Friday, December 9, 2011

第二十三章 都市文明に於ける連動と与えられた市民の幸福観

 現代社会では都市文明自体に同化する様に社会システム自体が我々を規定する。例えば朝電車に乗れば満員電車である故、切符を買うのもカードで改札を通過するのも全て後続の人に迷惑がかからぬ様に動き自体が連動的にスムーズさを求められる。そのてきぱきとした身のこなしはより加速度的に進化していく便利な機器のスピードアップを促進している。電子端末の画面遷移スピード、ATM一般の遷移スピードなどが一秒でも速くなっていくことが進歩なのであり、それを疑う者を取り残していく様に全ての都市インフラが整備されていく。
 しかしその便利な都市生活という事実は、その便利さを享受する側の全ての市民がそれをいいことであり、心地よいことであると受け止めることが自然である、という前提に於いて加速化しているのであり、そこに疑問を抱く者を取り残していく。時代から置いてきぼりを食らう様に個々人を強いる。
 何故そういう風に社会インフラ全体が便利で利用し心地良く存在するべきかと問われれば、それはそういう風に日常生活が便利であることが幸福的感情に繋がる筈だという疑問を不問に付すくらいの前提が思想的に設定されているからである。
 そういう風にして都市文明が全体的に機能維持されていくことで、余暇には家庭生活で幸福を享受していく市民が人生を充実したものとして過ごせるという安穏としたモラル的な幸福観が前提されているのだ。
 人類が狩猟採集生活期にはさして社会全体のインフラは整備されておらず、恐らく近隣の部族との折衝くらいがコミュニケーションの普遍性や一般性を模索する機会であったことだろう。しかし国家が成立する以前に既に交易は盛んになり、貨幣の前哨戦的存在のバーター的な行為から徐々に進化していく交易秩序が形成されていったであろう。
 それが広範囲になっていった時に必然的に国家と通貨が同時発生的に成立したとも考えられる。そして古代から中世に突入する頃には宗教教義が宗教文化秩序として人倫的幸福観とか人生観を市民に国家為政者や宗教指導者によって与えられ、その市民生活の基本的な義務と権利が納税やら教育などによって実践されていく。その実践に於いて次第に都市構造というものが構築されていき、国家と都市計画という行為秩序が形成される。
 その一連の歴史的推移の中で初めて近代社会が成立し、通貨が外国との交易を盛んにし、やがて産業革命が勃興するのである。
 都市文明はだからそこで生活する都市生活者から徘徊者に至る迄刑法によって裁かれぬ様にするには一定の都市生活マナーを身につけることを強いられるのだ。それが都市生活に於ける歩行者から車の利用者に至る迄のルールであり、習慣であり、所作であり、仕草であり、表情なのである。挙動不審でない様に振舞う必要性を皆自主的に持つ様に自然に都市インフラが私達を強いるのである。つまり洗濯機が開発され市販される迄の都市生活と、それ以後の都市生活は必然的に変わらざるを得なかったし、洗剤の質の変化はもとより洗濯の概念自体が変改していったし、それは冷蔵庫と冷凍庫の発明によって買い物の概念は変改していった。それが車などを開発することを人類に追い込み、物流を発展させた。
 その様なあらゆるニーズとニーズに対応した発明が人類に生活を改変させ、生活上の激変自体が別の産業を勃興させ、都市文明と都市生活と地方部との連携的な秩序を形成していった。それは都市生活に於いては地方共同体的な人間関係ではない形での擦れ違う人達は皆見知らぬ他人であるという事態自体に全く奇異な感情を持つことなく生活していくことを強いた。それが都市文明上での連動的な所作、行為習慣を我々に付帯させていったのだ。
 しかしその様に地縁社会的に血縁共同体、親族共同体から他人同士が隣接して居住することが普通な状態へと変化していく迄には数多くの宗教的人心の統一などの国家秩序、言語共同体から統一言語国家などの政治形態の進化ということがあったわけだ。そして社会生活が移動に関しても公園などがあって精神的にも心にゆとりや平和な感情を持つ様にしていくには、その様な社会秩序自体が全ての市民にとって幸福であるという観念が定着していく必要があったわけであり、当然無法地帯が駆逐されていき、法治国家としての国民性が形成されていく過程では余分なものとして数多くの共同体的想像力は抹殺されていった筈だ。詩人であり劇作家であり映像作家でもあった寺山修司は現代都市文明が置き忘れていた素朴な個に内在する感情を抉って表示してきたのだ。それは寺山以前から以後の数多くの文学的天才によって示されてきた人類の試みの中でとりわけ私が啓発されたということでここで示しているに過ぎない。そもそも文学などという行為自体がそういった文明全体への懐疑的精神に彩られているのである。
 社会生活、都市生活が便利であるということは一方では家族の家庭的平和ということが全市民にとって権利的に付与されていて然るべきだという前提があるのだ。それは起源的に遡れば宗教教義的モラルが介在しているだろう。しかし市民生活に於いてかつて宮中お抱え画家であった人達が次第に画家自身のアイデンティティに目覚め風景画などを描いていくこととなった時点で、宗教神話性、聖書題材的絵画から風景画、或いはある時期は王侯貴族の肖像を描いていた画家達が一般の市民の肖像も描いていくという習慣が定着していくに従って市民経済社会が実現し、商売などの自由が保証され、より脱神話性、脱宗教教義的な意味では人類の何処かには中世の様な時代でさえ無神論が内的には存在した筈であるところの人間中心の、人間主体の、しかも個主体の考えは画家達によってまず実践されたと言っても過言ではない。現代の独在論哲学の持つ人間中心主義は寧ろ内在的な現象性を意識し過ぎる余り却って形而上学的気分を煽り、現象学の考える他者論と向こうを張っているものの、現象学は現象学でより精神分析的傾向を強めさせる結果となっていることは、案外分析哲学と現象学の対立している様で居て同根であることを証明しているかの様である。これら二つとも却って哲学的問い自体を無神論的観念をクローズアップすればするほど有神論的位相に差し戻すことになっていることに学究当事者達自身さえ気づいていないのである。
 唯他者との友愛的な仕事関係、家庭、友情などが市民生活に於いてモラル的に善であるとする前提思想が介在して都市生活や都市文明が成立していることは間違いない。
 だから分析哲学などで他者に対する極度の懐疑を独我論的に発生させていることは、裏を返せば都市生活の利便性維持の為の個々の市民による連動、ATM利用から自動改札、あらゆる端末利用、あらゆる自販機利用などをすること自体が、そういう風に近代以降の市民社会に於ける隣人と巧くやること、つまり隣人愛的な教義が常識として定着していったればこそ実現しているのだ。つまり分析哲学に見られる他者への懐疑などは寧ろ市民社会成立以前には今よりはずっと当たり前の様に存在した筈なのである。その他者存在への懐疑自体を封殺する様に市民社会、都市生活というものが成立しているのである。
 だからこそイスラム社会の反社会分子による自爆テロや、以前日本人を震撼させたオウム真理教などの存在が社会に痛烈なアイロニーを味あわせたのである。それはオウム真理教より数十年前に存在した日本連合赤軍派などの活動に於いても反国家主義的な観念から社会が安穏として前提してきた家庭的平和や家族の幸福観にアンチを唱え、社会構造全体を再考を促すムーヴメントであったことだけは間違いはない。勿論あれら全てが完全に社会全体、国家全体に与えたテロリズムであることに於いて我々が仮に実践的行為としては完全否定しても、問題提起が何らかの形で勃発していくことを阻止することは出来ないという教訓だけは我々日本市民に与えたし、アルカイダなどによる自爆テロは未だに世界市民に社会生活や都市文明の安穏とした利便性享受による幸福観に対して再考を促す仕方で精神の何らかの衝撃的記憶をトラウマ的にせよ、ショッキングなイヴェント、インシデントに対する記憶にせよ我々にインパクトを与え続けてきたことだけは間違いない。
 アメリカは妊娠中絶さえ宗教教義的に許さないとするカトリシズムも存在する。神父だけでなく医師もそのテーゼ死守の為に協力する。彼等にとって進化論などもっての他である考えである。しかしだからこそ男女の健全な恋愛感情という強制に対するアンチとして同性愛者達にも市民権をという運動も発生させ、カリフォルニア州では同性婚も許されている。勿論バイブルベルトなどではそうも行かないことは今後も変わりないだろう。しかし日本では恐らく今後もカリフォルニア州の様な法整備には至らないだろう。同性愛が居てもいいが、それは法的秩序に於いて容認すべきことではないのだ。
 日本はアメリカの様に絶対否定はしないから逆に、アメリカの様に法整備迄する必要がないということで、却って完全肯定思想は成立し難いのだ。つまり日本では緩やかに冷然とした差別が履行されていくのだ。アメリカでのKKKの様な完全差別が存在することが、逆に差別を完全否定する法整備に迄至る人種、同性愛差別撤廃のムーヴメントが成立するのだ。
 社会生活に於いて利便性享受とその権利が納税その他の義務と共に全市民に保証されるという事実が都市社会、都市生活者に固有の連動的所作を身につけさせる。それは言語共同体から統一言語国家の成立を経て、国家自体の進化と連動が外国との交易秩序に伴って構築されていく過程で、市民生活を全うすることで得る幸福観に対してアンチを唱える様な詩人や思想家、哲学者の視点が全体のパーセンテージでより希少であることを前提した考えではあるのだ。つまり社会全体の連動が各市民の幸福にも還元され、従ってそれを自覚した市民が他人である都市生活の隣人に対して都市生活者固有の隣人愛的な所作を身に着けることをもって連動が実現されるのだ。だから会社では携帯電話を持ちたくはないという人は雇えないのだし、PC端末利用を渋る人に現代社会は就業出来ない仕組みが我々には提供されているのだ。それは洗濯機や冷蔵庫が発明されて市販され普及した段階で、そうでなかった時代では当たり前だった全ての常識が塗り替えられ、その変改自体に疑問を抱かない形でのみ我々は都市生活に同化し得る様になっているのだ。それが法治国家内での都市インフラ享受の権利と義務の履行によって実現した幸福であるという暗黙の触れが社会全体によって我々に提示されているし、その様に我々は振舞うのである。
 そしてその享受事実に対して疑念を抱かない様に自主規制していくこと自体が都市文明とそれが享受されることを幸福として認可する市民の無意識と言ってもいい連動所作の実態なのである。