Sunday, January 16, 2011

第十二章 人類の転換点から読み取れることPart1

 人類が進化論的に発生してから今日までの間に様々な一大転換があったと考えることは間違いではないだろう。只その文節点がどの時代、どの生物学的年代にあるかとずばり特定することは色々な意味で困難である。一つには何を規準に転換してきたかという査定自体が極めて主観的な判断しか出来ず、もう一つはその転換された年代特定の極めて困難であるという認識事実からである。
 さてここで私なりに一つの仮説を立てみたい。それはこういうことである。
 まず人類が人類であることを証明する重要な転換点とは人類が意思疎通し合える言語を保有し始めた事実がある。それを第一の転換点としよう。
 するとその次は様々な異論もあろうが、人類が誰しも何時かは死滅するという死に対する自覚を誰しもが抱き、その事実故に内包してしまう死への不安と情緒不安定の解決の為に何らかの宗教倫理性を獲得するということ、人生全体を意義化し得る倫理を携える様になっていった転換点が考えられる。これを第二の転換点としよう。
 それと相前後し、どちらが先とは言えないものの、否言語獲得とさえ同時期かも知れない、何らかの形での交易をする様になっていった人類の転換点を第三の転換点と呼ぼう。
 実はこのことは商行為や果ては何らかの形で物品に対する代理機能であるところの貨幣経済の移行をも含めてである。私自身の推察と仮説ではかなり古い時期から既に貨幣の代わりとなり得るものの使用はあったと考えた方が、よりその後の歴史を鑑みると理解しやすいと思われるし、又言語行為や宗教倫理性もそういった行いと不可分であると捉える方がより自然ではないだろうか?
 さて次に何が起こるかというと、やはりそれは国家という体裁が整ったということではないだろうか?これを第四の転換点と呼ぼう。
 実は近年商行為、交易よりも国家の方が後だったという考えが大分定着してきたのでこれを第四の転換点としたい。これはある意味では近代の欧州の王政とは異なっていても、やはりその礎となる様な或る種の絶対権力の形成と考えることは理に敵っているのではないか?つまり何らかの支配層、例えば日本であるなら天皇家の確立とかそれに類することは世界各地であったであろう。
 それ以後の転換点ということを考えると、かなり多文化的、多様な展開が人類史上起きたので、実はそれ以前のよく歴史の展開自体が不明であることと違って明白なことも多くなるのでその二つの別種の歴史的展開を心理的に公平に見ることも困難化する。
 そこで大きく捉まえると、やはり産業革命による大量生産技術の発明などを第五の転換点とすべきではないだろうか?(尤もグーテンベルグの印刷技術の発明はそれ以前であるし、それも大きなことであるが、それをもここでは網羅して考えていこう)つまりワットやスティヴンソンによる蒸気機関その他、或いはエジソンによる電球の発明など、それ等が人間知性として集積された形でフォードによる自動車の発明、それ以後新聞の発明、ラジオ、テレビの登場、そしてコンピューターの歴史へと移行し、現代へと至るわけだ。
 
 ここで考えるべきはどの転換点が一番重大であったかということではない。つまり重要な捉え方とは、どの転換点もそれなりに何らかの形で人類に於ける根底的な意味での発想とか考え方とか習慣を変えてきたということである。つまり生物学的には恐らくDNAレヴェルでは人類は言語獲得以前とそれ以後ではそう変わりないだろうし、そういった意味では人類という種の発生から今日まで然程の変化は生物学的にはない。
 しかしにも関わらずある部分では極めて我々自身の行為に大きな変革を齎したであろうことは、今迄述べてきた全ての転換点では行為としての習慣に大幅な転換を齎したであろうということである。つまり考え方の変化、行為習慣の変化自体が今迄述べてきた転換点を境にがらりと変わることは大いにあり得る。
 言語行為のなかった時代からある様になった時代では、既に情報摂取という意味合いから激変がある。つまり無駄な労力が極度に節約出来る。それは今日の様にブログ、ツイッター、フェイスブックなどが登場する時代にまで共通して言えることである。全く知人のいない人と大勢の知人のいる人とでは情報摂取的な意味では大きな差がある。
 それと同じくらいに人間の生涯は必ず終わりもある。つまり死というものの自覚のあるかないかでは、大きな違いが生じる。それは生全体の意味、意義をどう捉えるかという発想の転換が必要となる。死を理解出来ない内は或いは言語行為さえ可能ではないという見方も成立し得るが故に、第一の転換点と第二の転換点もほぼ同時期であったという考えもあっておかしくはない。その意味では私が述べたこの転換点の仮説は前後関係自体厳密なものではない。
 東浩紀の考える様に現代社会のツイッターなどに皆が参加して誰しもが意見を言える様になってきたこの変化を、かつて一部の人達だけが、つまり端的にエリートとかインテリ達だけが意見をする権利があった時代にあった、要するに確立された意味の世界から、欲望自体が露出した時代、つまり意思疎通欲求自体の方が意味よりも重視される時代、即ち人類の最初の転換点と私が設定した時代精神に立ち戻ったと捉えることも可能である。
 しかし現代社会のこの大きな変化はそれ以前的にはやはり新聞、テレビなどが登場したということを基礎にしている。その情報網の確立の上で成立した一つの文明的転換点が現代なのかも知れない。
 例えば我々は車のない社会というものを想像し難い。その意味ではフォードが車を発明したばかりの頃の人類は今の様な完全なる車社会の到来を予想し得た人はいただろうが、実際に現代の様になるなどとまでは想像出来なかった人も大勢いた筈だ。
 それは映像に関しても言える。例えば最初に工場から人が出て来る姿を映した映画を上映したリュミエール兄弟による蒸気機関車の映像を見た観客は席から立ち上がって逃げ出した(蒸気機関車が迫り来る映像が機関車の前方から撮影されたものだったが故に)。しかし今現在どんな凄い映像を見せられてもそうする者はいない。
 それを考えると、我々は行為習慣というものを慣れという形で、記憶に留め、それは端的に一々愕かないということに尽きる。現在パソコンを利用することを便利だと新鮮な感動を味わう人は極めて少ないであろう。それは自動車を見慣れたことと同じである。
 と言うことは今現在大半の情報を本だけで得ている人、或いはそれ以外ではテレビに頼り切っている人と、パソコンも多いに活用している人との間で大きなデジタルディヴァイドがある様な意味での個人毎の差は大きくなりつつあるとは言えるだろう。
 例えば今は未だツイッターをしていない人、ブログもしていない人もいるだろう。しかし後十数年経てば、恐らく今現在車を生涯で一度も見たことのない人が皆無である様な意味で、既にインターネットだけでなく全てに於いてそういう人自体が消滅しよう。
 そして私が想像する数十年後には最早後戻りはしない様になっていくであろう変化とは、国家観というものである。私の想像がもし正しければ、恐らくその転換点が第六の転換点である。それは国家以前の個人という考えの徹底化である。
 例えば私達は生まれて直ぐに両親とか育ての親とかそれに類する年長者の行為を観察する。そして次第に言語秩序から意思疎通欲求を発現して意思疎通する様になる。これは発達心理学、現象学その他に於いても既に多く考えられてきた。
 しかし次第に公的であるとはどういうことであるかということで、地域社会を皮切りに国家とか民族ということを考えていく様になる。その意味では民族は消滅しないだろう。これは永遠に続行されるに違いない。
 しかし国家観はそれとは別箇に極めて大きな変化を来たしていくことだろう。それは別ブログ「トラフィック・モメント」や「Nameless-valueの考えてみたいこと」でもかなり頻繁に論じてきたことなのだが、政府や国家の支配自体がかつての様に万能である様な状態は既に維持しきれなくなってきているということである。
 それを象徴化する事件こそが尖閣列島中国漁船衝突事故映像の流出事件であったし、一連のWkikLeaks事件であった。
 人間の行為習慣は言語行為が常習化することで、完全自立から協力体制へと移行していった様に、様々なテクノロジーの発明や開発によってがらりと変わる。今東京から大阪まで徒歩で旅する人は、そういう敢えてするトライアル(それは自転車などで日本一周する様な意味で)以外ではあり得ない。従って交通機関が当たり前になって以降の人類は電車を利用するという行為が当然の行為となり、驚きは消滅している。それと同じことはパソコンでも言える。既にアマゾンなどで商品を購入すること自体に我々は愕きを示さなくなった。それは情報摂取でもそうだ。恐らく今の二十代の人達が老人に近づく時代では既に情報摂取の仕方自体が多様化し、今現在のテレビは既に今現在の映画よりももっと後退し、弁士が活躍した時代の無声映画にさえ近くなっていることだろう。
 それは要するに今現在のレコードの様な地位になっているだろうということだ。
 そしてその変化は恐らく国家観とか経済圏観自体を大幅に変更させるだろう。
 勿論先程も述べた様に我々日本民族もその文化習俗も消滅はしない。神社仏閣も古事記日本書紀や、万葉集、古今新古今和歌集などの文学的伝統や花伝書などの能、狂言、歌舞伎、浮世絵といった全ての偉大な日本文化は残存し、長く貴重なものとして捉えられ続けよう。しかしそういった文化的器を今迄は盛ってきた国家観自体は大幅に変更される、否今現在の様な形ではなくなるだろう、ということは想像出来る。
 一つには第三の転換点であった交易、商行為の在り方自体が、情報摂取を基軸に展開していくだろうからである。例えばこれ迄(パソコン登場以前)は概ね買い物とは商品を目の前に見てそれを購入していた。しかし今では既に商品自体の情報をパソコンその他で認知しておいて、然る後、安価で情報摂取手段であるパソコンを通して購入する、しかも世界各地から容易に物流システムを利用して行うということが常習化している。
 この変化は実は極めて大きなことである。この変化は既に農産物自体が世界各地から全世界へと配送されるシステムの確立によってある程度予想され得ていた。
 次第に物流システム自体の前では国境は無化されつつつある(否既に消滅している)。
 確かに言語、文化といった面から人類は日本民族には固有の考え方の遺伝子とか神社仏閣に赴いた時にする行為習慣など(初詣などを含めて)変わりなく永続しよう。
 しかしそれを盛る容器としての国家観は大幅に変更を余儀なくされる。例えば政府の持つ権限とはそれ自体かつてとは比べものもないくらいに激変してきている。
 その一つが私が他のブログ(「トラフィック・モメント」や「Nameless-valueの考えてみたいこと」など)で大きく取り上げてきたマスコミ、マスメディアである。これまでは既にマスコミ、マスメディアが自然と同じくらいに我々の生活に愕きを齎さぬものとして否定的媒体として、或いは批判対象として取り扱ってきた。勿論マスコミ、マスメディア自体は批判され続けるべきものではある。しかしそれは消滅していいものではない。
 その意味では話を戻すが、政治自体が既にマスコミ、マスメディアから別箇に独立した権力を保持し得たのは、戦時中の特殊な時代を除いて、新聞とテレビが登場して以降は一度としてなかったと言ってよい。そしてその傾向はここ数年でも益々極まってきている。
 一番顕著なことは、小泉政権以降日本でも極めて政治家が多弁、饒舌化してきたということだ。これは総理によるぶら下がり会見などが常習化していったのと期を一にしているのだが、要するにかつての談合主義的な様相は影を掠め、次第に政治行為自体が密室行為から完全に離脱してきたと言うことが出来る。このことは小泉流ワンフレーズポリティックという考え方自体が、小泉竹中経済政策路線の功罪とは別箇に常識化したと言うことが出来る。既に政治家はNHKで放映される国会中継での発言の仕方からその井出達から何から何まで演出を要求されている。これは戦後直後の世界ではあり得なかったことである。
 つまり端的に政治、政府、国家が経済、文化活動から何から何まで動かすということ自体が不可能化してきているということを意味する。
 政治が国家や国民を動かすということは実は古来より幻想であったとも言える。しかし少なくとも産業革命期から大量生産が可能化して以降、GNP、或いはGDPという形で国家百年の計的な意味合いで論じられてきた様に、ある程度それ相応の政治的支配とか国家統率的論理は最近まで通用した。しかし我々は本論タイトルにある様に、意図的であるか非意図的であるかに関わらず、既にあらゆる世界市民にある程度平等に捧げられている情報自体が人々の生活習慣から何から何までも規定する行為習慣、そして政治や経済まで操作しているということは問うまでもない。情報摂取は既に欲求でも欲求駆動でもない。それ自体が我々の行為を規定する。これは我々が最初の転換点である言語獲得と同じくらいの重みを持っている。既に政治家、とりわけ国会議員はかつての貴族院議員的ステイタスである。
 政治は情報と我々自身による情報摂取行為習慣が齎す。そして各地農産物や水産物全体の物流を統括するのも世界気候的情報である。そうなってくると、必然的に国家という形で纏まっていた共同体が地域性と地方の特殊性に対する理解と情報の共有という形に変質してきているので、当然国家という体裁は二の次となっていく。
 勿論今でも問題化してきている北朝鮮問題の様に国家観の軋轢は存在し続けよう。しかし例えば軍事的プレゼンス自体も、仮に日本が憲法改正をして自衛隊を自衛軍としても(今現在の政権の仕方では大分遠退いているとは言え)尚、それはかつての様な国家対国家の全面戦争を可能化する様なものではないだろう。
 何故ならそういったことをするメリットがどの国家にも見当たらないし、どの為政者にもないからである。だが当然何時の時代にもテロリストもいるだろうし、国家転覆を狙う輩も登場する。従って世界の軍事プレゼンス自体が消滅することはないだろう。しかしにも関わらず恐らく私の想像では徐々に核兵器保有による抑止力行使自体が無意味化していくのではないだろうか?つまり核兵器自体の維持には莫大の負担もかかるし、これ迄にそうであった様な意味で世界環境問題の観点から言ってもデメリットが大きい。従って我々の手によって少しずつそれらの維持の無意味観が立証されるに従って最低限の軍事プレゼンスと各国による応分の軍事負担の分担が世界秩序で話し合われ、最低限何処かの国だけが独裁的に核開発を推進しようとするアウトロー的トライアルを未然に阻止する様な世界視システムが構築されていくことだろう。
 その様な現実の前で既に世界では情報摂取とそれによる世界秩序が全面にどの個人に於いても至上命題化していく。その際に我々人類は既に国家観自体が盲腸的存在理由化していることを覚醒していくだろう(既に若い世代の人達は大半がそうである)。勿論民族や文化自体は消滅し得ない。しかしそれを盛る容器としての国家の体裁は極めてここ十数年の間に変化していくことだろう。多国籍企業とかそういうレヴェルだけの問題ではない。
 勿論国土という形では今日本各地で山や田畑などが中国人に買い占められている実状が問題化しているが、当然保全という形で法整備的にも国家は存在し続けよう。しかしにも関わらず、土地所有とか住民の民族構成自体は然程大きくは変更されずにいても、尚世界市民性と個々の個人の生存事実と、その自己主張の方がより国家帰属性よりも肥大化してくという現実は変更され得ないのではないだろうか?
 つまりその修正不可能な路線に於いてのみ、国家の在り方、各地方の習俗や名産物保持、或いは軍事的プレゼンスや防衛的ニーズが問われ、それを遊離した形では決して統合や統括、或いは統制ということが不可能化していくということが現代以降の世界の在り方の一大転換点であり、それを第六の転換点と捉えたい、ということが私の今現在の最大の仮説である。