Sunday, November 1, 2009

第八章 経験と記憶の同時性

 進化はなぜ起きるのか、という問いには危険が待ち受けている。というのも、何故という問いには意図的な匂いが感じられるからである。進化はどのようにして起こっていったかということであるならまだしも救いがある。しかし進化自体がまるで生き物のように全ての生物を支配している観もこの言い方にも含まれる。どのようにというのは一本の筋を辿る場合には理解しやすいが、実際は全ての進化とか新種の登場といった事態はその時点での地球上の気候条件、それ以前の状態、他の生命起源的な存在物との相関性など無数の状態の偶然的な組み合わせに由来するであろうから、どのようにというように一律に説明することなど不可能だからである。
 また動物は今から五億年くらい前に地球上に登場したとされる。しかしどのように動物が登場するに至ったかと問うことは然程問題はないとも思われるが、何故動物が登場したのか、と言うとあたかも神の如くが存在して、彼が動物を登場させたかのようなニュアンスが伝わる。恐らく自然科学者たちならこういう言い方を好まないであろう。
 自然自体には意図はない。要するに自然に全ての生物は進化して、今のような状態になっていったとしか言いようがない。しかし今現在生き延びて来た生物(恐らくその中の幾つかは近い内に絶滅し、いつかは全ての生物も絶滅するだろう。)は、自然選択(本論分では自然淘汰という言い方は採用しない。)によって絶滅した無数の生物群によって逆にクローズアップされている。それでは何故いつかはそのように絶滅する種を態々考案して神は創造なさったのか、という疑問が聞こえてきそうだが、仮に神がいたとしても、神はあらゆる自然全体の諸現象を予言することが出来ず、あらゆる場面を想定してあらゆるケースに対応すべく動物を創造された(特にカンブリア紀において)が、その中の幾つかだけがほぼ偶然的に子孫を反映させることが出来たということである。しかしそれなら全知全能と呼ぶに相応しい神がまるで人間みたいではないかという矛盾が立ち現れる。そこで神なるものはいないのだ、という主張にも光が差してくる。もし神が全知全能であるのなら、予め些細な全ての諸現象を自然で起きることとして想定して、無駄など一切ない生存を継続し得る種のみを創造することが出来た筈だ、という主張にである。つまり生命の実験場としてカンブリア紀が位置付けられるのだとしたら、我々は動物もまた何らかの偶然によって、しかもその偶然に更なる偶然が度々重なって登場することになったが、その時点ではどの種が後代に繁栄し、どの種が絶滅するかまでは神がいたとしても予言することが出来なかったのだ、としか捉えようがない。要するに全てに関して非意図的にだけ進行していったとしか言いようがない。
 人間が意図とか自由という観念を持ち出すのは、我々の思惟がただ単に外在主義的に物理的現象として捉えれば、それらは脳内のニューラルネットワークの発火現象ということになるが、ではその発火現象それ自体はどのように起動させられるか、と問うと途端に「そこには生物個体固有の意志が働くからだ。」という内在主義が持ち出され、その二つの捉え方はただ無限後退を招くだけであるということに帰着する。だからカントが道徳律を自然法則に則っていくようにせよと言うことにはその二つの延々と繰り返される問いの連鎖に対して懊悩する人類に向けて発せられたと捉えることも可能である。要するに人間だけが人間を特別視するように我々は捉えて来たが、それは人間が言語を有している(私たちはそれだけを言語と捉えがちであるが)ということと、その言語を中心に考えれば、人間だけが意志を持って存在しているし、存在していると認識出来るという主張は、同時にそう考えられるのは我々が言語を有しており、その言語でしかそういう思惟は生まれないからだという主張とこれまた延々と無限後退を来す事態を招聘するたけであると言っても過言ではない。事実恐らく人間以外の全ての種は自分たちの種だけが特別であることは間違いないが、要するに人間が問うてきたのは、そう考えられるのは人間だけではないか、という考えなのであり、しかしそれは人間の使用する言語だけがそう考えることを可能にするものだ、という考えに基づいているのである。
 そのことは経験と記憶に関しても同じことが言える。我々は経験があるからこそ記憶することが出来るのだ、とも言い得るし、同時に記憶能力が備わっているからこそ全ての経験が成り立つのだ、とも言い得るからである。経験は常に現在によって執り行われるが、経験を経験であると認識出来るのは、全て事後的な反省によってであり、それは記憶による作用である。要するに経験を経験として位置付けるのは過去に対する反省においてのみなのであり、それは事実に対する意図的な思念であると言える。これを私は過去化と呼ぼうと思う。このような主張はそれに近いものとしてはサルトルにも見られた。しかし過去化という風に明確に捉えると我々はもっとことが鮮明に理解出来る気がする。
 経験は記憶によって明確に位置付けられるが、その経験とは経験に対する記憶にしか過ぎない。何か現在行っていることは経験には違いないが、常に過去化作用によってのみ経験とされるだけで行為そのものは経験ではない。行為を経験にしているのは、意識であり、現在に対する思念であり、それは記憶によって形成された現在という意識である。我々は行為を経験にするために記憶を呼び覚ましているのである。今していることは以前していたことと同じ「何かをすることである。」という風に。
 現在は過去に対する意識があって、成り立つからそれは端的に言えば過去との比較である。このことは哲学者の中島義道も主張している。しかし同時に現在に対する意識があるからこそ過去が位置付けられるという風にも言える。このことは先述の言語的思考と言語的思考によって捉えられた思念の堂々巡りと同一の思考パターンを招く。あるいは意図と非意図ということもその同一の思考パターンが介在している。行為は意図的か否かと問えば、ただちに我々はこう答えるだろう。行為それ自体は意図的ではなく実践されるだけだが、その実践を誘引するものは意図であり、行為されることによって行為の事後的にその過去の行為そのものが意図的であったと思い返されるだけである。それもまた一緒の過去化作用に他ならない。
 我々の身体を生命現象として支える構成要素としての原子は、三ヶ月くらいで三分の一くらいが分子から離れ、別の原子に置き換わっている。そのペースで行けば一年で全ての原子は置き換われると言う。この現象を生物学では動的平衡と呼ぶ。
 つまり我々は十年前、二十年前の自分(そのように感じることが出来るには少なくとも三十年以上は生きていなければならないが)を振り返る時、そこにはあたかも別のもう一人の自分がいるかのように思う。しかしこれはただ単純な錯覚ではない。つまり私たちが十年前の自分を現在と同じ自分だと思えるのは今日の自分と昨日の自分が、昨日の自分が一昨日の自分と、一昨日の自分が一昨日の前日の自分、というように延々と辿っていくことが出来るという確信に基づいている。しかしそれはただの錯覚かも知れないという思念を抱いたことはないだろうか?もしそのように一度でも考えたことがある方は、ある意味では極めて哲学的思考の持ち主である。つまりもう一人の自分という考えは生物学的に、とりわけ神経学的にも、分子生物学的にも、現在の自分は十年前の自分とはまるで別人であるからだ。それを同じ自分であると信じて疑わないのは、我々には先述したような意識の持続という信念(確信である)があるからである。だが同時にその信念は我々が自分自身の存在を確固として位置付けるための心的作用にしか過ぎず、意図的な過去化作用であるとも言えるのだ。もしそのような過去を一連の<「自分自身の意識」の持続>として捉える仕方が我々になければ昨日の自分も今の自分にとっては赤の他人同然であろう。尤も今の自分という思念は明らかに昨日の自分と今日の自分とが同一のアイデンティティーであるという確信によってのみ成り立つものなのであるが。
 例えばあるテレビの対談番組で十年前同じ番組に出演した際の録画を司会者がゲストのタレントに見せることがよくある。そういう時決まって
「ああ、若いですね。」
とか
「ああ、こんなこと言ってますね。」
などと言う。それはその時に言ったこと、その時に考えていたことを忘れている場合である。あるいは大体のことは覚えていても、全部をきちんと覚えているわけではないから、記憶の不確定性によって「ああ、こんなことも言っていたのか。」と思うのであろう。
 しかしこのことはこと記憶作用に関しては、記憶内容とか記憶様相自体が常に変化しているのだから、厳密にどの瞬間の自分も同一のアデンティティーではないとも言えるのだ。
 あるいはこういうことも考えられよう。私たちは生まれた時通常であるなら男性とか女性とか特定の性別を持って生まれてくる。しかしそれは自分で望んだことではない。ではそれは生命の自然現象による偶然でしかないと言い切れるだろうか?
 例えばさっき挙げた例のテレビ対談番組の十年前の出演時の様子を録画で見て「あんなことを言っている。」と感じるタレントは明らかにその時の自分をまるで他人のように感じているのだ。ということは全部明瞭には覚えていない、たかが十年前のことをである。であるとするなら、赤ん坊が未だ母親の胎内にいた頃の記憶など生まれた時の衝撃ですっかり全て消え失せてしまうのかも知れないのなら、未だ赤ん坊が母体にいた頃の記憶はひょっとしたら生涯無意識のレヴェルでどこかの保存されているのかも知れない。つまりひょっとしたら母親が妊娠したての自分というものはある意味では意志的に男性になりたいとか女性になりたいと望んで性選択を受容しているのだ、ということを全面的には否定出来ないということに帰結しないであろうか?
 社会的動物である人間は言語を通して性を選択し、「自分は男だ。」とか「私は女だ。」とか決意表明を内的にしていると多くの哲学者たちは捉えている。ジュディズ・バトラーはその典型的な一人だし、脳科学者の田中冨久子は積極的にセックス(古脳による選択)と生後社会環境に適応していくに連れて選択してゆくジェンダー(新脳による選択)とを区別して性科学的見地から脳科学に挑んでいる。
 自分が考えたことであると感じるかなり多くのことは先述した常識とか社会通念とかの、要するに社会性としての言語的思考によるパラメーター・セッティングであるとも捉えられるのだ。逆に言えば自分という認識そのものさえ幻想かも知れないのだ。それは無数の遺伝子の作用に取り囲まれた我々の全ての行動や思考を考えれば当然と言えば当然とも言えるのだ。
 だから多少暴論と言われることを覚悟で私は敢えて母体にいる私たちの性選択の段階でX遺伝子だけの女性となることと、Y遺伝子に一部変換することで男性になることという事態を、その時点での胎児の身になって考えてみると、その選択経験というものは、同時に胎児にも微かに意識のようなものが認められるのなら、その時胎児は意識的に性を選択しているのかも知れないのだ。ただ通常胎児の頃の記憶は殆どの人間は忘れてしまう。しかし極稀にはそういうものに敏感な者もいるのかも知れない。そういうタイプの人はある者は芸術家となったり、ある者は霊能者になるのかも知れない。しかし恐らく殆ど全ての人間がどこかでは胎児の頃の記憶を常にどこかでは保持しているのではないだろうか?そしてそれはひょっとしたら人間の理由とか理屈とかで説明の尽かない直観力とも関係があるのではないだろうか?
 人間には何か不思議な予感を持つことがある。そういう場合確かに我々は過去の自分に呼び止められている、と感じる。現在の自分とは過去の自分が置き忘れてきたもの、失ってきたものによって残されたものである。それは自然選択によって命脈を保ってきた種子孫を反映させてきた種とは、絶滅した無数の種それ自体の証明であるのと同じである。
 動的平衡によって失われる原子が消滅してゆく様を見届ける隣接した残存する原子にはその追慕の念のようなものが我々のような確固として意識レヴェルからは説明の尽かない、それ独自に記憶作用として保持しているとしたら、我々は実は自分(自分とは大抵高次の統合された自己のことを考えるから)でも気が付かない自分の中の他人として胎児の時から現在までの無数の失われた自分の要素に対する追慕によってのみ構成された身体要素とそれと不可分な精神要素の集合体こそが、「自分」だと捉えられないであろうか?
 我々は何か出来事が起きれば古脳領域ともされる扁桃体によって感知し、それを海馬へと送り込み、更に海馬は新皮質へと情報を送り込むとされ、その一連の作用そのものが記憶作用とされ、どこか局在的に記憶内容が収納されているのではないという現在までの定説が正しいとすれば、益々部分論的には各構成要素が独自の記憶、それは他の部署には知られない独自の記憶が無数に折り重なって構成される全体を「自己」あるいは「自分」と捉えることに信憑性が増して来る。勿論今私が感じる私とはあくまでそれら一連の各部署の記憶を再統合されたものであろう。また意識もそういうものとして位置付けられる。すると統合された「自己」とか「自分」とかはあくまでそれらの統合作用そのものの結果にしか過ぎないということになる。
 確かに我々の日常を振り返って見れば、我々の行動の全てはただ結果でしかない。その行動に至るまでの様々な思念はその時採っている別の行動の際の気持ちである。そして行動そのものとは他者に向けて「私は昨日映画館に行って云々という映画を見た」と報告することはあっても、我々がその映画のことを過去化作用として想起する際には、その映画を見た時の自分の感想であるとか想像した内容であることの方が多い。
 つまり行動というものは他者に対して採られるものであり、他者によって位置付けられる「私」であるが、私にとって「私」はその行動を採った時に感じた気持ちである。
 それは経験というものが自分に対して対自的に、まるで自分を他人のように取り扱うことによってなされる認識であるのに対し、記憶とはあくまで外的な事実や現象や出来事であっても尚、その時の自分の気持ちに忠実に想起されることをとっても明らかであろう。
 つまり我々の中には、そして「私」の中には常に二人の「自分」がいることになる。それは一方は常に自分の行動の全てを他人のように観察して「私の行動」を経験として過去化する自分、もう一方は常に自分の側から見た全ての外的、内的を問わず全ての事象に対する接触者としての自分である。観察者としての自分は接触者としての自分の主観を常に修正しようとする。客観化作用である。しかし情動がそのことを潔しとしないような主張を接触者としての自分が観察者としての自分に語りかける。だからこそ何か上司に訓戒された時口では観察者が上司に対して殊勝なことを言っておきながら、我々は心の中では接触者としての自分が「嫌な上司だ。」と叫んでいるのだ。
 この記憶と経験の同時性に関しては様々な哲学者たちが意見を述べているが、ここではP・F・ストローソンの「意味の限界」から引用しておこうと思う。このテクストはカントの「純粋理性批判」に対する解釈を旨とするものであるが、中島義道は改造されたカントであると言う。(「時間と自由」より。しかしそのことを中島は否定してはいない。) 
「(前略)一つの意識に属し時間的に繰り広げられる経験系列という観念は、それが他の何を含むにせよ、記憶を不可欠なものとして含んでいないだろうか。経験の概念的要素という観念は、認知を、従って記憶を含んでいないだろうか。それなのにどうしてこの能力をそんなふうに無視することができるのであろうか。記憶が、経験、認知ならびに多様な経験を通じての自己同一性の意識のうちに含まれていることはもちろんである。しかしそれはあまりに深くかつ本質的なものとしてそれらのうちに含みこめているので、これを区別し他から分離できる要素であるかの如く取り扱うことには差支えがあるのであり、例えばそれを、時間的に連続したあるいは分離した諸々の出来事を一つの経験系列へと連結するためにその重宝な手段として引き合いに出すことなどできないのである。経験が記憶なしには不可能であるとすれば、記憶もまた経験なしには不可能である。如何に不分明な水準から両者が立ち現れようとも、両者は共に立ち現れるのである。」(「意味の限界」勁草書房刊、123~124ページより) 
 しかし我々は胎児の頃の記憶は言うに及ばず、昨日の記憶さえ忘れるべきは忘れることによって成立させてもいる。だから自分の意見だと思っていることの大半は家庭環境とか教育のような社会環境であるとか、あるいはジェンダー・ロール的に自分自身で積極的に他者一般に追随してパラメーターセッティングした結果として「自分の意見」であると思っていることなのだ。そしてもし胎児にも生まれるまでに意識の原型とか記憶に近いものがあるとしても、女性が女性らしい考えを自分のものとしている考えは、片や古脳による性選択的な生理的自然からであり、生後社会生活を営むようになってからは、新脳(新皮質、大脳皮質の表層)に刻印されたジェンダーという意識である。だから本来胎児としてこの世界に生命現象として登場した頃から一貫した意識というものは既にとうの昔に失われつつ生きてきたわけであり(勿論無意識にはどこかに多少の沈殿作用を来しながらも)、我々の考えはどの成員によるものであれ、自分独自であるかどうかという判断は全て相対的な周囲の成員との比較判断でしかないのだ。そしてそのことは記憶作用というものが同時に忘却作用によって成立しているということを物語っている。つまり我々は常にある知覚経験、ある出来事の体験の全てに対して記憶する際には、その中の一部を記憶させる代わりに他の全てを忘れるか、あるいはぼんやりとだけ記憶させるようにしているのだ。(このことは後章で詳述するが、更にそこに変形とか歪曲がなされるのだ。)そこには選択があるのだ。選択にも恐らく階層性があるのだろうと思われる。しかしでは、それは何故かと言うと一重に過去の出来事の全て、その些細の全てを覚えてなどいられないという一事に尽きる。(しかしだからこそ現代において精神分析が無意識の注目したことの意義があるのだが。)
 このことに関しては18世紀のフランス哲学者のコンディヤックが適切な叙述を試みている。コンディヤックのテクストは膨大な記述の断片なので、特に本論に関係深いと思われるものだけを拾い上げてみよう。
「§三四 観念と観念とを結合するこの能力には、長所と同時に不都合な点もある。これをわかりやすく示すために二人の人間を想定してみよう。一人はこの能力を全く持たない者であり、もう一人は、あまりにも容易かつ強力にこの結合がなされる結果、その個々の観念をもはや思い通りには分離できなくなってしまうような者である。前者の人間は想像力も記憶も持たないであろうし、それゆえにまた、これらの働きが生み出すはずの魂の他の働きをも持たないであろう。彼には反省の能力が完全に欠けているだろう。つまり白痴である。後者の人間は過剰な想像力と記憶とも持つことになるであろうが、この過剰は想像力と記憶の完全な喪失とほとんど同じような結果を生み出すことになるだろう。彼もまた反省能力を行使することがほとんどできないであろう。つまりそれは狂人である。互いに最もかけ離れた諸観念も、それらが彼らの前に一緒に現れてくるという理由だけによって、精神においてあまりにも強く結合してしまうので、それらの無関係の諸観念があたかも自然的に結合しているかのように彼は判断してしまうであろうし、ある観念から別の観念への気ままな連想も、彼には必然的なものに見えるであろう。」
 ここでコンディヤックは何かを観察すること、見る知覚行為(哲学では見るだけのことを行為とは通常言わないのだが私は見る知覚をも行為と捉える。)とは、全てを等価に認識しているのではなく、どのような場面においても何らかの具体的な関心事に沿って、認識している対象を選び、その選択的限定において初めて何かを特に注視し、それ以外のものを背景に沈み込ませ、そこに関心事によって階層性が生じることを言っている。それは例えば特に電車やバスの車窓から眺められる風景に関しての視覚行為における認識とか把握にも言えることだし、群集の中に自分の家族を見つけるような場合にも適用出来るし、それ以外の日常の全ての視覚行為に当て嵌まる。更に彼は続ける。
「この二つの極点に中間に、想像力と記憶が多すぎることによって精神の安定が損なわれることなく、少なすぎることによって精神の快適が傷つけられることもないような、そういう中庸があるはずである。この中庸を得るということはおそらく非常に難しいことなので、最も偉大な天才のみがかろうじてその周辺に近づきうるのみである。(この最後の捉え方には私は多少疑問を抱く。中庸こそどのような成員にも具わった性質であって、天才は何かに関して超絶的な作用を得るのではないだろうか?<著者注加入>)さまざまな異なる精神の持ち主がこの中庸から離れていき、それぞれが相反する極の方に近づいていく につれて、彼らは互いに相容れない性質をもつようになる。(これは確かに人間間に見られる事実であるが<著者注加入>)(中略)こういうわけで、想像力と記憶の極に近づけば近づくほど、精神を正確で、首尾一貫した方法に忠実なものにさせる性質を人は失うことになり、反対の極に近づけば近づくほど、精神を楽しみに満ちたものにする性質を失うようになるのである。前者は過剰で優美に気取った文体で書き、後者は四角四面で鈍重な文体で書く。(後略)」
「§五五 反省、あるいは注意という働きを自力で制御する能力から、自分の持つさまざまな観点を一つ一つ分離して考察する能力が生まれる。その結果として、ある特定の観念の現前がことさら強調されることになる(これこそが注意というものを性格づけるものであるが)が、これを強調する意識は同時に、他とは異なるものとしてこの観念をくまどることにもなる。逆に言えば、魂が注意という働きを自分では全く支配できないという状態にあるときには、様々な対象から受け取る印象を魂は全く区別することができないということになる。自分がそれに対しては門外漢であるような、そういう主題に無理をして挑戦しようとするたびごとに、我々はこういう経験を味わうのである。そういう場合、我々はさまざまな対象をあまりにもごちゃごちゃに混同してしまうので、それらのなかで互いに最も異なった対象でさえ、それらを区別するのに苦痛を感じるほどである。なぜそうなるかといえば、反省することもできず、それらの対象によって生じる知覚の全てに注意を向けることもできないので、それらを互いに区別している[決定的な]知覚を見逃されてしまうからである。ここから、次のように判断することができる。すなわち、もし完全に反省の働きが奪われたとするならば、様々に異なった対象を前にしても、それらの対象一つ一つが極めて強烈な印象をもって迫ってくるというのでもない限り、我々はそれを区別しないであろう、と。かすかにしか刺戟しない対象は全て、無とみなされるであろう。」
 三四の最後の二極の極端なケースの例証は、五五の無関心という事態にも結びつく。というのも全てを明瞭に記憶するということは殊更何か一つを明瞭に記憶することが出来ないから、結局無関心という事態に直結するであろうし、また何も記憶出来ない状態もまた全てに対する無関心を意味する。
 私たちは何か関心があるものを見る時そのものに対する知覚に集中し、従ってその映像記憶に関しても明瞭に引き出せるだろう。しかし問題なのはそうではない状態の時である。何かを漠然と見ている時、そこに何か発見する事実がなければ、それは無関心のまま次の行動に移行するので、概してその時見たものに関しては色彩の強烈なものだけが記憶に残りやすいであろう。強烈な印象とは純粋視覚的なことだけである。しかし厳密に言えば個人毎に関心領域が異なるから何かを殆ど無意識に見つめている場合でも、着眼するものは微妙に異なってくるだろう。しかしいずれにせよ、全てを等価に記憶することは不可能だし、無意味でもある。というのももし我々が見たもの全てを覚えていたら、何も思い出す必要がない。思い出すという行為は要するに忘れているという事態を前提するのだ。だから反省とは忘却事実に対する認識によって促進される。
 我々は物理学的に言えば見る映像は全て光を伴って認知されているわけだから、過去の映像を眼にしてそれを現在であると思い込んでいるわけだ。印象とは個々の部分の映像を一瞬にして把握しようと(無意識に)する時に統合されて感じるということだ。つまりそれを知覚経験とする時、過去化されているわけだから、当然残像を知覚経験を結果として捉えることのために採用しているわけである。
 我々は生理的自然においては意図的に忘却するが、思惟の自然においてはいつの間にか忘却しているのだ。私たちは脳の作用を大脳生理作用としても精神作用としても都合のいい時にどちらかを選び取っているとも言えるのだ。
 我々は意図して生まれてきたのではない。しかし生まれてきた以上生物個体としても、社会成員としても何らかの生の意義を見出そうとする。そこで我々は生物としての生理的自然の秩序と共に社会動物としての責任を負う。

 ここでちょっと頭休めに全く異なった視点から考えてみよう。我々の身体のグランドデザインというものは自然選択によってなされてきているというダーウィンの考えを多くの生物学者たち同様受け入れて、少し自然自体の意図ということについて考えてみようと思う。
 私たちは生命記憶というものを持っている。これは解剖学者の三木成夫が主張していたことでもある。つまり私自身の記憶は私が生まれてからこのかた記憶した様々な出来事であると同時に私自身で忘れたことが沈殿された無意識とか私自身の祖先から受け継いだ遺伝情報とが密接の絡まり合って構成されている。だから記憶は自分のものであると同時に自分の中にある祖先という他者のものでもあるのだ。
 地質学者で古生物学者でもあるアンドルー・H・ノールはダーウィンの自然選択の漸次的変化という事態に対してカンブリア紀の生命の進化の大爆発は当て嵌まらないのではないかと指摘している。(「生命最初の30億年」紀伊国屋書店刊、斉藤隆央訳)しかしこのことも啓蒙的合理主義者のリチャード・ドーキンスの指摘している(「ブラインド・ウォッチメーカー」早川書房刊、監修・日高敏隆)一段階淘汰と累積淘汰の考え方を採用すれば矛盾がなくなる。ノールの主張する「原生代に長い時間をかけて徐々に形成された」というダーウィンの考えはただ単に登場した生物の顔ぶれだけから判断すれば漸次的ではない。しかし連続性と革新性を両立させることとして、私たちは視点を変えてみる必要がある。一つは分子時計であり、一つはその生物の存在する目的である。生物自体は存在目的を意識しているわけではない。しかし自然自体はある意図を持って自然選択の結果ある生物をある秩序の下に存在させている筈である。それをグランドデザインと呼ぼう。
 もし自然自体に今述べたような意図があったとしたら、脊椎、無脊椎双方の動物には二つのシステムを二つの形状秩序によって与えているとも捉えられる。一つは体表形状によってであり、もう一つは体内形状を伴って、それぞれが異なった目的に従事している。
 体表形状は対自然環境的なホメオスタシス、あるいは対他種生物、対同一種他個体対策としての相対、そして移動を目的としてデザインされている。それに対して体内形状は個体そのもののホメオスタシスの維持を目的としてデザインされている。とりわけ内臓システムは代謝活動を円滑にするためにデザインされている。尤も我々のような脊椎動物を含む大群、刺胞動物と左右相称動物全てに共通する祖先と袂を分かったところの海綿動物には体内形状は至って単純で器官なるものは殆ど存在しない。まあそこのところはあまり深く追求せずに考えていってみよう。
 例えば脊椎動物全般とりわけ哺乳類(私たちを含む。)に着目してみると、体表形状は左右相称であるが、内臓は必ずしもそうではない。では何故体表は左右相称となっているかということを考えると、まず思い浮かぶのは移動する時に移動先の今立っている地点からの角度に関して言えば、どの角度へ移動するのにも、前進する場合均一なエネルギーで済むということは言えるだろう。つまりもし左右どちらかが大きかったり、小さかったりすれば、移動方向の角度的な意味でのかけられるエネルギーの偏りが必然的に発生する。その偏りを克服した形状こそ左右相称への進化であると言えるだろう。
 例えば脳は人間でもその頭蓋骨の収納において左右相称となっている。尤もその機能的な役割は微妙に左右で異なってはいるが、形状的な意味合いとか重さとかはほぼ左右相称である。これは明らかに移動の際に左右相称である方が脳の機能発現の見地からも、頭蓋骨への収納に関しても便利だからであろう。しかし刺胞動物は放射相対となっているために必然的に固着生活か浮遊生活に適した形状ということになる。この形状は直進移動には適してはいない。しかしこの刺胞動物と左右相称動物の戦略の差は恐らく対捕食者戦略の違いに起因するものであろうと思われるが、今ここではこれ以上立ち入らない。
 しかしそれらの謎の全てが解明され得たとしても尚未解決の問題が残される。それは繁殖のためのデザインである。刺胞動物では固着型つまりポリプ型は無性生殖、浮遊型であるクラゲ型は有性生殖で、その二つの形態を一個の個体が踏襲するタイプも多い。
 全ての生物は繁殖を目的としている。それは生の究極の目的とも言える。つまりある個体の生存は究極的には次世代にその個体の遺伝情報を継承させ伝えてゆくことであるとも言える。個体はそういった使命を帯びた存在である。しかしもし個体が生存する目的がそれだけであるなら何故我々の身体をも含めたあらゆる生物の全個体(植物のような個体独立したものではないものをも含めて)のシステムはこれだけ複雑なのだろうか?もしただ次世代に遺伝情報を伝えることをのみ目的として生物が生まれてくるのなら、あるいは個体の寿命もそれほど長くなくてもよいのではないか、という疑問が発生する。例えば一日で死ぬカゲロウのような昆虫でさえある一定の生の時間を持続して然る後に死ぬ。
 ということは繁殖とはある生物個体にとって欠くべからざる目的の一つではあるものの、その全てではないということになる。ここに自然の意図というものが初めて意味を帯びてくるのである。
 その目的の一つは競争である。自然選択はただ自然が一方的に生物に対して選別しているわけではない。生物自体が主体的に自然へと働きかけ自然と生物との相互の関係によって初めてある生物が特定の環境に適応し進化を遂げ後代に繁殖を約束される。
 例えばこのことを人間社会の幾つかの例を出して考えてみよう。
 例えば水泳の選手権大会において決勝戦に挑む選手のことを考えてみよう。決勝では通常のケースであるなら優勝候補が最低二人は鉢合わせするものである。しかし一方が体調不良で欠場するとしよう。するともう一方の選手は二人で競い合って出場する決勝戦の時のように思い切ったタイムを出すことが出来ず、確かに優勝自体は確実にものにするのだが、寧ろ優勝候補ではなかった二位以下の選手の方が伸び伸びと記録を更新することが出来るというような事態は我々の社会ではビジネスシーンにおいても珍しいことではない。これは政治家のディベートに関しても同じことが言える。政治家とか論客というものには敵という存在がその目的達成のために相互に必要なのだ。つまり競争意識というものこそがどちらかが勝者となりどちらかが敗者となると知っていても尚、仕事上の業務上の進化を獲得するのには必要なのである。それは自然の生物間の競争にも当て嵌まる。いくつかのある環境に適応すべく暫定的に設えられた幾種類かのタイプの進化的変異種間の競争こそが最終的にはより環境に適応したベストな進化形状とか生活スタイルを決定してゆくのであり、決して予め優れたグランドデザインが決定されているわけではないのである。つまりそこまでは神さえも知ることが出来ないというわけである。
 つまり全知全能で全ての将来をも見通せる者をのみ神と呼ぶのだとすれば、何も態々殺戮や挫折を経験する敗者をも神が創造されるわけがない。初めから勝者になるべき種だけを創造されればよい。自然とはどの生物が生き残り、どの生物が滅ぶかという実験場であり、試験場である。故に生存競争をさせる自然とはただ単に種間の競争を見守る公平なる審判であり、少なくも全知全能の神ではないということになる。よって自然は全てを見通せない。自然そのものさえその自然全体がどのような状況に将来なるかを見通せないのだ。よって自然は神ではないし、神というものはいないということになる。
 神とは都合のよい時に人間が全知全能であると完璧な能力を持つ者を想定した(人間は打ちひしがれた時とか苦しい時には神頼みするものである。)便利な観念の道具であるということになる。 
 私たちは生きて疾病に悩まされ、特異な体質や性格に苦しむ殆ど完璧さとは程遠い自身の形質と一生付き合っていかなくてならない。サルトルが言ったようにまさに「人間とは一つの無益な受難である。」つまりもしそれでも尚神がいるとすれば、全ての生命は神がどの個体が、どの種が成功し、どの個体どの種が挫折するかをじっと見つめていることのためにのみ我々をも含む全ての生命を誕生させたことになる。
 つまり形質的な意味では不備さをも兼ね備えて生きている生命現象とは、それ自体が一つの資質論的な経験と記憶の同時性を体現していると言える。というのも神という概念を不可避的に使用せざるを得ないということは無神論者であっても例外ではないという一事を取っても我々はその存在自体で一個の矛盾以外の何物でもない。つまり競争的現実において悩むという事態一つ取っても、我々は全ての他の生命同様常にどれが有利な方法で、どれが優れた能力であるかということ自体が常に決して定まっているわけではない世界において右往左往して試行錯誤することを宿命付けられている存在であるということになる。だから我々の種としての記憶とは不合理な思考をする(我々は敗者に対して憐れみを持ったり、成功者を妬んだりさえするし、そういう性格もまた遺伝する。)こととか、生まれた時に既にある程度決定されている好きな動物とそうではない動物という認識(蛇が気持ち悪いとかの)を携えているとか、要するに合理的に割り切れない側面においてより強く祖先の気持ちを体現出来るものである。そしてそれは我々の日々の経験的事実(誰しも他人を羨んだり、気持ちの悪い思いを味わったりしている筈である。)自体が自分の記憶にとって掛け替えのいないものであると同時に、祖先もまた同じように感じたであろうという思いを抱かせるものであることをとっても一個一個の経験は我々自身の我々と我々の祖先の記憶をも常に引き出し、だからこそ生きて何かを経験させることとなる場であると感じることが出来る。

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