Thursday, May 17, 2012

第二十六章 「~したい」と「~しなければいけない」から考える文明的発展プロセスとその事実への懐疑Part3 一応の纏め、そして次の命題の誕生

 前回私は「他者と対話獲得する為に必要なことは、国民としての義務を果たすことである。それは国家成立以前的な首長社会迄に通用した不文律や伝承的法とは違う。そこで明文化された法律が説明論理的に理解されている必要が生じてくる。又そこで初めて平等の権利などの命題が個人内部に強制的に移入させられる。そこで我々は倫理的な命題、もし仮に法律が何らかの事情で国家都市空間上で混乱したりした場合でも、それなりに「自分の判断で」他者に対して善であり得る様な他者への接しを持とうという意識はこの段階から発生すると考えられる。」と述べた。しかしこの叙述ではあたかも最初首長社会ではなかった自己判断が進化した段階での不文律や伝承的法より脱皮して法治国家的形態が確立されてから初めて人間理性が発生し得ると捉えられるがそうではない。我々は既に首長社会の段階で理性的判断もあった筈だ。しかしその段階ではその理性的自己判断が社会や国家的モラルとして定着されていないという部分で価値的に成員間の同意として認識されていいないという所が重要だったのである。
 そもそも人類はDNAレヴェルで人類となった段階で仮に今現在の様な言語活動を営んでいなかった段階であった当事から既に他者と協力し合うという意識を思考能力としても、或いは共感作用としても携えていた。その点では中島義道の様に言葉という制度が理性を育んでいると捉える事は人類学的には誤りである。中島の場合、要するに制度とは既に用意されている前提で対話を考えているが、実際は制度を作ってきたのも我々人類なのだ。
 自己判断がある段階から私的な判断ではなく、公的な判断でもあり得ると考えられる段階に達したという意味では中島に拠る「対話のない社会」で示した命題は活きてくる。そうである、確かに人類は公的価値としてではない形で首長社会の段階でも良心も協力的知性もあった。しかしそれを公的にも価値規範として語り得るのだ、と認識することが極自然に持てるとなれば、やはりそこで国家形態と法治国家という事実は必要なのである。
 人類が仮に内的に良心や協力的知性を持っていても、各社会成員への信頼がなければ、個人的良心も協力し合う自主性も他者と容易には語り得ない。それはまず首長からの承認を必要とする。しかし現代社会では既にそうではない。誰か権威化された存在からの承認以前的に我々は自発的に他者とモラル的価値に就いても語り得る。実はその部分での自由はやはり国家形態が確立されていくプロセスの中から進化していき、確立された、と考える事が自然である様に思われる。
 だから本来なら「しなければいけないこと」とは法的規約として公的価値として語り得る地点で義務化されているが、人間はその義務を自発的に自らに背負い込む快楽も持ち合わせているのだ。従ってそれは「しなければいけない」と態々言う必要がないくらに「したいこと」の中に、法的公的な価値として設定される前段階で我々は後に「しなければいけないこと」を含ませていた。しかしその良心や人間理性を公的にも高らかに語る事が憚られるという事は国家秩序形成前的には致し方ない。ひょっとしたらそういった良心や協力的知性が領土拡張を目論む一団から悪用されかねないからだ。
 その点で性悪的な対外的国防秩序を形成し完成した段階から逆に自発的良心や協力願望を相互に語り得る場を我々は獲得出来る。
 しかしそうなっていく前の段階では我々は領土拡張に伴う統治国家確立の為の官僚間での熾烈な利害闘争も経験した筈だし、私的に正義や良心や理性的自己理念を語る余裕はなかった(それはあってもひた隠されてきた)であろう。それを相互に語り得る様にする為にこそ一刻も早く領土を対外的に設定する必要があったと考えられる。そしてその意図は明らかに個人同士での公益とは異質の(それは狩猟民ではなく農耕民によってなされたと考えられているが)定住生活者集団としての国家体制確立の上での対外的国家の自己防衛と他国家との闘争に明け暮れることをも近代以降我々は経験したが、その相互に虎視眈々と侵略や覇権を行う歴史を予告していたのである。そしてその国家間闘争を可能としていったのも道具と武器の進化発展によってである。要するにテクノロジーの革命的進化によってより我々は国家体制の秩序をより上へ上へと押し上げてきたのである。そして対外的な殺戮とか侵略とか、その末に獲得したより高次の国家形態での汚職や官僚の腐敗によってその度に人間理性に就いて哲学者などに考えさせてきたという一面もあったのだろう。
 従って次回以降はこの安定的定住者集団としての国家成員の生活を保障してきた人間にとっての道具と武器のテクノロジーの進化と人間理性への問いを命題化させていくことに異論はないであろう。しかもこの問題は「第二十三章 都市文明に於ける連動と与えられた市民の幸福観 」で述べた都市空間での利便的社会機能利用を巡る我々のインフラから個人携帯のツールやディヴァイス利用を巡るインフラとツールの身体論へと展開していく可能性を有しているのである。