Wednesday, October 20, 2010

第十一章 二分法(二項対立)だけではないが完全否定も出来ない

 人間の無生命→生命(誕生)、生→死という時間的順序を純粋にどの地点でどう切り替わっていったかを特定することは厳密に言えば不可能であり、さりとてこの両方の二項対立の間を等間隔のグラデーションが存在し、等速度で移行していくなどと誰が信じよう。
 その点を考慮に入れると私達は生とはよりクリアに意識している状態であれ、酩酊状態であれ、睡眠時であれ、皆意識の等しいヴァリエーションである(その証拠に夢を見ながらでも我々はそれを夢だと意識することも、夢を見ながら覚醒時に考えていたことの思考の続きをすることさえ可能である)と捉えることが出来る。この段階で意識/無意識という二元論は実在的に(論理的にでなく)論破される。 
 ここにサルトルが考えていた人間には無意識などないというフロイト批判の反証が立証される。すると何故精神分析で無意識を概念化したかということが問題となるが、脳科学的には脳が働いているか、働いていない(脳死)かを二元論として捉えるなら、生は全て意識、死は無意識と言う方がまだしも実状には近いと言える。
 すると言語習得前の幼児が全く言語秩序を理解せぬ内にもそれなりに固有の「あの時の痛み」に対する記憶があり、且つその時点なりに記憶している(成長した後から言えば「いた」)ことになる。
 しかし彼(女)は言語習得という大事業の前で言語習得前的「あの時の痛み」を記憶し続けることを放棄し(つまり脳は意識的に忘れる)ようとする。そして彼(女)はそれを多く忘れた。勿論多少は痕跡として残るわけだ。
 それを言語習得後の彼(女)は言語習得し自我を目覚めさせた後、その時のことを勝手に「自然に忘れた」と無意識のせいにするのだ。
 心を脳と分ければ確かに心は常に対社会的に対外的には対峙しているが故に意識的には「意識的に忘れた」とは思えない。勿論それを勝手に無意識にと言うこと自体を私は批判しているのだ。心を作る脳がそれを命令しているとも言えるし、心が脳を逆らって認識してもそれを咎めだてする術を脳は知らないようだ。
 その様に忘れていくことを意識的ではなく自然なものとすることは、脳の立場からすれば当然かも知れない。何故なら全ての瞬間の意志や意識を記憶していけば遥か脳の容量を超えて行ってしまうからだ。
 ある部分ではそれは記憶作用自体の命令であるとも言える。それが情動を誘引した結果であり、例えば確かに火傷した時の熱さ、痛さを思い出すことも想像することも可能だが、その身体的記憶それ自体ではないかも知れない。又記憶の痕跡は身体自体でもない。それはあくまで記憶内容と現在に於いて仄かに感じられるものである。
 言語習得に戻ろう。
 自我に発現によって忘却の全ては自然に忘れた、つまりいつの間にか無意識のせいにされてきた。
 従ってもっと遡ってもよいが、胎児にも或いは記憶はあるのではないかということが前章での仮説であった。しかしその時の記憶を彼(女)は母胎の外へと独自の存在として誕生していく時、その外部で出て行く為の意志の優先の下で、胎児時の記憶を意志的に忘却しているともしここで私が言ったとしても、それを否定することは出来ないのではないか?
 意志的に忘却(記憶し続けることを止める)していたのに、その脳内選択は明らかに言語的思考と思惟の習慣を獲得した後にはすっかり意識的でも意志的なものとも感じられなくなる。勿論それは生まれてきた瞬間外界の全てが目新しく感じられるから、当然その段階でも胎児時の記憶の大半はうやむやになっていってしまうだろう。
 既に生まれてきた赤ん坊は胎児時の記憶など意識して思い出すことは出来ない。だからそこで無意識になら夢などで登場することもあるのかも知れない、ということに於いてフロイトの説はある輝きを失わない様に思える。
 しかし残存した胎児時の痕跡はやはり現存しつつ、その後の多くの経験によって変質してくことはあり得るし、変容を来たし、元もままということはない。そしてその元もままではあり得なさはずっと続くわけだ。
 薄ぼんやりとなら今でも我々は夢に得体の知れぬ光景を見ることはあるし、そういう体験は幼い頃からずっとあった。そして当然のことながら赤ん坊の時の記憶をそのままの形で残しているということもまた不可能だろう。
 ある瞬間それでも言語習得期以前の記憶が蘇ることもあり得ないことではない。無意識という語彙でなく深層意識に痕跡として残されているとしたら、それは赤ん坊の時に心が共鳴したこと自体の記憶、つまり体験的な痕跡であろう。
 それらは僅かに沈殿するかの様に張りついているのかも知れない。
 脳全体も新陳代謝するわけだから、それは微かな痕跡である。

 意識の上では否定しているのに脳では受け入れている様な場合、真意、感情を抑制している(であるが故に制度的な責務に追随し否定している場合、それを私は責務偽装と呼ぶのだが)とか、逆に脳では否定しているのに外部的圧力に屈し致し方なく受け入れている(それを逸脱恐怖偽装と言ってもいいかも知れない)様な場合もフロイトが考えた検閲とか抑制といった概念は今でも有効性を持っている。
 只私は無意識という概念の不十分性を語ってきただけだ。
 我々は生と死に於いて如何に世にある多くの二分法、或いは二項対立を単純であると批判しても、生と死の中間などやはりあり得ないとすれば、生きている個体が死亡する時、等距離で等間隔、等速度で生から死へ移行するとはやはり考えられない。
 すると移行過程には断続平衡的なイヴェントがあったと捉えてもいいのではないか?
 そして意識が生の証拠であるとすれば、脳によって作られる意志は意識そのものであり、言葉によって示される意志はほんのその僅かな部分でしかない。しかし同時にそのほんの僅かな部分を肥大化させるのが社会意識であるわけだ。
 従って偽装や虚言もそれ自体、対外的に示す脳内意志であり、「そういうもの」としての真意であり感情なのであり、嘘も同様である。つまり嘘をつく者の嘘の背後の真意なのではなく、真意とは別の真意を知られまいとする為の嘘をつく真意(嘘をついている時は隠すべき真意は寧ろ忘れられている場合も多いのではないか?)と言い換えるべきなのである。
 従ってある部分では厳然と二分法は有効であるのに、ある部分では常にそれを無効化する見方も同時に出現し得るということだ。このことで重要なことは生という一元論で死を考えるkか、生と死を対立的に二元論として考えるかという命題が極めて倫理的なことである、ということだけは炙り出されていく気がするのである。