Monday, October 3, 2011

第二十章 時代的転換期から考える人類の将来Part2

 前回私はフェイストゥフェイスな対人関係はここぞという時の関係者内での意思決定、合意ではなくなりはしないと述べた。しかしその意思決定は常に結果だけ知らされ情報開示されることで批判に晒される。そして直ぐにその決定が好ましいか否かが判断される。そういう社会に益々人類は突入していっている。もし余りにも芳しくない結果が情報として齎されたならカダフィの様な運命を結果を出した責任者は辿ることになるだろう。
 それは既に文字情報が瞬時に駆け巡る世界の構造に於いて極めて自然である。

 又前回最後に述べた北海道と沖縄の文明的違いであるが、総じて全国が沖縄化していくことはあり得ないだろう。つまり地域共同体の文化が濃厚に残存する沖縄流は次第に消滅していくことだろう。そして北海道流の敢えて他人には干渉しない様にしていくという相互のライフスタイル、それを前回示した様にグローバリティと呼ぶなら、まさにグローバリティに則って世界全体が機能していく道を人類は求めるだろう。
 例えば京都、大阪、岸和田、東京の下町、鎌倉などは濃厚に共同体的雰囲気が文化として残っている。しかしそれはあくまでその地域だけのものであり、他地域出身者には関係ない。そして地域的特色として田舎歌舞伎とかそういったものは全国に残っている。そしてそういった非文明化された文物に対する憧憬の念は誰しも持っている。しかしその地方文物的文化が全国規模で改めて見直されるということはあり得ないに違いない。
 何故ならそれらはあくまでその地方、地域に生まれ育った人達によってのみ育まれてきているものであり、途中から引っ越してきた人達とは無関係に営まれているからである。

 次章では再び五百年後の世界で何が残っているかを考えるが、ある意味ではコンパクトに地方地域の文物がイメージ化されて説明がつき、万人が理解しやすい様なマニュアルが全国的規模で紹介されて、そのマニュアルの利便性自体が高く評価されることはあるだろうが、全国に観光都市の持つ存在理由が広まることはない様に、それはあくまで余暇に於ける旅行プランの一環としてのみ我々に潤いを齎すものであり続けるだろう。
 総じて人類は益々グローバリティに加担していく道を選ばざるを得ない。そういった意味では沖縄に基地負担を強いてきたある種の国家全体の利益の為に一地域だけに犠牲を強いる仕方は消滅しないだろう。只時々その犠牲を肩代わりすべきであるという考えは齎され、交代するということはあるかも知れない。
 何故そうであるかと言えば、共同体的非文明的文化、文物が我々にある種固有の郷愁と幻想を与え続けていても、それらが所詮全体を構成するものではないということは、言語的特殊性にある。沖縄でしか通じない言語が日本全国の広まる可能性は薄いし、北海道は逸早くそういった地方、地域の特殊な文化を抹殺する方向で進展していった場所である。
 勿論北海道でも方言は沢山残っている。しかし北海道では東北地方ほどの訛りも固有の語彙も少ない。東京よりも方言は癖がない。それは言語学的なグローバリティを実現させてきた土地と言ってよい。

 言語とはある部分では最も特色のないものの方がより個性の強いものを凌駕して伸して行くという傾向がある。英語が世界を制覇したのはフランス語やドイツ語よりも無個性的であるからである。勿論個性を純粋客観的に査定することは出来ない。しかし少なくとも英語がフランス人によってもドイツ人によっても日本人によってもそう変わりなく使用され相互に通じるということの内には英語自体が地域的地方的特色が色濃く言語自体に反映されていないからである。勿論英語にも方言はあるし、地域毎に使われる語彙に違いはある。しかしそれでもその方言的な地域的特色や地域毎の違いが英語という言語自体に大きく影響を与える様なものではない。それは日本語でもそうである。

 しかし沖縄の方言はそうではない。そもそも琉球語自体が別の言語である。従って沖縄の方言が日本全国を制覇出来ないことに沖縄出身者が不満を異様に募らせる時とは即ち沖縄が日本から独立する時である。それが著しく沖縄の人達にとって不利益であるなら、依然沖縄は共同体的幻想を日本全国にイメージ的な郷愁として与え続けるに留まろう。

 フェイストゥフェイス的対人関係と、その密室的決裁が重要案件では支配的でも、それらは即座に情報開示されることで批判に晒されるという事実は、ある意味では時節を得た判断を益々決裁者に求められるということ以外ではない。決裁という行為が決定的なものであるのではなく、相対的に批判対象である様な時代では、トップリーダーが各界でどんどん新陳代謝するスピードを加速化していくことだろう。それは総理大臣がころころ代わる様に全ての世界でそうであるということだ。そして二度とカリスマ性を帯びた名君主が幅を利かせるということに逆行することはないだろう。 従って昨今のロシアの状況は時代に逆行しているが故にまたぞろ大統領に返り咲くプーチン氏に悲惨な最期が待ち構えていると予言する向きも多いに違いない。ロシアは北朝鮮同様、民主主義が成立し得ない国家であり民族であることは明白だ。
 すると全世界がころころと為政者が交代する日本化をきたし、それでいて時々悲惨な最期を迎える為政者を生み出すサムタイムズ・カダフィ化(チャウシェスク化でもいいし、フセイン化でもいいのだが)という歪な起伏に富んだ世界状況が未来に於いて予想される。

第十九章 時代的転換期から考える人類の将来Part1

 私が何故人類が徐々に分岐していくと予想するかというと、ここ数十年の人類の歴史の推移を見るにつけ、今現在は大きな分岐店に差し掛かっていると思えるからである。
 一つには自然環境的に世界的規模で温暖化が進行して、それがでは一体本当に人類による二酸化炭素放出が原因であるかは統一された見解はない。要するに文明自体が引き起こしたのかそうでないかの結論は出ていない。
 既に十月に入ってから雪も降ったが、この夏季から突然冬季に突入する様な気候的温度的な急激な転換が次第に春と秋をもっともっと省略する様な形で恒常化していくと、人類の感性が次第に今迄あった様なタイプのグラデーション的変化に対応するものから、突如真逆のものへと転換するものへと変化していくかも知れない。
 要するに二値論理的な論理性を益々思考習慣的に際立たせていく可能性が大である。

 世代的には日本では戦争を思春期から幼少期に体験した七十代以上の人達、戦争を全く経験していない六十代以下の人達、しらけ世代、新人類世代、就職氷河期世代と来るが、それ以後の人達にとって、ポスト就職氷河期世代以降の人達は生まれた時に既に大半の電子機器が存在した。そしてゲームソフトに馴染んでいる。彼等は恐らく八十代になってもゲームソフトを楽しむだろう。オンラインショッピングやATM使用が当たり前の世代の人達にとって実際政治的現場でもビジネス的現場でも重要な案件はフェイストゥフェイスで決定されてきていて、それは端的に密室談合的なことであり続けたにも関わらず、決定事項と連絡事項だけで成り立っているウェブサイト上での記号的遣り取りの持つ形骸的建前的な世界の様相が支配的に感性へ侵食しているとすれば、やがて一切の電子機器から得られる情報を形而上的価値のもの以外ではないものとして、真実のコミュニケーションは実際に相対する言葉の遣り取りで行うべきであるということを知る為に益々秘密主義めいたものになっていく可能性がある。
 これは昨今のマスメディア主導型世論形成、世論誘導的な社会の在り方に於いて益々一見開かれた社会、つまり情報開示社会である様に見せかけ的には振舞いながら、その実一部既得権益者、つまり政治であれビジネスであれ実権ある人達だけによって密室で決定され、しかしそれをあたかもウェブサイト上では情報開示されているものだけが真実であるかの様に振舞う情報の遣り取りが白日の下に展開されている様相を演出している、二面性を強く持った社会に移行しつつある様に思える。
 事実ニュースで報道されることはプロセスではなく全て決定されたことだけなのである。

 しかし人類の感性は今はまさに青年世代の人達だけがユースフルな機器として端末利用しているが、次第に足腰の弱った老齢者達こそがオンラインショッピングから融資、株取引等を履行する利便性の下にウェブサイトの利用用途自体が進化していき、同時にタブレット端末によって電子書籍化された文章の世界が主流化していくと、文学的詩的感性自体がウェブサイト上での文字記号の戯れに伴って進化していき、政治やビジネスに於ける一部既得権益者達によるフェイストゥフェイス的密室談合の現実と二面的に共存していくそんな時代が益々未来に対して見えてくる気はする。

 詩や文学は益々ヴィジュアライズされていくだろうし、観念的記号化されていくだろう。絵文字や写真、デザインといったヴィジュアル的効果と共存したメッセージへと変貌を遂げていく。勿論アート展覧会表現、映画、形而上的哲学書物はそれらと並存して受け継がれていくだろうが、それらの長時間的メッセージ伝達(間接的な学習)と、時間節約的メッセージ伝達(直接的学習)とは分化していく可能性が大きいのではないだろうか?


 又話題を少々転換させると、人類はある部分では気候や風土で異なった文明の様相を展開させてきた。ロシア、北朝鮮型のデモクラシー不在型のファッショ統制国家は、日本では北海道では然程珍しいことではない。北の大地では当然気候風土に適応して生存していくことが第一に求められているが故に、隣人や都市部での他人への親切は義理的には成り立ち難い。それは冬季の自然環境の厳しさに対応した表情、感情節約型(情動エネルギーの温存の為の智恵)の対人的態度が常習化されている。
 その点では沖縄の共同体的隣人間共感は対極にある。端的に人類は北へ行くほどグローバリティが自然なものとして通用する。逆に南に行くほど共同体的隣人間共感は増す。
 これは文明観自体に地方差、地域差を齎している。

 しかしウェブサイト上での言語記号の遣り取りは、そういった地方差や地域差を一見無効化する様に振る舞い続ける。しかしその事実は逆に実存的にある固有の地域に人間が生活するというリアルを全く不変なリアルのまま押し留める。要するにそれらは決してウェブサイト上での記号の戯れから影響を受けない。それこそが身体的エロスであり、リビドーであり、実存の人間の生活である。
 しかしでは昨今それが実現しつつあるかと言えば、そうではなく昔から人類は言語記号を持った瞬間からそれは運命づけられていた。詩の世界では確かにゲーテ的な形而上的リアリティが時代を飛び越えたものとして今でも認識されているという事実と、より音リズム的で理解しやすい金子みすず的世界が現代ウェブサイト時代で身近なリアリティをメッセージ的に獲得していることがあたかも無関係の様に振る舞いつつ、内実的には同じ人類による言語への接しという形で共存している。
 民族差、文化差は恐らく記号の戯れという形で意味化されて伝わる。しかしその意味を作っている当の人間は何処か固有の土地に住まい、その地域的な風土と環境から物事を考えている。
 同じビジネスでも東京、横浜を中心とする関東地方と、大阪、京都、神戸を中心とする関西とでは違う流儀があるだろう。それは東北地方や北海道、四国や九州でもあり得る違いである筈だ。そして全ての市民はその地域毎に異なる不文律の中から考える。現実は常にある固有の状況に支配されているからだ。自分自身が住む家屋や隣接する地域の環境から何かを発想するからだ。しかしその違いを無効化させるグローバリティが言葉にはあって、たとえ北海道であれ沖縄であれ全く異なった文明的様相から発信して言葉化されたものの世界では形而上性がクローズアップされる。しかしその事実は、では実際に政治やビジネスでフェイストゥフェイスで履行される密室談合的関係者オンリーによる決済という現実をいささかも変えないどころか、益々メッセージ的固有の状況の無効化と共存しつつ、他との違いを際立たしていくことだろう。
 情報摂取自体が益々情報端末を通して個的なものとなっていっても、実際のビジネス的リアリティによって重要な決定事項を巡る対人関係は閉鎖的に専門化されていく。その溝は益々広がり、形而上的な価値創造と、リアルな社会の動向とが断続並行的に進展していくことは未来に於いても避けられまい。

 もし何らかの形で人類はより地下へ深く沈潜していく生活形態を取るなら、いずれ山岳地方で日本の様な地震の多い国では、有産階級による高地土地独占と、地下沈潜庶民との間で種分化され齎すかも知れない。
 しかし種分化してさえ、言語的にはグローバリティを維持したままであったなら、却って聖書のバベルの塔ではないが、既に古代で言語的分化を果たした時点で文明や言語圏の分化は決定づけられていたのだから、その言語によって文明を全て構築してきた人類が言語によって崩壊する可能性は、寧ろ種分化的な事態が進行していった時、海洋移動生活人類、地下沈潜人類、山岳高地独占人類による三つ巴の戦争によってかも知れない。
 次回は地下沈潜と山岳高地土地独占と海洋移動という三形態へと分化していく可能性の思考実験から実際に今地球上で存在する民族分化から考えていこう。