Thursday, November 5, 2009

第十章 感性と意図①

 私は少々先述したが、埼玉県の歴史ある東京から電車で一時間くらいのところにある地方都市に住んでいるのだが、休日になれば(尤も文筆を生業にしているために他の通常の組織に属している人の休日が必ずしも私の休日とは限らないのだが)電車に乗って小一時間あるいは二時間以内の場所で素晴らしい景観を臨める郊外や田舎町に出掛けることが出来る。そして特に春先の花見の季節には、私の住む近所では四月初めに最も桜が綺麗に満開になるのだが、少し山奥の町に行くと、四月の十日過ぎくらいが一番綺麗に満開になり(秩父市などはそうだ。)、もっと奥まで行けば、例えば三峰神社近辺は五月初頭が満開の季節であり、要するに桜前線に沿って優に一ヶ月間も休日を利用して花見を楽しむことさえ出来る。埼玉県は神奈川県のような全国規模でバカンスを楽しむ客が訪れる行楽地はない代わりに私のような庶民には憩いになる場所には案外こと欠かないのだ。
 ところで私は生まれてから幼少期を過ごし、更に大人になるまで何回か引越しをして、大人になってから三箇所目に住んだ都市に今現在の自宅があるが、幼い頃から格別裕福ではないが、決して貧乏ではない家庭に育ち、幸福だったと思う。(「眼の誕生」という素晴らしい本の著者のアンドリュー・パーカーはその本を両親に捧げているし、アンドリュー・H・ノールは自著「生命最初の30億年」で「両親へ。生まれも育ちも私は幸運でした。」と感謝の意を捧げているが、私もそういう意味では同感である。尤も私の父は少し早く他界したので、親孝行をすることは出来なかったが、今現在の私は父に感謝するところが大きい。)しかし幼い頃私は土地付き一戸建ての家庭を持つことが夢だったが、今はマンションの住人である。自分の土地を持つ夢は未だ叶えられてはいないが、もし私が旧華族の出身者であったなら、あるいは広大な土地を所有する農家出身者であったなら、戦後にその土地を管理して一般市民に解放したりした両親の後を継いだりして多忙で全然休日に近辺の景観のよい場所を訪れる暇もなかったかも知れない。土地を持たない都市型の人間のメリットはどのような素晴らしい景観の場所にも容易に訪れることが出来るし、何よりも目で素晴らしい景観の場所を見ることは無料である。
 目が見えるということはそれだけで素晴らしい恩恵があると考えてもよい。尤も生まれながらに視覚を持たないで生活している人にもまた、目が見えない分、別の、例えば優れた聴覚を持ったりといった脳自体の可塑性に順じた能力を保持するということはあるから、必ずしも全て人間に予め機能として備わった知覚能力を保有していることだけが幸福であるとは限らないが、健常者でいるということの恩恵を、健常者はもっと感謝すべきなのかも知れない。
 哲学者の竹田青嗣は知覚というものを自由には変更出来ないものであると捉えているが、彼に習えば情動はそれとは違い心の持ちようでいかようにも変更出来るものである、とも言える。さてそのことを考慮に入れるなら、かつて日本では勝ち組と負け組などという馬鹿げた価値観が蔓延っていたこともあるが、私が考える価値システム論においては、人間において勝ちとか負けという差はあり得ないのである。
 かつてビートルズが歌でchange the worldと歌詞に表現した時、彼等の主張には、我々が目にする光景自体は我々によってはそう容易に変更することは出来ないが、心の持ちようでいかようにも現実を認識する仕方は変更出来るという考えがあったと思う。
 例えば天候に恵まれない日も多かった今年四月私は草加公園、吉川貯水池、村山貯水池、小金井公園、ミューズパーク(秩父市)、音楽寺といった数箇所で桜の最盛期を堪能することが出来た。そして通常の休日に訪れたのは草加公園だけだったので、他の箇所では殆ど私が桜を見ることが出来た時間に、ある時間の桜の状態を知るのは私一人という場所も珍しくはなかった。これはそれだけで考えようによっては特権的な事態ではないだろうか?
 サルトルの「存在と無」は竹田が捉える欲望という主要概念から世界を見る時、「自己超出」という概念からは推し量れないと、竹田は苦言を呈しているが、サルトルはまた別の観点から彼の世界を見たと言える。サルトルがバタイユからも影響を受けていたことは今日大分研究が進んで知られるところとなっている(サルトル研究及び翻訳の第一人者である澤田直氏が指摘している。)が、確かに欲望という概念から言えばバタイユの方が数段進んだ考えの持ち主であったが、存在の気配とか視線の修辞学という観点からはサルトルはハイデッガーをも一歩進めた存在であったと言える。例えば私がある人間の姿を客観的に捉えられるのは彼(女)の視線がこちらに向けられていない限りであって、一旦彼(女)の視線がこちらに向けられ私の視線と合致したのなら私は最早彼(女)を客観的には捉えられないというようなことを述べているが、こういう捉え方はハイデッガーにも知覚を大きく捉えたフッサールやメルロ・ポンティーにもなかった。
 またある経験をしたとして、例えば食事をする、自分の家に来た手紙を読む、お風呂に入るという行為も、一個一個の行為をどういう順序でもって全ての行為をすることが出来ても、人生におけるある日に行うことを何らかの特定の順序でしかなし得ないのであって、例えば今年の四月十四日には今言った三つの行為をしたとしても、食事→手紙を読む→入浴か、手紙を読む→入浴→食事か、入浴→手紙を読む→食事か、食事→入浴→手紙を読むか、入浴→食事→手紙を読むか、手紙を読む→食事→入浴のいずれかであって、その全てを経験することは出来ないのだ。つまり人生は常に全ての行為をしたとしても尚、その順序とかある日の行動に関して全て考慮すれば一期一会の連続であり、ある一日を繰り返すことは決して出来ない。そういうことも彼は述べている。そういう部分に文学者でもあるサルトルの面白さがあると言ってよい。
 それはある光景を見る存在者の立ち位置や見る角度、あるいは時間の唯一性に関しても言えることである。先述した通り2007年四月十三日の二時半に私のいた場所から桜の花を見た者は要するに世界中で私一人である。そう考えればこの世界に負け組などと言う人間はただの一人もいはしない。それはある意味では他者を羨んだり、妬んだりすることが実に愚かであるということの証明にもなる。人生の一期一会とかその場所から見たその時間の花見という観点に立てば、全ての存在者は特権者以外の者などいない。
 確かに決して幸福とは言えない人々も大勢いるし、今までもいた。しかしその者たちのそういう世界で唯一の観察者にして接触者であるという特権まではどんな強権的独裁者たりとて、あるいは自然の脅威すら奪うことは出来ないのだ。
 2006年、日本の書籍の綜合売り上げベストワンに輝いた数学者藤原正彦氏の著作「国家の品格」は、その内容の全てに私は賛同するものではないが、第二章の<「論理」だけでは世界が破綻する >において論理には出発点が仮定として必要で、その出発点を選び取るのは論理ではなく情緒であるという見方には賛同出来た。どういう問いを立てるかという選択は、確かに論理によってはなし得ないだろう。
 しかし同時に人間は常に何かを選択する時に、全ての選択可能性を配慮して選び取っているのではない。寧ろ人間が何かを選択する時には、何かを選び取る時に躊躇するような局面の方がずっと頻度から言えば小さく、殆どの行為は直観的に「何をするか」を決めている。その一つ一つの行為選択を支えているものは記憶による妥当な判断であり、経験的事実に基づく直観である。
 つまりどんなに論理が必要な場合でも、その「論理が必要だ」という直観そのものは論理によってのみ得られるわけではない。寧ろ論理が本当に必要なのは、何かを選び取って困窮した時だけであり、最初に何かを選び取ることを誘引するものの大半は直観であり、その直観とは経験と記憶と、その選択をすることをなす人間の資質とか性格とかをも含めた行動パターンとか傾向性とかによる場合が殆どである。
 しかしその行動の背後には何か特別の事情があるのではないか、とか「本当はこれこれこういう行動こそが真に正しいのではないか」というような考えに行きがちなのが人間の思惟の自然、つまり思考傾向であるとも言える。竹田は「意味とエロス」においてフッサールはそういう真理希求型の人間の思考傾向を突き詰めたのだ、と捉える。やや図式的な認識であるが敢えてそれを採用してみると20世紀以降に多大な影響を与えた二人の哲学者に関して次のような捉え方が出来るのではないか?

フッサール
 生理的自然による行動(つまり非意図的な)や判断全体を反省した
ウィトゲンシュタイン
 思惟の自然による行動(つまり意図的な)や判断全体(認識)を反省した
 
 やや強引な捉え方であることは敢えて承知でこういう図式を私なりに考えたのには訳がある。
 フッサールは知覚とか知覚による世界認識とかを中心に考えたので、言語論という観点から見れば自己にとっての世界と他者にとっての世界が分離するところと合一するところの接点に常に気を遣っている。だから彼の哲学においては殆ど価値システム論的な装いは皆無である。そういうところが、例えば彼にとっても先人のカントとの一番の違いである。しかしそれ故にこそ寧ろ現出させられる主張には押し付けがない分、より価値システム論的な主張、つまり彷彿させる思念という意味ではフッサールこそ倫理的哲学者であると言える。知覚とか信念といった事項の洞察から結果論的に我々が汲み取るべきものとは、寧ろ社会ゲームとしての責任倫理に他ならない。
 それに対してウィトゲンシュタインは殆ど生理的なことに関しては触れていない。確かに「考察」では生理的能力、運動能力のことについて触れているが、それはフッサールの「経験と判断」ほどのアプローチでもなく、寧ろ個人的能力の差といったレヴェルからの言及である。その意味ではウィトゲンシュタインの論理にはソシュールの言うラングとかデリダの言う差延といった事柄との相同性に方が大きいと言えるだろう。(デリダとの絡みではヘンリー・ステーテンが「ウィトゲンシュイタンとデリダ」というテクストを発表している。)ウィトゲンシュタインは初期から中期「考察」期から後期に至るまで一貫して当初世界の限界と考えていたことを発展させ、社会的記号であるとか意思疎通の際の認識とか了解とかが主に論じられている。だからこそ逆に彼の哲学からは今日、人間の知覚能力であるとか言語使用を巡る脳科学的認識からの洞察が求められているという現実を我々はそこから汲み取ることが主張としては、つまりメッセージ性としては容易である。ウィトゲンシュタインは沢山のヒントを我々に残してくれたのだ。
 つまり哲学が固有のメッセージ足り得る可能性というのは、その方法論的な使用とか(そういう部分では純粋論理学とか数学の方がずっと有用である。)、分析内容そのものではなく、そういう方法とか内容を選択した哲学者の考えを生んだ動機について思いを馳せることにおいて価値システム的認識の面白さの中にある、と私は考える。そのような意味では哲学者は、言葉を使用した、あるいは記号を使用した芸術家であると言える。それは文学がそうであるような意味と共通する部分もあるが、非文学的なことにおいてもそうなのである。(世の中には文学的センスの豊富なサルトルやベルグソンのような哲学者ではない野暮ったいのだがそれにも関わらず偉大な哲学者は沢山いる。例えばカント、フッサールなどはその典型である。)
 そして本章ではセンスとかセンスのなさとかに関係のない部分から哲学全体を覆う問題点について考えてみたい。
 その一番の問題点とは真理というものの存在、そして本質規定の問題である。
 まず真理というと、一般的にはそれが真理だと分かればなるほど皆納得するが、一見分かりやすそうに見えてその実厄介な事項というのが世界には沢山あり、ある一定の手続きを経た後に初めて明確化するものというニュアンスがありはしないだろうか?それに対して本質とは我々が一々説明したり、検証したり、論証したりしなくても、予め我々が正しいと感じ、信じて疑わないものというニュアンスがありはしないだろうか?その中には明らかに正しいこともあるだろうし、一見正しいと思われる本質的なことのようでいて、注意してかからなくてならないこともあるだろう。
 その大きな問題へと取り掛かる前に日本の哲学界におけるフッサールとウィトゲンシュタインの解釈を巡る現状について少し触れておこうと思う。フッサールの研究あるいは現代的視座における解釈として優れた論客の一人は度々登場願った竹田青嗣であり、もう一人は斎藤慶典である。竹田は彼が主張する欲望(この概念はバタイユから強く彼が喚起されたもののように見受けられるが、身体という概念と深く結びつき、例えばヒラリー・パットナムを代表とするような現代英米系哲学<パットナムは米国人>が身体概念を余り重視していないということの批判として注目すべき考え方であると思う。)というレヴェルからフッサールを捉えたと思われるが、その捉え方が正しいとすると、竹田同様斎藤はハイデッガーを大きく取り上げているが、斎藤は竹田よりカントとレヴィナスに関しては深く掘り下げており、その点ではカントやそれ以外の近代古典哲学からの継承者としてのフッサール像という観点からの解釈という意味ではやや軍配が上がると言えるだろう。しかも斎藤は全体性と無限からもレヴィナスだけではなくフッサールを捉えている。
 しかしウィトゲンシュタインという哲学者の現代の栄華は殆ど自然科学界では絶大なものがあり、それはもう一人の巨頭ゲーデルといい勝負である。そしてウィトゲンシュタイン哲学の本質的継承者たちは日常言語学派よりも寧ろ脳科学者たちであると言っても過言ではない。何故そうなのだろうか?それは恐らく現代脳科学のアプローチの仕方に英国の哲学者デヴィッド・ヒューム的視点と相同のものをウィトゲンシュタインが携えていたし、そのことに関してウィトゲンシュタインが覚醒してもいた、ということに起因するだろう。
 ヒュームとウィトゲンシュタインの共通性とは、世界が我々の認識によって支配されている、という考え方である。要するに「世界とは我々による世界の見え方以外の何物でもない<ウィトゲンシュタインはそのことを明確化するために映像という言葉を使用している。>」ということである。その考え方は一見相反する資質にも思われる知覚哲学者でもあったフッサールとも共通する。何故ならフッサールは超越論的主観性とか間主観性といった概念の提出によって寧ろ客観的世界への信念の不動性にアンチを唱えたからだ。
 フッサールとウィトゲンシュタインの両巨頭。この二つの流れの中でも際立った興味深い現象とは、心理学という分野が極めて現代ではウィトゲンシュタインを高く評価する脳科学あるいは神経科学(尤も脳科学者の中では茂木健一郎は極めてフッサールにも大きく加担している。)に接近しており、事実、脳科学者たちは挙ってウィトゲンシュタインやそれより古い世代ではデカルトを大きく取り上げているが、彼等にとってそれ以外の論及性として考慮すべき対象者は殆どが心理学者たちである。この点竹田を初めとする一派(例えば西研)は、心理学者たちに関して大きくは取り上げていない。寧ろその分彼等はその多くを社会学者や精神分析畑の先達を大きく取り上げる。
 心理学と精神分析は一面では非常に似通ったところもあるが、実際そのアプローチの仕方は大きく異なっている。精神分析が人間の病理的状態を基準としつつ身体全体を常に考慮するのに対して(それは臨床精神医学的見地から)、心理学では常に正常な認識を人間が有しているという認識の下、出来るだけ自然科学的な統計値を算出し、専門分野毎に異なった数値を引き出し、他の分野に対して資料的価値を有することを目的としている分、脳科学と歩調を合わせることに躊躇がない、あるいは脳科学からも大いに重宝がられている。それは要するに臨床的な見地から発達してきた精神分析と最も異なる考え方である。
 サルトルは精神分析にも詳しく(ある意味では継承意識を有しているが無意識に関しては懐疑的であった。)、ワトソンを初めとする心理学からジャネを初めとする実験心理学にも精通していた。しかし基本的にサルトルは殆ど身体を起源とする欲望というレヴェルのアプローチには関心があるようには見えず、寧ろその捉え方は心理的な面に限られ、その点ではメルロ・ポンティーの方に軍配が上がるだろう。要するにサルトルにとって哲学は彼固有の文学的な精神を醸成するのに役立つ思想だったのだ、と言える。サルトルにとっては哲学と文学と政治的思想の違いというものはあまり意味がないものなのだ。
 しかしその点ハイデッガーには基本的には文学や政治という観点は他の哲学者や思想家(例えばラッセルとかベルグソンとかバタイユ)ほども大きく拘っている気配は薄い。しかしそれは恐らく資質論的な面からであって、元々神学畑から哲学へ移行した彼は寧ろ存在に対する解釈をモットーとしていた、と捉えることが出来るだろう。そして私が見るハイデッガーは寧ろオーソドックスな哲学者だった。サルトルが気配の哲学者であると先に言ったが、ハイデッガーは「存在の気遣い」という表現を多用している。これはサルトルの気配とも微妙に違う。サルトルの気配には常に視線が感じられる。その意味でも極めて心理学的、犯罪病理学的である。しかしハイデッガーの気遣いとはもっと存在意義に忠実な概念把握である。サルトルが意識を語りながら、認識とか理解とか把握といった事実とそれほど大きな峻別を感じさせないのに比べると、ハイデッガーには認識と現存在との間には多大きな溝があった。サルトルが感知、感得の視線哲学であるとすれば、ハイデッガーは存在と時間の哲学者であったと言えるだろう。そういった資質は明らかにフッサールから継承されている。しかもハイデッガーは幾分東洋的な無という観念もサルトル以上に大きかったと思う。サルトルも無というものを大きく取り上げたが、その無は東洋的な無ではない。あくまで西欧哲学の有に対する無である。不在性である(サルトルの方を東洋的な哲学との相同性を考えている人も大勢いる。例えば森本哲郎氏などであるが、これは感性的な受け取り方の違いであると言ってもいいだろう)。
 サルトルにとって時間とは状況と不可分なものである。それは彼が後期になればなるほど鮮明化してゆく。しかしハイデッガーには状況という把握は「存在と時間」には感じられるが、それ以外のテクストから大きくは感じられない。彼にとって克服すべき対象でもあった形而上学は実は彼の中で拭い難くこびり付いた灰汁のようなものだったのかも知れない。だからこそ彼にとって時間とか存在とかは形而上学からの脱却を目指しつつも、前提条件として立ちはだかっていたのである。そういった事情が彼をして東洋的な発想を推し進めさせたと捉えることも可能である(これは私のハイデッガーに対して抱くクオリアである)。
 しかし形而上学というレヴェルから言えばウィトゲンシュタインは恐らくハイデッガーやラッセル以上に資質論的には大きく引きずっていながらも、哲学全体の主張ではハイデッガーやラッセルよりもずっと払拭されている。そういうところでは同じユダヤ系のフロイトとも似ている。二人ともオーストリア人だったが、ユダヤ人でありながらレヴィナスのようなユダヤ人色は払拭させている。その点ではスピノザやクリプキにも同じことが言えるだろう。要するにウィトゲンシュタインにとって哲学することは常に世界の限界を知ることと、言語とか意思疎通において相互に了解されている状況把握と社会ゲームにおいて、内的には感性的には熟知されているにも関わらずどこか鮮明には言語化することが難しい、つまり当然の如く我々が日常的場面で受け容れている現実認識のレヴェルの事実への覚知であった。
 フッサールは繰り返すが名文家ではなかったし、寧ろ悪文家である。だから彼のテクストを読む限り竹田のような名解釈家が登場したことで、新たな相貌で再解釈されることが期待出来るのだが、私には竹田ほど明確にフッサールが全てを語っていたとも思われないのだ。しかし少なくとも現状ではフッサールをもう一度定義し直すと、「それが一番客観的で正しいと思われるという信念はどこから来るものなのか」を問うた哲学者である、と言ってもよいだろう。そのスタンスの取り方は、ウィトゲンシュタインがそもそも世界という事態を「<在る>もの」として捉えるその視点に対する懐疑によって成立した哲学スタンスの取り方なのだ。しかし問題なのはフッサールとウィトゲンシュタイン、この二人のスタンスの採り方のどちらが正しいかということではない。そもそもウィトゲンシュタインにとって世界とは認識が生み出したものでしかないという意味では極めて狭い、ある決定的に限界のあるどのような社会成員にとっても個人的なものでしかないのだから。つまりフッサールは仮に何かの判断や考え方が正しいとしても、それは存在妥当ということから常に欲望と身体と知覚とに追われ続けている人間の翻弄(ややレヴィナス的表現だが)によって引き起こされる認識にしか過ぎないのだから、その論点が志向する先はウィトゲンシュタインの限界と殆ど相同である。その意味ではフッサールもウィトゲンシュタインも共に20世紀以降の哲学の大まかに捉えられる幾つかの流れにおいて二大巨頭として立ちはだかっているという現実は、彼等以上の偉大な21世紀の哲学者の登場を待たねば払拭され得ないとは言えるだろう。
 ここで二人の哲学者を大まかに定義しておこう。
 フッサールは正しいと思われる信念とは何かを考えた。ウィトゲンシュタインは問うこともなく我々が了解していることとは何かを考えた。そしてこの二つの哲学に共通するものとは認識とその使用である。
 このことはフッサールが「経験と判断」でも述べていることなのだが、我々は決して未知であるその場その時の一期一会をじっくりと感慨に耽って堪能してばかりはいられないということだ。我々は絶えず未知の事項を既知の事項に変換しながら生活している。そうでなければ身が持たないからだ。脳科学でもしきりに採用されだしてきたクオリアも、また一々その独自性に着目していては社会機能の維持自体に支障を来すことにすら繋がるだろう。それくらいクオリアとは疲れるものでもあるのだ。
 また竹田が言うように彼岸に位置する身体的存在であるという我々の欲望と不可分なこの実存とは、しかし一方では客観的に、つまり自然科学的に認識する必要がある。例えば私が原因不明の腹痛に悩まされて、医師の処方を仰ぐ時、私はこの自分の痛みは決して他者には伝えられないということを知りながらも、どうにかその事実を伝えようと医師という私のこの痛みの感覚に関しては永遠に伝えられない他者に対して、そういう他者にも理解出来るような表現を試みて私のこの痛みを伝えようと欲するだろう。つまりどのように固有の個別の実存を生きる我々も、そのことを他者に伝えるという行為を選択する限り、その伝え方は客観的視点と認識を採用せざるを得ないのだ。またそういう現実自体を認識する場合ですら、我々はやはり認識とその使用に依拠せざるを得ない。
 つまり身体的感受という現実、欲望という現実と、未知であることの喜びをどこにでもあるありふれた日常へと変換する惰性とは常に隣り合わせのものなのだ。一方で他者に伝えられない悲劇を感じながら、誰しもが私の腹痛と隣で私と同じように医師の適切な処方を期待して病院の待合室で診察の順番を待つ私がその名前も呼ばれるまで名前すら知らない他人の患者も、恐らく自分と同じように苦しんでいるに違いないという考えは殆ど何の矛盾もなく共存しているのだ。
 認識方法としての客観的真理という現実は、それが幻想であるかも知れないという認識を抱きつつも、ではそれなしに生活出来るのか、と問えばどのような個人でさえ、つまり客観的真理などないのだ、という思想の持ち主さえ「そんなことは不可能だ。」と答えるだろう。しかしだからこそ幾つかの哲学では客観的真理とか本質規定の危うさを指摘してきた、とも言えるのだ。つまりそれは本質とは何物かの背後に隠れているという不可避的な考えに対するアンチ・テーゼとしてである。
 自然はどのような個々の現象に対しても、あるいはどのような種類の生命に対しても、えこ贔屓することはない。その意味ではどのような生命種の賢明なる行動よりも、どのような偉大な人間による公平なる判断よりも遥かに公平である。そしてそれに加えて人間に固有の一切の情というものさえ介入することはない。台風はどのような素晴らしい個人に対しても殺人犯に対しても同様に脅威となり得る。それは人間に固有の理性とか良心とか責任とかの人間学的判断を一切受け付けないということでもある。
 しかし人間のそういった種種の判断を形作るものとは紛れもなく脳の判断であり、それは個体自身が有する機械論的なメカニズムである。そのことを幾分皮肉的かつ揶揄的な表現で科学哲学者であるダニエル・デネットは「脳もまた、心臓や肺や腎臓などと同様に、その力については結局のところ機械的説明ですっかり片のつく器官だという意味では、一種の機械である。」(「解明される意識」青土社刊、山口泰司訳、48ページより)と述べている。確かにそうである。我々の脳は機械であるし、同時に祖先から受け継いだ遺伝的形質、性質の全てを背負う遺伝暗号の織物に過ぎない。そしてそれらは人間が固有の思考の動物であれ、そうでないにせよ、全て自然というある種の冷酷な現実に帰するものである。そしてそのことは竹田が「意味とエロス」で次のように述べている我々の実存を齎している言述に顕著に表されている。
「わたしがエロス性という言葉で示したいのは、<世界>が、<私>にとって単なる実在やその関係としてではなく、快苦、美醜、倫理性の価値関係として、つまり、つねにすでに色づけされて現われてくるようなそういった<私>と<世界>の関係上の原理にほかならない。この原理は、人間の「経験」が必ず<意味>として現われ出ることの根本的な基礎をなしているとともに、<実存>という概念のいちばん重要な土台でもある。」(同書、ちくま学芸文庫版124ページより)
 しかしこのような考え方は一人竹田ばかりではない。竹田がこのテクストを書く(1993年)ことより更に30年前に旧フランス領インドシナ生まれの哲学者ミシェル・アンリは次のように述べている。(「現出の本質」下 北村晋、阿部文彦訳、法政大学出版局刊)
「感じるという作用の気分とは、感じるという作用が<自ら自己自身を感じること>であり、感じるという作用の情感性なのだ。ひとり情感性だけが、感性をしてそれが在るところのもので在ることを可能ならしめる。すなわち、自らを触発するものの冷徹な把握や無関心然とした静観などではなく、ひとつの実存[現実存在]であることを、つまり、触発されつつもそれ自身の内に[それ自身に即して]まとまり自ら自分自身を感得しつつ自分を触発するものを被り引き受けているようなひとつの生の濃密さであることを、可能ならしめる。それにしても、把握の冷徹さ、静観の無関心さ、たとえば情感的気分として、感性的に属し感性を規定している。それらは、それ自身において情感的なものとして成し遂げられる際の具体的諸様相なのである。」(679ページより)「世界がまさしくわれわれに与えられうるのは、われわれの感情をかきたてたりわれわれを衝き動かしたりするものとしてだけなのだ。世界による超越の触発は<自己‐触発>と情感性とを自らの条件としているからである。感性とはまさしく、その本質の点で情感的なものとして感性自身における超越である。感性の本質は情感性の内に見出される。」(680ページより)
 ここには徹底した本質の背後性の否定と、現出自体、情感という具体的実存自体が本質であり、それ以外に本質などというものは在り得ないという主張がある。
 しかし我々は今一度アンリがこのような主張を行うことの背景を知るには、大まかに西欧哲学の形而上学の伝統を知っておく必要がある。まず大熊正(応用科学者出身の数学者)の述定を見てみよう。
「ソクラテスが当時のアテネの民主政体や、オリンポスの神々への信仰をもとにした価値観に対して異説をたて、民衆を惑わすものとして自殺を命じられたのはよく知られているところです。ただし、ソクラテスの議論の対象は主に、「正義とは何か」とか、「どのような政治体制が望ましいか」というような、どちらかというと価値の体系の哲学の問題であって、自然の機構の説明とか、真理の追求とかの問題には、あまり興味がなかったようです。
「真理とは何か」を初めて考察したのはプラトンのようです。彼は絶対真、絶対善の存在を信じ、それをエピステメとよびました。ただし彼は、自分を含めた万人が正しいと信じていることでも、それが必ずしも絶対真を意味しないということを知っていました。一般に正しいと信じている認識のことばをドクサとよんで、エピステメとは区別しました。このエピステメとドクサの関係は、彼の著書「国家」の第七章の冒頭にある、有名な「洞察の比喩」で見事に表現されています。
 私たちは洞窟につながれている囚人のようなもので、外界のこと(エピステメ)は、その小さな窓からさしこむ光と、それが映す影によってしか知ることができません。安易な解釈をすればその実体とはおよそかけ離れた認識(ドクサ)に到達することもあるでしょう。外界の真のあり方を知るには、合理的な法則と真の叡智、すなわちイデーをもって、その影の意味するものを考察しなければなりません。」(「真理とは何か「考えること」を考える」講談社現代新書41~42ページより)
 つまりここで大熊によって解説されているプラトンが捉えていた世界の実相こそ、竹田がフッサールを通して顕現させようとしたこと、あるいはアンリがフッサール以上に直接的に主張していることの元凶なのだ。世界はその立ち現われている姿の背後に隠された真理に支配されている、つまりイデーというものは外観からは察することは出来ないという考えである。
 それは認識というものを原初的な発生事実とすれば確かに言えることであろう。例えば見知らぬ他者に突然道端で「ちょっとすいませんが。」と声をかけられた時私はその心の中で一瞬この人間は私に何を求めているのだろうか、と考えるであろう。しかし同時に私はその一瞬の思念によって示される全ての感情を一瞬対他的に了解される形で示しもいる筈なのだ。寧ろそういう一瞬の思念を持つことを表明する真意を隠蔽することというのは、その他者の正体を熟知しており、その他者が警戒すべき対象であると自分に言い聞かせている場合に限るのである。だからそういう意味ではイデーは内的理解とか思念という意味では確かにブラック・ボックスであるが、そのブラック・ボックスそれ自体の所有という権利主張といった側面からは我々は意外とイデーを対他的に示し得ているのである。例えば何か悲しいことがあった時他人から声をかけられるのを嫌がり「今日一日くらい私を一人にしていてくれたまえ。」と声をかけようとする他者に対して私が告げたとすると、私は確かに心の中の思念の内容までは覗いて貰いたくはないと宣言してはいるが、心の内面を自分だけに秘めておきたいという真意は伝えているのだ。
 しかしこのプラトンのイデーとか真理の背後性という考えは心理学におけるゲシュタルトという考えにまでずっと持ち越されてきているのだ。そのことに対する批判がフッサールからもメルロ・ポンティーからも提出された、というわけである。
 しかし自然科学の世界ではイデーという哲学的な思念はもっと直接的な実証性に置き換わる。例えば生物学者のジョージ・ウィリアムズを例に見てみよう。彼は次のように言っている。(「生物はなぜ進化するか」81~82ページより)
「個体数が数千以上の有性生殖の集団では、遺伝的変異がまったくないということはありそうにないので、進化生物学者がそんなことを考えていることはまずない。また、(中略)生物学者が自然選択を用いるのは、生物が、なぜ現在持っているような特徴を持っており、考え得る別の特徴をもってはいないのかを考えるときである。生物学者は、そうした特徴がすばやく進化したのか、ゆっくり進化したのかには、関心がない。したがって、自分が研究している生物の遺伝子座のうちの10パーセントが異なっていても、たったの一パーセントしか異なっていなくても、彼らにすればたいした問題ではない。いずれの場合も、長い目で見れば、その同じ状況が自然選択によって生じてくると考えているし、実際にそうした状況が起きたと考えている。生物学者が関心を持っているのは、自然選択による進化的変化ではなく、自然選択によってすでに確立している、進化的平衡である。」
 ここでウィリアムズが指摘していることは、要するに目で確認出来る法則であり、それは実存であるということである。自然科学の法則とは「今目にしているデータは何らかの偶然的なケースであるが、同じような条件さえ与えられれば、どの個体も、どの郡体も同じような変異を生み出すだろうという目測を得ることである。それは影から考えられる光の正体というよりは、光そのものがその変異の中に認められるということであり、それは実存であると同時に真理でありイデーなのだ。法則とはそういう具体的なことである。
 例えば法則ということを人間の身体を測定することで考えてみよう。ウリクト(哲学者)は自著「説明と理解」で次のように述べている。
「基本行為の成果の必要条件ないし十分条件は、その行為に先行し、筋肉活動を規制する神経の出来事(神経過程)であろう。この神経の出来事は、私がそれらを引き起こすことによって、「為し」うるようなものではない。それにもかかわらず、私が基本行為を遂行することによって、神経の出来事を生じせしめることができる。ところが、基本行為によって生じせしめられるもの、つまり神経の出来事は、その行為の直前に生じるのである。
 たとえば、基本行為の一例として、腕を上げるという行為を取り上げてよかろう。いまかりに、私の腕に起こる出来事を、だれかがなんらかのしかたで「観察」できるとし、また、私が腕が上がると、生じるはずだと考えられる神経の(一連の)出来事Nを、彼が識別しうるとする。さて、私は彼に向って、「ぼくは、自分の脳にNという出来事を生じせしめることができる。ごらん。」といい、そして腕を上げる。彼は、私の脳に起こることを観察し、Nが起ったのを見る。しかし、彼が、私の為していることも観察するなら、私の行為が、Nよりほんのわずか後に生じることを知るだろう。厳密にいえば、いま彼が観察しているのは、Nの生起の直後に実現した、私の行為の成果、つまり私の腕が上がることである。」(産業図書社刊、99~100ページより)
 我々は例えばつい脳内のニューロンの発火現象そのものを、その時腕を上げたから、そういう発火になると考えがちであるが、実際はウリクトの指摘しているように、腕を上げるように身体的に意識することに誘引されて、脳内の発火が同時的に起き、その直後に腕が上がるのだろう。
 このことを憤りという内的な感情に置き換えて考えてみよう。
 我々はつい何か挑発的なことを言われたから憤ると考えるが、挑発的なことを言われる状況というものとは言葉が発せられる以前に既に我々に何らかの構えを構成している筈である。そこで我々はそういう状況において発せられた言葉の挑発性に対してまず身体的な拒否反応を示すのだ。然る後、その事態に対して覚醒し、認識レヴェルで憤りを抱くのだ。感情は身体的情動の結果である、とアントニオ・ダマシオ(ポルトガル人の現代を代表する神経学者)は考えている。
 しかし我々はつい憤りそれ自体によって身体的な情動反応を示すと考えがちである。しかし少なくとも脳科学ではそういう風には捉えられてはいない。
 何かを言われて感情的に憤るということの順序は唯心論的な認識であるし、逆に人間の脳の発火現象をウリクトの思考実験のように出来ると仮定して、発火したから憤りを感じるのだ、と捉えるのなら完全なる機能主義である。しかし恐らくそのどちらも厳密には正しくはなく、唯一の正しい答えとは、脳内のニューロンの発火現象と思われる血流とかニューロンの変化は、憤りという感情を持つことと同時的であり、それ以前に身体的な情動を形作っており、その情動状態とは、要するに構えているという前哨戦がある筈なのだ。
 だから憤りと脳内の発火現象には先後関係はないだろう。要するに憤りを持つことが脳内のニューロンのある発火現象なのであり、脳内のニューロンの「ある発火現象」は、そのまま内面的には我々に抱く憤りそのものなのだ。
 ウリクトの例の場合、脳内のニューロンは手を上げる意志を持つということを示してから手を上げるという時間的なずれを示している。しかし憤りとはそういう行為とは違う。手を持つことは主体的な行為だ。しかし憤りを持つことは竹田の表現を借りれば身体という実存(竹田によるとその身体的実存には<欲望>という事実がかね備わっているのだが)から「告げ知らされる」ことに他ならない。恐らくその憤りを感情として認識した直後にウリクトの例証するようなレヴェルの行為を我々は無意識に選択しているのだろうと思われる。例えば挑発的なことを言ったその者に対して別の挑発的なことを言い返すとか、怒りの表情を浮かべて自分だけ部屋を出てゆく、とかの行為、あるいは苦虫を噛み締めてじっと耐えるとかの行為に我々は移行するだろう。そして何か手を上げるとか部屋に出てゆくために立ち上がるとかの行為が意志的に選択されるに至って初めてウリクトの思考実験によって示されるような時間的なずれが体現されるであろう。しかしウリクトの言うずれというものも殆ど同時的なものであろうとも想像がつく。
 唯心論と機能主義はただ前者を内在主義、後者を外在主義的視点を採用している、という違いからだけ考えた方がいいかも知れない。しかし最も不思議なことというのは、我々はそのように二つの視点を行ったり、来たりするという人間の思考の事実である。
 しかしこと情動と感情という定義からすると、脳科学的には明確にダマシオの言うことによると、まず身体的に「何らかの感情」を誘発するような構えとしての<情動>が発動され、それを例えばその直後「恐ろしい」とか「悔しい」とか「頭に来る<憤る>」というような感情に置き換えられるのであって、その逆ではないということなのだ。
 人間が意志的に何かする時、そこには意図がある。しかし意図は意図によって作られること(それは人間が人間の行為、つまり意図ある行動によって受動的に何かをするように仕向けられるということ)以外のことも多いだろう。雨が降り出したから洗濯物を室内に取り込むとかそういう行為の全ては意図が自然状態、自然条件によって作られることの典型である。そして意図する時、そこには人間が雨に降られて、干していた布団がずぶ濡れになることを気持ち悪いと思う心に発しているから、当然のことながら、意図は感性にも支えられている。人間の行為は感性によって支えられている。
 しかし自然はそのように思うのだろうか?自然全体はそのように意図することはない。しかし自然を構成する個々の事物、とりわけ生命は意図するという人間が持つ高次の意図はないにせよ、何らかの意志が働いているということそれ自体は否定出来ないだろう。
 例えば今日テレビでオオオニバスの葉と花を自然ドキュメンタリー番組で特集していた。アマゾン流域に生息するこの植物は大きな葉に幼児が乗っても、沈まないくらい頑丈な(大人でさえ多少葉は歪むが完全に沈みきるということはない)、周囲の縁が垂直に立ち、更に葉脈が十分発達しており、葉裏には葉脈から立派な棘が水面下に伸びていて、そのことが更にしっかりとした水面に浮かぶことに貢献している。直径2メートルにも達する大きさを持つこの植物は沼沢に生息するが、白い花を咲かせる。しかしその白い花は一日たつと萎み、再び咲き改める。しかしその時は今度は花の色は赤くなる。その間コガネムシが受粉しに降り立つが、花が閉じている間は彼等は閉じ込められる。しかし花が開くと再び彼等は飛び立つ。その時彼等の身体に付着した花粉(めしべ)が再び別の花に向う時に植物の受精に貢献するわけだ。しかし問題なのは、花の中に閉じ込められている間彼等は苦しくないのだろうか、ということだ。
 この花がこのように大きな花を水面に平に浮かぶようになるまでには幾多の生存戦略上の試行錯誤があったのだろう。そして光合成を有利にするために水面に浮かび、水中に沈みこまないで済む戦略を採用するまでの長い間に、コガネムシが受粉しに、花の中心に降り立つ行為を誘引し、再び飛び立つ時にたっぷり花粉を身体に付着させ、しかも彼等が窒息しないで再び飛び立つように仕向けることが容易に執り行えるように全部の花がなるまでには恐らく自然は、不器用で花の中にコガネムシが窒息するような具合になってしまったケースもあっただろう。しかしコガネムシの側もオオオニバスから得られる利益を有効に活用すべく、適度の長時間花の中心に閉じ込められていても尚、生存に支障が来さないように自然選択上の進化を遂げたのであろう。そうテレビの映像を見ていて思ったのだ。
 それは共利共生の例なのであろう。そういうのでなしに片利共生であるのなら、また別の戦略をコガネムシは講じたかも知れない。しかしそれくらい閉じ込められることはそれほどコガネムシにとっては何でもなかったからこそ、彼等はオオオニバス対策として別の戦略を進化させることがなかったのだろう、と見ていて思った。
 これは自然が意図するではなしに、相互の生物に対して相手の行為に対して耐え得る臨界点を見出す言わば「感性の意図」を自然選択によって形成する、ということなのではないだろうか?つまりオオオニバスの立場からすると適度にコガネムシを閉じ込めることに成功し、且つコガネムシを窒息させることなく柔らかく包み込む戦略上の強度を自然選択が彼等に付与したのだ。
 このようなケースを考慮に入れると人間にも他者に対してある程度の警戒心とか攻撃心を持ち合わせているが、同時にそれは必要最低限に抑制し、あとは適度にどのような他者に対しても寛容にしていられるように対他的な接触者としてあらゆる人間の言動を制御するように自然が人間社会に何らかの秩序を与えてきたと考えても間違いではないだろう、と思う。だから例えばさき程の例で言えば、人間は俄か雨に降られれば干し物を即座に室内に取り込むように自然に行動する。その日寝る時に湿った布団に入るのは嫌に感じるからだ。これは意図的な行為であるが、限りなく非意図的な行為に近い、つまり感性自体の意図に忠実な行為選択である。それは選択する時に他の選択肢から篩いにかけるような選択では決してない。繰り返すが人間でさえ、他の生物と同様篩いにかけるような選択行為とは、科学的洞察であるとか、意志的な重大決意の際にしか採らない。恐らく重大決意の際にも大方は自己内で決定しているが、後は逡巡と戦っているに過ぎないという場合が多いと思われる。 
 哲学者の竹田青嗣はダマシオが認識しているような自然科学的な洞察から<情動>と<感情>を殊更分離して捉えてはいない。寧ろ彼の言う欲望はダマシオが言う<情動>から<感情>へと順序を踏んでなされる身体と精神の一つの連繋プレイそのものを包括的に<欲望>と呼んでいるものと思われる。しかしこれは神経科学的な見方ではないが、決して誤った見方ではない。寧ろそういう一連の連繋プレイそのものに着眼して包括的に<欲望>と呼ぶことは我々の日常の本質を突いているとさえ言える。それが哲学者の感性というものなのに違いない。そしてその感性自体を論理的に立証して見せるところに哲学者の文章家としての意図がある。(つづく)

 付記 論文修正と作成のために休暇を頂きます。2010年正月明けに再び更新致します。(河口ミカル)

Tuesday, November 3, 2009

第九章 忘却による後悔の発生<意図による記憶の変形と歪曲>

 本論で私たちは意図というものの発生する現場を様々な形で見てきた。そして意図は意図せざる我々の行動とか行為によって逆に浮かび上がる思考性であることだけははっきりしたことと思う。つまり自分自身の考えのようでいて、ジュディス・バトラーが言うように「私は女性だ。」という風に社会的な意識であるジェンダーを受け入れて生活する人間とは、ある意味では生理的自然が我々に付与した現実をいかにして受容し、それを利用するかという「制約を楽しむ」(これは先日NHKの対談取材番組「プロフェッショナル」<脳科学者茂木健一郎司会>で建築家の隈研吾氏が語っていたことである。氏は「負ける建築」を目指しておられると言うが、21世紀型の環境内に融合する建築として注目を浴びている考え方であると言う。)という生活世界(フッサール的解釈である。茂木健一郎も「生活知」と「世界知」との双方を峻別して使用している。フッサールは生活知 的哲学者であったと言えよう。このことは本章で詳述する。)に生きている。
 さて私は若い頃メルロ・ポンティーを読んだことをきっかけにその師フッサールやフッサールから多大な影響を受けたハイデッガーを読むこととなった。そしてドイツ語の原文で読む力のない私は翻訳されたものを何通りかの訳者のもので読んだ。そして正直に告白すると、特にフッサールの文章のある種の歯切れの悪さに、彼自身の哲学的な考え方の難解さを感じ、困惑したのだった。しかしこれはフッサールの再解釈を試みてきた哲学者竹田青嗣の考え方を知るとよく理解出来る気がする。というのはそもそも科学者と哲学者ではそのスタンスの取り方に違いがあるからである。
 例えば自然科学者たちは私が先述した観察者と接触者としては観察者の立場を基本的には採る。そして彼等はあらゆる自然現象を客観的に捉え、それは彼自身、つまり人間一般に関しても変わらない。要するに人間のことを考える時科学者たちは接触者としての人間の実像を観察者としての視点で捉えるのだ。それに対して哲学者たちは概して観察者としての人間、つまり彼にとって自分を接触者としての視点によって捉えようとする。そのことに関しては洋の東西も時代も関係ない。しかし哲学者の中には同時に自然科学者も大勢いるし、また自然科学者の中にも哲学者タイプの人(例えばシュレーディンガーがそうだし、ドーキンスもそうである。)大勢いる。そこで事情は厄介なことになる。フッサールもまた数学者出身であり、そういう観点からすればラッセルやフレーゲとも共通している。
 更に竹田の解釈を借用すると、フッサールは彼が言う超越論的主観性というものは自然科学が拠って立つ客観的な真理というものそのものに対して「何故そのような思いを信憑性として採用するのだろうか」という思念をそのまま哲学の主題に据えたということらしい。するとフッサールの哲学行為それ自体が、哲学をも含む真理希求という人間の欲望を注視する行為となるから、当然その文体は悪文的なニュアンスを帯びることになる。これは隈研吾が言った「制約を楽しむ」という人間の思考そのものにも内在していることである。
 人間は無意味なことに感動する生き物である。それは音楽にしてもそうだし、挨拶にしてもそうだし、会話もそうである。要するに人間はある規則性とかリズムとかを体内的にも精神的にも求めている。それはやはり一つの生理的自然現象である。それはその場、その時の状況に応じて「合わす」行為に他ならない。つまりある制約とはその場その時の状況に応じた限界、世界に固有の事情なのであり、その場その時に固有の状況に臨機応変に対処することこそ生き、生活するということに他ならない。しかしそのようなことを言語行為において主張したのは戦後の哲学者であるデヴィッドソン(アメリカ)であったし、ダメット(イギリス)も基本的には同じようなことを言っている。(大屋雄裕の「法解釈の言語哲学」に詳しい。)しかし現象学という学問がただ単に真理希求型の形而上学であるとされた一般論を誤解であると竹田は説くのである。(デビュー作の「意味とエロス」以来「現象学は<思考の原理>である」等、一貫した論理で竹田は論説してきている。)つまりある意味ではデヴィッドソンやダメットによって齎された考えの起源にフッサールを竹田は考えているのだ。尤もダメット自身は彼の「分析哲学の起源」で自分も含めた後代の哲学者たちにとってフッサールとブレンターノをその起源として大きく取り上げていたのだった。
 しかしこのフッサールの視点を自然科学者で最初に提唱した人物こそダーウィンだったのではないだろうか?私が前章で述べた体内記憶とか生命記憶というような考え方は故三木成夫の主張するところであったが、その起源にはヘッケルの考えがある。しかし三木もそうであるが、竹田によると中沢新一も含めてこれらの考え方は私も前章で示したが、多少ホムンクルス的なニュアンスを払拭し切れない(私はその考え方の全てを肯定するわけではないが、全てを否定するわけでもない。)が、要するにカント的「物自体」の焼き直しであることになる。この捉え方は実に興味深い指摘である。竹田はこの考え方と懐疑主義を共に批判を加えている。(「意味とエロス」より)
 さてダーウィンに戻ろう。何故私はフッサールの主張すると竹田が捉える考えの起源をダーウィンと考えるかと言うと、ダーウィンは博物学者であったが、彼自身のガラパゴス諸島等による航海と見聞によって示した「種の起原」において自然というものの相対性を説いたとも言えるからだ。前章最後に述べたことに繋がるが、ダーウィンは自然そのものがかりに創造説的に捉えて神によるものである場合、神が合理主義者であるなら態々勝敗に負ける側の、つまり絶滅種をそれが絶滅すると分かっていて敢えて創造するであろうか、という私の考えを論の根拠としたのであった。さてダーウィンの子孫を自認するリチャード・ドーキンスに多大な影響を与えた生物学者ジョージ・ウィリアムズによると(「生物はなぜ進化するか」草思社刊より)自然選択とは種にではなく、個体へとかかるのだ、ということである。すると自然は種全体をそれがある自然環境自体に適応することが相応しいかを判断する(まるで神があたかも存在するかのように)ではなく、あくまで種内でも適応する個体もあれば適応し切れない個体もあるという厳しい現実の中で種全体にある厳しい自然環境条件が恒常化した際に、それに対応する措置として成功した幾つかの例(個体)が種全体にその変異系が生存に有利なために徐々に蔓延してゆき(その間にも選別された生存者間での競争があり更に絞られる)やがて成功例の中の標準値としての形状とかあらゆる生命システムが不動点を求められてゆく、という考え方である。これは自然自体もまた自然の将来を見越すことが出来ないと私は捉えたのだが、自然のその場その時の偶然的な変化の集積によって形成される自然全体の長い歴史的時間によって(突然変異は千世代に約一回だけ突然変異個体が現れるという。そしてこのような突然変異個体でしかも自然環境に巧く適応した個体の出現しない種で、しかも自然環境の変化に対応し切れない種は絶滅してゆくのだ。)徐々にその種の形質としてある突然変異の遺伝子レヴェルでの(尤もダーウィンの時代には未だ遺伝子の詳しい構造は理解だれていなかったが、後に大勢のネオ・ダーウィニストたちがダーウィンの進化論を現代の常識に当て嵌めて行った。)性質として定着してゆく、それを自然選択と言うのであった。
 このダーウィンの考え方は自然科学者の側から齎された自然相対説である。そして竹田の主張するフッサール像が正しいとすると、フッサールは哲学の領域でまさに、人間が客観的真理があると信じて疑わないその不可避的思考傾向それ自体とは何であるか、何故発生するのかを問うたのだ、ということなのだ。竹田の指摘を採用するとフッサールとは我々のつい抱きがちな「唯一の正しい答えが存在する筈だ。」という真理希求型の不可避的思考傾向(この事実はカントも捉えていたが、カントはその事態を客観的には捉えていなかった。ただ主観的に述べていただけである、とは当の竹田を初めとする大勢の論客の一致するところである。)そのものの存在に極めて鋭く着目した哲学者であるということになり、それは要するに私の考えるダーウィン流の自然相対説としての生理的自然自体の相対性を人間の思考傾向にまで拡張したことになる。
 フッサール以外に現代で最も大きな影響力を与えたルドウィッヒ・ウィトゲンシュタインが挙げられるが、彼はその方法としては科学者の認識をもった哲学者として極初期から世界の限界とかそういう表現を好んだ。しかし彼の視点の中心は専ら言語とか道具とか、要するにある種社会記号的なものの使用という側面であった。フッサールはその点行動レヴェルの使用側面からではなく、行動を誘引する内的な信念のレヴェルから相対性を洞察した哲学者であると言えるだろう。だからこそフッサールは「前言語状態」というような表現を多用したのだった。つまりフッサールの相対性理論とは「信じることの本質とは何か」なのだった。
 ダーウィンは哲学者でなかったので人間の表情に関する論文は残しているが、人間の心については殊更取り上げてはいない。彼の遺作はミミズの研究論文であった。寧ろあの相対性理論で有名なアインシュタインの考えを先取りしたのはエルンスト・マッハである。ここら辺の事情は茂木健一郎著「脳とクオリアなぜ脳に心が生まれるのか」(加えて前章で私が<我々が見ている今現在の光によって知覚している映像は厳密に言えば過去の姿である>ことと、今見ていると思っていることは実は脳内のニューロンによる処理によってある段階を踏んでいるのだが、見ている当の私にはある瞬間のように感じられる現象である相互作用同時性等の科学的解説もこのテクストに詳しい。)にも詳述されているので参照されたい。
 ところで私はフッサールを生理的自然自体の相対性を人間の思考にまで拡張したと竹田の主張をも考慮に入れて言ったが、そのことを端的に示す箇所を一つ引用しておこう。
「告知を理解するということは、告知について概念的に知ることでもなければ、言表の種類について判断することでもなく、聞き手が話し手がしかじかのことを表現する人格として直観的に統握する(統覚する)こと、端的にいえばそのような人格として知覚することに過ぎない。私が誰かの話しに耳を傾ける場合、私は彼をまさに話し手として知覚し、彼が物語り、証明し、疑い、願望したりするのを聞くのである。聞き手は告知する人物自身を知覚するのと同じ意味で、告知を知覚する_ただ告知する人物をまさに人格たらしめている心的現象を、他人がありのままに直観することはできない。普通一般の心的体験の知覚をもわれわれに与えてくれるので、われわれは他人の怒りや苦痛などを≪見る≫のである。このような言葉が完全に正確であるのは、たとえば外的な身体的事物をも知覚されたものと見なす限りにおいてであり、一般的にいえば知覚の概念を十全的な知覚、すなわちもっとも厳密な意味での直観の概念に限定しない限りにおいてである。知覚の本質的性格が、事物ないしは出来事をそれ自身現在するものとして把握する直観的思向のうちにあるとすれば_なおこのような思向は、概念的表現的な把捉を全然伴わなくても可能であり、それどころか非常に多くの場合、現に与えられているのであるが_聴取(kundnahme)は告知の知覚に過ぎない。ただし最前ここで触れた本質的な相違があるのは勿論である。聞き手は話し手が何らかの心的体験を表明するのを知覚し、そしてその限りで聞き手はこの〔話し手の〕体験を知覚するのである。しかし聞き手自身は、この話し手の体験を体験するわけではない。聞き手は話し手の体験については、なんら≪内部≫知覚をもたず、≪外部≫知覚をもつに過ぎない。十全的直観による存在の現前的把握と、直観的ではあるが不十全的な表象に基づく存在の憶測的把握との間には、大きな相違がある。前者の場合は体験された存在であるが、後者の場合は仮定的(supponiert)存在であり、このような存在には真理は決して対応していない。〔話し手と聞き手との間の〕相互理解はまさしく、告知と聴取のなかで展開される両者の心的作用の、なんらかの相関関係を要求してはいるが、しかし両者の心的作用の完全な相等性を要求してはいない。」(「論理学研究2」みすず書房立松弘美、松井良和、赤松宏訳、44~45ページより)
 この論点は戦後の哲学者(日常言語学派の流れを汲む)サールの考え方にも受け継がれている。そしてこの部分はジャック・デリダによって「声と現象」で引用して批評されている。(そのことに関しては後で詳述する。)
 つまり私たちはある他者の語る言述をその言述が語られる文章、発話された言辞の叙述性を通してしかその言述された意味を把握することは出来ないのだ。だから通常自分がその話者の語りを聞く立場にある時、話者の日常的な行動パターンとか人間性をよく知る場合には多少なりとも彼の語る例えば「昨日花見に行ったんだよ。」というような内容を具体的な映像を交えて想像することは可能だが、それが発話者が語り伝えようとしている映像と合致しているかどうかは疑問である。また通常話者の伝えることを聴者が勝手に想像することを話者はちっとも苦痛には思わないものである。つまり語りというものにはこの種の理解され得ることと、理解され得ないことの共存という事態が予め了解され合っており、またその了解が得られている場合にのみ会話というものが成立するものなのだ。と言うことは、即ち生理的自然として相手の語る内容の具体的な体験が必ずしも聴者に理解されなくても、その体験を語り伝えるという話者の意志さえ伝わればそれだけで半分意思疎通的な意味合いからは成功したと言い得るという了解もまた成立しているのである。それは要するに思惟の自然としては具体的理解の正確一致性を無視しても尚意思疎通することの意味は失われないというコミュニケーションの前提条件をここでフッサールは示しているのである。このことを竹田青嗣は、知覚における物に対する了解においてフッサール用語の<存在妥当>とか<明証性>とかによって説明している。
 例えば私たちはある事物を「あれは云々だった。」とどのようなものを目撃しても(つまりあまりきちんと確認して見なかったような場合でも)それなりに判断する。例えば私たちはどのような日常的場面においてもその場その時なりの、そういう時に確たる関心を持ち何かを知覚しているのではない場合では、その時の別のことに気をとられているそぞろな感覚や知覚をある種の生理的自然に委ね、無関心な気分でやり過ごしていることも多い。またそのような日常の状態がしばしばあればこそ、「もっときちんとあの時見ていればよかった。」と言ったような色々な後悔(例えばちょっと眼を離した隙に自分の子供が車に轢かれたといった悲劇を体験すると)することにもなるのだ。またそういう気もそぞろな事態があるからこそ逆にその時の事実に対する客観的事実を求め、あるいは意思疎通で他者と相互理解が得られないような事態が発生するからこそ、一番正しい真理というような客観的物差しを求めてしまうのだ。
 このことを竹田は「(前略)世界の存在(あること)は<主観>にとってのみ現れ出るような事実性である。だから、客観世界の秩序や法則とは、それ自体として存在するものではなく、諸<主観>に現われ出る<世界>の、現われ方の共通項にほかならない。つまり、客観世界とは、本質的に、相互主観的関係の網の目の中に浮かぶ、唯一同一の世界、という信憑の像なのである。しかしまた、この相互主観性それ自身も、結局<意識>のうちの信憑の構造なのである。」(「意味とエロス」ちくま学芸文庫49ページより)と言う。
 ここで竹田が主張することは、客観世界とはそういうものがあるのだ、として何事かを理解し合う者同士の(それは顔を見ないで相互の論文やメールを読んだりし合う仲間同士であれ)、あるいは何かについて語っている者同士であれば、意思疎通とはある話者がある陳述をする場合、その真偽がどうであれ、相互に発話されることの内容を信じ合うということを前提になされているのだ、ということなのである。それはある意味では真偽を超えたこと、つまり信頼という事態の存在事実についての言及なのである。この発言もまたサールの哲学(「言語行為 言語哲学への試論」勁草書房刊)の論点と一致している。そして大屋雄裕の「法解釈の言語哲学」での<よどみ>を感じる場合の法に対して法解釈者同士が論説し合う意味という観点からの大屋の論点と同一のベクトルを持っている。意思疎通とはある普遍的であると思われている秩序に対する何らかの疑問なしにはあり得ない。つまり全ての事態なり事実なり真理が相互に了解されているのなら全てのコミュニケーションは必要がなくなる。実は我々は何の普遍的であると言われていることにおいても、その普遍性を全面的に認めることがそう容易く出来ないという生の事実があるからこそ他者を必要としてその疑問を相互にぶつけ合うのである。もし疑問も不確実性も、未知性も何もなければ我々は意思疎通し合う必要などないのだ。それは丁度ダーウィンが自然自体がこの先何が起るか分からないと捉えていたこととも繋がるのだ。
 だからこそ逆に早急に何かことを運ばなくてはならない時(ビジネスも政治もそういうことがしばしばある。)我々は何とか現実と折り合いを付けて辻褄合わせをしようと画策するのだ。特に何か大義名分が必要とされるような何らかの厄介な処理事項に直面した時我々はしばしばそこに理屈を付けて正当化しようと試みる。そのような習慣的な処理をすることの背景には我々がどこかで「どのような事柄にも何か一つ必ず正しい選択というものがある筈だ。」という信念があるからに他ならない。(私自身はその場その時の最良の決断、判断、選択はあると考えているが、今述べている論点においてはそのこと自体に懐疑的になることの意味がある。)つまり常に正しい答えがある筈だという心的な判断において我々はそう判断しながら自分の記憶をも常に今現在の都合に応じて編纂している、いや改変しているのだ。 
 例えば昨日路上で10メートルくらい先に見たものが蹲る猫だったと思い、その時一緒に居合わせた友人二人に私がそのことを告げたとしよう。するとその二人の友人が私に「そんなものいなかったよ。」と言ったとしよう。すると私は畳み掛けるように「ほらあの時いたじゃないか、あの歩道にさ、猫が。」と確認しようとする。それに対して友人二人は私に「あれはただの石ころだったよ。」と答えたとしよう。すると私はその信頼出来る私の友人二人が口を揃えてそう証言するのだから、恐らくそれは正しいだろう、と思い私自身昨日は少し疲れていたのかも知れないと思い、私自身それまで正しいと思っていた記憶内容を修正しようとするだろう。それが性質の悪い私の友人の私に対する悪戯であったとしても、私が尚その友人がそんな嘘を付く筈などないと信頼している限り、その証言を信じて疑わないであろう。つまり他人の証言の信憑性そのものもまたその他人の私にとっての信頼度に比例して高まるものなのだ。私がある友人の語る事実が仮に誤りだったとしても尚、私はその友人が私に対して悪意で嘘をついたとは思わないだろう。それはその友人に対して私はその人間的誠実性に対する信頼を寄せているからである。そういう場合私はその友人が仮に私に対して誤った情報を教えたとしても尚、彼の言ったことだから客観的な基準に合致した陳述であると、そのこと自体(彼の報告の誠実性に依拠した信憑性)には疑いを差し挟むことはないであろう。その時にその友人の誤りに気が付かなかったなら。
 このことにも関係があるが、竹田は次のように述べている。少々長いが引用しよう。
「つまり<客観>それ自体は、つねにすでに間=主観的な存在妥当の構造なのである。しかしここで注意すべきなのは、今ある<主観>にとって、このことはべつに意識されているわけではないという点だ。(この点は、私が第七章において知覚行為の経験としての位置づけ作用<過去化>のことについて述べたことに関係があると思われる。<著者注加入>)(中略)
 たとえば、暗い部屋の中でものを見るとき、それが確かにひとつのカップであるかどうか”あいまい”な場合がある。ひとはこのときことさらそれをカップだと思い込もうとしたり、否認しようとしたりはしない。それ(存在妥当)は必ず<主観>のむこう側(外部)から、確かなもの、あいまいなもの、そうではないものといった相で<主観>にやってくるのだ。ではそれをもたらすものとは一体何か。
 フッサールの「明証性」という概念は、この場面で<主観>に妥当(ものがあるというう確信)をもたらすものとして導かれている。
 
次にわれわれが明らかにせねばならないことは、基礎づけられた判断を求める努力、ないし基礎づけの作用である。というのは、基礎づけの作用において、判断の正当性、すなわちそれの真理性_逆に基礎づけの不成功のばあいには、判断の非正当性、すなわち虚偽性_が証明されるはずだからである。(略)そして、基礎づけないし認識の意味を、いっそう厳密に解釈するなら、われわれはまもなく、明証という理念に到達する。(『デカルト的省察』)
 
 幾度でも繰り返さなければならないが、フッサールの言う「真理性」とは、客観存在の確証の基礎づけではなく、存在妥当の基礎づけを意味する。ものごとが真に客観存在するか否か、そういう問いはじつは倒錯している。そうではなく、ひとが、これは確かに「ほんとう」だとか、これは違うとかいう判断を行うこと、それ自身の基礎づけだけが、問い得るのである、と。
「明証性」とは簡単に言えば、反省作用の中で確かめられた対象存在の動かし難さ、である。それは、ただ、何度繰り返しても同じ対象として意識に生じるという「反復」の事実性によってのみ支えられる。
 たとえば、夜、うす暗い部屋で目を醒まし、テーブルの上にある白くぼんやりしたものを目にして、カップがあると思うとしよう。この<妥当>は、昨日<私>が寝るまえにコーヒーを飲んだという記憶が、何度繰り返しても確実なものとして「反復」されるとき、いくぶん間違いないものとして生じる。この記憶があいまいなときは、別の仕方で<妥当>が求められる。たとえば<私>も、もっと近づいて形を確かめたり、それを手にしてみたり、また灯りを点けてみたりするだろう。
 これらの行為は、それぞれの「明証性」を形造る。明証性が動がし難いものとして現われるほど、<私>は判断の確信を強くする。ところで、ここで注意すべきは、存在妥当がこのような明証性に支えられている限り、それが対象存在の最終的な客観存在に到達することは論理的にあり得ないということだ。これは現象学において事物存在の<超越>といわれる観念であり、<還元>の方法がもたらす全く論理的な一帰結である。
 
 ......われわれの知っているように、事物世界の本質には次のことが属している。すなわち、この事物世界の圏域においてはいかに完全な知覚といえども、或る絶対的なものを与えることはないというのが、それである。(『イデーン』第四六節)

 これは、さしあたって次のようなことだ。<私>は、昨夜の記憶をたよりに、あの白いものは形や位置から見て、確かに昨夜<私>の使ったコーヒーカップだと「確信」する。しかし、この「確信」は、どれほど「完全」なものに近づこうと、ひょっとすると当のコーヒーカップでないという可能性、つまり存在妥当の可疑性と変更可能性を決して最終的には排除できない。このカップは夜中に誰かが似たものと取り換えたのかも知れず、また<私>のほうに記憶違いが全然ないとは、「絶対的」には言えないからだ。
 明証性の中で現われ出た<事物存在>は、こうして、最終的に「絶対的なもの」を与えることは決してない。これが外在的な事物の<超越>存在に達し得ないといったことではない点に、私たちは十分注意すべきである。(「意味とエロス」52~55ページより)

 ここで竹田が示したフッサールの「イデーン」中の引用を含む解釈は、明らかに彼がフッサールにおいて最も注目してきた超越論的主観性の問題である。勿論最後に示されているコーヒーカップが誰かによってすり換えられた可能性をも我々が考慮すれば、この世にそれが絶対正しいと信じるべき何物も残されてはいないだろう。しかしひょっとしてどっきりカメラのような悪質な悪戯をも考慮すれば確かに私の部屋に置かれた電気スタンドも、ベッドも偽者である可能性を百パーセント主張するわけにはゆかない。しかしそのことは私のような分際の人間に対してそこまで手の込んだ悪戯をする必要性もメリットも全くこの世には存在し得ないにもかかわらず、そのような悪質なことをする者がいるのなら、寧ろ我々はそのようなことには目くじらを立てずに、どっきりカメラのカメラマンに対して微笑んで苦笑するくらいの度量を持て、というシニカルなアンチ懐疑主義的主張さえ読み取れる。つまりこういうことである。悪質で手の込んだフェイクとは、世の中には何でもありなのだから、確かにあり得ないことではないだろう。しかしそういうことをも考慮に入れた疑惑を四六時中我々は態度として採ることは不可能である。ならば寧ろ騙されるものは騙されたままでいた方がよい、という近頃元首相やら著名な作家によって持て囃されている言葉を使えば鈍感力を採用する方が理に叶っているということになる。
 人生は失敗と挫折と後悔の連続である。それに嫌気が差したなら自殺するしか手はない。しかしカントによれば自殺は自己に与えられた能力を発現させる使命を怠ったアンチ理性であり、アンチ善意志であることになる。忘却に対する後悔は人から騙された時よりも自己内での努力を怠ったことに対する反省において寧ろ強度があるだろう。公務とか社会的義務における忘却は記録を確認することとか、最も信頼すべき同僚に聞いたりすることで未然に防止出来る。しかし自己内での能力発現という意志においては、殆ど絶対的に対他的な態度の採り方同様後悔の念を残す。人類に日記なるものが存在することの根拠は人間が細かいことをどんどん忘れてゆくという自然の傾性があるからである。また不思議と我々は忘却したものの方に記憶しているものよりもより価値を見出そうとする。何故か忘れたことというのは重要なことであれ、下らないことであれ、記憶しているものよりもずっと光輝いて感じられるものなのだ。そこに我々が過去を想起し、反省することの意味もあるのだ。
 忘れたことの中でも重要なことであるならもう一度思念上に浮上するものだ。しかし本当に取るに足らないことであるなら忘却しても尚、それが光輝いて見えたとしても、それは過去への追憶に付き纏う幻想にしか過ぎない。関心という事態はそれだけ我々にとってより輝かしいものへの接近を内的にも生理的にも心理的にも希求している状態を我々が日頃持つということを意味する。存在の欠如とか自由とか欲望そのものが全体へ向おうとする「欠如」(サルトルの謂いで、竹田もちくま学芸文庫中258ページで指摘している。)という心的幻想こそ我々を忘却することを追い求めさせ、忘却しないで済む方策としてパソコンを発明させたのだし、後悔のない人生を送りたいという欲望を抱かせるものこそ過去に対する意識であり、記憶なのだ。
 私はよく疲れて仮眠を取ろうとすると、そういう時、つまり寝入り端の時に限っていいアイデアが閃いたりする。しかしそれが睡魔に負けてしまうとそのまま忘却のリストに混入させられる。しかし本当にいいアイデアならもう一度、つまり自分にとって関心事に対する要求を満たしているものであるなら、必ずもう一度浮上してくるものである。その時には確かにあの時の、つまり寝入り端の時のものと多少異なった形態を採っているかも知れない。しかしそれはそのアイデアがある程度の普遍性を保持している証拠なのだ。だが忘却したことに対する追憶がそれを美化するという作用それ自体は人生にとって決して悪い作用ではないだろう。(あまりに執着しすぎて神経症に陥りでもしない限り)何故ならその忘却をするという事実に対する覚醒と、本当に大切なことであるなら忘却しないようにしようと我々が心掛けるきっかけを作ってくれるからである。

Sunday, November 1, 2009

第八章 経験と記憶の同時性

 進化はなぜ起きるのか、という問いには危険が待ち受けている。というのも、何故という問いには意図的な匂いが感じられるからである。進化はどのようにして起こっていったかということであるならまだしも救いがある。しかし進化自体がまるで生き物のように全ての生物を支配している観もこの言い方にも含まれる。どのようにというのは一本の筋を辿る場合には理解しやすいが、実際は全ての進化とか新種の登場といった事態はその時点での地球上の気候条件、それ以前の状態、他の生命起源的な存在物との相関性など無数の状態の偶然的な組み合わせに由来するであろうから、どのようにというように一律に説明することなど不可能だからである。
 また動物は今から五億年くらい前に地球上に登場したとされる。しかしどのように動物が登場するに至ったかと問うことは然程問題はないとも思われるが、何故動物が登場したのか、と言うとあたかも神の如くが存在して、彼が動物を登場させたかのようなニュアンスが伝わる。恐らく自然科学者たちならこういう言い方を好まないであろう。
 自然自体には意図はない。要するに自然に全ての生物は進化して、今のような状態になっていったとしか言いようがない。しかし今現在生き延びて来た生物(恐らくその中の幾つかは近い内に絶滅し、いつかは全ての生物も絶滅するだろう。)は、自然選択(本論分では自然淘汰という言い方は採用しない。)によって絶滅した無数の生物群によって逆にクローズアップされている。それでは何故いつかはそのように絶滅する種を態々考案して神は創造なさったのか、という疑問が聞こえてきそうだが、仮に神がいたとしても、神はあらゆる自然全体の諸現象を予言することが出来ず、あらゆる場面を想定してあらゆるケースに対応すべく動物を創造された(特にカンブリア紀において)が、その中の幾つかだけがほぼ偶然的に子孫を反映させることが出来たということである。しかしそれなら全知全能と呼ぶに相応しい神がまるで人間みたいではないかという矛盾が立ち現れる。そこで神なるものはいないのだ、という主張にも光が差してくる。もし神が全知全能であるのなら、予め些細な全ての諸現象を自然で起きることとして想定して、無駄など一切ない生存を継続し得る種のみを創造することが出来た筈だ、という主張にである。つまり生命の実験場としてカンブリア紀が位置付けられるのだとしたら、我々は動物もまた何らかの偶然によって、しかもその偶然に更なる偶然が度々重なって登場することになったが、その時点ではどの種が後代に繁栄し、どの種が絶滅するかまでは神がいたとしても予言することが出来なかったのだ、としか捉えようがない。要するに全てに関して非意図的にだけ進行していったとしか言いようがない。
 人間が意図とか自由という観念を持ち出すのは、我々の思惟がただ単に外在主義的に物理的現象として捉えれば、それらは脳内のニューラルネットワークの発火現象ということになるが、ではその発火現象それ自体はどのように起動させられるか、と問うと途端に「そこには生物個体固有の意志が働くからだ。」という内在主義が持ち出され、その二つの捉え方はただ無限後退を招くだけであるということに帰着する。だからカントが道徳律を自然法則に則っていくようにせよと言うことにはその二つの延々と繰り返される問いの連鎖に対して懊悩する人類に向けて発せられたと捉えることも可能である。要するに人間だけが人間を特別視するように我々は捉えて来たが、それは人間が言語を有している(私たちはそれだけを言語と捉えがちであるが)ということと、その言語を中心に考えれば、人間だけが意志を持って存在しているし、存在していると認識出来るという主張は、同時にそう考えられるのは我々が言語を有しており、その言語でしかそういう思惟は生まれないからだという主張とこれまた延々と無限後退を来す事態を招聘するたけであると言っても過言ではない。事実恐らく人間以外の全ての種は自分たちの種だけが特別であることは間違いないが、要するに人間が問うてきたのは、そう考えられるのは人間だけではないか、という考えなのであり、しかしそれは人間の使用する言語だけがそう考えることを可能にするものだ、という考えに基づいているのである。
 そのことは経験と記憶に関しても同じことが言える。我々は経験があるからこそ記憶することが出来るのだ、とも言い得るし、同時に記憶能力が備わっているからこそ全ての経験が成り立つのだ、とも言い得るからである。経験は常に現在によって執り行われるが、経験を経験であると認識出来るのは、全て事後的な反省によってであり、それは記憶による作用である。要するに経験を経験として位置付けるのは過去に対する反省においてのみなのであり、それは事実に対する意図的な思念であると言える。これを私は過去化と呼ぼうと思う。このような主張はそれに近いものとしてはサルトルにも見られた。しかし過去化という風に明確に捉えると我々はもっとことが鮮明に理解出来る気がする。
 経験は記憶によって明確に位置付けられるが、その経験とは経験に対する記憶にしか過ぎない。何か現在行っていることは経験には違いないが、常に過去化作用によってのみ経験とされるだけで行為そのものは経験ではない。行為を経験にしているのは、意識であり、現在に対する思念であり、それは記憶によって形成された現在という意識である。我々は行為を経験にするために記憶を呼び覚ましているのである。今していることは以前していたことと同じ「何かをすることである。」という風に。
 現在は過去に対する意識があって、成り立つからそれは端的に言えば過去との比較である。このことは哲学者の中島義道も主張している。しかし同時に現在に対する意識があるからこそ過去が位置付けられるという風にも言える。このことは先述の言語的思考と言語的思考によって捉えられた思念の堂々巡りと同一の思考パターンを招く。あるいは意図と非意図ということもその同一の思考パターンが介在している。行為は意図的か否かと問えば、ただちに我々はこう答えるだろう。行為それ自体は意図的ではなく実践されるだけだが、その実践を誘引するものは意図であり、行為されることによって行為の事後的にその過去の行為そのものが意図的であったと思い返されるだけである。それもまた一緒の過去化作用に他ならない。
 我々の身体を生命現象として支える構成要素としての原子は、三ヶ月くらいで三分の一くらいが分子から離れ、別の原子に置き換わっている。そのペースで行けば一年で全ての原子は置き換われると言う。この現象を生物学では動的平衡と呼ぶ。
 つまり我々は十年前、二十年前の自分(そのように感じることが出来るには少なくとも三十年以上は生きていなければならないが)を振り返る時、そこにはあたかも別のもう一人の自分がいるかのように思う。しかしこれはただ単純な錯覚ではない。つまり私たちが十年前の自分を現在と同じ自分だと思えるのは今日の自分と昨日の自分が、昨日の自分が一昨日の自分と、一昨日の自分が一昨日の前日の自分、というように延々と辿っていくことが出来るという確信に基づいている。しかしそれはただの錯覚かも知れないという思念を抱いたことはないだろうか?もしそのように一度でも考えたことがある方は、ある意味では極めて哲学的思考の持ち主である。つまりもう一人の自分という考えは生物学的に、とりわけ神経学的にも、分子生物学的にも、現在の自分は十年前の自分とはまるで別人であるからだ。それを同じ自分であると信じて疑わないのは、我々には先述したような意識の持続という信念(確信である)があるからである。だが同時にその信念は我々が自分自身の存在を確固として位置付けるための心的作用にしか過ぎず、意図的な過去化作用であるとも言えるのだ。もしそのような過去を一連の<「自分自身の意識」の持続>として捉える仕方が我々になければ昨日の自分も今の自分にとっては赤の他人同然であろう。尤も今の自分という思念は明らかに昨日の自分と今日の自分とが同一のアイデンティティーであるという確信によってのみ成り立つものなのであるが。
 例えばあるテレビの対談番組で十年前同じ番組に出演した際の録画を司会者がゲストのタレントに見せることがよくある。そういう時決まって
「ああ、若いですね。」
とか
「ああ、こんなこと言ってますね。」
などと言う。それはその時に言ったこと、その時に考えていたことを忘れている場合である。あるいは大体のことは覚えていても、全部をきちんと覚えているわけではないから、記憶の不確定性によって「ああ、こんなことも言っていたのか。」と思うのであろう。
 しかしこのことはこと記憶作用に関しては、記憶内容とか記憶様相自体が常に変化しているのだから、厳密にどの瞬間の自分も同一のアデンティティーではないとも言えるのだ。
 あるいはこういうことも考えられよう。私たちは生まれた時通常であるなら男性とか女性とか特定の性別を持って生まれてくる。しかしそれは自分で望んだことではない。ではそれは生命の自然現象による偶然でしかないと言い切れるだろうか?
 例えばさっき挙げた例のテレビ対談番組の十年前の出演時の様子を録画で見て「あんなことを言っている。」と感じるタレントは明らかにその時の自分をまるで他人のように感じているのだ。ということは全部明瞭には覚えていない、たかが十年前のことをである。であるとするなら、赤ん坊が未だ母親の胎内にいた頃の記憶など生まれた時の衝撃ですっかり全て消え失せてしまうのかも知れないのなら、未だ赤ん坊が母体にいた頃の記憶はひょっとしたら生涯無意識のレヴェルでどこかの保存されているのかも知れない。つまりひょっとしたら母親が妊娠したての自分というものはある意味では意志的に男性になりたいとか女性になりたいと望んで性選択を受容しているのだ、ということを全面的には否定出来ないということに帰結しないであろうか?
 社会的動物である人間は言語を通して性を選択し、「自分は男だ。」とか「私は女だ。」とか決意表明を内的にしていると多くの哲学者たちは捉えている。ジュディズ・バトラーはその典型的な一人だし、脳科学者の田中冨久子は積極的にセックス(古脳による選択)と生後社会環境に適応していくに連れて選択してゆくジェンダー(新脳による選択)とを区別して性科学的見地から脳科学に挑んでいる。
 自分が考えたことであると感じるかなり多くのことは先述した常識とか社会通念とかの、要するに社会性としての言語的思考によるパラメーター・セッティングであるとも捉えられるのだ。逆に言えば自分という認識そのものさえ幻想かも知れないのだ。それは無数の遺伝子の作用に取り囲まれた我々の全ての行動や思考を考えれば当然と言えば当然とも言えるのだ。
 だから多少暴論と言われることを覚悟で私は敢えて母体にいる私たちの性選択の段階でX遺伝子だけの女性となることと、Y遺伝子に一部変換することで男性になることという事態を、その時点での胎児の身になって考えてみると、その選択経験というものは、同時に胎児にも微かに意識のようなものが認められるのなら、その時胎児は意識的に性を選択しているのかも知れないのだ。ただ通常胎児の頃の記憶は殆どの人間は忘れてしまう。しかし極稀にはそういうものに敏感な者もいるのかも知れない。そういうタイプの人はある者は芸術家となったり、ある者は霊能者になるのかも知れない。しかし恐らく殆ど全ての人間がどこかでは胎児の頃の記憶を常にどこかでは保持しているのではないだろうか?そしてそれはひょっとしたら人間の理由とか理屈とかで説明の尽かない直観力とも関係があるのではないだろうか?
 人間には何か不思議な予感を持つことがある。そういう場合確かに我々は過去の自分に呼び止められている、と感じる。現在の自分とは過去の自分が置き忘れてきたもの、失ってきたものによって残されたものである。それは自然選択によって命脈を保ってきた種子孫を反映させてきた種とは、絶滅した無数の種それ自体の証明であるのと同じである。
 動的平衡によって失われる原子が消滅してゆく様を見届ける隣接した残存する原子にはその追慕の念のようなものが我々のような確固として意識レヴェルからは説明の尽かない、それ独自に記憶作用として保持しているとしたら、我々は実は自分(自分とは大抵高次の統合された自己のことを考えるから)でも気が付かない自分の中の他人として胎児の時から現在までの無数の失われた自分の要素に対する追慕によってのみ構成された身体要素とそれと不可分な精神要素の集合体こそが、「自分」だと捉えられないであろうか?
 我々は何か出来事が起きれば古脳領域ともされる扁桃体によって感知し、それを海馬へと送り込み、更に海馬は新皮質へと情報を送り込むとされ、その一連の作用そのものが記憶作用とされ、どこか局在的に記憶内容が収納されているのではないという現在までの定説が正しいとすれば、益々部分論的には各構成要素が独自の記憶、それは他の部署には知られない独自の記憶が無数に折り重なって構成される全体を「自己」あるいは「自分」と捉えることに信憑性が増して来る。勿論今私が感じる私とはあくまでそれら一連の各部署の記憶を再統合されたものであろう。また意識もそういうものとして位置付けられる。すると統合された「自己」とか「自分」とかはあくまでそれらの統合作用そのものの結果にしか過ぎないということになる。
 確かに我々の日常を振り返って見れば、我々の行動の全てはただ結果でしかない。その行動に至るまでの様々な思念はその時採っている別の行動の際の気持ちである。そして行動そのものとは他者に向けて「私は昨日映画館に行って云々という映画を見た」と報告することはあっても、我々がその映画のことを過去化作用として想起する際には、その映画を見た時の自分の感想であるとか想像した内容であることの方が多い。
 つまり行動というものは他者に対して採られるものであり、他者によって位置付けられる「私」であるが、私にとって「私」はその行動を採った時に感じた気持ちである。
 それは経験というものが自分に対して対自的に、まるで自分を他人のように取り扱うことによってなされる認識であるのに対し、記憶とはあくまで外的な事実や現象や出来事であっても尚、その時の自分の気持ちに忠実に想起されることをとっても明らかであろう。
 つまり我々の中には、そして「私」の中には常に二人の「自分」がいることになる。それは一方は常に自分の行動の全てを他人のように観察して「私の行動」を経験として過去化する自分、もう一方は常に自分の側から見た全ての外的、内的を問わず全ての事象に対する接触者としての自分である。観察者としての自分は接触者としての自分の主観を常に修正しようとする。客観化作用である。しかし情動がそのことを潔しとしないような主張を接触者としての自分が観察者としての自分に語りかける。だからこそ何か上司に訓戒された時口では観察者が上司に対して殊勝なことを言っておきながら、我々は心の中では接触者としての自分が「嫌な上司だ。」と叫んでいるのだ。
 この記憶と経験の同時性に関しては様々な哲学者たちが意見を述べているが、ここではP・F・ストローソンの「意味の限界」から引用しておこうと思う。このテクストはカントの「純粋理性批判」に対する解釈を旨とするものであるが、中島義道は改造されたカントであると言う。(「時間と自由」より。しかしそのことを中島は否定してはいない。) 
「(前略)一つの意識に属し時間的に繰り広げられる経験系列という観念は、それが他の何を含むにせよ、記憶を不可欠なものとして含んでいないだろうか。経験の概念的要素という観念は、認知を、従って記憶を含んでいないだろうか。それなのにどうしてこの能力をそんなふうに無視することができるのであろうか。記憶が、経験、認知ならびに多様な経験を通じての自己同一性の意識のうちに含まれていることはもちろんである。しかしそれはあまりに深くかつ本質的なものとしてそれらのうちに含みこめているので、これを区別し他から分離できる要素であるかの如く取り扱うことには差支えがあるのであり、例えばそれを、時間的に連続したあるいは分離した諸々の出来事を一つの経験系列へと連結するためにその重宝な手段として引き合いに出すことなどできないのである。経験が記憶なしには不可能であるとすれば、記憶もまた経験なしには不可能である。如何に不分明な水準から両者が立ち現れようとも、両者は共に立ち現れるのである。」(「意味の限界」勁草書房刊、123~124ページより) 
 しかし我々は胎児の頃の記憶は言うに及ばず、昨日の記憶さえ忘れるべきは忘れることによって成立させてもいる。だから自分の意見だと思っていることの大半は家庭環境とか教育のような社会環境であるとか、あるいはジェンダー・ロール的に自分自身で積極的に他者一般に追随してパラメーターセッティングした結果として「自分の意見」であると思っていることなのだ。そしてもし胎児にも生まれるまでに意識の原型とか記憶に近いものがあるとしても、女性が女性らしい考えを自分のものとしている考えは、片や古脳による性選択的な生理的自然からであり、生後社会生活を営むようになってからは、新脳(新皮質、大脳皮質の表層)に刻印されたジェンダーという意識である。だから本来胎児としてこの世界に生命現象として登場した頃から一貫した意識というものは既にとうの昔に失われつつ生きてきたわけであり(勿論無意識にはどこかに多少の沈殿作用を来しながらも)、我々の考えはどの成員によるものであれ、自分独自であるかどうかという判断は全て相対的な周囲の成員との比較判断でしかないのだ。そしてそのことは記憶作用というものが同時に忘却作用によって成立しているということを物語っている。つまり我々は常にある知覚経験、ある出来事の体験の全てに対して記憶する際には、その中の一部を記憶させる代わりに他の全てを忘れるか、あるいはぼんやりとだけ記憶させるようにしているのだ。(このことは後章で詳述するが、更にそこに変形とか歪曲がなされるのだ。)そこには選択があるのだ。選択にも恐らく階層性があるのだろうと思われる。しかしでは、それは何故かと言うと一重に過去の出来事の全て、その些細の全てを覚えてなどいられないという一事に尽きる。(しかしだからこそ現代において精神分析が無意識の注目したことの意義があるのだが。)
 このことに関しては18世紀のフランス哲学者のコンディヤックが適切な叙述を試みている。コンディヤックのテクストは膨大な記述の断片なので、特に本論に関係深いと思われるものだけを拾い上げてみよう。
「§三四 観念と観念とを結合するこの能力には、長所と同時に不都合な点もある。これをわかりやすく示すために二人の人間を想定してみよう。一人はこの能力を全く持たない者であり、もう一人は、あまりにも容易かつ強力にこの結合がなされる結果、その個々の観念をもはや思い通りには分離できなくなってしまうような者である。前者の人間は想像力も記憶も持たないであろうし、それゆえにまた、これらの働きが生み出すはずの魂の他の働きをも持たないであろう。彼には反省の能力が完全に欠けているだろう。つまり白痴である。後者の人間は過剰な想像力と記憶とも持つことになるであろうが、この過剰は想像力と記憶の完全な喪失とほとんど同じような結果を生み出すことになるだろう。彼もまた反省能力を行使することがほとんどできないであろう。つまりそれは狂人である。互いに最もかけ離れた諸観念も、それらが彼らの前に一緒に現れてくるという理由だけによって、精神においてあまりにも強く結合してしまうので、それらの無関係の諸観念があたかも自然的に結合しているかのように彼は判断してしまうであろうし、ある観念から別の観念への気ままな連想も、彼には必然的なものに見えるであろう。」
 ここでコンディヤックは何かを観察すること、見る知覚行為(哲学では見るだけのことを行為とは通常言わないのだが私は見る知覚をも行為と捉える。)とは、全てを等価に認識しているのではなく、どのような場面においても何らかの具体的な関心事に沿って、認識している対象を選び、その選択的限定において初めて何かを特に注視し、それ以外のものを背景に沈み込ませ、そこに関心事によって階層性が生じることを言っている。それは例えば特に電車やバスの車窓から眺められる風景に関しての視覚行為における認識とか把握にも言えることだし、群集の中に自分の家族を見つけるような場合にも適用出来るし、それ以外の日常の全ての視覚行為に当て嵌まる。更に彼は続ける。
「この二つの極点に中間に、想像力と記憶が多すぎることによって精神の安定が損なわれることなく、少なすぎることによって精神の快適が傷つけられることもないような、そういう中庸があるはずである。この中庸を得るということはおそらく非常に難しいことなので、最も偉大な天才のみがかろうじてその周辺に近づきうるのみである。(この最後の捉え方には私は多少疑問を抱く。中庸こそどのような成員にも具わった性質であって、天才は何かに関して超絶的な作用を得るのではないだろうか?<著者注加入>)さまざまな異なる精神の持ち主がこの中庸から離れていき、それぞれが相反する極の方に近づいていく につれて、彼らは互いに相容れない性質をもつようになる。(これは確かに人間間に見られる事実であるが<著者注加入>)(中略)こういうわけで、想像力と記憶の極に近づけば近づくほど、精神を正確で、首尾一貫した方法に忠実なものにさせる性質を人は失うことになり、反対の極に近づけば近づくほど、精神を楽しみに満ちたものにする性質を失うようになるのである。前者は過剰で優美に気取った文体で書き、後者は四角四面で鈍重な文体で書く。(後略)」
「§五五 反省、あるいは注意という働きを自力で制御する能力から、自分の持つさまざまな観点を一つ一つ分離して考察する能力が生まれる。その結果として、ある特定の観念の現前がことさら強調されることになる(これこそが注意というものを性格づけるものであるが)が、これを強調する意識は同時に、他とは異なるものとしてこの観念をくまどることにもなる。逆に言えば、魂が注意という働きを自分では全く支配できないという状態にあるときには、様々な対象から受け取る印象を魂は全く区別することができないということになる。自分がそれに対しては門外漢であるような、そういう主題に無理をして挑戦しようとするたびごとに、我々はこういう経験を味わうのである。そういう場合、我々はさまざまな対象をあまりにもごちゃごちゃに混同してしまうので、それらのなかで互いに最も異なった対象でさえ、それらを区別するのに苦痛を感じるほどである。なぜそうなるかといえば、反省することもできず、それらの対象によって生じる知覚の全てに注意を向けることもできないので、それらを互いに区別している[決定的な]知覚を見逃されてしまうからである。ここから、次のように判断することができる。すなわち、もし完全に反省の働きが奪われたとするならば、様々に異なった対象を前にしても、それらの対象一つ一つが極めて強烈な印象をもって迫ってくるというのでもない限り、我々はそれを区別しないであろう、と。かすかにしか刺戟しない対象は全て、無とみなされるであろう。」
 三四の最後の二極の極端なケースの例証は、五五の無関心という事態にも結びつく。というのも全てを明瞭に記憶するということは殊更何か一つを明瞭に記憶することが出来ないから、結局無関心という事態に直結するであろうし、また何も記憶出来ない状態もまた全てに対する無関心を意味する。
 私たちは何か関心があるものを見る時そのものに対する知覚に集中し、従ってその映像記憶に関しても明瞭に引き出せるだろう。しかし問題なのはそうではない状態の時である。何かを漠然と見ている時、そこに何か発見する事実がなければ、それは無関心のまま次の行動に移行するので、概してその時見たものに関しては色彩の強烈なものだけが記憶に残りやすいであろう。強烈な印象とは純粋視覚的なことだけである。しかし厳密に言えば個人毎に関心領域が異なるから何かを殆ど無意識に見つめている場合でも、着眼するものは微妙に異なってくるだろう。しかしいずれにせよ、全てを等価に記憶することは不可能だし、無意味でもある。というのももし我々が見たもの全てを覚えていたら、何も思い出す必要がない。思い出すという行為は要するに忘れているという事態を前提するのだ。だから反省とは忘却事実に対する認識によって促進される。
 我々は物理学的に言えば見る映像は全て光を伴って認知されているわけだから、過去の映像を眼にしてそれを現在であると思い込んでいるわけだ。印象とは個々の部分の映像を一瞬にして把握しようと(無意識に)する時に統合されて感じるということだ。つまりそれを知覚経験とする時、過去化されているわけだから、当然残像を知覚経験を結果として捉えることのために採用しているわけである。
 我々は生理的自然においては意図的に忘却するが、思惟の自然においてはいつの間にか忘却しているのだ。私たちは脳の作用を大脳生理作用としても精神作用としても都合のいい時にどちらかを選び取っているとも言えるのだ。
 我々は意図して生まれてきたのではない。しかし生まれてきた以上生物個体としても、社会成員としても何らかの生の意義を見出そうとする。そこで我々は生物としての生理的自然の秩序と共に社会動物としての責任を負う。

 ここでちょっと頭休めに全く異なった視点から考えてみよう。我々の身体のグランドデザインというものは自然選択によってなされてきているというダーウィンの考えを多くの生物学者たち同様受け入れて、少し自然自体の意図ということについて考えてみようと思う。
 私たちは生命記憶というものを持っている。これは解剖学者の三木成夫が主張していたことでもある。つまり私自身の記憶は私が生まれてからこのかた記憶した様々な出来事であると同時に私自身で忘れたことが沈殿された無意識とか私自身の祖先から受け継いだ遺伝情報とが密接の絡まり合って構成されている。だから記憶は自分のものであると同時に自分の中にある祖先という他者のものでもあるのだ。
 地質学者で古生物学者でもあるアンドルー・H・ノールはダーウィンの自然選択の漸次的変化という事態に対してカンブリア紀の生命の進化の大爆発は当て嵌まらないのではないかと指摘している。(「生命最初の30億年」紀伊国屋書店刊、斉藤隆央訳)しかしこのことも啓蒙的合理主義者のリチャード・ドーキンスの指摘している(「ブラインド・ウォッチメーカー」早川書房刊、監修・日高敏隆)一段階淘汰と累積淘汰の考え方を採用すれば矛盾がなくなる。ノールの主張する「原生代に長い時間をかけて徐々に形成された」というダーウィンの考えはただ単に登場した生物の顔ぶれだけから判断すれば漸次的ではない。しかし連続性と革新性を両立させることとして、私たちは視点を変えてみる必要がある。一つは分子時計であり、一つはその生物の存在する目的である。生物自体は存在目的を意識しているわけではない。しかし自然自体はある意図を持って自然選択の結果ある生物をある秩序の下に存在させている筈である。それをグランドデザインと呼ぼう。
 もし自然自体に今述べたような意図があったとしたら、脊椎、無脊椎双方の動物には二つのシステムを二つの形状秩序によって与えているとも捉えられる。一つは体表形状によってであり、もう一つは体内形状を伴って、それぞれが異なった目的に従事している。
 体表形状は対自然環境的なホメオスタシス、あるいは対他種生物、対同一種他個体対策としての相対、そして移動を目的としてデザインされている。それに対して体内形状は個体そのもののホメオスタシスの維持を目的としてデザインされている。とりわけ内臓システムは代謝活動を円滑にするためにデザインされている。尤も我々のような脊椎動物を含む大群、刺胞動物と左右相称動物全てに共通する祖先と袂を分かったところの海綿動物には体内形状は至って単純で器官なるものは殆ど存在しない。まあそこのところはあまり深く追求せずに考えていってみよう。
 例えば脊椎動物全般とりわけ哺乳類(私たちを含む。)に着目してみると、体表形状は左右相称であるが、内臓は必ずしもそうではない。では何故体表は左右相称となっているかということを考えると、まず思い浮かぶのは移動する時に移動先の今立っている地点からの角度に関して言えば、どの角度へ移動するのにも、前進する場合均一なエネルギーで済むということは言えるだろう。つまりもし左右どちらかが大きかったり、小さかったりすれば、移動方向の角度的な意味でのかけられるエネルギーの偏りが必然的に発生する。その偏りを克服した形状こそ左右相称への進化であると言えるだろう。
 例えば脳は人間でもその頭蓋骨の収納において左右相称となっている。尤もその機能的な役割は微妙に左右で異なってはいるが、形状的な意味合いとか重さとかはほぼ左右相称である。これは明らかに移動の際に左右相称である方が脳の機能発現の見地からも、頭蓋骨への収納に関しても便利だからであろう。しかし刺胞動物は放射相対となっているために必然的に固着生活か浮遊生活に適した形状ということになる。この形状は直進移動には適してはいない。しかしこの刺胞動物と左右相称動物の戦略の差は恐らく対捕食者戦略の違いに起因するものであろうと思われるが、今ここではこれ以上立ち入らない。
 しかしそれらの謎の全てが解明され得たとしても尚未解決の問題が残される。それは繁殖のためのデザインである。刺胞動物では固着型つまりポリプ型は無性生殖、浮遊型であるクラゲ型は有性生殖で、その二つの形態を一個の個体が踏襲するタイプも多い。
 全ての生物は繁殖を目的としている。それは生の究極の目的とも言える。つまりある個体の生存は究極的には次世代にその個体の遺伝情報を継承させ伝えてゆくことであるとも言える。個体はそういった使命を帯びた存在である。しかしもし個体が生存する目的がそれだけであるなら何故我々の身体をも含めたあらゆる生物の全個体(植物のような個体独立したものではないものをも含めて)のシステムはこれだけ複雑なのだろうか?もしただ次世代に遺伝情報を伝えることをのみ目的として生物が生まれてくるのなら、あるいは個体の寿命もそれほど長くなくてもよいのではないか、という疑問が発生する。例えば一日で死ぬカゲロウのような昆虫でさえある一定の生の時間を持続して然る後に死ぬ。
 ということは繁殖とはある生物個体にとって欠くべからざる目的の一つではあるものの、その全てではないということになる。ここに自然の意図というものが初めて意味を帯びてくるのである。
 その目的の一つは競争である。自然選択はただ自然が一方的に生物に対して選別しているわけではない。生物自体が主体的に自然へと働きかけ自然と生物との相互の関係によって初めてある生物が特定の環境に適応し進化を遂げ後代に繁殖を約束される。
 例えばこのことを人間社会の幾つかの例を出して考えてみよう。
 例えば水泳の選手権大会において決勝戦に挑む選手のことを考えてみよう。決勝では通常のケースであるなら優勝候補が最低二人は鉢合わせするものである。しかし一方が体調不良で欠場するとしよう。するともう一方の選手は二人で競い合って出場する決勝戦の時のように思い切ったタイムを出すことが出来ず、確かに優勝自体は確実にものにするのだが、寧ろ優勝候補ではなかった二位以下の選手の方が伸び伸びと記録を更新することが出来るというような事態は我々の社会ではビジネスシーンにおいても珍しいことではない。これは政治家のディベートに関しても同じことが言える。政治家とか論客というものには敵という存在がその目的達成のために相互に必要なのだ。つまり競争意識というものこそがどちらかが勝者となりどちらかが敗者となると知っていても尚、仕事上の業務上の進化を獲得するのには必要なのである。それは自然の生物間の競争にも当て嵌まる。いくつかのある環境に適応すべく暫定的に設えられた幾種類かのタイプの進化的変異種間の競争こそが最終的にはより環境に適応したベストな進化形状とか生活スタイルを決定してゆくのであり、決して予め優れたグランドデザインが決定されているわけではないのである。つまりそこまでは神さえも知ることが出来ないというわけである。
 つまり全知全能で全ての将来をも見通せる者をのみ神と呼ぶのだとすれば、何も態々殺戮や挫折を経験する敗者をも神が創造されるわけがない。初めから勝者になるべき種だけを創造されればよい。自然とはどの生物が生き残り、どの生物が滅ぶかという実験場であり、試験場である。故に生存競争をさせる自然とはただ単に種間の競争を見守る公平なる審判であり、少なくも全知全能の神ではないということになる。よって自然は全てを見通せない。自然そのものさえその自然全体がどのような状況に将来なるかを見通せないのだ。よって自然は神ではないし、神というものはいないということになる。
 神とは都合のよい時に人間が全知全能であると完璧な能力を持つ者を想定した(人間は打ちひしがれた時とか苦しい時には神頼みするものである。)便利な観念の道具であるということになる。 
 私たちは生きて疾病に悩まされ、特異な体質や性格に苦しむ殆ど完璧さとは程遠い自身の形質と一生付き合っていかなくてならない。サルトルが言ったようにまさに「人間とは一つの無益な受難である。」つまりもしそれでも尚神がいるとすれば、全ての生命は神がどの個体が、どの種が成功し、どの個体どの種が挫折するかをじっと見つめていることのためにのみ我々をも含む全ての生命を誕生させたことになる。
 つまり形質的な意味では不備さをも兼ね備えて生きている生命現象とは、それ自体が一つの資質論的な経験と記憶の同時性を体現していると言える。というのも神という概念を不可避的に使用せざるを得ないということは無神論者であっても例外ではないという一事を取っても我々はその存在自体で一個の矛盾以外の何物でもない。つまり競争的現実において悩むという事態一つ取っても、我々は全ての他の生命同様常にどれが有利な方法で、どれが優れた能力であるかということ自体が常に決して定まっているわけではない世界において右往左往して試行錯誤することを宿命付けられている存在であるということになる。だから我々の種としての記憶とは不合理な思考をする(我々は敗者に対して憐れみを持ったり、成功者を妬んだりさえするし、そういう性格もまた遺伝する。)こととか、生まれた時に既にある程度決定されている好きな動物とそうではない動物という認識(蛇が気持ち悪いとかの)を携えているとか、要するに合理的に割り切れない側面においてより強く祖先の気持ちを体現出来るものである。そしてそれは我々の日々の経験的事実(誰しも他人を羨んだり、気持ちの悪い思いを味わったりしている筈である。)自体が自分の記憶にとって掛け替えのいないものであると同時に、祖先もまた同じように感じたであろうという思いを抱かせるものであることをとっても一個一個の経験は我々自身の我々と我々の祖先の記憶をも常に引き出し、だからこそ生きて何かを経験させることとなる場であると感じることが出来る。

Thursday, October 29, 2009

第七章 自由と意図

 人間は主体的自由の獲得を自己内の価値とする。それは価値システム論的な優位性として確固とした信念である。強制されたつまり押し付けられた自由、つまり与えられた自由も、全く自由がない状態よりはましだが、やがて満足出来なくなるのだ。だから逆にどんなことをしてもいいよ、何も義務を果たさなくていいよ、と言われれば逆に自分で自分に何らかの高いハードルを課して目標を持ち、自分を束縛したくなるのだ。他者からではなくても自己によって自主的に強制することに人間は耐えられるのだ。勿論仕事上で求められて仕方なしに他者から強制されて、それをこなすという事態は日常的な出来事であろう。しかしそこには報酬が付帯するから未だ我慢が出来る。勿論それで自己内の満足感が得られなくてそういう生活から脱出したくなる人もいるらしい。しかしそういうケースというのも殆ど例外的なことであろう。というのも世界中には独裁国家による強制で殆ど自由のない成員の方がずっとそういう例外的なケースの成員よりも多いだろう。あるいは独裁国家でなくても、貧困は自ずと生活レヴェルでの自由は限定する。あるいはあまりにも莫大な財産を遺産として継承した者には、また誰にも理解出来ないある種の不自由というものがあるのだろう。しかしこれもまた例外的なケースで想像しやすいとは言えない。
 人生において他者とか外部的圧力によって追いまくられるスケジュールで生活するだけであるのなら、それも立派な強制なので、そういう状態から一刻も早く脱出したいと願うので、意図的な自由というものは偶然的なものではないものの方により価値システム的には意味があると言えるだろう。例えばその典型的なものが夢である。金銭的に恵まれない者にとって金銭的な自由が夢の内容となる。しかしそれが十分満たされた者にとって夢の内容は別個の次元に転換するだろう。しかしどのようなケースであれ、人間は自己内の夢に、その夢という奴はそう容易に叶えられるものではないから夢と呼べるのだが、邁進し努力することが可能であるものにより価値を置くものである。だからたとえ偶然的に宝籤が当たって大金が転がり込んできても尚、自分の努力によって得た幸運以上の感動はないに違いない。勿論偶然幸運が舞い込んでくることは、不幸に見舞われるよりはずっとましだということは当然のこととしてもである。だから意図というのは、それを抱くことで価値システム的な意義を見出し得ることにおいてのみ、正当化し得るものである。というのも世の中には悪意に満ちた意図も物凄く多いからだ。そしてそれは自己欺瞞に陥りつつ正当化しているのだ。善的な努力を必要とする意図において正当化は正当である。つまり真の自由とはある意味では障害を必要とするものなのだ。
 しかし自由がそのように敢えて立ち向かうという側面を持っているにしても、自由の行使そのもの、つまり行動の選択に関しては意図的であっても、その仕方、つまり個々の行為の方法そのものは意図的なものではない。例えばある発言をするとしよう。しかしその語り方はいくら個性的な表現方法を採っても、言語構造とか文法とかそういう面から言えば、全てある規則に沿ったものであり、例えば言語習得から歩き方、食事をする時に口にものを入れて、噛むといった一切は全て非意図的に学習したものばかりである。我々は言語的思考を巡らせて、これこれこういう目的で語るということを思いついてこうして語り方を覚えたわけでは決してない。ただ只管両親が話すのを観察して耳で覚えいつしかそれを模倣しながら習得していったのである。それは鉄棒で逆上がりをしたり、自転車を乗り回すようになるようになのである。つまり行動の選択においてのみ意図的であっても、その仕方や他者に対して態度をも含めた全ての示し方は全て非意図的に学習し、それを利用しているに過ぎない。方法の選択とは殆ど無意識のレヴェルで執り行われることなのだ。
 つまりそのように全ての行為の仕方そのものの非意図性こそが我々を行動レヴェルでの選択という面に自由を見出す契機ともなっているのだ。意図的であるということに意味があるとすれば、それは方法の大半、生活様式の大半、身体的行為の大半が規則以前的な無意識の本能的発現によってなされているからこそ逆に意図という面での心的作用が殊更問題とされるに至るのである。
 このことはウィトゲンシュタインもシュレーディンガーも主張しているのだが、例えば今例に出した言語とは習得する際にその意味を問うたりはしない。それらは我々が生まれて社会という荒波に揉まれて成長する際にその様々な習得過程で半ば強制された現実に即応した形で身に付けてゆく。つまりそれらは彼等の言うように使用によって身に付けるものである。意味とか意義とかは技術を習得して然る後に考え出すものである。だから何故イヌをイヌと呼び、ネコをネコと呼ぶかということに関して習得する時には考えない。そういうことは「それ」をイヌと呼び、「これ」をネコと呼ぶという習慣を身に付けてから後のことなのだ。これは意図ではない。しかしそれを無意識と決め付けてもいけない。確かに言語発声ということには無意識もある。しかしそれは語彙と語彙選択とか文章選択という脳内の判断をし得るようになってからのことであり、言語習得期には幼児はそれなりに意識的に学習している筈なのだ。それは幼児なりの意図に基づいている。
 そして彼等は言語使用するようになり、やがて既に身に付けた語彙や語彙選択や文章選択によって発語行為を執り行い、その言語的思考においてものを考え、意味を捉え、哲学するようになるというわけだ。その時意図は明瞭に言語的に説明のつくものとなる。それがたとえ言語的に説明のつかない理由によってなされる行動においてさえ、「言語的には説明が尽かない。」と説明することが出来るように思念することが出来るようになる。それらには必ず言語というものが絡んでいるだろう。そういう意味では厳密には大人には完璧な非言語的思考というものはあり得ないだろう。あるのは恐らく言語的観念外的な思考領域というようなものだけだろう。しかしそれすらそのように「前言語的である」と思念されるだろう。
 つまり意図とは言語的な意味では自由にはなれないということにその本質がある。意図の発生そのものは非言語的であることもあるだろう。例えば感情こそは脳科学者の田中冨久子氏の「最近の神経科学のトピックは感情が脳をつくる、という概念である。」という謂いに象徴されるように(彼女は脳でもとりわけ扁桃体を初めとする古脳にも大きく注目して男女の脳能力の傾向を研究している。「脳の進化学」より)、我々は感情を契機に言語的思考をすらしている。しかし一旦思考に入れば言語が必ず介入する。意図の発端は感情だろう。しかし意図が意図として顕在化されてゆく段になると、今度は言語がかなりな比重で活躍するようになる。そして思考とはそれ自体で生理的自然ではなく思惟の自然だから、それは自然をただ傍観すること、静観することではなく、自然自体に関わろうとする意志を含む。思考は必然的に意思疎通へと誘う。意思疎通とりわけ言語行為とは法哲学者の大屋雄裕によれば、法の存在を疑うという「よどみ」を解消すべく、あるいは法意義を確認するためにこそ執り行われるとされる。つまりこういうことである。イヌをイヌと呼び、ネコとネコと呼ぶことそれ自体に我々は何の疑問も差し挟まない。そう呼ぶからこそイヌやネコを我々は指示し得るのだ。しかし何故そう呼ぶのかという疑問を抱くことは自由である。それと同じように言語が意図されたことではなしに自然に半強制的に設定された自己にとっての社会環境との関わり合いによって学習されてゆくような意味で我々は言語以外にも数多くの法という記号を知らず知らずの内に援用してきている。常識、マナー、自転車の乗り方、挨拶、自動車の免許を取ること、お金を使って生活すること、寝ること、食事を取ること等。それらは意図的な事態では決してない。全て規則遵守を運命付けられた行為と行為に対する記号理解である。だからこそ逆に我々はそこに生じる疑問という「よどみ」を発語行為によって他者意見交換して意味を見定めようとする。またそういった行為の中から法の在り方そのものに対する認識も生じてくる。だから自由とはある意味では「何故そのようになっているのだろうか?」とか「何故そのような仕組みや仕来りに我々は従わなくてはならないのだろうか?」ということを考えることにこそあるとも言える。そう考えるからこそのように考えていることを信頼出来る他者に伝え合い、あるいはそう考えながら何かを提案したり、発案したり、他者の意見に耳を傾けることが可能となるのである。だから意図とはそのような自由を行動に置換する時に他者との関係におい自己の思念を捉える時に発生する心的作用であると捉えることも可能である。
 では考える自由を行動に置換するとはどういう事態なのだろうか?それは端的に言って、自分の考えというものは、それ自体は何を考えても自由であるが、考えられたその考えは一体全体他者に伝えるべき事項なのだろうか、という思念がまず浮かぶ。然る後、それが伝えても構わないということになれば、それを誰に伝えるかという思念が浮かぶ。そしてその度毎に選択してゆくわけだ。最初のステップで、誰かに伝えたいと思えば、そこで意図が生じる。勿論誰にも伝えるべきではないとなればその考えをそっとしまっておこうということが意図となるか、それともそれほど大したことではない場合には忘れ去るだろう。しかし少なくとも一旦誰かに伝えようと決心すれば、あとは意図が活躍するだろう。誰に伝えるべきかと考える。それがいい考えでればあるほど誰かには伝えなくてはならないと考える。そう考えながら誰かを特定することが意図である。要するに自由は思念の自由から行動の自由へと転換される時に、必ず自己内の検閲を潜るのである。
 そしてこれがかなり顕著なこととしてあるのだが、自己検閲においてかなりいい考えも多く自己規制というタブー視によって葬り去られるのである。また逆に下らない考えを述べてしまう、よりにもよってそれを最も伝えるに相応しくない者へ伝えるというミスを犯すことがあるのだ。そうした時しばしば我々は「しまった。」と後悔したり、自己嫌悪に陥るのだ。大屋が言う「よどみ」に対する解消のためになされ得る言語行為は、実は他者に対する用心とか警戒心によって自己規制されている。しかし必要な自己規制というものは内的に誰しも理解しているが、本当は伝えた方がよいのに伝え淀んでいるという事態もまたそう珍しいことではないのだ。寧ろ率直に伝えた方が全てが早く解決するのにしばしば我々は伝えるべき他者に対してある種のステレオタイプを勝手に自己内で捏造して、それに対する対処として自己規制し、発語行為も、発語内行為(ある言辞によって齎された内容を発話者の意志として顕現させること。言語哲学者のJ・L・オースティンの提唱した概念)あるいは発語媒介行為(ある言辞の請求に対してそれを伝えた他者がその請求に従うように促進すること、これもオースティンの発案によるものである。)も臆してストレートに他者に自己の真意を告げないで終わることが多いのだ。この自己検閲とか自己規制といったものはフロイトが超自我と呼んだものであり、ある種の免疫作用の第一段階として予防措置ということとも考えられるだろう。しかしこれもまた常識とか習慣といった行為に対する記号理解(つまりあらゆる行為はある特定の目的に供せられるという認識で自動券売機で切符を買うのは電車に乗るためであり、自動車に乗るのは歩いてはとても行けない距離の地点へ移動するためであり、歩くのは前進移動するためであり、食事を取るのは空腹を満たし、栄養を取るためであり、挨拶をするのは地域、法人、社会全体へ人間関係促進のためであるというように捉える認識である。これはソシュールのような記号学者からハイデッガーのような哲学者に至るまで考えていたことである。)の一つとして黙っておく方が得策と判断しているのだ。尤もどんなに伝えるに相応しい相手でも、時と場所と場合というものがあるので、我々はそのTPОに常に苦慮するのである。
 つまり言語行為というものは全て何かを伝えることに意味を見出し(無意識なりにも)それを有効な伝え方で処理することが求められる。どのような被伝達者として相応しい人物であっても尚、その伝え方、伝える場所、伝える機会というものを伺うことが要求される。その時初めて我々は自己内の原羞恥感情を他者の中にある原羞恥感情と重複させて相同な立場に置き、要するの他者の身になって考えるのだ。その時伝えるという行為の意図が鮮明になる。伝える内容、伝える相手、伝える機会、場所といった選択において我々は自己の考えを行動に移す時の意図を明確にせざるを得ないのだ。もし自己内においてその意図が明確化されなければ、我々はその伝達内容に関しては沈黙しておいた方がよい、と考えるか、じきに忘れ去るのみである。そしてその選択においても自由は介入してくる。
 本当に伝えるべき事項であるかどうかの思考も自由であるが、その思考如何に関わらず、それを伝える行動に移すか否かという選択もまた自由である。つまり敢えて共感を誘うことを拒否することを選択するのも、順当にいい内容伝えるべき他者に伝えるように行動に移すことも全て自由の領域である。そしてこのようなケースで初めて我々は意図的であることが極めて自由と直結した事態であることを知るに至るのだ。
 そしてここで再び記憶の問題が浮上する。つまりある<考えられた内容>に対する発語意義は、ある意味ではそれは以前口にしたことだったのだろうか、という経験則(これは記憶が不可欠である。次章で詳しく述べる。)を検閲機構として利用しているのだ。あるいはその内容を語るに相応しい他者の選別という事態は、実は他者一般に自己による理解、つまりその選別以前の他者に対する評定(被伝達者としての資質論的な意味での)、自己内の対自己の態度といった全てのデータが検索されるのだ。
 「こういう内容であるなら、あの他者が被伝達者としては有効だが、別のそういう内容であるなら寧ろこちらの他者の方が相応しいだろう。」とか「彼にはこういうことはああいう場所でこういう機会に伝えることが好ましいであろう。」というような目測が必然的に選択基準として採用されるに至るのだ。実はこの検索行為を支えているのがあらゆる種類の記憶作用である。ある成員(他者)に対して検索事項が多ければ多いほどよく知る人物ということになる。よく知る人物でも好ましい人物とそうではない人物というものはある。そしてあながち好ましい人物だけがある被伝達者として望ましいとは言えないということこそが自由の定義を再び困難なものにもしているのだ。例えば行動の際の意図における悪意の典型的なものとは好ましくない他者に対する理性的理由の欠如した攻撃であろう。カント的倫理観を採用すれば敢えて好きであるとか嫌いであるとかとは別に伝えるべき内容を正確に伝えることの自由の権利の行使であるということにもなる。ということは逆に自己にとって好ましい人物に対しても狎れ合う(あるいは馴れ合う)ことを差し控えるべき場面もあるということを表してもいるのだ。
 ここで本章の自由と意図の関係について纏めておこう。私たちはある社会環境に生物学的にも社会学的にも適応して生活している。例えば私は東京から小一時間くらいで電車に乗って来られる埼玉県の地方都市に生活するようになってから、約十九年が経過したが、その間色々な変転が街自体にあったが、そういう変化に対する対応力をも含めて最初に暮らした五六年というものは殆どこの街に暮らすに当たって学習すべき色々の社会常識(どの都市にも地方にも、その地域固有の考え方があるし、社会常識も微妙に異なっている。)を把握し、地政学的にも人間関係的にも順応することに追われる毎日だった。しかしその後月日のたつに連れて、私の生活はほぼ固定化されていった。今では私の方からこの地方都市の生活に順応することが固定化されたために、変化を作る当の側に廻っているとも言える。生活に必要な場所記憶(これは海馬が媒介するとされるが)は、徐々に固定的な機関の場所に関しては長期記憶の部類に入って来ている。今のところ当分引越しをする予定はないので、恐らくその中の幾つかはこの地方に住み続ける限り長期記憶として定着するであろう(余程何らかの自然災害による急激な変化さえなければ)。
 要するに居住も、幼児の言語習得も、ある規則とか習慣的な所作とか、表現とか慣用性に基づいた使用による学習、反復記憶であり、それらは各自第二章で述べたパラメーター・セッティングの変数なのである。短期記憶というものはその都度絶え間なく変化する事態に対応して場所に関してであれ、人間に関する認知であれ(役所勤務者にはありがちな事態であるし、それ以外でも大きな組織ではありがちなことである。)、細々とした法律的な事項であるとか、テレビや新聞のニュースであるとかは余程印象的なことでない限り、全てを記憶することはないだろうし、また意味もないだろう。少なくともジャーナリズム関係の職に就いていない通常の市民にとっては。
 つまり記憶するべき事項というものは不可避的に我々自身の生活という実体において我々を強制するが、同時にその社会環境自体に適応する我々の主体的な関わり方そのものが、自由の定義をその都度更新しながら、自己にとっての最適な生活態度や行動パターンの標準値とか不動点を求め、設定してゆくようになる。
 自然選択においては生物進化論的にも遺伝学的にも良好な状態でも不良の状態でもない平均的な状態に常に収斂されてゆく傾向があるという。つまり不良な遺伝子もそれに伴う表現型も、あるいは改良されたそれらも共に突然変異型であるに過ぎず、共に自然選択の平衡的な安定希求には寄与しないということである。自然選択とは長い時間ではゆっくり確実に変化してゆくが、我々が生物学的にも考察しやすい例えば百万年単位(これは進化の時間からすれば極めて短い時間である。)で考えればなかなか変化しない強情なくらいに安定を望むものと捉えることが出来るという。(ジョージ・ウィリアムス著「生物はなぜ進化するか」草思社刊より)
 これと同じことが我々の生活の安定という生での事態にも言える。私の住む街にも私自身の身体とか精神とかも長い時間をかけてゆっくり変化しつつある部分というものは誰しもあるだろう。しかし同時にそうたやすく何十年単位では変化しない部分も多く所有しながら我々は人生を過ごすのである。そのための固定化された価値観、使用する場所といったものは長期記憶に分類され、絶えず細かく変化するもの(日本の内閣のメンバーとか細々した法的事項)は短期記憶に分類される。そして我々が意図的に長期的に人生の目標にするべきものはそうおいそれとは変化しないし、また変化させるべきではないとも思うものだ。
 あるいは我々は意図的な行為を長期的な展望にたって考える時、それらは生き甲斐とか人生観とか、夢と呼ばれ、またころころ変わるような意図は生理的自然に則った生活上の智慧(方法的記憶は尾状核が媒介するとされる)のその場その時の適用ということであろう。そして自由を定義する時我々は前者の長期的不変な意図において述べることがより多いだろう。それが例えば日常の些細な場面で後者のその場その時の対応とか方法的処理において応用され、その人間の行動のパターンとか考え方の傾向として顕現されるのだ。
 要するに意図とはより短期的なこと、自由とはそのような幾多の意図が積み重なって経験則として統合されたものが価値規範とか価値システム論的に弾き出した結論と考えてもよいだろう。だから自由と意図の関係を考えるのには必ず記憶と経験という事態が考慮されねばならないのである。またそのことは同時に我々が瞬時にも長期的な期間においても何を行動として考え方として選択し、何を捨てているのかということ(これは次章で詳しく考えてゆくが、我々は何もかもを克明には記憶出来ないし、また出来ないからこそ未来を展望出来、現在を生きることが出来るのだ。)、それは単純な知覚レヴェルでもそうだし、人生観とか世界観とか友情とか人間関係でもそうなのであるが、要するに何を重要視し、何を軽視して生活しているかという実体論へと我々を誘うのである。

Tuesday, October 27, 2009

第六章 自由の定義

 私たちの社会は既に築き上げられたシステムを死守することが目的であるかのような装いになっている。だから個人の幸福感は社会機能維持の観点からの義務遂行以外のことは全て自由時間の、しかも法的な秩序を乱さない限りでのプライヴァシーの尊重によって命脈を保っている。現代人のプライヴァシーとは限定された自由の行使であると言ってよい。しかし自由とは本来システム化されていなかった人類の社会においてさえ、限定されたものであった筈だ。要するに自由とは一面限りない無限性を秘めているような錯覚を我々に齎すのだが、その実極めて合理的な社会機能維持に対する貢献と引き換えに付与される限定的なものでしかない、というのが実像である。だから逆に仮想界とは、そのこと自体を説明しようとしても不可能なものであると捉えたカントの思惟の中には、行動的な自由が限定的であるからこそ、思念の自由が保障されているのだ、という主張としても読み取れるのである。だが行動的な不自由が齎すものに友情というものがある。友情の心理と欲求には、本質的に家族に向けられた責任と愛情、あるいは全くの他者に向けられた責任と社会意識と異なった自由がある。それは家族や親族とも他人とも異なる隙間的な自由である。
 私の母は言ったことがある。適度に親しい人間同士多数で飲む酒よりも、ずっとごく親しい者同士特に二人で飲む酒の方がずっと美味いし、楽しい、と。そうである。適度に親しい者同士の触れ合いでは必然的に社会的なヒエラルキーが介入してしまうものである。しかし真に深い友情はそうではない。友情は個人的であればあるほど社会的なヒエラルキーとは無縁のものだからだ。人間は実はこのような面において真の自由を感じる。それは職務に邁進することの責務と義務履行に伴う権利としての家族保有ともまた異なった純粋他者社会性とも、身内とも異なる自由の時間ではないだろうか?またそのような友を持つことは、真に愛情ある家庭を持つこと、あるいは真に生き甲斐ある仕事を持つことと同じくらいに貴重なことで、人生そういう出会いは配偶者や仕事同様そう数多くは遭遇しない。またそういう出会いこそ意図的に出会えるというものでもない。だからと言って日頃の自己努力の全くないところでもあり得ない。それはある程度日常的な心掛けから来る出会いでもある。
 人間は日常的には常に感覚的メッセージを受け取り、与えている。それは自然に対してもそうだし、自然からもそうだし、他者に対してもそうだし、他者からもそうである。それは意図的である場合もあれば非意図的である場合もある。しかし選び取ったものを捨てるか大切に保有するかという決断、決意、意志の全ては意図的なことである。それは苦労して勝ち取ったものでも、偶然選んだものでも(偶然もまた日々の努力の必然である。)同じことである。知覚によって得られたことを糧にするのも忘却するのも選択であり、それは意図的であれ、非意図的であれ意志的なことである。だからある他者に対して採る態度もまた感覚的メッセージであるし、緑の森林を見て感得するクオリアもまた感覚的メッセージの受容であり、その森林の中で呼吸することは自然に対して個体レヴェルでなす感覚的メッセージの自然に対する付与である。
 受容すること、受領することは自然からにせよ、他者からにせよ、それ自体で語らいであるという意味では等価な生理的自然現象であると言える。フランスの哲学者でカントよりも二十年くらい先輩のコンディヤックは、知覚においてあるクオリアを感受することを、あるいはそれを一つの自然からのメッセージとして受領することを、あるいはそれを自然の主張として受け取ることを観念の記号という表現をした。それはある意味では自然に対する記憶と意識の共同した「構え」の作業に他ならない。「構え」を抱くことで初めて我々は自然に対して特定のクオリアを個人ごとに抱き、それを認識力として把握して、そういう「構え」から自然に接してカントが最高原因とか最高目的と題したような思念を持つ。それは価値規範的な価値システムの構築と言ってもよい。それは自然科学者たちがある自然のメッセージを重要なこととして重視しながら、同時にある時には別の現象に対してはあっさりと無視するように決め込むことにおいても言えることである。クオリアとは感覚の記号であるとさえ言える。またそのような認識こそがバタイユがそのように統合することで「明晰さに不都合がないわけではない」と言った(「宗教の理論」付録、総体を示す図表及び参考文献より)ことは、個々の人間の意図とその連鎖自体の非意図性、想定外性あるいは個々の自然現象の自然科学的物理法則遵守性と、その組み合わせの非統一性、あるいは偶然性といった事態を言っている。だから我々が日々眼にする風景とか世界という認識にもそのことは言える。我々は決して予定調和的に自然とか外部世界と接しているわけではないし、その都度の事情において常に流動的に意図しているわけだが、同時に全ての生の時間を予定通りに運ぶことは出来ないし、そのように意図しても必ず不測の事態が発生し、またそのことに対して驚きもしない。未知性とはいつまでも未知であるわけではなく、やがて既知性取り込まれてゆくが、その既知性の中にも無限の未知性は控えているし、それに気付くこともあれば、見過ごすこともあるのだ。だからこそ真の自由とは既知であると決め込んでいたものに未知性を見出すことに他ならない。また真の自由とは解放されることばかりではなく呪縛することである場合もあるのだ。だから寧ろ晴天の霹靂のような遭遇とか知遇とか邂逅とかは、強制的な自然とか外部世界からのメッセージである場合も多いのだ。
 例えばある日突然我々にも死が訪れるかも知れない。例えば道路を歩いていて突然暴走してくる自動車に追突してその瞬間死を一瞬意識した次の瞬間には息絶えているかも知れない。そういう場合死した場合どのようなケースでも同じと捉えて来たのが科学とされている。しかし幸福に満ち足りた瞬間の死と、例えば受験の合格発表を見に行く時の不慮の死、プロポーズの返答を恋人の確認しに行く時の不慮の死は、果たして結果を知って死ぬ時と同じ死に方なのだろうか?科学では霊魂はないとされている。しかし霊魂は不在であっても尚、無は一種類ではない気が私にはする。満ち足りた幸福の絶頂で死ぬ場合と、結果とか成果を見ずに死ぬ場合と、あらゆる肯定的、否定的なメッセージを受け取ってから死ぬのとでは同等の意識の消滅なのだろうか?だがそう考えること自体が、ただ生きて意識を有する側の我々のただ単なるエゴなのだろうか?
 だからこそ哲学者は自由を問うのだ。自由とは価値規範である。あるいは価値論的システムの認識が生む論理なのだ。そして自由という可想世界において初めて論理と倫理が一致するのだ。
 例えば空間にも記憶があるとしてみよう。すると我々が脳内の活動において記憶するシステムが理解しやすくなるとは言えないだろうか?例えばただ単なる物質には我々のような意識はないだろう。しかし意識を支える根底的な構造それ自体に我々もまた他の一切の物質や空間同様晒されていると考えることで、逆に我々の生の意識という問題を特化して考える困惑から解放される気が私にはするのだ。つまり我々の意識にある無の思念に内在する空間それ自体の記憶能力のようなものと等価のものが立証されれば、我々の記憶もまた物質それ自体の低次の意識とか記憶に支えられた高次の我々独自の機能の意味も我々固有の価値システムとしてではなく、自然全体の価値システムとして理解しやくすくなるのではないだろうか?
 あるいはこういう風に考えてみよう。まず我々はしばしば犯罪をなす者がいるから法律が必要とされると考えるが、法律があるからこそ犯罪をなす者が出現するのだと考えてみよう。裏切りとは他者を欺かないという道徳律があるからこそ出現するのだとも考えられる。悪とは善行という功徳があるからこそ出現する逸脱なのだ。怠惰とは勤勉という美徳が生み出したものであるとも言える。あるいは憎しみとは愛情があるからこそ生まれるものである。妬みは尊敬心が生む。つまり全てのネガティヴ要因とは、その正反対の肯定的価値規範の存在が誘発する逸脱であり、規格に嵌ることを拒否する自由という観念が生み出したものである。あらゆる束縛、呪縛、緊縛からの逃避が生んだ事態なのである。
だから逆に法のない世界では犯罪はないということになる。あるいは挫折とは成功という事態が一方であるからこそ出現する事態であるような意味で、逸脱者は正当者並びに順当者の存在が生むものである。だからそもそも規格に嵌ることを美徳とする観念のない世界では逸脱や脱落という観念は生じ得ないのだ。愛される者がいればこそ愛されない者が出現し、嫉妬が生まれるのだ。愛のない世界には嫉妬もない。解放感というものがあるからこそ、束縛が生まれるのだ。解放され過ぎると人間は束縛を求め出すのである。価値、規範、節制、蓄積、秩序、規格(制)というものの存在は逆に無駄、逸脱、消尽、蕩尽、無秩序、緩和という措置が生むのだ。本来そういうネガティヴな事態を未然に防止するために儲けられたと考えられている措置の存在がその逆のネガティヴな事態を招聘するのであって、その逆ではないのだ。ということは勝利とはそもそも敗北を容認する形でしか成立しない事態であり、また勝負の参加者は全員自ら敗北する可能性をも引き受けているのである。つまりたった一人の勝者の存在を他の全員の敗者が容認することを予め承諾する形でこそ勝利が成立するわけだから、法律とは法に則った成員をではなく、犯罪に手を染めるものを排除していくことの全成員間に内在する暗黙の欲求を容認する形で設置されているものなのだ。
 では何故そのように我々はネガティヴな事態を招くことを承知で、そのような価値規範を設置するのだろうか?一つには我々は決して心底勝者だけを自ら率先して望んでいるわけではないのだ、という事実が挙げられる。勿論我々は進んで敗者になりたいとは望まない。だからと言って決して勝者へと進んでなりたいとも通常は思わないものである。例えばある仕事で成功する者とはその成功に見合う実力に対して与えられる称号であり、社会からの承認である。その意味ではその称号を得るまでの日々には多くの苦悩と挫折があり、それと引き換えに手中に収めた勝利という事実があるのだ。すると勝利の獲得には必ず勝利することが容易ではない苦悩の日々と経験が控えているのだ。だからこそ我々はある意味ではそこそこの成功、そこそこの幸福を寧ろ積極的に求めるのである。つまり勝者に付帯してくるストレスとか敗北に対する極端な恐怖を味わうくらいなら、いっそそこそこの勝利と幸福に身を委ね、それ以上望まないように行動するのだ。つまり勝利には必ず大きな責任を伴うということを全ての成員は承知している。そこで寧ろ勝者を讃えることの方を他の全ての成員から讃えられ過大な責任を負うことよりも選択するのである。
 つまり真の自由とは大いなる責任を伴い、多大なストレスを生じさせやすいということを我々は知っているからこそ、全てに関して敗北を喫すること決して望みはしないものの、どのような勝者であっても尚、部分的には必須の敗北をも確保しておくように心掛けるものなのだ。だからこそ勝負に参加することを他にも自己にも承認するのは、敗北しても構わないという意識を払拭する必要を感じない場合のみなのだ。もし敗北を味わうことが絶対忌避すべき事態であり、尚且つ勝利する可能性が希少であるのなら、我々はそうおいそれとは勝負には出ないという選択をするであろう。ここでもまた自由に付帯する責任という事態に対する躊躇が生じるのだ。敗北して責任を取ることの多大なストレスとデメリットを回避するために我々は責任を負うことをしばしば躊躇し、多大な自由と権力を放棄してでも、小さな自由と安楽な束縛を望むのだ。その方が安定していて尚且つ責任を負いやすいというメリットがあるからなのだ。そういう意味では社会では勝負とはしばしば多大な責任を他人に押し付けるがために積極的に小さな勝者か小さな敗者になるべく自分の将来を選択するためにこそ大きな勝者を選ぶことに賛同するのである。
 先述の論理から行くと、責任が無責任な行動を、秩序ある調和が破壊や無軌道な行動を、慈悲心が残酷な行為を、良心が悪意を、平和が戦争を産む。すると我々はその規範がどんなに必要欠くべからずに思われる事項であっても尚、その規範を逸脱せざるを得ないケースが存在し得るということを物語ってもいる。つまり規則が違反を産むのは、規則に従うという従順に対する反抗心が不可避的に芽生えるからだ。人間は強制されることを最も嫌う動物なのだ。ということは同時に権力を手中に収め、自分以外の他者一般を強制をすることもまた好きな動物であると言える。つまり攻撃欲求の存在が片や拘束し、強制をし、片やそれを受けた側からは反抗するという循環図式を産むのだ。そしてその循環真理を承知で我々は勝負し、ある時は主体的に勝利を望み、ある時は消極的に勝利を望み、あるいは小さな勝利を望み、ある時は率先して敗北を望む。特に重責を担う役職に関しては、回避したいと願う場合もある。勿論その逆で出世することを切に望む場合もある。それはその時の勝負に臨む際の人間の立たされた心理的状態と関係がある。
 強制する側にはある程度の責任を負っている。強制される側に対する管理責任である。しかし人間は常に管理する側に廻りたいとは限らないことは先述の通り、責任転嫁したい、重責から逃れたいと望むそこそこの権力獲得に甘んじたいという心理もあるからだ。だから反抗することで、既に確立された権力の図式に懐疑的になることで、自分の存在理由を見出そうとする。それは重責を負う者に責任を委託しておきながら同時に、それが行過ぎると自分の側に権利を取り戻そうとする心理によって裏打ちされている。責任を逃れることは同時に権利を主張することがたやすいという状況を好むからなのだ。
 重責を担った人間には権力も多大に付与されるから、必然的に他の多くの成員からは権利主張よりは義務履行性に対する注視が注がれることになる。権力はそれ自体で一個の大きな権利だからである。支配下にある者たちからの注視に耐えられない者は常に反抗する側にいたいと望むのだ。
 重責から逃れて権利を主張するのにもってこいの態度は自ら弱者を名乗ることである。そして弱者とは常に多数の連帯を望む。実は社会に蔓延る官僚主義の心理的様相とはこれと全く同一のものである。しかしその事実は個人性と個人の自立とはそれだけ難しいということを物語ってもいるのだ。
 つまり程よい自由を獲得しつつ、多大な自由を放棄することで自ら重責を担う側の者から付与される権利を主張することに自由を見出すということは、彼らの多くが重責を担う者には権力という多大な権利を手中に収めているが故に反抗するという自由を放棄せざるを得ないという事実を熟知しているからなのだ。反抗することで無限の自由の権利があるかのように感じられることを望むという彼らの心理には、重責者には権力の獲得と引き換えに弱者に与えられた結束という自由を放棄せざるを得ない孤独の事実を熟知しているという背景があるのだ。集団に同化しつつ、プライヴァシーを確保することは、集団の利害を保守することで多少の自由を放棄しつつ、集団で獲得した権利を享受し、その権利の行使に自由を見出しているからである。しかし権力者という重責者には、結束は通常許されない。つまり弱者固有の権利の主張がままならないのである。だから責任転嫁とは要するに、弱者の結束の権利に自由を見出し、そこに安住することが特権的な立場であることを主張し、その主張と共に安住の自由を確保するという心理がある。
 だから人間の中にあるヒーロー志向とは要するに責任転嫁の弱者の権利主張でもあるわけである。しかしヒーローとは期待を裏切れば途端に可愛さ余って憎さ百倍にもなり得る。
 ここで意図という事態を巡る様相を纏めておこう。
 意図には望んでそうするという積極的な場合(例えば市会議員とか都知事に立候補するというような)と、外部的圧力に抗する形で致し方なくそうする場合(他者から嫌がらせを受け、それに対処する形で嫌がらせを未然に防止しようとするような)、つまり消極的な動機に裏打ちされている場合とがある。責任は前者により大きく負わされ、後者では権利がより大きく与えられる。
 権力者にとっての権利とはしかし同時に義務でもある。つまり義務を行使する限りでの権利こそが彼の権力として他の全成員から認可されたものである。つまりそこには権力者ならざる全成員の権利の享受を守るという大義名分がある。
 
 ここで少し観点を変えて意図と非意図について考えてみよう。私は論文「死者と瞑想」(同じブロガーにて更新中のブログに記載)において人類が他の霊長類とは分かたれて、独自の進化をきたしたこと根拠の一つとして健康な時にも死を意識することが出来る(このようなことが例えば保険制度を人類に産んだのだ。)ことと、喪の際に社会的地位とは別個の死者と親しい者に喪参列の優先順位を設けた、その一種の「思い遣り」によると考えた。実はこのことは次のような人間の能力に帰する。それは組み合わせる能力である。例えば住居は、そこに住むという行為と、そこに住む者を特定するということ(ここまでは他の多くの動物でも可能である。)、そして何よりその住む場所を固定すること(これも他の多くの動物でも可能である。)を外部環境と別個の内部環境を保持することで実現することである。しかしそれもまた鳥類にも可能である。しかし重要なことはそれらの行為の一つ一つを組み合わせて住居を作り、それを集合させたものとして社会を構成することが出来るということは一つ一つの行為を別個の物として認識する能力があるということでもあるのだ。
 つまり端的に言えば組み合わせる能力というものとは、即ちいざとなれば分解も出来るということであり、引いてはそれら一個一個の分解品を要素として認識し、その要素間の違いを認識、峻別することが出来るということをも意味する。私は人間以外の多くの動物でも確かに幾つかの要素を組み合わせることも出来るが、その数に限界があるし、尚且つ一個一個の要素をその存在理由という観点から説明することが出来る人間はそれらの要素の性質と組み合わせた時に発揮する機能や作用を理解する能力があるということである。その能力に至って初めて我々人類は住居の集合体(実はこれは他の動物でも多く見られる。)を作ることが出来、更にその集合体を一つの社会と認識して法を形成する(これもまた多くの動物で可能である。)ことが出来、更に社会の法に従わない者を罰する(これもまた多くの動物で出来ることである。)ことが出来、そして無法者に対して罰するばかりではなく時には見逃す(これはそう多くの動物には出来ないだろう。)ことさえ出来る。実はこうした一連の行為の発展には、一個一個の行為の意味に対する理解なしにはなし得ない。
 確かに幾つかの行為の意味は多くの動物で理解されているだろう。しかしそれら同士の連関とかあらゆる連関からの逸脱とか、その関係の全てを意図的、非意図的な事態として理解出来るかということとなると人類では容易であるが、他の動物では困難であるかも知れない。
 喪の際に社会的地位とは無縁な死者の近縁者を優先させることが出来るということは、社会的地位、親しさといったあらゆる関係概念とかあらゆる階層が多層的に入り組んでいて、しかもそういった一個一個の関係の違いが理解出来るということを意味するから、このような能力はもしそれが理解出来るのであれば、たとえその者に言語行為がなされていないとしても尚、言語習得させることの可能性さえあるということを意味する。
 時と場合に応じて異なった優先順位、階層的秩序を考えの中に導入する能力こそ、要素間の組み合わせと分解の双方を難なくこなす能力を促進し、またその能力の進化が各個別の優先順位の峻別を認識する能力を促進するのだ。そしてそのことと反抗する権利の認識とは関係がある。組み合わせたものとは結果である。しかしその結果作られたものを分解するということは齎された結果に対する懐疑を抱く能力の行使に他ならない。それは要するに与えられた結果に甘んじることを潔しとしない抵抗心、反抗心の存在を意味する。
 そこで権利は与えられるものであるが同時に獲得するものでもあるという観念を人類に与える。それは強制的に付与されることを潔しとしないという主体的な行動にこそ価値を見出す能力の発動に他ならない。この権利があることにおける二つの異なった様相に対する理解、つまりただ単に与えられることと、主体的に他者から分与されるように主体的に働きかけるということの違いを理解する能力は、ただ単に強制されることを潔しとしない抵抗心と反抗心に根差すものであるとも言える。つまり主体的に行動する、自然に干渉するというような考えが権利と義務の配分において、主体的に権利を獲得することに必然的に付帯するある種の労働義務、あるいは義務を履行することで獲得する権利という観念の認識を持つ能力が労働を円滑に運用させることが出来るにはどうしたらよいかという工夫を見出すことへと繋がる。
 もし人間が特権的にある文明進化能力があったとしたなら、それは各個別の秩序、優先順位、階層性を共存させ、時と場合により使い分ける能力に起因すると考えても間違いではない。それらはつまり異なった要素、事態、事情を重ね合わせて考え、時には組み合わせて一個の秩序にする能力と抱き合わせのものである。例えば複雑な文章における統語能力といったものは、埋め込み分とか修飾方法の工夫とか様々な言語能力と、その言語認識を基調とした論理的なメカニズムの進化能力はそういった能力が発現された成果と見ることも出来る。だから本章の表題である「自由の定義」とは自由とは決して一律なものではなく、相対的なケース・バイ・ケースであるということと、個人ごとの選択(つまり大きな自由と大きな責任か、小さな自由と小さな責任かというような)に応じて異なった様相を自由という一個の概念から派生するという事態自体を把握するということに他ならない。
 つまりある自由は別の観点から言えば不自由を意味する。例えば権力はそれ自体で大きな権利なので、他の小さな権利を放棄しなければならない、結束することが弱者よりも困難になるという不自由を背負い込むことでもある。つまり全面的な自由というものはあり得ないという厳然たる真理の前で我々はしばしば自由の定義に対して翻弄されるのである。
 つまりもし自由というものを定義するとしたら、各ケースに応じて常に変化すること、そして前面的な自由とはあり得ない、だから一律に自由を定義することは不可能であるということを認識すること、そして自由には責任が多く付き纏うという、即ち定義を巡る条件に関して多くを割かねばならないという事態の把握をすることがまず優先されるということである。それは人間が外部から付与されたものだけでは満足しないことと、組み合わせることと全要素を別個のものとして認識することが抱き合わせとなっていることが密接に関わって、定義とは一律には困難であると理解する能力が人類にはあることを意味する。

Sunday, October 25, 2009

第五章 遡及的因果関係と真理について

 二つの自然を私は生理的自然と思惟の自然と呼んだが、思惟の自然はややもすると誤りを犯すことがあるとはカントが考えていたところである。そしてその否定的認識において彼の哲学の多く登場するのが思弁哲学である。そして彼はそれに対して実践哲学を対置する。そしてカントはマックス・ヴェーバーの謂い(「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」大塚久雄訳、岩波文庫版、325ページより)を借りれば「愛なき義務の遂行は感情的な博愛よりも倫理的に高い」という考えをヴェーバーのピューリタニズム自体がこの考えを受容したのではないかという考えを正当化するような謂いを自身に著作で述べている。(「道徳形而上学原論」篠田英雄訳、岩波文庫版、165~166ページより)
「人間が、自分の単なる欲求や傾向に属するところのものをいっさい勘定に入れないような意志を我が物であると主著したり、そればかりかいっさいに欲求や感覚的刺戟を無視してのみ生じ得るような行為が自分自身によって可能であり、それどころか必然的であると考えるのは、このような訳合いによるのである。かかる行為の原因性は、叡智者としての彼のうちに、また可想界の原理に従ってなされるはたらきや行為のうちに存する。しかし人間は、このような可想界については、この世界では理性だけが、しかも感性にかかわりのない純粋理性だけが法則を与えるということを知らないのである。(中略)それだから傾向や衝動(従ってまた感性界における自然全体)による刺戟は、叡智者としての彼の意欲の法則をいささかも損じるものではない、それどころか叡智者としての人間は、彼の傾向や衝動に対して責任を負うものでなく、またこれを彼の本来の自己すなわち彼の〔純粋な意志〕に帰するのではない。(後略)」
 ここでカントは二つの主張を行っている。一つは意志それ自体は傾向(性格とか資質)とか欲求それ自体を克服する可能性のある能力行使の権利を人間に与えているから、それ自体の価値はディタッチメントとして全ての現象から独立した非固有名詞的な価値規範であるということ、つまりだからこそ自分独自の功績に帰することは許されない、要するに個人性とは無縁の価値システムに組み込まれ得る真理であるということ、そして第二には意志そのものは傾向や欲求とも幾分対立し、またそれらに従属せずに、寧ろ制御する立場にあるものだが、彼の言う叡智者としての意欲(彼は「判断力批判」において意欲を目的の質量と捉えている。)の法則は肉体的実存、あるいは生理的身体条件に従順な怠惰を要求するような傾向や衝動には左右され得ない決意であり決心であるということ、そしてその傾向や衝動そのものは人間の個の価値システムにおける実像であるとするには及ばない、つまりそれら低次のものを遥かに上回る高次の価値システムをこそ人間の価値評定とすべしという考えである。このことは自然科学のディタッチメントを人間の意志的価値システムに応用したような趣があり、それだからこそバートランド・ラッセルはカントを数学的哲学者と呼んだのである。(「西洋哲学史」より)つまり数学とは実存的な諸現象によって何ら左右され得ない普遍に裏打ちされた、寧ろ諸現象そのものさえも厳密に個別的に検証されれば数学的数値に置換され得るという信念による数学的真理によって成立した学である。
 ところでカントは感覚界と対置するような形で可想界を設置して、それを感覚界よりも上位に、価値システム的に位置付けたのだが、その姿勢は諸現象による一見真理に相反するような出で立ちをさえ包み込む普遍的真理の存在に対する信念であり、それは幾分プラトニズム的視点の採用である。つまり数学的真理とは厳密なのであり、それは安易な応用不可能性を訴えるべき真理なのだ。そのことはソーカル事件というものを連想させる。
 カントが感覚界と可想界と言った分類を試みたことを連想させるジャック・ラカンの現実界、象徴界、想像界といった分類はカントの感覚界をラカンの現実界に、そしてカントの可想界をラカンの想像界に接近しているものと認識してもあながち間違いではないニュアンスがあるのだが、ニューヨーク大学物理学教授だったアラン・ソーカル(1955~)が権威付けに数学・科学用語を不適切に使用した哲学者を批判するために同じように科学用語と数式をちりばめた出鱈目の哲学論文を執筆して、これを著名な学術誌に送り見事に掲載された事件のことである。そこでラカンを初めとする大勢のフランス現代思想系の哲学者たちがその批判の矢面に立たされたのだ。批判された思想家たちは挙ってソーカルの挙をモラル的な背信行為であると批判したが、ソーカル自身は思想家たちが数学や物理学をその意味を理解しないまま模倣していることへの批判だったと後にコメントしている。(この記述の多くはWikipediaによるソーカル事件に関する記述引用である。)
 ソーカルの判断に見られるように、現代社会は既に科学の力によって「これが便利なものです。これが人類にとって欠くべからず文明の利器です。」という宣言によって、築き上げられた文明を維持することが至上命題と化している。そこからはそう容易には逸脱出来ない。数学の法則も物理の法則それ自体もそうだが、もっと身近に多くの例がある。例えば電気以外にもしかしたら夜電灯をつけることの出来る便利なものがあるのかも知れないが、最早電気以外の手段は模索されない。車もそうだし、もっと古いものでは貨幣経済システムもそうである。つまり我々の生活とは一旦手に入れた便利な生活手段を維持することを社会の至上命題と課しているわけである。それはそのような便利を手に入れることではなく、既に獲得された便利さを維持することの方に比重がかけられているのだ。この遡及的因果関係こそ社会の実像である。そのことはヘーゲルによってもある程度主張されていたが、より明確な意図をもって示したのはバタイユだった。彼は」「宗教の理論」において<産業の飛躍的発展>で
「基本的に言って媒介作用による世界は、仕事=作業[oeuvres]の世界である。そこでは人は、ちょうど羊毛を紡ぐのと同じ仕方で、救済に値するよう、神の国に入れるように生きる。すなわち人はそこでは、内奥次元に応じ、激烈な衝動に促されて、計算を排除しながら動くのではなく、むしろ生産の世界の諸原則に応じて、来るべきある結果を目がけて動くのであり、その結果のほうが瞬間における欲望の充足よりも重要なのである。」と言っている。そして「仕事=作業がその結果としてもたらすことは、やがてついには神性を_そして神性への欲望を_、また新たな事物の俗なる性格へと還元してしまうということである。神的なものと事物との根本的対立、神的な内奥性と操作の世界との根本的な対立は、仕事=作業の価値との根本的対立、神的な内奥性との根本的な対立は、仕事=作業の価値を否定することのうちに際立つ_つまり神の恩寵と諸々の功徳との間に、関係が皆無であると断定することのうちにはっきりと浮き出るのである。」
と述べている。この辺りから最終章までの全てはバタイユのこの論文の結論的な主張を理解するのに最も相応しい箇所であり、かつその主張には多分にマックス・ヴェーバーの論理を継承する意図も感じられる。その証拠に論の最後に彼が啓示を受けたテクストの羅列においてヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を挙げている。バタイユの論理では近代以降の社会システムの維持に対して躍起になる人類は、その昔神的な驚異の支配の前でたじろぐ人類が、自らの手によって作りつつある文明を、自然そのものと自然の脅威に対して拮抗する意図において自らの創造物を消尽すること、そして一つ一つの目的に対してその場その時に対処する意図が連なった時に、自分たちでも思いもかけない方向へと差し向けられつつあるという現実、つまり非意図的なシステム社会維持の現実に翻弄されるその姿である。そしてその視点とは即ち人工が自然に拮抗する筈の有用な対象であったことから今や人工というもう一つ自然の脅威に晒されている人間の行く末に対する着目があり、それこそがマックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」論理の結論に該当する考えである。
 例えばソーカルが主張するような意味で数学的真理はそれ自体自然からも独立している。しかし自然に内在する多くの数学的事実は、自然の処々の偶然を一旦受け入れれば、偶然自体に内在する処々の事実は数学的真理に忠実な筈であるという自然科学者の認識的信念に基づいている、と言うよりも数学者たちの信念を構成する必要条件である。
 マックス・ヴェーバーが主張することとは、アメリカ社会が既に彼の存命中に経済効率一辺倒の非宗教倫理的なシステム社会維持を目的としたもう一つの自然(人工の自然)となっていることの警告によって終了するあのテクストの構成の仕方そのものから読み取れる。つまりこういうことである。あのテクストの翻訳者の大塚久雄の「ヴェーバーが言おうとしているのは、宗教改革後の一時期に、複雑な歴史の織りなす織物のなかの一つの、しかし大切な横糸か縦糸かを禁欲的プロテスタンティズムがつけ加えた、そういうことなのであって、宗教改革ないしは禁欲的プロテスタンティズムが資本主義文化をつくり出した、などといったことでは絶対なかった」(岩波文庫版、訳者解説409ページより)のである。
 つまりここで私が言いたいのは個々の出来事とか対処において意図的であるような行為の連鎖が次第に我々の意図を離れて、まるで生理的自然が我々を不随意に誘引するかのような全体的な方向の流れを決定してしまうという、ある種の真理である。私たちは最初にはこれこれこういうことをしようと企てたが、その行為の連鎖が最初は予想もつかなかった我々自身に対する竹箆返しを外部自然や我々自身が構築した人工物(社会も含まれる)から我々は享受することになる、ということは最早個人レヴェルからも地球規模の人類の立たされた課題からも明白である。しかしその事実を我々はただ単に運命と神の視点に委ねてもまずいのだ。つまり自分たちの招いた事態の落とし前は自分たちでつけるという義務に対する意志を明確化しておかなくてはならないのだ。
 ヴェーバーの捉えた宗教倫理からの離脱を来す予想外の西欧資本主義社会の現況に対する詠嘆と、そこまで西欧人たちを誘導した真理の意味とは、バタイユの「宗教の理論」の最終節において彼がヴェーバーの当のテクストを解説した次の一節がベストであろう。
「マックス・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」
マックス・ヴェーバーのこの有名な研究は、初めて正確に蓄積の可能性そのものを(つまり富の生産力の発展へと用いることの可能性を)、現世といかなる関係も考えられない神的な世界の措定に結びつけた。その現世においては、操作的な形態(計算、エゴイズム)が、富の栄光ある消尽を根底的に神的次元から切り離しているのである。マックス・ヴェーバーは、トーニー以上に宗教改革によって導入された決定的な変化を強調した。それこそが仕事=作業=行いの価値を否定することによって、また非生産的な蕩尽を非難することによって、根本的に蓄積を可能にしたのである。」(湯浅博雄訳、ちくま学芸文庫版、160~161ページより)
 つまりバタイユはヴェーバーの論理の背後にカント的な善意志の問題を明確に意識して読み取っているのである。カントの目的自体の普遍的な国とか最高原因などという概念とは、実は人間が処々の事態に対しては明確な意図をもって臨むのにもかかわらず、そういいった一連の行為が連鎖されれば、その時必ず自然全体とか外部状況とかの全てが我々自身へとある返答をしてくるし、その一つがネット社会のシステム維持自体に困窮する(しかしネット社会を排除することは最早不可能である。)我々の実像において証明されるのだが、つまりそういう輪廻的にも感じられるところの必然性のことである。それはソーカルがポスト・モダニストたちを批判した数学的真理の安直な引用を戒める思惟の自然を超えた生理的自然にもある意味では近い数学的真理それ自体のディタッチメントにも等しい。そこで我々はどこかで一々の行為において意図的たらんとしつつ、全体的な抗し切れない流れには運命を感じざるを得ないのであるが、だからこそ尚のことを善意志によって後悔の念に苛まれないような心掛けをすべしという主張としてもカントの「道徳形而上学原論」は読み取れるのだ。そして明らかにバタイユの論の全体的主張はヴェーバーのプロテスタンティズムの敬虔主義的な部分を資本主義の起動性の一員として捉えた考えが、背後にカント的な倫理をも含んでいることの発見によって鍛えられていると私には思われるのだ。
 そしてそのバタイユの論理にもまた遡及的因果関係としてのテクストの在り方に対する検証姿勢が読み取れる。テクストはそれ自体我々に既に結果として差し出されている。しかしその結果に我々の生きる時代の視点から独自の原因性を付与することは我々の時代の義務である。そしてその遡及的因果関係を踏襲することで、一々の意図に対する全体的な非意図という真理を読み取ることはカントも、ヴェーバーも、バタイユも全てのテクスト創造者たちに共通したスタンスであったと断言してよい。そしれそれもまたレヴィナスの言う翻弄というものの正体なのかも知れない。

Friday, October 23, 2009

第四章 二つの自然

 自然という言葉には二つの意味を人間が与えてきたことが前章で明確化した。本章ではそのことについて考えてみたい。そしてそれは人間による意図的なことを自然とするカント的自然を思惟の自然、そして非意図的な自然な流れというような自然を生理的自然と呼ぼう。何故生理的と言うかというと、それは人間にとって非意図的であるからである。自然の自然と呼んだ方がいい場合もあるが、そこには人間は存在していないというニュアンスが伝わるので生理的自然という風にする。
 さて人間が思惟の自然と言う時、どこかで理想値を設定している。そもそも理想という概念は人類が平穏な時期を迎えることのない切迫感溢れる状況下で、思惟したものかも知れないし、あるいはある程度窮状を克服し得た瞬間に見出したのかも知れない。ともあれ、思惟の自然は理性的判断(雨が突如降り出したら何処かで雨宿りをしようという意志決定をするようなこと)と言ってよいだろう。そしてそれは往々にしてそのようにいつも巧くゆくとは限らないという思念が背景にはある。
 哲学者のウリクトは行動を目的性に関して二つに分類して捉えている。一つは合目的(purposeful)、もう一つは有目的(purposive)である。前者はある系に特有の機能を遂行するという意味で使われており、後者は目標と意図的に目指すという意味で使われている。この捉え方を採用すると生理的自然とは前者で、思惟の自然は後者であると捉えられる。しかしカントが言った意志的であることはその場、その時の臨機応変な判断力のことだけではない筈だ。それは寧ろ善という行為体系を別枠でなすもう一つの価値システム論による自然であり、ただ個体に利益を運ぶという面の判断ではない。実存主義に多大な影響を受けた哲学者エマニュエル・レヴィナスは存在論から倫理への問いへと価値を転換しようとした。それは行動を個体利益に結びつける短絡的なことから利他的な判断をも含む倫理性へと至上命題を転換しようとした意味ではカント的善体系、価値システム論であると言える。
 理論神経生理学者のウィリアム・カルヴィンはある知覚判断(今向こうから何かが飛んできて、それがボールだ、と判断し得るようなこと)を幾つかの脳内の発火パターン(それを彼は時空パターンのクローンを作るコピー競争と言っている)そしてそれが石なのかりんごなのかボールなのかを一瞬で判断しているということとなる。つまり何かが飛んできたその場所が運動場であるならボールという可能性が高いし、山の中にある渓谷であるなら鳥かも知れないとまず思うだろうし、また野菜市場なら何か果物か野菜であると判断するだろう。しかし野菜市場にも野球チームを持っている職員もいるから、自分がそのチームのメンバーならボールかも知れないと思う。そしてそれらの幾つかがコピー競争をして一番相応しいものに収斂されてゆく。このことを彼は収束的思考と呼んでいる。しかし例えばカルヴィンも指摘しているが、動物の行動の多くはそのような判断を選択的になしているわけではない。既に何世代にもよる進化によってある程度決定されたパターンを踏襲しているに過ぎない。そしてそういう意味では人間も歩く時の足を前に出すし仕方とかそんなレヴェルでは一々考えて選択しているわけではなく、その意味では生理的自然を踏襲しているに過ぎないであろう。勿論最初は歩くことだって学習しているわけだが、既に獲得された能力の行使とは全てそういうことである。すると我々はカルヴィン言うところのコピー競争という熾烈な脳内での発火競争というものは、ある程度思惟の自然としての能力行使によってのみ使用されることになる。そして善体系としての価値システム論を曲がりなりにも所有しているということ、つまり生理的自然のみではなく、思惟の自然を能力として行使する比重の大きさこそ高等知的生命であるか否かの境目であることになる。そしてこれは合目的的な意味では生理的自然を行使する全ての動物に該当するが、有目的意味では高等知性動物にしか可能ではない。そして善体系という価値システム論においては、その中での分析的判断というものがあり、それは合目的的であり、臨機応変な判断は有目的的である。そして意図的であるということは後者においては日常的に捉えられ(生活の智慧的レヴェル)、前者に関しては人生目的的であるので、意図的であってもより高次の考え、要するに生活信条とか人生の理想とか目的という面での信念と言っても差し支えないだろう。
 記憶の面からそれらのことを考えてみよう。ご存知の通り人間にも長期記憶(場所、意味、エピソード)等の記憶と短期記憶(その場その時に応じた)がある。そして短期記憶とは取り敢えず室内の配置をして文筆家が辞書はどこに置いてあるかということである。しかし部屋の配置換えをしたら、それまで本棚をはじめとする書斎の様相は全て位置から何かまで変わるので、以前の辞書の置かれた場所に関する記憶は取り敢えず必要なくなる。
 尤も意外と長く同じ場所にあったのなら一々全部そういうことは覚えているものである。しかし短期的に色々な場所に仕事に出掛け、その場その時に対応して仕事をする者にとっては、そのような短期で終了する仕事上での細かい事項は忘却するリストで処理されてゆくだろう。そういう意味では記憶とはその人間の長期短期を巡る認識必要事項の内容如何で幾らでも変化するものである。
 さて意図的であることはカント的善体系という価値システムにおいては、長期的な記憶事項は人生全般に関わるが、短期的な記憶事項は生活上の必要性から要求される能力である。例えば大切な友人の存在は長期的な記憶事項に属するから、それは人生全般の人間の意志、例えば「あの男は自分にとって大切な友人だからいつまでも大事にしよう。」という意志は短期的な意図とは違う。人生全般を左右する意志であり、ある程度獲得された理想値(その人間個人にとっての)であり、それは変えたくはない信念のようなものであると言えよう。しかし同時に短期的な必要に迫られてその場その時必要なものもまたある意味では絶対的に大切なものである。そういう積み重ねが長期的人生の展望を獲得することに繋がるからである。そして意図というと、そういう短期的なことの方により日常生活では活用されることは確かだろう。それは思惟の自然においても、大切な友人が固定化されたものであると比すれば、流動的(例えば今まである店で野菜を買っていたが、別の場所に新しいいい店が出来てそちらの方が野菜が新鮮でかつ安いから今度からあそこで買おうというような意志決定を誘引するような意味で)、可変的である。状況判断的な意図である。
 つまり思惟の自然における最も自然な心的活動としての意図においては、固定化された信念と状況即応型の判断の二種があるということになる。しかしこのようなことは幾分相互に入れ替わることがあるだろう。例えば長期固定化された記憶における非選択性の信念は、あるものは(それは事物対応的な信念である場合が多いが)生理的自然の判断になることもあれば、思惟の自然の意図でも短期的な必要に回されるものもあるだろう。

Wednesday, October 21, 2009

第三章 意図と責任

 私は前作「責任論」において、責任とは能力に対する承認であると捉えた。そして責任能力とは要するにその人間に対する記憶能力への信頼でもあると考えた。
 人間には記憶に残りやすいことにおぞましいことも含まれる。それは倫理的に逸脱した事柄である場合が多い。ということはそれを否定的なフラッシュバックを誘うものである場合、我々はそこに「人間の記憶作用には倫理がかかわっている。」という真理を認めてもよいことになる。記憶の固定化には扁桃体が海馬にエピソード記憶とか場所記憶を収納するべく介在するとされる。反応学習的な記憶に関しては尾状核へと扁桃体がスムーズに記憶させるように取り計らう。扁桃体は情動を司り記憶を促進する。この扁桃体は海馬の先にアーモンド状に付着する形状になっている。海馬は扁桃体の付け根から大きく蛇行して尾状核を巻き込む形状に尾状核に付着する形状となっている。尾状核はほぼ球状である。
 記憶に残る他者の一言は必ずしもその者による意図的なことではない。しかしこちらから他者に何か語りかける時、その時の他者にとって有効な一言くらいにはなるように心掛け、それでいて自己にもその後恩恵を齎すような言辞、陳述内容を考えるだろう。それによっていい情報を聞き出せればもってこいであるからだ。
 発言とは社会ゲームにおいて私たちが全体者の意味を借用して、個の利己的な権利を行使していることに他ならない。そしてそれは全体者のあらゆる意味でのラング、他者への礼儀、同一共同体成員としての自覚の表明と引き換えに行使することが許された行為である。だから文章とは記述されるものであれ、発言されるものであれ一回性の表現となる。
 ニーチェの私が序で示した言葉(371)は自我とは幻想であり、我々の本質は利己的であるという主張に他ならない。このことは私たち一回一回の発言についても該当することである。しかしニーチェの説く人間の本質が逆に我々に責任倫理を生じさせるのであり、ニーチェはその本質のままで人間がいていいとは言っていない。要するにその本質に従順であるのに知性的であり、道徳的であるように振舞う人間の行為と精神の虚妄を言っているのであり、その点ではニーチェはカントと重なる部分が多い。例えば次の節を見てみよう。
「272 高貴であることの徴。_われわれの義務を万人にとっての義務にまで引き下げようなどとは決して考えないこと。自己の責任を譲りわたそうと欲せず、頒かち合おうと欲しないこと。自己の特権とその行使を自己の義務のうちに数えること。」
 ここで示されたテーゼは一つはカントのものである。われわれの義務とは万人の義務ではない、という謂いにはカントの「君の格律がいついかなる場合でも同時に法則として普遍性をもち得るような格律に従って行為せよ。」に対するアンチ・テーゼがある。しかしここでニーチェがカントを否定しているわけではない。寧ろカントが言ったこの言述の有効性を叫ぶ以前にまず足元を見よ、という主張としてこの述定がなされている、と考えた方がより説得力がある。というのは、万人の義務という事態が成立することが殆ど稀有なことであることと、もしそのようなものがあるとしたら、それは卑小な些細なことでしかないという予感がニーチェにはある。だから引き下げてはならないのだ。私は前作で責任は決して普遍的に規定され得るものではなく対立もすると言った。その意味では対立してこそ初めて各立場の責任は真理となるのだ。だから万人に通用するものとは、社会ゲーム上では然程重大なことではない。あるとすれば現代では環境問題くらいのものであろう。(それはそれで重大だが、今論点としていることに関しては然程重大ではない。)人類の責任であることの理解は寧ろ地域住民であり、ある固有の民族であり、ある固有の国民であることから派生する。だからカントが言った行為の格律はあくまでそういう認識を持った上でのことである。しかしニーチェはそのようにカントが言ってから人間は大してそのようには行動して来なかったということを知っている。そこでカント的行為の格律をもう一度復権させるにせよ、一度万人の理想という虚妄を打ち砕く必要を感じたのだろう。
「287(前略)_高貴な魂は自己に対して畏敬を持つのだ。_」
 そう言述したニーチェは人間が自己に課せられた能力を十二分に発揮することが人類にとっての責任であると言おうとしたかのようである。そしてその一つは苦労しなくても記憶に残るようなものを大切にすることであり、もう一つは努力によって記憶しやすくなるようなものも大切にすべしということであろう。
 つまりカントが言う義務とは納税とか勤労とかの社会ゲームとしての義務だけのことを言っているのではなく人間の理性能力の全てに対して注がれている。そしてそのような理想を追求するのには一度ニーチェ的な懐疑を哲学上で実践しておかなくてはならない。そのためには社会ゲームの本質をもう一度見極めておかなければならないのだ。つまり人類である前に一地域住民であり、市民であり、国民であり、ある民族の成員であるその現実からスタートしなくてはならないのだ。
 我々は無意識の内に何かを覚えていることが多い。一方ある程度自覚的に意識的に、つまり意図的に覚えることも頻繁だ。この二つは相補的に我々の生に反復されて立ち現れる。そして意図的であるという認識は一方で非意図的である多くの行為が我々の生活において散見されるからに他ならない。意図的であることは言語的に説明の尽くことの世界である。そして言語的に説明が尽くことの典型的な例として法というものが挙げられる。しかし法といっても法律のことだけではなく、言語行為に内在する文法規則とかあらゆるスポーツやゲームに内在する規則のことを考えてみよう。
 例えば会社に出勤するということを考えてみよう。会社には出勤時刻と退社時刻とが定められており、例えば遅刻したくないために寝巻きのまま出社した社員が次のような言い訳をすることは通常許されない。
「今日は電車が混んでいて、乗り遅れることのないように急いで会社に出勤することに夢中で、スーツに着替えることにまで頭が廻りませんでした。」
 ここには会社に出掛けるという行為を主体とした正当化が見られるが、通常会社に出社することとは遅刻しないで会社に到着するだけではなく、スーツに着替えて出社することも責任上含まれている。だから責任とは遅刻厳禁であるという触れ込みそれ自体に、それ以外の多くの社会ゲーム上で認可された一般常識が含有されているのだ。しかし少なくとも言い訳をする場合、その過失が意図的であったのか、そうではなかったのかということに関してはこのケースのように言及することは正当である。そこで今度は規則というものに内在する非言明的真理について考えてみよう。
 この意図的であること、並びに規則に関して大屋雄裕は「法解釈の言語哲学」において大きく取り上げている。
「一般的に、ある意図的行為は意図せざる行為を含んでいる。例えば「私が意図的に扉を開けるとき、私はそこにおいて腕を伸ばしてもいる。しかし、私は『腕を伸ばそう』と意図したわけではない。それゆえ、『腕を伸ばす』ことはそのときの私の意図的行為ではなく、扉を開けるという意図的行為において為された意図せざる行為にほかならない」(野矢茂樹のテクスト出自<著者注加入>)。そしてアンスコムが指摘する通り、私は自分の意図の内容を観察によらずに(without observation)知ることができるだろうが、これに対して意図せざる行為は、一般的に観察によって知られるしかない。このことは、「君は知らないようだが、.....したのだ」という表現が意図せざる行為においてしか成り立たないことにも示されている。そしてここから、行為の見方に一人称的なものと三人称的なものが存在することが導き出される。
「何をしたことになっているのか」は三人称的な視点から知られるのである。そして意図的行為は、「何をするつもりでいるのか」と「何をしたことになっているのか」という両方の知識に基づいて記述される。すなわち、一人称的観点と三人称的観点の双方から捉えねばならない。それに対して意図せざる行為は、もっぱら「何をしたことになっているのか」という三人称的観点から記述されるのである。」[野矢茂樹のテクスト出自<著者注加入>]
(「法解釈の言語哲学」171~172ページより)
 この三人称的な視点は本章の後で再び取り上げるが、ここで主張されていることは極めて示唆的である。それはサルトルが「存在と無」で示した対自的な視点は、実はこのような第三者の視点の把握から逆利用される意識であるということだ。自分の行為を意図したとしても尚、自分では気が付かない非意図性の下で俯瞰する意識が齎されるのは他者の視線に他ならない。それは自分ともう一人の相棒を加えてそれら二人を注視する他者の視線の存在こそが社会ゲームにおいて「私の責任」やら「あなたの責任」を認識させるものだからである。そしてこの一人称と二人称の視点が実は第三者の視線という三人称によって構図を与えられているという現実から社会通念というものが生み出されてきているのだ。
 スーツに着替えて出社しなかった場合、会社に出社するというマクロな責任を果たしたのだから、遅刻しないで出社する、スーツに着替えて出社するというミクロな責任を果たさなくてもいいということにはならない。そもそもビジネスは遅刻しないこととかスーツで出勤するとかの様々な付帯条件の集積によって成立している。それら全てが統合されて初めて出社することの意味が成立する。例えばもし三十分くらいの遅刻があった場合、その日特別のスケジュール(遅刻が絶対許されない)でもない限り、寝巻きのまま出社するよりはずっとましである。出勤という日常的行為には社会ゲームにおいてもとりわけ重要視され得る社会常識というものが存在して、その社会常識という名の全体者が前提されている。例えば葬儀に参列する時に、真っ赤なジャケットを着て参列することは日本社会では通常非常識とされる。そうならば、真っ赤なジャケットを着て葬儀に参列することが非常識ではない、常識に拘る必要はないという考えの故人やその故人の親族、葬儀関係者全員の全体者がその考えに従う(それは黒い喪服で参列するのもまた自由であるという)というモードにおいてのみ許されることだろう。
 かつてジョン・レノンが「セックスに関して自由な考えの人は、セックスに関して自由でありたいと願わない人たちに迷惑がかからない限りで自分たちに考えを実践する自由がある。」というようなことを言っていたが、私は本来喪に関しても性に関しても形式よりも心であると考える方なのだが、それでも尚、社会常識という共通コードが全体者として存在している以上、自分の考えを実践することは、周囲に迷惑がかからない程度に抑えておかなくてはならないという考えも一方であるのだ。
 例えば規則は厳然とある。そしてその規則は通常社会全体の同意によって成立している。それが時代遅れのものであるなら、我々はそれを改善してゆけばそれでよい。大屋の示した「よどみ」に対する解決として考えられている規則は、しかし例えば病気のことを考えてみよう。病気は通常医学界で認可された病気に限られている。だから「あなたは現代医学では病気ではありません。」と仮に医師が患者に告げたとしても尚、奇病というものはあり、それらは未だ医学界全体で認定されていないものも多い。しかし患者と仮に認定されなくても尚、苦しみに絶えてゆかねばならないという現実は多く存在する。そういうケースが多々あり得るという認識に法そのものも立たない限り我々は全体者というものの使用を見誤るということになりはしないだろうか?
 もしカントが言う義務が法体系的な意味合いばかりではなく、もっと根源的なヒューマニズムに根差したものであるのなら、規則遵守という観点外のものも網羅した義務というものが考えられるだろう。それは法体系において解釈することの出来ない前例のない現実の方がずっと多いのだ、という認識によってのみ獲得され得る、要するに人間に付与された能力そのものへの、つまり未知の事項に対して挑む可能性としての能力に対する責任倫理ということになる。
 ところで数年前のことだが日本人の若い男性が日本でイギリス人女性を殺害した事件があった。今から十年数年くらい前になるが、やはりイギリス人女性が日本で日本人男性に殺害された事件があった。あるいは日本人女性がアメリカで殺害された事件もあった。しかしその時に一人同国人が殺害されたからと言って殺害された側の国民全体がその犯人の国に対してルサンチマンを抱くということはないだろう。しかし例えばハロウィーンの時の服部君射殺事件を我々は今でも鮮明に記憶しているように、私たちは被害にあった事件に対しては鮮明に記憶する。だが逆に日本人の側が外国人を殺した場合、数年たったら忘れてしまうということは可能性としては大きいだろう。それを言うならやはり日本人はアメリカと戦争をした時、日本人によって殺された外国人のことを意外と早く忘れたという面はある。
 一体それでは何人くらいの人間が纏まって殺されたら殺された側の国の人はその犯人の国に恨みを抱くのだろうか?それは人数だけ(人数が多ければ多いほどそういう感情を抱くということはあり得る。)ではないかも知れない。というよりも例えば相手がアメリカ人だから日本人だから殺したという理由によるものなのだろう。しかし日本人が自分たちは拉致問題を声高に叫ぶのに、日本人によって被害を受けた人々に対しては冷たいと受け取られることがよくあるが、それはある程度当たっていると私は思う。
 それが国家レヴェルとなったら、例の従軍慰安婦補償問題をアメリカの上院議員が議題として提出してから日米関係に再び影が差してきていた問題と同一の事態であると言ってよいだろう。
 要するに責任の取り方の問題、あるいは被害を与えた側の態度の問題ということに尽きるのだろう。しかし同時に補償して貰おうと考えている側の立場を百パーセント忖度して応対するような国の代表者というものが一体いるだろうか?あるいは被害者家族に対して加害者家族が責任を感じることは必要なのだろうが、たとえ加害者の家族であっても人権というものはある。だから責任というものの在り方というものは時と場合とによって変更され得る。だからカントが言う義務とは理想である。しかしそのような理想に当て嵌まった生き方ばかりを人間がし得るわけでもない。その意味でカントに対して反措定的立場のニーチェの哲学に存在意義が出てくるわけだ。
 少なくとも意図的な行為に関しては謝罪だけでは済まないし、罰金だけでも済まないだろう。懲罰の対象となる。あるいは引き起こした事実の重大性から言えば過失であっても、それが意図的ではないからと言って罪が軽減されるということはないという観念が昨今では特に飲酒、脇見運転では言われるようになってきた。だからその非意図的であることで許される範囲というものが当然考えられるだろう。例えば先述の例で言えば寝巻きのまま出社した社員はそもそも会社まで辿り着けることの方が稀だろう。このような非意図性は懲罰の対象にはならないが、別の意味で社会通念上では厳しい目が注がれるという事態は容易に想定される。
 しかしもう一度あの殺される人の数の問題に戻ってみると、私たちはもしどのような個人でも戦場であれ、市街地であれ何事かに巻き込まれて死ぬ時は一人である。だから戦争で何人の人が戦死したかという数は残された人にとっての都合でしかない。例えばある戦死者とかある事故死者の遺族にしてみれば、当人同様個人的なことなのである。しかし大勢の同胞が殺されればたちまち我々は連帯意識としての民族意識を生じさせる。そして仕返ししたいと願いさえする。そういうことの応報が各国で散見される。要するに死ぬ当人にすれば個人的なことであるのに、それがある一定数かたまればたちまち社会的事実、歴史的事実となる。そういう意味ではそのように個人的死の集積、つまり一定数の塊はそれだけで政治的な意味を帯びる。そして民族意識とか国家意識を生じさせる。そのような個的な事実を政治的事実とするところに集団依拠的な同化意識の発生の現場がある。そして責任問題は途端に個人的なレヴェルから国家、民族のレヴェルに押し上げられる。しかし各故人に横たわる個人的な生命の消失としての事実は数の論理に置き換えられ、歴史的悲惨の事実自体に対する鎮魂の情を我々に強制するが、死者の各個人の魂への問いはどこかに忘れられがちである。政治の責任は数の論理において成立している。それは個人間に横たわる辛苦な事実を蒸し返さないような配慮でもあるのである。それがまた政治の意図なのだ。(鎮魂という行為はそれ自体で生きている者に安寧を与えよという死者に対する請求に他ならない。)
 辛苦を蒸し返さないということの意図は生きている人間の心を最優先にすべしという思想が漲っている。法は生きている成員に適用される。それはそれ自体で人間が性悪的存在であることを成員相互に了解し合っていることの一つの顕著な表出である。レヴィナスは次のように言う。
「(前略)エロス的なものと、エロス的なものを具体化する家族とによって社会的な生に保障されるのは、勝利の無限な時間である。社会的生にあって、<私>は消失することがなく、<私>はむしろ善さを約束され、善さへと召還される。勝利の無限な時間を欠いては、善さはただの主観性になり、狂気となってしまうだろう。」(「全体性と無限」下、219ページより)
 生殖の哲学者としてのこの時期捉えられる彼の論旨は、明らかに秘私的な営為である家庭の保持が、その安泰において社会的義務を、社会的奉仕を滞りなく遂行させるためのエネルギーを放出させる手段となっていることの承認としてレヴィナスはニーチェ流の揶揄を敢えて避ける。家庭と信頼と愛情のない成員には、本質的な善を遂行することが出来ないという主張としてレヴィナスは位置付けられるだろう。それはマックス・ヴェーバーの「(前略)来世を目指しつつ世俗の内部で行われる生活態度の合理化、これこそが禁欲的プロテスタンティズムの天職観念が作り出したことだったのだ。」(「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」287ページより)という謂いの本質的な意味が語るところの主張と同一のベクトルを持っている。生活態度の合理化とヴェーバーが言うところのものは職業人として社会人としての誇りがそのまま健全な家庭を築くという倫理と直結していたのだ。そこには市民としての連帯が国家レヴェルでの管理社会システムと目指すべき方向が合致しており、その事の承認として各成員がそこで秩序を維持することに邁進するのだ。このことがレヴィナスの言う「善さを約束され、召還されること」に他ならない。それは神との密約であり、契約であるという個人個人の自覚によって成立している。このヴェーバーとレヴィナスの視点の交差点には法というものが本来は主体的に構築される明文化する以前の自覚論的な合理的成員間秩序として捉えられているという点が極めて重要である。
 しかしカントが善意志を権利問題として主張し、ニーチェがそこに至るまでに幾多の障害があることを暗示した本質的法を曇らせる現世主義的な法秩序の網の目が、一般常識とか常套的慣例を生み出してきたのだ。慣例を生み出してきたもの、まさしくそれが第三者の視点(大屋が先述例において主張していた)の存在である。そして大屋は社会学者宮台真司の言を引用してこの第三者と権力との関係について触れている。
「宮台真司は『権力の予期理論』[宮台テクスト出自<著者注加入>]において、ある主体(i)とそれに後続して行為する主体(j)の関係における予期の構成によって権力の一般的な定義を与えている。彼によれば、もしjの反応がなかったならば選択したであろう選択と、jの反応を予期した場合に権力は体験される。ここで重要なのは、この権力記述が主体iの選好構造のみを用いて可能なことである。権力のさまざまな形態は、それを経験する主体の想定によって考察することができ、その中には実際には制裁を受ける可能性がないにもかかわらず機能する権力(妄想的権力)も含まれる。たとえ規範性を私の態度の問題として捉えたとしても、そのことがコミュニケーションの散乱を直ちに意味することはないのだ。
 宮台真司は、この権力の予期理論の立場から「一定の期待を任意の第三者が共有すること・への予期が社会的に共有されている事態」(宮台テクスト出自<著者注加入>)を<法>ないし<ルール>の存在と定位している。そして、特定の内容的な期待に関する<素朴な法>_例えば、「人を殺してはいけない」という期待_のみならず、特定の手続きを経由した任意の決定を受け入れることへの期待を対象とする<媒介方法>が成立することによって、「法テクストが、法テクストの改変を通じた法的手続の任意の改変可能性について明示的に言及するようになる法進化段階」(宮台テクスト出自<著者注加入>)として「実定法」を定位するのである。それは「『合理的手続を経由した任意の決定を学習すること』への期待を任意の第三者が共有すること・への予期が社会成員の大半に共有されている、という事態」(宮台テクスト出自<著者注加入>)が存在し、法制度が機能することになる。これが一次ルール(特に承認のルール)の結合として法を捉えるH.L.A.ハートの法思想「ハート・テクストの出自<著者注加入>」と平行関係にあることは、言うまでもない。」
(「法解釈の言語哲学」188ページより)
 大屋の取り上げた宮台の権力論とは、ある意味では威圧される脅威としてそこに立ちはだかり、そのことへの成員間での自覚の共有が「法テクストが、法テクストの改変を通じた法的手続の任意の改変可能性について明示的に言及するようになる法進化段階」を発生させることになる現実を言っている。しかしそのような進化がなされ得るのは、それを法として認可し付き従う成員の共通した行為が必要なのだ。そしてその行為は常に私、あるいは私たちという一個の自己に対する他者の視線とそれによる私あるいは私たちへの評価とか認識を前提する。つまり私という一個の自己にとってあなたは他者である。他者第一号である。しかし私とあなたの信頼はそれ自体で一つの社会であり、それは一個の自己である。しかし私とあなた以外にも多数の私とあなたにとってのあなたになり得る他者が存在する。それが第三者である。このことはもう一人の他者を加えて私とあなたともう一人にとっても同じである。また別の他者が控えている。こうして無限に進行する自己と他者の関係が先述した日本人としての、何々県人とか、云々市民とか地域住民とか、あるサークルのメンバーであるとかの意識の基礎としてある。つまりある全体はその一個の自を別の他に対して宣言するのだ。「これが私たちという一個の自己です。」という風に。
 レヴィナスの著作「全体性と無限」において翻訳(岩波文庫版)をした熊野純彦は次のようにその翻訳の解説で述べている。
「(前略)他者についてはどうだろうか。「他者と私たちとの関係において重要なのは、はたして他者を存在させる」ことなのだろうか。そうレヴィナスは問いかける。ひとが語りかける存在、すなわち他者は、あらかじめその存在において理解され、つぎに対話の相手になるのだろうか。そうではない。他者を理解することと他者に呼びかけることとは一体になっており、不可分な関係ではないはずである。
 他者を「理解」することも、もちろんありうることだろう。とはいえ他者はその理解を踏み越え、他者との「関係をあふれ出して」ゆくのではないだろうか。他者を理解するとは、かえって、他者が私のいっさいから逃れ出る存在であることを理解することである。理解された存在は、私の知によって「包摂されてcompris」いる。そうであるとするならば、そうした包摂の対象となりえないもの、それだからこそすぐれている「対話」の相手となる者をこそ、ひとは他者と呼ぶのである。」(「全体性と無限」下、解説330ページより)
 この考え方はレヴィナス当人の思想に由来する。例えば次の箇所である。
「ことばを語ることは視覚を拒絶する。ことばを語る者は自己についてイメージ以外のものを手わたすことができないとはいっても、語る者はじぶんが語ることばに人格として現前し、みずからが残すイメージのすべてに対して絶対的に外部的であるからである。ことばにあって外部性が遂行され展開されて、力をふるう。ことばを語る者はみずからの現出に居合わせるけれども、聞き手が獲得した結果として保持しようとする意味に適合することがない。ことばを語る者は、そうしなければ、語ることばによるこの現前が聴きとる者の意味付与(Singebung)に還元されてしまうかのように、語りという関係そのものの外部にありつづける。ことばとは、意味作用が意味付与を不断に乗り越えてゆくことなのである。その大きさが<私>の尺度を踏み越えている、ことばを語る者のこの現前は、私の視覚に吸収されることはない。それでもなお外部性を測ろうとする視覚に対して、適合することなく外部性はあふれ出てゆく。それこそがまさに高さの次元を、外部性の神的な性格をかたちづくるものにほかならない。神的なものは隔たりをたもつ。プラトンが『パイドロス』で設定した区別にしたがうなら、<語り>とは神との語りであって、ひとしい者たちとの語りではない。形而上学とは神とのあいだでかわされるこのようなことばの本質であり、それは存在のかなたにつうじるものなのである。」(「全体性と無限」下、249~250ページより)
 会話が第三者の視点を気にすることではなく、あくまで話者同士の共有空間を発話するためのテリトリーとして自覚しつつ、かつその空間共有の認可同意宣言であるのなら、まさに私とあなたの発言の全ては私とあなたの共有する時間の中でこの共有する空間で、私とあなたが共有する了解事項の確認と、私が知り、あなたが知らない、そしてあなたが知り、私が知らないことを共有の情報とすることにより成立する場であるなら、その意味作用の応報に全ては収斂され、私固有の私の思念やあなた固有のあなたの思念が生起してそれが主人になることはない。それは私があなたと別れてから、またあなたと後日合う時まで、あるいはあなたが私と別れてから、また私と後日合う時までの私一人の時間でのあなたとの会話の想起にこそ起き、あなた一人の時間での私との会話の想起にこそ起きる。それがレヴィナスの言う意味付与である。意味付与とは日常生活上では明らかに過去想起による過去事実の過去化に他ならない。場の共有(時間と空間の確保)とは要するに私を相互に乗り越えることである。そしてそれは再び到来する孤独確保意識の充実時間に向けられた自己‐他者共有の場への同化のことに他ならない。場の共有は良心の発動でもあるし、理性の確認でもあるし、要するに倫理的な行為なのである。
 私は前に人間が倫理的に行動することはそれ自体である程度自然に逆らうことであると言った。(「責任論」)しかしそれは自然を破壊することでは勿論ないし、ただ要するにウリクトの言うように「自然に干渉する」ことに他ならない。しかしその見方も同時に我々を自然全体と切り離して見た時の見方にしか過ぎず、私たちもまた自然の一部であるとも捉えられる。例えばカントは次のように言う。
「(前略)すなわち_「君の格律が自分自身を対象〔目的〕とする場合に、その対象が同時に自然法則と見なされ得るような格律に従って行為せよ」。絶対的に善なる意志の方式とは、実にこのようなものである。」
 要するにカントの言う自然とは自然の一部として人間が生活する上で彼流に言えば神から付与された能力(それは理性的存在者として善意志を発動することなのだが)を全うすることであり、それは自然を傍観し、何もしないことではなく、何かを自然に向けて発すること、なすことでもある。だから自然に逆らうこと(行為の格律として他律に身を委ねることではなく、意志的に他律を踏み越えること)ではなく、自然に拮抗することが理性に自然であるという主張に他ならない。それは自然という観念に対して意志レヴェルのこと、つまり意識的に努力することによって勝ち得るものをこそ意味付与することと、そういう高次のレヴェルに自然状態を置く考えである。それはマックス・ヴェーバーの社会認識にも受け継がれている。一つは「職業としての政治」の責任倫理性、そして彼の名著「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」中、「宗教的要求にもとづく聖徒たちの、「自然の」ままの生活とは異なった特別の生活_これが決定的な点なのだが_もはや世俗の外の修道院ではなくて、世俗とその秩序のただなかで行われることとなった。」という表現によく表されている。自然状態の認識はカントの言う自然法則という謂いに見られるオプシミズムとは異なっているが、その志向の先にあるものは共通している。
 しかしここで問題となってきた自然という概念について少し考えてみることにしよう。
「古代人の自然の考え方はわれわれのものとは異なる。われわれは自然を、人間による利用や居住によっていまだ汚されていない領域のようなもの、地上の未開部分の総称と考えがちである。このような考え方の兆候は古典文学のあちこちに見られるが、それは一般的な考え方ではなく、そうした考えに対する呼称もなかった。そのころの「自然」(nature)ということばは、「人間性」(human nature)という言い回しのなかで現在も使われているような意味、つまり、あるものの性質、何かになろうと何かをするという生まれつきの性向の意味があった。魚は泳ぎ鳥は飛ぶ、石は落ちるし炎は燃え上がり、種は芽を出すがそれは、そうするのが自然だからだ。古代ローマ人が自然(natura)ということばを使うとき、彼らは野生の風景や開発されていない田舎のことではなく、われわれが自然の法則と呼んでいるようなことを語っているのだ。
 古代が自然(natura)が、現代の自然の法則という考えとまったく同じかというとそうでもない。重要な違いのひとつは、自然の法則にはわれわれは従わなければならないが、自然(natura)はある行動を単に駆り立てるだけである。われわれは現代の意味での自然の法則を犯すことはできないが(もしできたとしたら、法則でなくなる)、古代で使われていた意味での自然(natura)の促しは無視することができる。人間はわれわれにとって自然でないことを自由に選ぶことができるが、石や炎、野獣はできない。
 この論理から、人間だけが堕落する能力を備えているということになる。多くの古代哲学者はどんな自然も善であると考えた。(それは中世を経過した時、彼等が後代を見届けたのなら、あるいは世界大戦を見届けたのなら考えを変えていたであろう。<著者注加入>)
 動物は常に彼らにとって自然である行動をしているのに人間はそうでないから、動物はこの点で人間より善良である。しかし、これはあらゆる人間が必然的に邪悪であって動物性が人間性よりも優れているということを意味するのではない。ほかの動物が本質的に人間よりも善良でまともであるという考え方は、基本的に近代の思想だ。その考え方は、古代の獣性崇拝主義と、人間のなかでは自然そのものが腐敗してしまったというキリスト教独特の考えが混合したものなのである。」(「人はなぜ殺すか狩猟仮説と動物観の分明史」マット・カートミル著、内田亮子訳、新曜社刊、70~71ページより)
 カートミルのこの叙述を採用すると、カントは幾分性善説的なオプシミストということになるが、カントは他の箇所でも何度も繰り返しているように、意志的な努力によって勝ち得る権利問題として自然を考えたのだから、それは容易く得られる資質ではない。それは後天的に発現される能力として人間に与えられているのであり、カートミルの言う自然の定義から言えば、自然に逆らったカートミルの謂いに拠れば自然の促しを無視した行為によってなのだ。そこに初めて意図という概念の重要性が浮上してくるのだ。
 人間が意図的に為し得ることには全て責任が人間の側にあるだろう。だから法解釈という側面から言えば、その法執行性において裁定矛盾がきたすことの多い場合、それはまさに法ではないから改善されるべきである。あるいは言語においてもそれが言える。
 デリダは言語の起源に着目し、それが記述されたエクリチュールと乖離している状況を差延と呼んだ。しかしこれは実は言語体系に依拠して人間が言語行為を行っているということから説明が尽く。つまりこういうことだ。我々は今述べたような自然という語彙を使用しながら、その自然という語彙が誘引する様々な意味を自然発生的に(それは自然という語彙を選択し記述した著者である私の使用意図をさえ超えて)連想させる。それはそもそもエクリチュールそのものがそれがなされた瞬間に私の意図を顕現させつつも(させなくても)それを超えた文字上の意味、普遍的な意味体系に組み込まれた現実、あるいはこういってよければ事実となって私の創造した概念記号配列は、それ自体で主張するということだ。これは形を変えた言語記述の持つ創造者の意図とは無縁の普遍的真理というディタッチメントに他ならない。デリダがどのような意図で差延と述べたかのかかわらず、彼の提示した概念が一人歩きするような意味で、ウィトゲンシュタインの私的言語も、クリプキの可能世界も私たちに提示されている。堤示されているという事実、それこそがその提示者の思惑とは無縁に重要なのだ。そして言語を堤示する者の責任とは、そのように文字記号配列そのものが一人歩きすることを容認し、後は解釈者の自由に委ねること、それこそが記述者の責任の取り方であり、意図であるべきだ、ということなのである。

Monday, October 19, 2009

第二章 言語と責任

 リチャード・ロジャースとオスカー・ハマーシュタインの作詞・作曲の映画「サウンド・オブ・ミュージック」の映画主題歌の一つ、Favorite thingは、家族の愛情、そしてその家族にとって日常的な親しみの持てるものを表現している。その歌で歌われた世界は、紛れもなく平和な家庭、つまり近代以降の市民生活によって保証された家族であり、扶養者から見れば責任ある態度、慎み、品格を求められるものである。まさに暖炉、食卓、音楽や美しい風景画とか静物画が飾られた応接間での語らい、そういう世界とは、実は多くの宗教的な闘争、戦争といった流血によって得られた成果である。あの映画ではその後にその平和に脅威が降り懸かることを描いていたが、まさに責任というものがあるとすれば、その時代とその時代に生きる人間の状況に支配される。
 さて前作「責任論」(同じブロガーにて「死者/記憶/責任」において掲載更新中)において私は「責任は善悪の判断に先行する」と述べた。そして善悪とはある集団の利害によって成立した責任と、もっと大きな人類に対する見知らぬ他者に対して向けられた良心といった現実を認識した後に立ち現れる倫理的な問題である。
 良心と人類に向けられた責任において初めて倫理は問題とされる。しかしある同一の目的において結束した集団(エゴイスティックな家族、親族、あるいはテロリスト集団、組織、あるいは現代社会のあらゆる利権団体、法人組織、会社といったもの全般)内においても尚責任は厳然と存在する。それらは決して人類全体へと向けられたものではない。
 つまり特定の時代に左右される責任は、人類全体に向けられており、逆にある特定の地域、集団に向けられる責任は倫理以前に利害が絡む。そこには例えば東京都民にとっての秋田県民とか、ある特定の自動車メーカーにとって別の自動車メーカーの利害は何の責任の範疇にはない。
 だからこの二つの責任は必然的に性質を異にする。さて言語活動においては、この二つの責任(前者をマクロ的責任、後者をミクロ的責任と呼ぼう。)に関してそれぞれ言語行為に対して異なった様相を与えるだろう。そして前者の責任においては後者の責任は等閑にされ、後者の責任においては前者の責任は等閑にされることが通常である。ではそのどちらの責任も担わないような無責任な言語行為というものもあるだろう。例えば友人関係にある人間間での発話とか、家族内の団欒の会話等であろう。この三つの異なった責任付帯様相における言語行為における発話言辞、発話陳述内容の命題論的な考察と、真理条件について考えてみようと思う。
 言語において説明責任として論理というものが求められる。しかし言語は論理以前のものである。論理的な言語が求められるとしたら、それは論理外的な言語行為が日常的には親しい者同士の無責任な会話に多く登場する。つまり論理は発生論的に言えば、言語獲得以後の要するに後発組なのである。だから論理的な枠組みとか秩序が言語を通して求められる場合我々は要するに論理というものが、言語の個々の約束事によって形成させられてきたということに気付くのである(尤も論理自体も、実は言語習得以前的な原型はあるのかも知れない。しかし少なくとも言語習得によって論理認識が完成していくということだけは言えるだろう)。
 論理外ということは非論理的というのとも幾分違う。非論理には論理に対抗するような趣があるが、論理外ということは論理を発生させる背景そのもの、場そのものをもう一度我々に見直させるようなものである。私は人類の言語獲得は、攻撃的欲求に対する良心の側の抑制力発動を責任という外的な存在者同士の暗黙の連帯と、見知らぬ他者に対する配慮という意識の発生に伴ってなされた、と考える。その意味では私は完全なる理性論者である。つまり知性は理性に支えられて論理やその他のものを産出してきたのだ。
 前作「責任論」では最後にカントを取り上げたが、私はカントが幾分近代意識と、近代人の獲得した権利問題としてだけではなく、人類の起源的な資質として善意志を捉えようとしていると述べたが、特にその理由については述べなかった。そこでそのことについて論理と論理外の関係を論じる中で触れてみようと思う。
 「(前略)或るものが目的自体であり得るための唯一の条件をなすものは、単なる相対的価値すなわち価格をもつものではなくて、内的価値すなわち尊敬を具えているのである。」
(「道徳形而上学原論」篠田英雄訳、岩波文庫116ページより)
 あるいは、
「根原的存在者〔神〕は、自然に普遍的法則を与える立法的な知的存在者であるのみならず、また道徳的な『目的の国』における立法的元首でもある」(「判断力批判」・413)
 とも述べている。カントは神を否定しはせず、それどころか極めて峻厳なものとして神を扱っているも、私は前作において彼が宗教的な意味合いからのみ、つまり信仰心からのみ神を扱っているのではない、と述べたが、それはつまり彼が人類が神というものを設定した、つまり完全なるものの支配という観念を生じさせたという事実において、それを否定しない、という意味からなのである。つまり私は人類が他の動物と異なって文明を築きあげたのを自分にない能力への嫉妬とその能力に匹敵した力を得たいと願望する意志によるものと「死者と瞑想」(同じブロガーにて「死者/記憶/責任」において記載)で捉えたが、実は私はそれだけではなく、前作「責任論」で述べたことでもあるのだが、良心とも密接な感謝の念が非常に重要な駆動力として作用した、とも考えているのだ。鳥のように高く飛びたいと願う気持ちは、知的好奇心を発動させる。それが人類が科学を文明を築くために発展させたことの起源であろう。しかしそれと同時に知的好奇心とか理解を得たいということの責任としての科学を有用化させるために、あるいは平和利用するためには感謝の念が要求される。自然の恵みそのものに対する感謝の念が、外部自然ばかりではなく内的な精神的充足というカントが言う道徳的な目的の国という理想をも神が司るという考えを生む。つまり人類はある日目的意識を生じさせたのだ。その時完璧な自然や我々への支配という観念を生じさせ、それが神という観念となって結実したのだ。だから神が人間のような姿をしていようが、スピノザ的に自然そのものであれ、その実体論そのものは恐らくカントにとってはあまり重要ではなったであろう、と思う。つまり彼は人類が起源論的に、そのような自然の恵み、つまり内的理解とか知的好奇心とか自体を齎した大自然の霊力そのものを彼は感謝の念として神という観念に代表させたのだ。その意味では理論物理学者で生物物理学者のシュレーディンガーの哲学的倫理にもカントと全く共通したものがある。ここで一つ定義しておこう。神という概念に代表される自然へに尊崇それ自体は実は我々の日々の行動や選択の中から決して感謝の念を忘れるべからずという道徳律から引き出されていることなのである。そして感謝の念とは神という謂いを通して我々が目に見える形で感謝の念を表す、つまり言語行為それ自体の中に神への感謝を位置付けようとする自然の一部である我々自身に対する、与えられた能力への責任そのものなのだ。だがこの章の始めに示したように人類は時としてそのことを忘れ同類同士で争い、血生臭い殺戮も繰り返してきたのだ。その歴史的な教訓から学ぶべきことは自然の恵み自体への感謝が我々の存在自体に対する責任である、とそれを言語で明示する必要性を銘記するということなのだ。それはそのような言語行為として常に念頭に入れておかなければ我々は直ぐにそのことを忘れがちである、ということをも意味している。
 だから神がいるのかいないのか、という問いは、感謝の念を忘れないようにしようという自覚の前ではそれほど大した設問ではないのだ、という主張をカントに私は読み取る。そしてそのような主張はカントだけの専売特許ではなく、先に挙げたシュレーディンガーにも該当する。そこでシュレーディンガーをはじめ何人かの先達の考えをここで改めて言語と責任という題目から考えてみようと思う。まずシュレーディンガーである。
「この現実世界のどこを捜しても、複数の意識を見ることの出来る世界などありえない。つまりこのように複数の意識という考えは、個々人の<空間的時間的な>多様性に基づいていて、たんにわれわれが構成したものにすぎない。だが実際のところ、このような複数の意識の構成[という考え]は、誤ったものである。複数の意識の構成を認めようとするがゆえに、すべての哲学は、理論的には拒絶することのできない、バークレーの観念論の無条件な承認と、現実世界の理論における観念論の無益さとの間の、絶望的な矛盾にくり返し陥ってしまうのである。この矛盾に対する唯一の回答は、われわれにとって有効な、ウパニシャド哲学の古代の叡智のなかにある。」(「わが世界観」ちくま学芸文庫、114~115ページより)
「(前略)バークリーの観念論はこの認識で満足しており、それなりに首尾一貫した矛盾のないものではある。私自身の肉体と同じ構造をした他の諸々の肉体を観察することによって、この観念論を乗り越えることができる。これらの肉体は、まわりの環境や他の肉体、さらには私の肉体と、物理的にはまったく同じ相互作用をする。この相互作用は、私の肉体がまわりの環境やこれらの肉体に対してする相互作用と同一のものである。この観察に関連した以下のような仮説によっても、この観念論は乗り越えることができる。それはすなわち、このような物理的現象は感覚と結びついており、この感覚は、その現象が私の肉体に影響を与えたときに喚起される感覚と同一のもであるという仮説である。「きみのように向こうに座っている者がいる。彼も君と同じように、ものを考えたり感じたりしている」。さてそのあとをいかに続けるかが肝要である。すなわち「向こうに自我(Ich)があり、それも私(Ich)なのである」と続けるか、それとも「向こうにもう一つの自我(Ein Ich)があり、それは君の自我と同じような第二の自我である」と続けるかの、いずれかである。以上の二つの見解を区別するものは、「一つの(Ein)」という単語、つまり不定冠詞のみである。この語が「自我」を普通名詞に格下げしている。なによりもこの「一つの(Ein)」という語が、観念論との訣別を修復不可能にし、世界をさまざまな亡霊で満たし、そしてわれわれを救いようのないアニミズムの腕のなかへと追い込むのである。」(同書、
119~120ページより)
 言語やその規則によって齎された論理性とか論理構築性によって今挙げたシュレーディンガーの言うような自我対自我の関係性を理解することは不可能ではないだろうか?意識は各個別において唯一のものである。それは一卵性双生児のよう遺伝子レヴェルで相同でも、仮に私のクローンが私の隣にいて尚、私と私のクローンは別人である。もし我々が神なる人間が考えた我々を生み出した霊力そのものへと感謝の念を忘れずにいるべし、という主張をここに見出すことは然程困難ではない。
 しかしニーチェになると、極めてシニカルとなる。
「234 良心の呵責とは、性格が実行に匹敵していないことの徴候。善行ののちにも良心の呵責はある。すなわちそれが異常なものであり、古い環境からは抜きんでているからである。」(「権力への意志」上、ちくま学芸文庫、236ページより)
 この言においてニーチェが示したことは前半はカント的な善意志と行動の性格との齟齬であるが、彼固有の言辞は後半部分である古い環境とは制度的な社会道徳といったものであろう。つまり近代国家の押し着せたものとは、キリスト教的な善悪の判断であり、市民社会のモラルである。しかニーチェはもっと人類にとって起源的なものを見据えているのだ。そしてそれを彼の生きた時代の現代人の中に読み取っているのである。
「257(前略)真理は残酷である。われわれは、これまであらゆる高度な文化がどのように地上にはじまったか、を容赦をすることなく言おう!なお自然のままの本性をもつ人間、およそ言葉の怖るべき意味における野蛮人、なお挫かれざる意志と権力欲を有している略奪的人間が、より弱い、より都雅な、より平和な、恐らく商業や牧畜を営んでいた人種に、或いは、いましもその最後の生命力が精神と頽廃との輝かしい花火となって燃え尽きんとしていた古い軟熟した文化に襲いかかったのだ。貴族階級は当初には常に野蛮人階級であった。その超越性は最初は物的な力のうちにあったのではなく、むしろ心的な力のうちにあった。_彼らはより全き人間であったのだ(このことはあらゆる段階において「より全き野獣」でもあった、というのと同じ意味である_)。」
 人間の攻撃的欲求を余すところなく表現した言であるが、ヨーロッパ社会のエスタブリッシュメントに対して痛烈な皮肉であると同時に、ベンヤミンがパリを現代都市像(遊歩道や建物、装飾品、家具等のモードを痛烈に皮肉った「パサージュ論」において示した。)を人間の欲望を表象した例として扱った精神を先取りしている。

 ところで第一章でも述べたことなのだが、人間が社会生活を営む上で原因があり、結果を齎すという自然状態という事態は極めて少ない。例えば不測の事態としての事故とかの類くらいのものである。経済指数、目標値、全ての業務は結果を予め想定して、それに向けて営まれる。それは教育のレヴェルでもそうである。我々の学校時代を思い出してもそうなのだが、教育は意味を教え然る後に記憶させるようなものではない。まず暗記させて、それを記憶事項としていつでも引き出せるようにして意味は後からついてくる、あるいは理解出来る時を待つ遣り方である。例えば九九がそうであるし、英単語とか英熟語、慣用句(イディオム)がそうであるし、宗教テクスト、例えば聖書がそうであるし、土佐日記、方丈記、平家物語や徒然草といった文学テクストの有名な序文や有名な節の暗誦は、まず闇雲に覚え、然る後に意味を習熟するような類のものだ。そういう意味では我々の日住生活ではあらゆる慣用のシステムの全て(パソコンの使用の仕方、携帯電話の使用の仕方)そのいずれを取っても、原因があって、然る後に結果が付いて廻ることよりも、まず遣り方をつかんで、然る後にそれを役立てることの方が多い。何とか苦労して最後にやっといい遣り方を掴むという事態は、恐らく開発業者とか研究者とかの業務内容において必要な苦労であり、私たちが通常本や小説を読むこともまた、殆どが結果が既に示されていて、それを摂取することであり、情報を摂取することも結果は既に判明していることである。自転車の乗り方を両親から教わる、あるいは何か便利な方法を他者から教わる。これら一切はプロセスを踏んで然る後にいい結果を出す自分の仕事を捗らせるために全て予め遣り方は決まっていて、それを教えあう、情報の遣り取りをするための道具が言語である。
 つまり我々の生活では遡及的因果関係として位置付けられるような方法や道具の方が結果の見えないものよりもずっと多い。だからこそ逆に意志という原因を理由に変えて、いい仕事の結果を出そうと努めるのである。
 例えばニーチェの次の節には今述べたような観念に対しての適切な例としてここに挙げることには意味があるだろう。
「277 畜群における誠実性の道徳。「君は認知されうるものであるべきであり、自分の内心を明瞭不変の目印であらわしているべきである、_さもなければ君は危険である。また、君が悪しきものであるなら、自分を偽装する能力こそ、畜群にとってはいけないものである。私たちは、隠密な、認知しがたい者たちを軽蔑する。_したがって君は、自分自身を認知されうるものとみなさなければならない。身を隠していなければならず、姿を変えうると信じてはならない。」それゆえ、誠実性の要求は、人格は認知されうるものであり、固定したものであるということを前提する。じじつ、畜群の成員が人間の本質に関して特定の信仰をもつようにさせるのが教育の問題である。教育は、まずこの信仰を作りあげ、その次にこれにもとづいて「誠実性」を要求するのである。」
 確かに人格は日々変わる。しかし最初に示した人格的な第一印象がその後の全ての人格に纏わる査定に影響を与えるものである。学歴社会ということもまたその一つとして位置付けられよう。本来学校システムを卒業してから後に習得したことの方が大切なのに、あるいは最近してきたことの方が大切なのに生涯、学歴は付いて廻るという要素も社会にはある。君が悪しき者であるなら、と捉えているところがニーチェらしい。つまり体制、権威の側につくことこそ彼にあっては悪しきことなのである。そして体制と権威は常に人格を不動のものと規定しかかる。つまり理想的形態、状態とは価値規範的な評定において、結果として既に用意されているものなのだ。ここにカントが「目的の国」と表現した、まさにパーフェクトな存在として神という概念を創出した人間の理想値設定行為を想起させずにはおかない。つまり体制に順応し、権威に付き従う人間を養成することこそが教育の国家レヴェルでの目的であり、そういう体制と権威に対する信仰を作り上げ、それに生徒たちの精神を当て嵌める作業こそが教育であり、誠実という観念は押し着せられたものとしてニーチェが捉えた仕方では、体制と権威からその目的によく合致した成員に対して付与された称号なのである。だからこそJ・L・オースティンが述べた否定主導型の語彙、言説が成り立ち得るのである。このことについては大屋雄祐が恰好のテクストを世に問うている。「法解釈の言語哲学」(勁草書房刊)はそのことについて大きく取り上げている。

「(前略)例えば「赤い」という言葉がある性質の表現であって、「赤くない」という否定語の役割はその欠如すなわち性質の共通性を担うことになる。オースティンが否定主導語の典型と見たのは、「本当の」(real)という言葉であった。
 
「本当の」という言葉の主導権を握っている(wear the trousers)のは否定的用法なのである。すなわち、あるものが本当のものである、本当のこれこれである、という主張に一定の意味が与えられるのは、どういう場合にそれが本当のものではない、あるいはなかったとされうるのかが特定されることによってでしかない。(.....)この事実こそ、「本当のと呼ばれ、またそう呼ばれうるすべてのものに共通する特徴を見出そうとする試みが、きまって失敗する理由なのである。「本当の」という言葉の機能は、何かを肯定的に特徴づけることではなく、本当ではない可能なあり方を排除することにある。[オースティンのテクストの出自表示<著者注加入>]


実在概念の場合にも同様に、否定的契機のはたらきが逆転している_それが野矢の指摘である。(野矢茂樹の論理を説明している。<著者注加入>)「本当の」と同様、「正常」という言葉もまた否定主導語に他ならない。「いったい、『正常な状態』とはどのような状態のことだろうか。健康状態が正常であること、鉄道の運行状況が正常であること、テレビの映りが正常であること、ある人物の言動が正常であること、.....。いったい、これらすべてに共通する『正常さ』という特質など、見出されうるだろうか」[野矢のテクストの出自表示]<著者注加入>]いや、存在しない。存在するのはことがらに応じてさまざまに規定され得る異常な事態であり、それが存在しないときにのみ「正常」という言葉が使われるのだ。そして、「正常な知覚」である「実在」、すなわち典型的には見えていることと想定される「実在」という概念についても事情は同じである。正常な知覚の諸特徴が存在するのではなくさまざまに異常な知覚が想定されるのであり、そしてそういった異常の不在が実在性の意味なのである。(後略)」(144~145ページより)
 
 ここで問われていることとは、敢えて否定主導で言辞することの意味である。それはどういうことかと言うと、ある異常事態というものは話者同士でア・プリオリに前提された会話内容である場合、そういう事態を想定しつつも、それはそれに該当しないという言辞を持つ時に、この否定主導語を用いるのだ。するとこういった場合の否定主導語使用という現実は、予め否定主導によって異常ではないと主張され得る対象の性質を弁護する意図であるか、あるいは異常な事態にもかかわらずその異常さの横行という現実における救いを見出そうとする意図であるかもいずれかであると考えられる。そして重要なこととは「これらすべてに共通する『正常さ』という特質などない」という考えである。ある観点に関して陳述がなされ、それに関しては正常であるという言辞が齎されているだけであり、そのことの主張とはすなわちある発言(ある言辞となって陳述内容を表明することを以後発言とすることにする。)がなされる時、それはその発言を話者がすることの意義を表明している限りで、その真理は有用であるという考えがそこにはある。このことと関連するかどうかは定かではないが、エイヤーの「その陳述の意味の部分では全然ないけれどもその陳述の真偽には関係のある観察‐陳述が多数存在するのである。」(「言語・真理・論理」序論、227ページより)という言述は示唆的である。何故なら意味とはある発言がある言辞をある状況下で発せられる時に聴者が受け取る理解によって成立するものである。その意味では発言とはそれ自体ではなく、その発言を聴者が命題論理的にも述語論理的にも納得することに他ならない。ということは、その発言が陳述としての意味内容として示された命題自体は全く別個の発言によっても示し得られよう。つまり発言の数だけ常に命題の持つ真理の示し方の数はあるということになる。このことの意味は同じくエイヤーの「言語・真理・論理」の「(前略)物質的事物に関する陳述を検証するために要求されるものは、精確にこの、あるいはあの感覚‐内容が生じたということなのでは決してなく、かなり漠然とした範囲の感覚‐内容の中のどれかが生じたということなのである。なる程我々はかような陳述を我々がどんなテストをしようともそれに対して成立する観察をすることによって、テストする。けれども実際に我々がどんなテストをしようともそれに対して、条件や結果においてある程度ちがってはいるが、同じ目的を果たしうるような他のテストが無限個存在するのである。そしてそのことは、物質的事物に関する任意の陳述が与えられた場合、正にこれだけがその陳述によって含意される観察‐陳述であるといえるような陳述の組は決して存在しないことを意味するのである。」(序論、220~221ページより)という箇所にも見られる主張であると言える。つまりここで言うテストとはまさに発言そのもののことである。そしてその発言はまた全く異なった発言からも、同一の観察‐陳述内容を示し得るのだ。ということは一個の発言というものは恣意的なものでしかないということになる。それは要するに観察‐陳述内容の唯一性と観察‐陳述それ自体の非唯一性とが共存していることを意味するし、同時に解釈の多様性をも示唆するものである。そのことは「事実は存在しない。あるのは解釈だけである。」というニーチェの言葉をも連想させる。しかしエイヤーは同時にこうも言う。
「「事実的な意味」という表現は、私の基準を満足する陳述の中、分析的でない場合に適用したのである。」(序論、226ページより)
 この述定には、陳述内容(陳述指示性)と陳述意図の唯一性が主張されている。つまり陳述する意義とはその発言が非分析的であることにおいて命脈を保っているのだ。それはその事実に対して向き合う発言者の立場の唯一性を表しているのだ。このことは意思疎通がその場その時の一回性において意味も、文脈構成も、意思疎通意義も存しているというデヴィッドソンの視点へと直結する。そしてそのことで陳述されることと陳述することの明確な分離を意図した発言であるということが明確化する。
 元来エイヤーは例えば感覚されるものと感覚することを混同してはいけない、とする。例えば感覚することとは、感覚される事物が我々に対してある知覚映像を規定することであり、その強制的な映像内容を把握することであるが、感覚それ自体には「それがどのような見えるか」という感覚する主体の心の状態、つまり意味作用的な脳内の発火現象が不可分であるからだ(脳内の意味作用という謂いはアンセルメとマジストレッティーが採用している)。
 エイヤーは感覚‐内容という図式を与えているその事実において既にそれらを一括りのものとして認識している。この考え方はギルバート・ライルの「心の概念」の心と行動の不可分離性へと関連付けられる。ライルはその人間の行動と心は別のものであるとして、その人間の行動からだけでは心の中はブラックボックスであるという従来の考えに対して懐疑的に論証する。そしてある行動を採ることはそれ自体でその行動を支える心の状態そのものであるとする。ということはある行動が例えば机の上の鋏を取ることであるとすれば、我々はその鋏を取る人が鋏を視覚的に把握していて、それを使用したいと考えていると判断してよい。ということはエイヤーの言う感覚はライルの言う心であり、エイヤーの言う内容とはライルの言う行動ということと同じである。感覚とはそれを外界からにせよ、内的にせよ思念することにおいてなされる意識の事実であるから、それは要するにその意識の事実を伴った対外的な行動(ただ座っているだけでも目を瞑っているだけでも)に直結するのである。その点でエイヤーの考え方はライルと共通している。
 このことは生物学者のリチャード・ドーキンスの「遺伝子の川」、「ブラインド・ウォッチメーカー」での「全ての知覚現象が鮮明で完璧ではなくても、薄ぼんやりとしているだけでも、映像が認識出来るという意味では、目が全くない場合の感覚よりはずっとましである」という考えにも関連してくる。何故なら感覚することとはその感覚が呼び起こす精神的な内容であるから、その精神的なこととは向こうから怖い人が来るから近づかないようにしてどこか別の場所へ退避しようという行動に結び付く。そしてその時、その怖い人に対する把握と同時に扁桃体その他によって情動作用を我々は抱くのだ。つまり事物認識には同時にその事物に対する情動という精神的内容が共存している。勿論その時、別に怖い人でなくても、電車の中から見える風景でもいいし、ある蛍光灯でもいい。それらもまた風景そのものや蛍光灯そのものに対する映像把握と共に、自宅に帰ったら風呂に入るとするかとか今日は一日よく仕事したな、とかいうような知覚映像そのものを主体にすれば雑念が必ず入り込んでいるのである。もし我々に目がなければ別の手段で外界の事物を認識したであろう。しかし我々は眼を持っているし、近くに近づかなければそれが蹲った猫かただのちょっと大きめの石かどうかはっきりしないような視力であってさえ、その地面に事物があると認識し得るのとし得ないのとでは全く生存上のメリットという観点からは差は歴然としているという主張によって彼は創造説の主張する、進化のプロセスに対する懐疑へ(目が全く見えない状態から完璧に見える状態までの途中のプロセスということには意味がないから、進化論は無効であるとする創造説の考え方に対する批判としての)意見をしたわけである。
 しかし我々はある事物を観察していても、その時の心の内容は百パーセントその事物に対する関心だけではない。それを言うなら絵を描く時画家はモデルを注視していてさえ、その注視を通して過去の記憶を呼び覚ましたりするであろうし、あるいは色々な想像、連想も働かしているだろうし、絵を描くということは手も動かすだろうし、目も動かすだろうし、兎に角関心がいかにある対象に注がれていても尚、それは百パーセントではないことの方が通常である。しかし同時にそういう事実(事情)と、そこに座るモデルが画家に齎す映像内容(事態、状況)を認識することというのは常に両立しているのだ。
 その意味では画家が認識し、把握するモデルに関する知覚映像は視覚能力行使的な意味では画家に責任がある。きちんと見るのかそうではないか、ということに関しては。だから画家が描く絵のような主観的な表現ではない何か計測機械のメーター表示といった事態であるなら我々はその視覚能力行使の纏わる責任は計測値を観察した人員の責任である。
 ということは発言に戻るが、発言はその観察‐陳述内容の述定という意味では陳述内容の真偽という側面では発言者にその真偽に関して発話することの責任は課せられているのだ。ということはその意味ではある発言を支える「感覚‐内容はそれ自身では常に精神的でも物体的でもない」(同書、哲学上の主要な論争の解決、190ページより)という主張から、発言することは感覚‐内容という社会的事実に対する容認であり、そういった事実を支える社会に参加していることを宣言しているという意味を我々は導き出せるのだ。
 つまり感覚‐内容を精神的にすることは個人の自由であるが、それが仮にある物体の動きそれ自体だとしても尚、それを感覚することは「物体に対している」ことであるその時点で、「物体に関わる観察者」という一個の事実となるのだ。その時あのウィトゲンシュタイン「論考」の有名な「一 世界は、成立していることがらの全体である。」、「一・二 世界は事実の寄せ集めであって、物の寄せ集めではない。」、「二・〇四 成立している事態の全体が、世界である。」という主張の意味が明確化されるのだ。つまりここでウィトゲンシュタインの述べることとは、事実に向き合う我々には生きているという事態そのものにおいて各瞬間に我々自身の責任が課せられているという主張でもあるのである。
 例えば野球場でもないのに路上の向こうからボールが飛んできた場合、咄嗟の判断でそれを避けることをするのは我々がその場に立たされていたのなら、我々自身の避ける能力行使をする行動に関しては我々の責任なのである。だからこそエイヤーの次のような述定に意味が生じてくるのだ。‘Domitian took pleasure in torturing flies.’(「ドミシャンは蝿をいじめて楽しんだ。」)という文章におけるように、痛みとかこころよさを精神的なものであるというのが適当であるような用法においては、それ等の言葉は感覚‐内容ではなく論理的構成を指示しているのである。何故ならば、この用法で苦や快を引き合いに出すのは、人々の動作を引き合いに出す方法の一つであり、それは結局は感覚‐内容を引き合いに出すことであるが(後略、本テクスト「しかし我々はある事物を観察していても」以降からの文章によって示された謂いへと連結される。)」そのことは、感覚‐内容に対する名辞行為として、後付け的意味付与として「痛さ」とか「心地良さ」とかいう具合に名指されるのである。そしてそれは説明責任的な意味合いを帯びる。例えば体の不調を医師に訴える患者のケースを考えてみれば、彼は医師に対して体のどの部位がどのように痛いかとか不調であるかということを論理的に説明して初めて医師は処方を案出することが可能なようにである。
 そしてこの心の内容に関する説明責任という事態はそれ自体で社会的事実としての心の存在を物語る。元来ライルが心と呼ぶことそれ自体は、彼が行動という概念と結び付けることにおいてであり、それは幾分言葉自体が指示する領域が茫漠としてい過ぎる。その意味ではエイヤーの言う感覚という概念規定の方がよりこの社会的事実ということの確認の観点からは理解しやすいように私には思われる。
 例えばこれから外出しようとしている時に、部屋を見回し机の上にあるボールペンに目を留める時、心の中では外出のことで一杯であるのだが同時に机の上のボールペンの知覚映像を私は心に留める。そしてその時ふと何か思い付いたり、メモをする必要のある時に書くものを所持して出掛けることには意味がある、と思えば、私はそれを外出着の上着のポケットに忍ばせるであろう。それはある心の内容に支配された雑念を抱きながらでの感覚‐内容という知覚内容においてさえ、それに対する認識の確固とした自立を意味する。私たちは常に何かに没頭しながらも、同時に何かをしているのだ。だから患者が医師に処方して貰いたい場合、適切に医師に病状を伝える責任は患者にあるのだし、例えば車を運転していて、「赤信号になったのですが、車の運転に夢中で気が付きませんでした。」とか「酒がおいしくてつい飲み過ぎて、気持ちよかったので車を運転してはいけないということに気がつきませんでした。」と言うような事態は、その行為に没頭していることにはならないのである。まず運転するということは赤信号を確認することも含まれるのだし、また酒を飲んだ時には車を運転することは許されないということは、酒を飲む行為のマナーに関しても含まれていることなのだから、それは言い訳にもならないのだし、言語それ自体の使用の仕方に纏わる社会的事実としての責任の所在をただ忘れて去っているだけのことなのである。言語使用とは要するにそのような言語が示す社会的事実の示す意味の理解をしていることの責任において認められる行為でもあるのだ。つまり運転するというマクロ的な責任には信号を確認するというミクロ的責任(前方の車に対してある車間距離を取るということもまたミクロ的責任である。)を含有するのだし、また酒を飲むというマクロ的責任にはそういう時には運転をしないというミクロ的責任(他人に迷惑をかけないということもまたミクロ的責任である。)が含有されているのだ。そしてそのミクロ的責任を包み込むマクロ的責任をある語彙使用においては宣言しているということがまた一つの社会的事実であるし、その語彙にはそのような意味があるのだという了解をもってその語彙を使用することが社会的責任であるということもまた一つの社会的事実なのである。