慢しなくなってきている。只その精神的傾向を何とか隠蔽し得るか、その隠蔽を潔しとしないかの差でしかない。この世界的な幼稚性傾斜の現象を核戦争抑止ストレスに起因するガス抜き的ミニテロリズムと呼ぼう。それは相互の幼稚性を容認し合う事で相互に(加害者も被害者もそのテロの傍観者全員を含めて)相互の過大な責任を回避し合っているという風に理解することも出来る。
 前回はゲームソフト等の過激なイメージ実現というサブカルシーン的現象自体をリアル、つまり現実社会や現実の政治動向やテロリズム自体が模倣するという視点で考えたが、人類全体が大きな被害を回避する為に率先して小さな我慢し得なさ、我慢せず一切合財をぶちまける欲望だけは小出しにしつつ容認し合っているのだ。
 これは人類にとってもし人類が未だかなり長期に渡って地球上に君臨し続けるならオナニスト達の春の季節であるが、人類がやがて絶滅するのならオナニスト達の冬にあると言っていい。
 最近日本語で「皆迄言うな」と全部言い切ってしまうなとオナニズム抑止的キャッチフレーズをよく言う様になった。同時に逆切れという語彙が、悪い事をしている側がそれを抑止しようとする側へモンスタークレイマー化した発言をすることを意味していて、それを頻繁に日本人が言う様になっている。これは一種の顕著なオナニスト達の春か冬をよく示している。
 ところで人類が建造物を個々別々の造る様になった最大の理由は風雨から体表を守る為であるし、その事をかつてデズモンド・モリスは裸のサルと評した。だがもう一つ重要な理由がある。それは無意識に誰しもがインシストタブーを回避しようとしたからである。だから現代社会でも性教育も必要だという声もあるが、同時にそれへ躊躇する声も多いのは、あくまで性に関する事は公言し合う性質のものでないと皆が心得ているのは、家族全員が同じ空間で生活する洞窟や竪穴式の穴居生活では性行為の確保が困難である事で個々独立した家屋を造る様になった事の意義を無視していく方向にあると知っているからである。つまり野放図に何でも心の内を家族内でも語り合う事は、子供の側だけでなく大人の側もインシストタブーを冒してしまう性悪的性質が誰しも持っていると知っているので、それを予め回避しようとしているのだ。全てのプライヴァシー確保の必要性とはこの事実に起因している(だがそれを敢えて冒そうとする一人遊びの公開性に関しては次回の記事に委ねる)。
 ある意味では人類にとって核戦争やエスニック・クレンジングは20世紀に一定程度実現させてしまった。ヒトラーやスターリン、ポル・ポト等に拠って大量虐殺は実現してしまっているし、当然のことながら広島・長崎へ原子爆弾が投下されたことで核戦争の糸口は示されてしまった。だからそれ等を回避したいという願望は全人類が共通して暗黙に携えている。周知の事実としてそれ等が人類を絶滅へと誘う事を暗黙に全人類世界市民が心に保持しているのだ。核戦争のボタンとエスニック・クレンジングや粛清的大量虐殺がアメリカ合衆国やナチス、ソ連、カンボジア独裁政権、ボスニア・ヘツツェゴビナ紛争等に拠りパンドラの箱を開けてしまった事を人類は知っているので、そして今再度初期人類の様に家族全員で穴居同居生活に逆戻りする事が出来ないと知っている。それを回避させる為の唯一の方策は小さな幼稚性を敢えて目を瞑って放任しておくことによってガス抜きをしていくしかないのだ。誰しもその悲劇的事態に陥った時には犠牲者になる人達へ哀悼の意志を持ちながら、喉元過ぎれば次第に元の平常時の生活に戻って行く事を承知していて、どうする事も出来ないので静観していくという態度を取り敢えず取るしかない。
 それが現在の人類の実情なのだ。だから相互に幼稚性を容認し合う格好のツールとしてTwitterやLINEの様なSNSが世界的に選ばれているのであり、その露骨な自己暴露への反省的意識から社交的知性を取り戻す為にFacebookが世界的に選ばれているのだし、時折シャルリ・エブドやイスラム国に人質になる犠牲者が出ても、そういった時々土竜叩きを要請される様な突発的事態全てを回避する事は、核戦争ボタンを押すか、相互に憎しみの連鎖でエスニック・クレンジングを回避する事と引き換えに諦める、つまりそれを諦められないのなら行く処迄行くという選択肢しかない、と全人類世界市民が知っているのである。
 今回はかなり否定的諦観的な態度で現況の世界情勢を語った。だが次回は本ブログでは初めてSNS利用のオナニズム公開的な人類心理の肯定的発展可能性的視野から論じてみよう。

Tuesday, November 4, 2014

第三十五章 個体数の数値確保的な世界戦略Chart2 記憶と想起の変容とリアルに拠るフィクションの模倣

 20世紀以降の人類の記憶と想起は固有だ。映像(ニュース、ワイドショー、ヴァラエティ番組)の記憶と想起、ニュース説話的対話ナレーションエピソードの記憶がリアルエピソードと重なっているからだ(今日自転車に乗っていると、ボリス・エリツィンの名を突如脳裏に抱き、連鎖的連想的に二日酔いで式典の臨み、其処で倒れかけ、側近が助けようとして大統領が正気を取り戻したので何も無かったかの如く取り澄まして素知らぬ振りをして起立し直した映像を想起した)。
 21世紀以降の人類はゲームソフトとスマホ画像とタブレットやPC画像・動画画面遷移的記憶(youtube編集画面遷移とクリック画面遷移等)が我々の視る夢の内容迄変えていっているに違いない。我々はビジネス思考をする時、管理職者でも一般従業員でも過去の全映像で語られたエピソードや経営者や従業員の生き方や人生での展開をその都度思い出し、栄枯盛衰への読みから自分自身のビジネスをその映像想起を糧に(参考にして)決定しているとさえ言える。
 映画<バイオハザード>シリーズは美女女優ミラ・ジョボビッチ主演で何作も作られているが、そもそもがゲームソフトの作品のリメイクである。其処ではかなりリアルな血しぶき等も丹念に描かれ、その凄惨さ自体をリアルテロリスト、例えばイスラム国等の面々も参考にしているのではないかと思う。つまり映像のリアルな凄惨さ自体がリアルのテロリスト集団にヒントを与え、フィクション自体が現実へ影響を与えているのだ。リアル社会の現実がフィクションに影響を与えるスピードより余程逆のベクトルの方が多いし、速いのではないだろうか?
 バイオハザード的な凄惨な映像は正視に耐えられるか否かのバロメータとして提供されている感があるが、それらに影響を与えてきた音楽はロックでもビートルズやストーンズではなく、ステッペンウルフのBorn to be wildやブルース・スプリングスティーンのBorn to the U.S.A 、ディープ・パープルのHighway star等だろう。何処か刹那的な快楽に打ち興じる現代人の切なさ、儚さを示している様な歌達ではないだろうか?
 この同じ様なスピリチュアルなものは当然アンディ・ウォーホルの肖像画シリーズにもあるし、ジャン・リュック・ゴダールの映画も先駆けていた。とりわけ<勝手にしやがれ>では虚無的生き方をして自分自身で「俺ってサイテーだぜ」と死ぬ前に呟かせる。サイテーな生き方をすると自負するくらいなら、サイコーの生き方にそれを変えてやれという意識がイスラム国にもあるのかも知れない。そういった映像や音楽がインスパイアするものを未来に肯定的価値へ転換させていこうという意識がテロリスト集団にはある。ウイグル族がテロ行為を北京で繰り広げてきたのにも、ゴダールの<中国女>の持つリアルワールド自体へのシニシズム的視点とメッセージ映像的な詩情が却ってリアルワールドの安穏とした変えられなさ、執着するリアルのリアルっぽさへのニヒリスティッシュな向き合い方が背景にあって、それならいっそ自爆テロにでも赴く方が形而上的価値があるのではないかと思考して挙に及んできたと言えないだろうか?
 我々の想起が既にリアル出会い遭遇記憶でなく、ニュース映像やテレビ番組エピソードも含まれていて、それが21世紀以降の人達にはゲームソフトの刹那的な画面遷移やスマホ映像の画面遷移の持つスピードがスピリチュアルにメカニックなシステムを優先させる、ゆったりとした感性を磨滅させ、数値主義的な冷酷さを我々に「リアルはそうなのだし、それは変えられない」という気分を煽っている。記憶と想起のシステム自体が徐々にアップル、グーグル、マイクロソフト、ヤフー等に管理されつつある。そういったコングロマリットを進化させてきた背景にロックシーンのハードロック、パンクロックがスピリチュアルに与えた影響も無視出来ない。ゆったりズム自体が成立し難い生活環境に我々が居る以上、そしてリアルテロ集団がゲームソフトを模倣するベクトルが、フィクションがリアルを模倣するスピードよりずっと速い、という事自体が我々を数値主義以外のバロメータを成立し難くさせている。
 未来予想的に言えば恐らく数値主義は無くならないだろう。しかし数値主義の限界、つまり死者数やニュースで伝えられる数自体が持つ無名性に真の意味でのリアルさはないのだ、という事自体への反省的視点もずっと維持され続けるだろう。その二つの「この侭でいいのか」と「この侭変わらぬのではないか」という二つの想念自体が我々が睡眠中に見る夢にもずっと影響を与えていくことだろう。何故なら夢とは記憶の整理に外ならないからだ。記憶自体がリアル出会い遭遇記憶だけでなく映像や端末画像記憶も混入してその二つの境界さえ曖昧化していく様な想起的な脳内リアルの変容自体が、先程の二つの想念を延々維持させていくに違いない。

Friday, July 25, 2014

第三十四章 個体数の数値確保的な世界戦略Chart1

 ウクライナ上空を飛行する民間旅客機が撃墜され乗組員、乗客全員が死亡したニュースが世界を駆け抜けると、それ迄大問題とされた多くのニュースが一挙に影を潜めた。
 マレーシア航空のこの悲惨な事故以来何度も似た様なニュースが飛び交った。そしてその度に事故原因調査とかいう名目とフライトレコーダーとかヴォイスレコーダーという語彙が登場した。これらの機器の設置は、あくまで非常事態に直面した時その原因を突き止め、それ以降似た事故が起きない様にする為であり、その時に生きている幸運な人達の為であり、あらゆる不幸な事故とそれに伴う犠牲者の死とは後世に役立てるものでしかないという認識がある。
 其処には安全性の数値目標と、個体数的な犠牲者の少なさを誇る為に、用意周到に設えられた世界戦略が仄見える。その数値を獲得する為に仮に犠牲となっていった場合に、その犠牲を無駄にしない為の方策が全ての飛行機に搭載されている。まるで生きている人達全員の為に生きてきたけれど不幸な事故で死んでいく人達の死は無駄にしてはならない、というお触れの様に見える。
 この様な不幸な航空機事故だけではない。世界全体に張り巡らされているあらゆる軍備がそういう事を目的として、生存者の安全の為という名目の為に設定されている。町中至る所に設えられている監視カメラもそうである。一切悪い事をしない人達の為にどんな些細な悪事も見逃すまいという名目でそれらは設えられている。
 監視盗聴システムの全ては一切犯罪とは無縁で生活する善良な市民の為に、あらゆる挙動不審な行動を全てチェックする為に設えられているのだ。
 人に拠って感じ方は違うだろうが、そういう風にあらゆる監視盗聴が日頃の治安の為にも、そして非常時の事故の時の為にも設えられているというリアル自体に、だから安心だ、安全なのでほっとするという感性もあるのかも知れないが、そうではない、そういう風に全てが過去に起こった不幸で不届きな事故や事件を二度と起こすまいという名目で過剰にイフを全体に設定されている、という事自体は極めて異様な社会様相だと言える(と少なくとも私の様な感性の人間には思える)。
 そういう事故が起きない様にする、そういう犯罪が起きない様にする為に考えられる方策が、もしそういう事故が起きた時に備えて、もしそういう犯罪が起きた時に備えて設置させておこう、という意図が全面に出ている。まるでそれ以上の最良の策などありはしないのだ、又仮にあった所でそれを探している内に時間がどんどん経ってもし事故や事件が起きたならうろたえるだけではないか、という主張なのである。結局全ての事態が起こるべくして起こるが、その真の原因を突き止める為に、更なる犠牲を要すというこのリアルを誰もどうする事も出来ないのだ。
 警察や軍隊等の存在は、人は悪い事をする、集団でも悪い事をする、或は過ちも犯す可能性があり、その為にいざそういう事が実際起きた時の為にそれらが必要だという発想で設えられてきたインフラなのである。つまりそれらは全て人間の考え得る理想や相互の信頼とは本来脆弱なものであるとか、本来人間に作った科学技術とはどんな日常的な航空であっても不完全な部分は必ず残っているのだという事自体を認めた方策に拠って設置されているのだ。
 これはある意味では自然科学の知識や科学技術の進化がそれ程ではなかった時代にはなかった事である。つまり現代社会に進化したテクノロジーが登場する様になってから初めて直面した性悪説的に人を見たら泥棒と思え、科学技術だって所詮不完全なものでしかない、という事を予め認める所から出発しなければいけない事態なのだ。
 結局何か不測の事態へ対処する為の方策が立てられ、その不測な事態の対処が万が一にも失敗した時の為の方策というメタ的な対処の無限背進的な思考に基づいている。
 そしてこの矛盾は個人内部では誰しも思っていても、それをではどうするかという決裁に於いては、やはりそうする以外にないというある意味では最も平凡な判断こそが一番信頼が出来るという事を示してもいるのだ。つまり一番消極的な対処法が結局一番無難で、それ以外の一切の理想的対処法を退けていってしまう、という訳なのだ。
 唯この問題は一方では確かにセンチメンタリズムでしかあり得ないという批判を完全に躱す事が出来ないという難点はある。しかし他方そういう考えではこの何となく誰しもが不安になっていく、つまりシステム的整備というリアル自体が進化し過ぎると、まるで機械やツールとかインフラ自体が人類の精神的安定や安心を打ち砕き、過大に不要なストレスを生じさせていくという漠然ではあるが、想定しやすい未来へ何も提言しない事を招聘してしまうのだ。(つづき)  

Tuesday, June 3, 2014

第三十三章 生活空間とBGM・資本主義/経済自由主義・社会倫理と個人の価値Part3 国家という形で落着する処に人類の限界があるのか?Ⅱ システムの鼬ごっこに於ける未来展望①

 凄く重要な事はツールやディヴァイスの進化は、その利用スキルとは切り離されているという事だ。その証拠に人類は文明の発展順に今の世界で社会インフラを進化させている訳ではない。つまりもし今アマゾン流域に住む原住民がA、B、Cと三部族居たとして、彼等が一切現代文明を知らず、即ち大型コンピューターからMS-DOSやXP、VISTAから8迄の歴史を知らずしても尚、現代のスマホ等のPDF端末やタブレット端末を利用するスキルは直ぐに教えれば覚える、習得し、或いは現代文明を熟知する現代文明圏、先進国市民達より速いスピードでそれ等を利用する事に習熟する事さえあり得るという事だ。つまり文明の発展や社会制度や法律の進化、全面戦争時代とその後の戦後秩序の形成等の歴史を一切すっ飛ばしていきなり現代の最新鋭の機器を一切の文明を知らぬ原住民に渡しても、習熟してそれ等の利便性を享受する事は充分可能だ、という事である。
 更に重要な事は現代文明自体が既に集団や組織の一員でなくても充分PC遠隔操作事件でも明らかな様に個人のスキルだけで(少なくとも天才的ハッキングスキルさえあれば)サイバーテロを通して全世界へテロを仕掛ける事さえ可能だ、という事だ。だが当然の事ながら新種のウィルスを開発する悪徳業者と結託して更に新種のウィルスへの抗体を維持し得る新機種開発メーカーがハッキングスキルを持つ天才ハッカーを採用して、その鼬ごっこは留まる処を知らないと、その現実自体を利用しようとする荒手の天才犯罪者が更に登場するという鼬ごっこも継続していってしまう。
 今日のニュースではSTAP細胞の発見自体が、或いはES細胞とTS細胞が融合してしまった結果STAP細胞という新たな万能細胞だと錯覚してしまったのではないか、と報じられていた(さてその錯覚自体が新発見へ繋がる価値のある錯覚なのかは専門家に委ねるとして)が、実はこういった功を焦る自然科学研究分野へさえ、ハッキングスキルと新種のウィルス対抗ソフト開発の鼬ごっこと同様時間との勝負となっているという現実も浮かび上がり、短期間に業績を上げないと出世コースから外されるというシヴィアな現実に直面した研究者達が写真の合成等をはじめとする行為へ無意識か意識的かは問わず心理的に誘われる事は極めて必然的な現実展開だとさえ言える。
 かつて本ブログで都市空間の連動に就いて述べたが、連動ということが研究成果の発表と、その発表の為に支払われる研究努力やその短期間での成果達成というプレッシャーが奇妙な事にも天才的個人のハッキングスキルを自己顕示欲的に匿名的な犯罪者となって世間一般、世界のマスコミに連日報道される事で充足されるナルシス的愉悦獲得欲求とまさに現代社会で連動しているとさえ言い得るのだ。
 この様な個人犯罪と研究者の成果達成プレッシャーとが社会内リアルに於いて連動してしまう、つまり時間との勝負という現代社会の必然的運命が、ツールやディヴァイス利用を通して、結局個人の幸福感の充足より、集団、組織、法人、国家等のマスそのものの利益、国家レヴェルで言えばGDP競争へのみ加担する構造を作り出し、蜥蜴の尻尾切りで一旦はゴーサインを出した研究さえ引っ込めさせ様とする理研の生き残り欲求自体も、この現代社会全体のシステム論的な鼬ごっこの一端を図らずも示してしまっているという事それ自体はパロディではなく現実なのである。
 入試ミスが相次ぐ昨今の大学入試とこのSTAP細胞発見を巡る研究者と理研という組織が取る態度とはよく似ている。もしアマゾン川流域近辺の非文明社会の原住民に直接コンピューターの歴史自体を一切教えず、ハッキングスキルを教えれば現代人よりは多少時間がかかっても、中には天才的な闇ハッカーとして暗躍し得る成員さえ登場する可能性も決してゼロではない。つまり現代社会のシステム化されたコミュニケーションのリアル自体が、個人の愉快犯的犯罪者のナルシスと実際にはモラル論的にはそうであってはならない研究者の心理とを極々接近させる様な暗黙のネットが現代社会には張り巡らされているという事を彷彿させる様な片山容疑者ケースとSTAP細胞発見のニュースであった、と後代の歴史家が叙述する日も来るかも知れない。(つづき)