Monday, March 17, 2014

第三十二章 生活空間とBGM・資本主義/経済自由主義・社会倫理と個人の価値Part2 国家という形で落着する処に人類の限界があるのか?

 国家成立以前的に、既に貨幣が使用されていたことは分かっている。そしてそれよりずっと後に法が明文化され国家が成立したとされる。中国では国家起源は古く、朝鮮半島もそうであるが、日本は紀元後にやっと国家が成立した。
 しかし我々は昨今ウクライナでのクリミア市民共和国のロシア編入を巡るロシア対西側諸国の対立を巡って国家というもの自体の矛盾をひしひしと感じ取っている。それは一体本当に全ての世界市民を幸福にするものなのか、という形で。
 今もしタイムマシンに乗って国家成立以前の取り敢えず貨幣経済自体が成立していた(と言っても今の様なグローバル経済ではない)時代に我々が行ったとして、そこで我々が使用している携帯電話やらスマホ等のPDF端末とかタブレット端末をその時代の人達に渡して使い方だけを教えれば或いは国家等成立しなくても何とか経済活動だけで人類はその後の歴史を構築し得るだろうか?
 不可能だろう、という意見も出るかも知れない。その根拠はそもそもそこではグローバル経済用語として英語は通用するというわけではないし、第一各部族毎に異なっているから、そして中には既に文字を使用している部族もあるだろうが、それはない部族も多いだろうから、文字を送信するという行為自体が成立し得ないだろう、というものであろう。
 しかしもしそこである程度日常会話的に送信しやすい文字のみを教えてそれを端末に記憶させて絵文字を送信する様な仕組みを我々が提供してやりさえすれば、恐らくたちまちの内にその当時の世界中に端末利用が広まるに違いない。その時代では各部族固有の語とピジンが各エリア毎に異なった形で使用されていたのだろうと思われるが、それを一旦反故にしてでも、もっと人類全体に共通の命題はあった筈であり、それを絵文字化することさえ教えればかなりの程度で国家というものを成立させないで、と言うことは国家が強いる民族性とは無縁に世界が運営されていっている可能性はあるのだ。
 文字送信を記号送信という風に置き換えれば、何も日本語だとか英語だとかハングルだとかロシア語だとか中国語だとかの固有の語学に纏わるアウラ等無しに人類の共通資産にし得る。
 今現在のリアルの我々にとっての世界とは当然そういった歴史を辿らずに、国家毎に結集するという部族ではない民族を形成し、やがて民族間の抗争に入り、世界戦争へと至るという歴史を辿ってきた。そのプロセスで武器が発明され、車が発明され、それが後に核兵器や個人携帯のものとして拳銃等へと進化し、車は自家用車となって個人に所有される様になっていった。しかしその個人所有(それは当然携帯電話やPC端末所有というものも現在では含まれる)という形へなる迄は個人では一切自由の利かない大いなる各エリア毎の統制的秩序があり、日本で言えば士農工商の身分制度とか関所等のインフラが厳然と存在していたのだ。
 そして明治期を日本は迎え、脱亜入欧をして、世界戦争へと参戦していった(それ以前に日清日露戦争の参戦とその勝利があった)。結局そういう形で人類は広島と長崎に原子爆弾を投下されるという悲劇無しには現在の平和国家を成立させることが出来なかったし、ホロコーストという忌まわしい過去の記憶無しに、現代の国際的な人権意識が発生することもなかったというのがリアルな世界史の事実である。
つまり我々はどうやら長い歴史を通じて、国家をまず成立させることで社会秩序とか文化とか伝統を作って継承してきたのだし、その国家統一の途上でも大いなる分裂とか、日本では戦国時代とかアメリカでは南北戦争とかを通過してやっと全国的な統一を果たしてきたらしいのである。と言うことは現在の様に世界中にウェブサイトが張り巡らされる形で世界の共時性を意識したりして、リアルタイムで世界中の出来事が報道されることを当たり前にして、何処の国で起きる事でも必ず世界中の審判を仰ぐというリアル自体がまず国家統一に至る迄の大いなる民族内部での内乱や抗争に明け暮れ、その後に今度は国家対国家間の世界戦争へと至って行き、その末の被爆とかホロコーストといった悲劇を体験して初めて世界平和や世界秩序の安定というものを意識し始めたという訳である。
 と言うことは即ち、我々は結局国家というものを否定することは出来ないのだろうか?と言うより国家へと落着するしか全ての集団とは統一的には成立し得ないのだろうか?そして民族とは国家と共に成立していく経路しかあり得ないのだろうか?それ等三つの問いが産出される様に思われるのだ。
 つまり今でも頻繁に続出するレイシズムでもナショナリズムでもエスノセントリズムでもヘイトスピーチでも、とどのつまり国家間の軋轢や衝突、相互不理解、相互誤解に端を発する現象である。従って国家という体裁を世界中で全ての国が取っている限り、真の意味でグローバルでなどあり得ない世界しか実現し得ない。何故なら今現在のグローバリズムとは完全にアメリカがリーダーであると提唱されているものの事を指すに過ぎないからである。しかし事実上中国もロシアもイスラム諸国も事実上それを安易には容認していない。これは決定的な真実である。
 従って現在の世界とはあくまで体裁上では国家とそこへの帰属を前提にした世界市民性なのであり、何処の国でもかつて提唱されたエスペラント語の様なものを使用しようと言う風にはならないし、恐らくそれは未来永劫そうであろう。
 では何故そういう風にある程度の民族集団の纏まりへと人類は文化伝統的にも分岐していったのだろうか?恐らくそれは、一つは脳神経的なネットワークの在り方と似た構造で人類は分岐していったというものである。例えば記憶とはそれぞれ自分自身の生きてきた時代のそれぞれの枠を与えられて記憶されている様に思われる。学校時代の学校で起きたこと、家庭内で起きたこと、家にも学校にも居ない別の場所で在った事等の様に。そしてそこに対人関係が加わる。其処で似た記憶同士が連結するということはあり得る。
 これが要するに脳内の記憶の時間論的な相互連絡的なネットとなっていく可能性はある一つの仮説である。これが人類の共時的なグループでもあり得るとしたら、要するに似た考え方とか、狩猟方法とかで纏まって集団作業をする内に強大な部族となって、それが国家へと至る様な道筋を構成していった、というものである。似たアイディアを持つということはツール利用に拠って示されていたであろう。そして非常に親密な外交を持つ国家同士とは、共通利害で結びつき、要するに相互に欠如を補完し合う形で進化していく。向うがこちらの武器を求めていれば、貨幣を鋳造する為に必要な銅を入手したいので、交換し、其処で貨幣が鋳造されれば、それを交易では双方の国家で使用するという様に。
 脳神経細胞的なネットワークで各成員同士が結束することで徐々に階層的秩序が構成され、それが国家へと発展していったとまず考えられるのである。(つづき)   付記 しかし重要なことは国家毎に人口もスケールも著しく異なり、従ってどれくらいの人口が理想的国家であるかということは、恣意的であり、何か法則的なことは人類史的にも無いということである。この点は次回考えてみる。(Michel Kawaguchi)

Monday, March 3, 2014

第三十一章 生活空間とBGM・資本主義/経済自由主義・社会倫理と個人の価値Part1

 現代社会の都市空間はある程度意図的に作られている。全てのインフラが意図と目的を持っている。従ってその都市空間で快適に生活する為には、その個々の時代に於ける社会全体の意図を反映している都市空間のインフラを利用していかなければいけない。
 ATM全般を巧く使いこなさなければ生活していくことは困難だし、PC端末でもPDF端末でもその利用を滞りなく履行出来なければ様々な情報発信から受信、色々な事の申し込みも出来ない様になっている。そういった意味では神経学的な協働性を無視して現代の生活空間を生き抜くことは出来ない。つまりあるマナーで良かったことは、時代の変化と共に次第にマナーの善悪も変化していき、その時代と共に移行しつつあるリアルに逆らうことは出来ない。あらゆる差別語とされた語彙を気軽に使用することは既に出来なくなっているし、生活空間に様々なユニヴァーサルデザインをあしらっていることを否定することも出来ない。
 一つ大きく今迄ずっと変わらなかったものとは、大型スーパー等で使用されるBGMであろう。銀行や郵便局等で使用されるミューザック(Muzac)と同様大型スーパーでは売り場が日常食品売り場であるなら必ずと言っていい程1920~1930年代のディキシーランドジャズやジョージ・ガーシュウィンのチューンを利用している。そういった売り場で1960年代のロックの名曲や反戦フォークの名曲(例えば『花がどこへ行った?』や『風に吹かれて』等の)をかけていることは少ない。それは偶然ではなく、そういう風に仕掛けられているのだ。デパートが出来て全盛期であった時代の名残から、そういう売り場では販売促進、消費者へ消費を気持ち良く促す仕組みとしてそういった選曲が為されているのだ。
 しかし同時に我々の感性はそういった売り場でのBGMの選曲が恣意的であるから、全く違う音楽を聴きたいと迄は通常思わない。何故なら全てのTPOということを考慮に入れる処があるからだ。だから本質的にはどうしてもディキシーランドジャズやガーシュウィン等よりジミヘンやジャニス、ドアーズが聴きたければ、それはCDやウェブサイトからYoutube等を通してダウンロードすればいいと考えているのだ。
 これはある部分では我々がパブリックスペースとプライヴェートスペース、パブリックタイムとプライヴェートタイムという認識を持っている証拠である。
 我々は臨床精神医学的な解析も恐らく可能である様な精神安定維持の為の知恵と工夫を個人でも持っている。そして大型スーパーの売り場でそういう音楽を耳にすれば、そのBGM選曲をする人の意図を理解し、汲む様に脳が働くのである。そしてそういったTPO的な意図を恣意的であるけれど、悪意であるとは受け取らない様に主体的に心がける様にも脳が働くのだ。
 しかしそれとプライヴェートに聴く音楽、聴いて感動出来る音楽は異なっていていいのだし、マーチの様な曲が相応しい式典の時にムーディーなジャズが流れていれば、それがアイロニーとかギャグとかパロディ的意図以外なら、相応しくない、場違いであるとそう受け取る感性も持っている。
 このことは言ってみれば、感性というものが自分自身に拠る完全チョイスということと、そうではなくパブリックな状況で相応しいものとを明確に区別することが誰しも可能だということを意味している。これは神経生理学的な協働性とも言える。又臨床精神医学的な協力意図でもある。これはつまり個人の価値とはそれ自体を社会や他人から強制的に禁止されない限り(この条件は絶対的に重要であり必要であるが)、決して何もかもその個人の価値に公的なインフラが従っていなくても、その部分では進んで協力し、又その様にプライヴァシーとパブリシティとを分けておくということに不快感よりは、進んで協力する部分も我々にはある、ということを意味している。
 しかしそれはあくまで個人の価値を否定されない限りであることは重要であるが、それでもそのインフラの持つ様相が余りにも何時迄経っても変わり映えがしない侭であるなら、少しはリニューワルすべきではないかとか、模様替えをすべきではないかと感じる感性も持っている。だからこそ時々どんな店でも新装開店をするものだし、それを利用者や消費者、購買者や来客は希望していることを経営者達も知っていて、それを実践するのだ。
 これらの社会インフラの時々行われる模様替えという行為は、当然食品売り場でのBGMでも行われるだろうし、編曲に拠っては過激なメッセージの歌曲でも徐々に流される様になっていくということは大いにあり得る。そしてその際にはかなり重要なこととしてその流される場所と場所の持つ意図とか状況に即した編曲が必要だということである。
 知覚生理学的、神経生理学的な心地良さを極端に逸脱したことはオーディトリー的にもヴィジュアル的にも我々は決して望まない。これは確かである。余りにもその場その状況に相応しくない色彩や物質、或いは生き物(例えば一般的にギャラリーや美術館にはこれを持ち込むことは禁止されている)、大音量の音楽や聴いていてその場に相応しいとは思えないと誰しもから感じられると予想されるものは忌避されるということは絶対的に言えている。
 だからこそ逆に批評的な美学からすれば我々の日常的感性とは極めて多くの悪しき制約をそういったTPO認識、それはかなりの度合いで民族国家モラルとか時代性に加担しているし、それらに制約を受けているものだが、そのステレオタイプへ謀反を起こしたいという気分にもなるし、それをある程度声高に叫ぶ必要性を思想的批評的に持つこともあり得る。そしてある部分ではどういう時には体制的なTPO認識に従い、どういう時にはそういった固定化されたTPOに対して無思考的だと批判すべきかという個人の価値判断とがどう拮抗すべきかということへの個人毎に持たれる信念や信条というものが必要となってくるとも言い得るのだ(しかし価値ということ自体は別ブログである『価値のメカニズム』で言及していくつもりである)。
 唯今回の論述で重要なこととは、我々は知覚生理学的、神経生理学的な精神神経の安定を常に誰しもが望んでおり、そういった外的なインフラから多大の精神神経的な影響を受けるということもよく知っていて、ある部分ではどんなに反体制的な人間でもその都市空間や生活空間での公的な意図へ協力する部分があり、だからこそ逆に個人的な価値としてはそれらとは一切そりの合わない、そしてそれら全てのインフラの持つ存在理由を否定する様な過激なものを嗜好するということもしばしばあるのだ。そしてこの様に公的制約と個人の選択の自由を使い分けることで、却って精神の安定と、神経学的な平衡を維持しているということを誰しも知っているのだ。
 つまり却って反抗したり抵抗したりする為には積極的に否定する前提としてのインフラからの制約を必要とするということである。従って最初から余りにも野放図に全てが許されているというインフラの状況では却って保守的な嗜好というものが個人の価値としても芽生えてしまうということも充分あり得るとは言えるのだ。
 勿論それはあくまで外界の知覚情報に左右される我々自身の内実的な真理として言っているのであり、基本的に雁字搦めの都市空間や生活空間の荷重なる制約、つまり商売をするにも何をするにも全て決められているということを我々が望んでいる訳ではないとは言い得ることであるのだが。