Wednesday, April 3, 2013

第二十八章 交通機関の発達に伴う風景認識の変化に就いてPart2 風景の切断化は必然だった

 我々は自らの視界へ入るものを何等かの形で認識しようとする。それはヴィジュル的な事を語彙へ置き換えていこうとする欲望だとも言える。従ってある風景を眼前に展開させている時、「雄大な風景だ」とか「壮大なパノラマだ」とそう表現する。
 つまりその様に風景を言葉に置換する事で風景と自分自身の存在との関係を表示しようとする。その点では人類が絵をかなり初期からずっと描いてきた事はその世界を風景として認識したいという欲望の顕現であり続けた、と言える。
 絵を描く事だけでなく、言葉で世界を意味づける、世界をあらゆる性質で区分けする事 の全てが枠を設けてその中で世界をある情景として、ある風景として、ある状況として理解する事こそ人類が世界へ、自然環境へ、地球へ注いできた視点である。
 つまりそれは形而上的に空間を理解する事、把握する事、つまり言葉とか観念とか価値としてそれらを観察する事を習慣づけた、と言える。空間をその様に意味付ける事は、即ち分節化させていき、その切り取られた世界に全的な何かを読もうとする欲望で有り続けたと言える。
 言葉がそれを先取りし、その後映像、写真や映像へと発展した。言葉と絵との関係は常に並行して執り行われていたと言えるだろう。地図は一つの絵である。説明する為の図式の全て、ある道具の機能と使い方を説明する図も絵である。
 どの様に広大な空間を眼前にしても尚、それを分節化させようとする意志こそが言葉を生み出させてきた。空、地平線、水平線、大地、陸地、海等の全てはそうである。
 先月の20、21日に東大本郷キャンパスで行われた国際会議でオランダの哲学者であるIgor Douven氏(University of Grouningen)は発表の中で空間認識に就いてProportion of element of space makes sentenceという箇所で氏の空間認識と語彙化、言語的認識の起源に就いて触れられていたと私は解釈した。空間を要素として分節化する事こそが空間内存在者である我々が語彙を形成する契機であるとは極自然な考えである。
 前回触れた交通機関等の全てはこの空間の分節化、どんなに一人間個人にとって広大な空間でも、それをあるエリアとして認識する事でそれを世界の一部として理解する事を促進する事が交通機関を発達させてきて、都市空間を人間にとってより空間全体の中のどの部分を有用なものとして認識するかの指標として作ってきたのだ。
 その点では益々利便性と移動速度を増す交通機関とは、あるエリアに居住する個々人の自己の居住するエリアへの愛着とは別個に世界全体を分節化する欲望に忠実に人類が空間へと対峙してきたという事を示している。しかもそれぞれの風景は画家や詩人が絵画や詩歌を作るのに適した分節化された世界として提示されていると人類は認識してきたのである。それは恣意的に人類が居住してあるエリアをある共同体が支配するという原理を人類の基本としてきたという事だ。
 しかし今郊外の都市でも大型スーパーで顔を知っている近隣のコンビニとか他の店舗で就業する従業員を見かけても名前迄は知らないという事の方が多い。かつての共同体であるなら何処其処で育ち今は何をしているかの個人のアイデンティティー迄知っていた事でも現代の郊外都市でもそういった事は少なくなってきている。
 つまり我々は一般に風景や自然の有様も切断化させているけれど、対人関係に関しても全的に他者を把握しているわけではないのだ。全ての他者や社会全体に対する情報は部分化されている。切断されている。しかもその事実を憂えたりする事すらない。その自分自身の周囲の環境へのノンシャランス自体が我々の精神的リアルである。
 その点では空間移動を迅速にして一日で仕事を他エリアで行い帰宅して他エリアの文化的差異を自覚する暇もなく何時もの生活へ戻る生活の反復に不平不満を持たぬ様に現代人は慣らされている。出張というリアルは他エリアへ行っても、そのエリア固有の文物に接触する事を旨としているのではなく、あくまでどのエリアでも共通したニーズの下で業務する事を強いられる現代人のルティンワークでしかないのだ。
 故に民俗学的、人類学的な何等かのあるエリア固有の伝承生の事とは切断化された風景をもう一度少しずつ緩やかに変化していく徒歩旅行者にのみ把握され得る視界へ入る情報に委ねられている。つまりそういう風に江戸期迄ならどの階級の日本人でも当然の事として認識していた風景の緩やかな全貌の変化を再発見する為にもう一度足で地球を実感しようという感性を現代人に与えている。そういった新たな発見を有意義なものとする為にこそ人類は空間移動を利便性の下に交通機関を発達させてきて、全国中にコンビニとか郊外型大型スーパーの店舗を配置させてきたのかも知れないのだ。
 スマホ等のツールもそういった各エリアの情報を得る為に各個人が携帯しているのだ。コンビニエンスを各個人がマルクス主義的に平等に携帯する事を促進してきたのは人類の空間分節化的な把握と言語認識欲求である。
 次回は伝承性の文化に就いて、それが研究対象となっている現代の状況から考えてみたい。