Sunday, December 22, 2013

第二十九章 時間系列的文化の伝承と人類全体のユニヴァーサルテクノロジーの進化Part1

 本章に至る迄の人類学的な個人的なツール所有という意味での出来事的な進化過程は次の様なものと見做してよい。
○言語を持ち嘘(虚偽申告)が可能となったこと。
○貨幣が流通し、貧富の差を拡大させ、階級差を作ったこと。
○銃器の発明に拠って個人的に他者への殺傷能力を飛躍的に向上させたこと。(戦争道具としての銃器はもっと早い時代からだが、個人所有はもっと最近である。)
○車の発明に拠って個人の移動を容易にさせたこと。(銃器と車のいずれが先後となるかは、今手元に資料がないので断言出来ないが、フォードの車というものを今一応念頭に入れている。)
○マシーン、ツール、ディヴァイスの進化に拠って、より個的な非リア充的な日常生活での時間(検索、ゲーム、通信その他)を全ての個人へ持たせたこと。
 これらの進化過程では全て言語行為が関わっている。
 銃の発明は戦争以外でも目的殺人の為の手段を個人へ与えたが、これも言語行為を通して利害関係を構築している事に於ける利害の衝突が生む敵対者の抹消意図に拠るものである。
 車に拠る移動それ自体は歩行の延長であるが、住む土地、仕事で訪れる土地への移動とは、一人で移動する場合は言葉を遣うことはないが、あくまで人間社会での移動とは次に住む土地、次に勤務し出張し仕事をする土地で言葉に拠る遣り取りをするという意味で、近い未来の言語行為の為の準備という意味合いがある。
 空間移動を可能とさせた車以外の船舶、鉄道網の発展とテクノロジーの進歩は、各地の情報を他地域へと広範に伝播させることに貢献したが、この各地情報の伝播は産業的なこと、商業的なこと以外の文化的なことに於いて固有の融合と固有の時間的伝承に於けるモード的な変化を齎した。国家間、異民族間では商業上のピジン、クリオールを生み、例えば植民地文化の様なものに代表される多くの商業工業都市に固有のモードを時代毎に、そしてエリア、レジョン毎に齎して来た。
 埼玉県小鹿野町とは近年は地域歌舞伎の上演でマスコミにも多く取り上げられてきているが、古来神楽の伝統も継承されていて、今でも神楽と歌舞伎の二本立てで文化伝承的な多くの行司が年間に行われている。1800年代、つまり文化・文政年間(文化年間1808.2.11-1818.4.22/文政年間1818.4.22-1830.12.2)からこの町では霊体祭が奉納の儀として執り行われてきた。そして十六社と呼ばれるそれぞれ異なった座の若連が存在するこの地元では、四十年前から歌舞伎保存会が設立され、六部会統合という形で伝統芸能継承を行ってきている。この伝統芸能の教育は小学校二年生の男子女子から行われていて、毎年新人育成も行っている。指導者、実演者全員が素人であることが大きな特徴である。そもそもこの種の文化伝承は営利目的のものではないことが極めて理に適っている。土地には様々な職業の人達が居て、それぞれの家庭の子供達へ地域芸能を伝承させていくことこそが重要な行為なのである。
 町の小中学校では特別授業が課外活動として行われ歌舞伎を教えている。六部署で異なった歌舞伎を伝承させてきたことも特筆すべきである。元々この地域では農繁期以外は旅芸人として別の土地へ移動出稼ぎをしてきていて、お金を貯めて地元へ戻るのだ。そして地元では霊体祭の時のみ舞う。奉納、女歌舞伎も存在する。
 神楽はそういった近年の地域起こしとは又歴史的には層のより古い形で伝承されている。神楽では岩戸開きが重要なテーマとして君臨し、伝承された流儀も個々異なっている。五穀豊穣として長岡中学校では伝統芸能班に拠る総合的学習も行われている。此処で生徒達は拍子木とつけの所作を習得する。そして神楽と歌舞伎の両方を一つの祭で行うのは、埼玉県のエリアでは十六社が唯一のケースである。
 何人かの子供達は神楽と歌舞伎両方のお囃子の演奏を幼い内から身に付ける。それは縦の伝播として両親がやはり彼等の両親から幼い頃から教えられてきているケースが多い。要するにその演奏は身体で覚えるものなのだ。
 神楽の場合宣託を狐が行い、祟る神を鎮め、豊穣のエネルギーを高める儀式である。ところでこの十六社には、宣託性は東北地方では盛んなのであるが、翻って関東地方では概ね神的祈祷が希薄であるにも関わらず、それが強く残っている等から考え合わせると、十六社では関東地方の流儀以外でも東北地方と起源的には結び付いているのかも知れない。因みに関東地方では埼玉県の鷲宮神社が最古のものと言われている。それと十六社の関係等も重要な学術的テーマとなるかも知れない。
 又この神託ということの節分等との関連性等も興味深い民俗学的なテーマではないだろうか?
 小鹿野町では十一月には共同芸能祭を文化センターで行っていて、各部署が寄り集まり上演し、舞うのだ。
 鶴屋南北(四代目歌舞伎狂言役者兼歌舞伎役者)は天保年間(1830.12.10-1844.12.02)に秩父神社で神楽を行わせた。南北は文化五年(1812)、五十四歳の時それ迄の長い下積みの末、立作者の地位を築く(十一年四代目南北を襲名)。そして神楽自体がストーリー性を表出させたのは江戸中期以降であり、それ以前は巫女一人、天狗一人というシンプルな形で上演されていた。
 尚歌舞伎では拍子木は紫檀、黒檀で作られ、つけ(叩く薄板)は樫で作られ、叩かれる広い板は檜で作られるのが習わしである。 
 神楽とは関東地方では里神楽と呼ばれ民間伝承的な性質のものとされる。
 そして地域の地元芸能が一時的に途絶えることもあったが、それは両親から伝承していた地域芸能伝承者が継承者を作る前に他界するか、子供が居ずに伝承する機会を失して舞台上演は中断したりすることである。しかし幼い頃から何度となく舞台上演を鑑賞してきている大人が両親から伝承される形でなく自分自身、或いは地域社会の同年代の大人と協力して年配者の意見等も充分取り入れ、他地域の上演舞台を参考にしつつ古来受け継がれた自分の地元の芸能を復活復元するという作為も現代迄の途上ではあったとされる。
 御神楽(長保四年1002より、或いは寛弘五年より隔年で行われ、後毎年となった)と言われる宮中儀式(新嘗祭等で行われる)と里神楽のいずれが歴史的に古いとは今手元に資料がないので何とも言えない。しかし恐らくこの二つはかなり古い時代から同時並行的に執り行われていたものと思われる。平安時代(794-1192)の四百年間の中の中期(950頃から1000位の間)に様式が確立された(90首の神楽歌が存在する)とされるので、御神楽とは、その完成形を公式のものとして採用したということとなる。と言うことは、それ以前的には関東地方での里神楽をはじめ出雲・佐陀大社(現在の佐太大社)の御座替神事の採物(とりもの)神楽(出雲流神楽)、湯立神楽(伊勢流神楽)、獅子神楽(東北地方の山伏神楽、伊勢の太神楽等)、巫女神楽等各地に伝承されたもの、或いは太神楽(伊勢神宮、熱田神宮の神人<じにん、じんにん>が各地を回り、神札を配り悪魔祓いをする神楽で大神楽とも代神楽とも呼ばれる。獅子舞と曲芸を主とし、江戸太神楽や水戸神楽へも発展した。)の統合形態として全国統治の象徴として御神楽が継承されてきたと捉えることも自然であろう。
 取り敢えず私自身が今年三月九日に訪れた小鹿野町の神楽・歌舞伎上演を肉眼で確認したことで、私自身の中で展開されてきている民俗文化の時間的伝承が、人類全体のツールの発明と使用という水平伝播的な出来事と相纏って、新たな認識を私に与えている。
 それは一つには時代的な生活形態とツール利用を巡る人間としての個の社会、世界への対し方の実がどの様な形で人類全体の傾向性として日本人にも体現されていたか、という一つの普遍的事実と、もう一つはそれでも尚時間系列的伝承性に於いて水平伝播全体への無意識の抵抗と民族的、民俗的なアイデンティティーの確認をも、どの時代に於いても我々が行ってきたということを示している様に思われる。
 前章での空間移動の在り方の交通機関の発展に伴う変化と共に、地元共同体的な連帯意識が同時代的伝統芸能間の水平伝播と同時並行的にどの地域にも随伴されてきているという事実は、現代でも国会と地方議会、中央政府と地方自治体とがある様に、この両極の異なった性質のアイデンティティーをどの地域の個も携えている、という事実を思い起こさせる。そしてその二つの両極の間には、自分の住む市町村、かつての村落共同体と、もう少し広範に共通する気候、農産業的な同一運命共同体としての例えば関東地方という特色が、脈々とある程度自己完結的に民俗文化を形成してきている、ということ、そして突然変異的に異地方からの文化伝承が何らかの人的な移動と移入とに拠って行われたりして固有の特色を構成して全国とか国家民族的特色の一翼を担っているという事実も浮かび上がらせると言えよう。(つづき)  

Wednesday, April 3, 2013

第二十八章 交通機関の発達に伴う風景認識の変化に就いてPart2 風景の切断化は必然だった

 我々は自らの視界へ入るものを何等かの形で認識しようとする。それはヴィジュル的な事を語彙へ置き換えていこうとする欲望だとも言える。従ってある風景を眼前に展開させている時、「雄大な風景だ」とか「壮大なパノラマだ」とそう表現する。
 つまりその様に風景を言葉に置換する事で風景と自分自身の存在との関係を表示しようとする。その点では人類が絵をかなり初期からずっと描いてきた事はその世界を風景として認識したいという欲望の顕現であり続けた、と言える。
 絵を描く事だけでなく、言葉で世界を意味づける、世界をあらゆる性質で区分けする事 の全てが枠を設けてその中で世界をある情景として、ある風景として、ある状況として理解する事こそ人類が世界へ、自然環境へ、地球へ注いできた視点である。
 つまりそれは形而上的に空間を理解する事、把握する事、つまり言葉とか観念とか価値としてそれらを観察する事を習慣づけた、と言える。空間をその様に意味付ける事は、即ち分節化させていき、その切り取られた世界に全的な何かを読もうとする欲望で有り続けたと言える。
 言葉がそれを先取りし、その後映像、写真や映像へと発展した。言葉と絵との関係は常に並行して執り行われていたと言えるだろう。地図は一つの絵である。説明する為の図式の全て、ある道具の機能と使い方を説明する図も絵である。
 どの様に広大な空間を眼前にしても尚、それを分節化させようとする意志こそが言葉を生み出させてきた。空、地平線、水平線、大地、陸地、海等の全てはそうである。
 先月の20、21日に東大本郷キャンパスで行われた国際会議でオランダの哲学者であるIgor Douven氏(University of Grouningen)は発表の中で空間認識に就いてProportion of element of space makes sentenceという箇所で氏の空間認識と語彙化、言語的認識の起源に就いて触れられていたと私は解釈した。空間を要素として分節化する事こそが空間内存在者である我々が語彙を形成する契機であるとは極自然な考えである。
 前回触れた交通機関等の全てはこの空間の分節化、どんなに一人間個人にとって広大な空間でも、それをあるエリアとして認識する事でそれを世界の一部として理解する事を促進する事が交通機関を発達させてきて、都市空間を人間にとってより空間全体の中のどの部分を有用なものとして認識するかの指標として作ってきたのだ。
 その点では益々利便性と移動速度を増す交通機関とは、あるエリアに居住する個々人の自己の居住するエリアへの愛着とは別個に世界全体を分節化する欲望に忠実に人類が空間へと対峙してきたという事を示している。しかもそれぞれの風景は画家や詩人が絵画や詩歌を作るのに適した分節化された世界として提示されていると人類は認識してきたのである。それは恣意的に人類が居住してあるエリアをある共同体が支配するという原理を人類の基本としてきたという事だ。
 しかし今郊外の都市でも大型スーパーで顔を知っている近隣のコンビニとか他の店舗で就業する従業員を見かけても名前迄は知らないという事の方が多い。かつての共同体であるなら何処其処で育ち今は何をしているかの個人のアイデンティティー迄知っていた事でも現代の郊外都市でもそういった事は少なくなってきている。
 つまり我々は一般に風景や自然の有様も切断化させているけれど、対人関係に関しても全的に他者を把握しているわけではないのだ。全ての他者や社会全体に対する情報は部分化されている。切断されている。しかもその事実を憂えたりする事すらない。その自分自身の周囲の環境へのノンシャランス自体が我々の精神的リアルである。
 その点では空間移動を迅速にして一日で仕事を他エリアで行い帰宅して他エリアの文化的差異を自覚する暇もなく何時もの生活へ戻る生活の反復に不平不満を持たぬ様に現代人は慣らされている。出張というリアルは他エリアへ行っても、そのエリア固有の文物に接触する事を旨としているのではなく、あくまでどのエリアでも共通したニーズの下で業務する事を強いられる現代人のルティンワークでしかないのだ。
 故に民俗学的、人類学的な何等かのあるエリア固有の伝承生の事とは切断化された風景をもう一度少しずつ緩やかに変化していく徒歩旅行者にのみ把握され得る視界へ入る情報に委ねられている。つまりそういう風に江戸期迄ならどの階級の日本人でも当然の事として認識していた風景の緩やかな全貌の変化を再発見する為にもう一度足で地球を実感しようという感性を現代人に与えている。そういった新たな発見を有意義なものとする為にこそ人類は空間移動を利便性の下に交通機関を発達させてきて、全国中にコンビニとか郊外型大型スーパーの店舗を配置させてきたのかも知れないのだ。
 スマホ等のツールもそういった各エリアの情報を得る為に各個人が携帯しているのだ。コンビニエンスを各個人がマルクス主義的に平等に携帯する事を促進してきたのは人類の空間分節化的な把握と言語認識欲求である。
 次回は伝承性の文化に就いて、それが研究対象となっている現代の状況から考えてみたい。

Saturday, March 16, 2013

第二十七章 交通機関の発達に伴う風景認識の変化に就いてPart1

 人間にとっての社会生活を最も一変させたものは言う迄もなく交通機関の発達である。人間にとってのインフラで最も時間感覚も空間感覚も大きく変えた(それが無かった時代には無かった感性へと運んだ)という意味で交通機関に勝るものはない。
 その中でもとりわけ列車、陸上交通の移動手段の要である鉄道機関の発達は都市空間そのものを駅を中心とした商業活動から観光、主要産業の育成等と共に最も変えてきた。それは生活空間の在り方の根幹を激変させてきたと言える。昨今の渋谷駅周辺の再開発にもそれは顕著に見られる事である。
 その中で空間感覚を変えた事は、移動に伴う時間の節約という観点から旅行の概念を時間感覚的にも大きく変えた事でもあるが、それ以上に我々が日常目にする風景への認識をも大きく変えたとも言える。
 江戸期以前は道路も舗装されていなかった。しかし明治期後半には全国の鉄道が施設され、やがて自動車が走る様になり、昭和時代は個人が車を所有して移動する事が日常化された時代であった。個人で車を利用する以前にも既にバス利用は日常化されていた。
 道路の舗装はとりもなおさず徒歩で行く旅行にとって有用な道の概念を一変させた。要するにスピーディーに移動する為には出来る限り曲線を避け、直線移動を円滑にする様に道路が改変されていく必要があったので、概ねどの町でも旧街道の方が紆余曲折していて、新道の方が直線的である。そこに都市空間の旧道文化と新道文化の多層性も生じてきた。
 江戸期は極後半には道路も整備されてきていたとは言え、鉄道が敷かれていたわけでもないので、全て移動は徒歩によるものであった(籠に乗るという以外は)。従って全て足で地球を直に触れて全国を移動していた日本人にとって当然風景は少しずつ変化していくものであり、突然変化する風景とは山を超え谷を超えていた頃には徒歩で初めて崖の下に見えた海とかくらいであり、トンネルが整備されてき始めたもっと後の時代になってからである。
 その点ではあらゆる風景への認識と美観は現代人より微妙な変化に敏感なものであった事は間違いないだろう。明治期以降の工業化の波によって形成される工場地帯等の人工的インフラの整備によって初めて風景とは突如激変する事を強いられ、その風景の激変に我々は日常的に慣れっこになっているが、それは少なくとも江戸期迄は多くはなかった筈だ。それは移動に要する徒歩による時間を考慮に入れても言える事である。
 鉄道が施設され、バスが運行されるに到って移動とは点から点へのものとなる。乗降客は最初の内は風景の変化が徒歩よりは早く実感出来る事を楽しんでいたであろうが、じきにそれも飽きて車内で車窓を楽しむ心の余裕は都市空間内では希薄化し、鉄道もスピードアップするにつれて車窓を楽しむ事はローカル線以外では稀になっていったであろう。
 要するに途中の風景の微妙な変化を楽しむよりは、特筆すべき個別的なその土地固有の風景を点的に把握する様になっていく。つまり東京の名所、千葉県の名所、茨城県の名所、埼玉県の名所、栃木県の名所と電車に乗って移動するにつれて点から点へとどの土地でも所在する名所への着目が変化のプロセスより特筆するパノラマへの意識へと移譲させていったと言えよう。デジタル的な風景の変化は、アナログ的な微妙で緩やかな変化をさして注目すべき観点では無くしていったと言える。
 従って現代へ近づくにつれ風景認識は都市とその都市の中心に位置する駅とその周辺の都市空間の整備とに伴った不連続的な点集合へと線的連続的に徐々に変化していくプロセス的移行から意識を向かわせてきたのが人類による交通機関の発達に伴った風景認識上の意識変化の最たるものであろう。
 つまり風景とはある土地の特筆すべき部分として切り取られたパノラマを中心にあくまで部分化された記号と記号の間の緩やかな変化よりは、より切断された点的に中心化された観光空間、都市主要空間へと意識を向かわせるものとなり、徒歩でのみ実感し得たプロセス的変化を抹消化させる(まさに徐々に埼玉県から栃木県へと移行していったり、徐々に静岡県から愛知県へと移行していったりする事が徒歩では実感し得ても、電車移動では切断されてしか実感し得ないという部分としての)方向へと進化していったと言える。
 この風景の切断化、局所意識集中化という現象が世界の風景を一変させてきたのが二十世紀以降の人類史であるとも言える。それは周辺の脱中心化されたエリアのスラム化、そして荒廃していく過疎化傾向を助長してきた。
 その点をより脱中心化されたエリアを復興させるべく意図されてきたのはここ十数年の事にしか過ぎない。郊外型大型店舗等の登場によって初めて我々は少しずつ緩やかに変化していく郊外に再び注目していったわけである。人為的変化自体への意識の着目状態はここ百年くらいの間恒常化されてきていたが、郊外を再び活性化させようと試みてきたここ十数年の間に再び自然自体の緩やかな変化へ意識を着目させようと我々は目覚め始めているとも言える。
 しかし車による移動では知覚的には道路標識とか信号とか交差点等の方へしかより神経を集中させられない。徒歩で移動して初めて都市インフラ以外の自然環境へも意識を向けられる。
 移動スピードの向上によって失われるものとは自然環境による変化とそれに伴う文化的なエリア毎の微妙な差異への着目である。それが高速道路等のインフラによって道路整備の直線化によってエリア毎の文化的差異が事実上意識の上では無視される方向へと移行していった事だけは否めない。交通機関の発達していなかった時代での文化伝播スピードが極めて短縮化され飛び火的に人的移動によってミックスされた複合異文化構造(文化の突発的キメラ化と呼ぼう)のエリア固有の文化の様相は交通機関とそれによる人的移動の頻繁化によって促進されてきた。
 要するに昔であるなら余程の理由がな限りなかった筈の異なったエリア同士の異文化結合が今日に近づくにつれ突飛なものとなり頻発し、よりエリア毎の厳密な差異も薄れてきているとは言える。
 直線化された道路と鉄道の線路の直線性とは、あるエリアの中心地を設定する事と、それに伴って点的に特筆すべき観光誘引的なパノラマを他エリアと切断された個別のものとして現出させてきた。しかしそのある土地と別のある土地との間には確かに徐々に変化し移行していく文化様相や土地土地の人達による生活習慣、そして伝承された古典芸能等の少しずつの変化、緩やかな変化が本来は根付いていたのである。つまり都市空間の他エリアからの差別化こそが点的にあるエリアの文化を集中化させ、それ以外の今では郊外として再注目されてきているエリアを周辺へと追いやる傾向へと進展させてこられたのが二十世紀文明であったのだ。
 かくして傾らかな山系以外の多くの点的に局在化された都市空間やインフラとその周囲の点を囲う付随物の密集へとのみ旅の移動で注目される様になり、それ以外の線的な移動での緩やかな変化は徒歩者にのみ委ねられる様になっていった、そしてそれに今我々はやっと気づいたという所ではないだろうか?