Tuesday, November 3, 2009

第九章 忘却による後悔の発生<意図による記憶の変形と歪曲>

 本論で私たちは意図というものの発生する現場を様々な形で見てきた。そして意図は意図せざる我々の行動とか行為によって逆に浮かび上がる思考性であることだけははっきりしたことと思う。つまり自分自身の考えのようでいて、ジュディス・バトラーが言うように「私は女性だ。」という風に社会的な意識であるジェンダーを受け入れて生活する人間とは、ある意味では生理的自然が我々に付与した現実をいかにして受容し、それを利用するかという「制約を楽しむ」(これは先日NHKの対談取材番組「プロフェッショナル」<脳科学者茂木健一郎司会>で建築家の隈研吾氏が語っていたことである。氏は「負ける建築」を目指しておられると言うが、21世紀型の環境内に融合する建築として注目を浴びている考え方であると言う。)という生活世界(フッサール的解釈である。茂木健一郎も「生活知」と「世界知」との双方を峻別して使用している。フッサールは生活知 的哲学者であったと言えよう。このことは本章で詳述する。)に生きている。
 さて私は若い頃メルロ・ポンティーを読んだことをきっかけにその師フッサールやフッサールから多大な影響を受けたハイデッガーを読むこととなった。そしてドイツ語の原文で読む力のない私は翻訳されたものを何通りかの訳者のもので読んだ。そして正直に告白すると、特にフッサールの文章のある種の歯切れの悪さに、彼自身の哲学的な考え方の難解さを感じ、困惑したのだった。しかしこれはフッサールの再解釈を試みてきた哲学者竹田青嗣の考え方を知るとよく理解出来る気がする。というのはそもそも科学者と哲学者ではそのスタンスの取り方に違いがあるからである。
 例えば自然科学者たちは私が先述した観察者と接触者としては観察者の立場を基本的には採る。そして彼等はあらゆる自然現象を客観的に捉え、それは彼自身、つまり人間一般に関しても変わらない。要するに人間のことを考える時科学者たちは接触者としての人間の実像を観察者としての視点で捉えるのだ。それに対して哲学者たちは概して観察者としての人間、つまり彼にとって自分を接触者としての視点によって捉えようとする。そのことに関しては洋の東西も時代も関係ない。しかし哲学者の中には同時に自然科学者も大勢いるし、また自然科学者の中にも哲学者タイプの人(例えばシュレーディンガーがそうだし、ドーキンスもそうである。)大勢いる。そこで事情は厄介なことになる。フッサールもまた数学者出身であり、そういう観点からすればラッセルやフレーゲとも共通している。
 更に竹田の解釈を借用すると、フッサールは彼が言う超越論的主観性というものは自然科学が拠って立つ客観的な真理というものそのものに対して「何故そのような思いを信憑性として採用するのだろうか」という思念をそのまま哲学の主題に据えたということらしい。するとフッサールの哲学行為それ自体が、哲学をも含む真理希求という人間の欲望を注視する行為となるから、当然その文体は悪文的なニュアンスを帯びることになる。これは隈研吾が言った「制約を楽しむ」という人間の思考そのものにも内在していることである。
 人間は無意味なことに感動する生き物である。それは音楽にしてもそうだし、挨拶にしてもそうだし、会話もそうである。要するに人間はある規則性とかリズムとかを体内的にも精神的にも求めている。それはやはり一つの生理的自然現象である。それはその場、その時の状況に応じて「合わす」行為に他ならない。つまりある制約とはその場その時の状況に応じた限界、世界に固有の事情なのであり、その場その時に固有の状況に臨機応変に対処することこそ生き、生活するということに他ならない。しかしそのようなことを言語行為において主張したのは戦後の哲学者であるデヴィッドソン(アメリカ)であったし、ダメット(イギリス)も基本的には同じようなことを言っている。(大屋雄裕の「法解釈の言語哲学」に詳しい。)しかし現象学という学問がただ単に真理希求型の形而上学であるとされた一般論を誤解であると竹田は説くのである。(デビュー作の「意味とエロス」以来「現象学は<思考の原理>である」等、一貫した論理で竹田は論説してきている。)つまりある意味ではデヴィッドソンやダメットによって齎された考えの起源にフッサールを竹田は考えているのだ。尤もダメット自身は彼の「分析哲学の起源」で自分も含めた後代の哲学者たちにとってフッサールとブレンターノをその起源として大きく取り上げていたのだった。
 しかしこのフッサールの視点を自然科学者で最初に提唱した人物こそダーウィンだったのではないだろうか?私が前章で述べた体内記憶とか生命記憶というような考え方は故三木成夫の主張するところであったが、その起源にはヘッケルの考えがある。しかし三木もそうであるが、竹田によると中沢新一も含めてこれらの考え方は私も前章で示したが、多少ホムンクルス的なニュアンスを払拭し切れない(私はその考え方の全てを肯定するわけではないが、全てを否定するわけでもない。)が、要するにカント的「物自体」の焼き直しであることになる。この捉え方は実に興味深い指摘である。竹田はこの考え方と懐疑主義を共に批判を加えている。(「意味とエロス」より)
 さてダーウィンに戻ろう。何故私はフッサールの主張すると竹田が捉える考えの起源をダーウィンと考えるかと言うと、ダーウィンは博物学者であったが、彼自身のガラパゴス諸島等による航海と見聞によって示した「種の起原」において自然というものの相対性を説いたとも言えるからだ。前章最後に述べたことに繋がるが、ダーウィンは自然そのものがかりに創造説的に捉えて神によるものである場合、神が合理主義者であるなら態々勝敗に負ける側の、つまり絶滅種をそれが絶滅すると分かっていて敢えて創造するであろうか、という私の考えを論の根拠としたのであった。さてダーウィンの子孫を自認するリチャード・ドーキンスに多大な影響を与えた生物学者ジョージ・ウィリアムズによると(「生物はなぜ進化するか」草思社刊より)自然選択とは種にではなく、個体へとかかるのだ、ということである。すると自然は種全体をそれがある自然環境自体に適応することが相応しいかを判断する(まるで神があたかも存在するかのように)ではなく、あくまで種内でも適応する個体もあれば適応し切れない個体もあるという厳しい現実の中で種全体にある厳しい自然環境条件が恒常化した際に、それに対応する措置として成功した幾つかの例(個体)が種全体にその変異系が生存に有利なために徐々に蔓延してゆき(その間にも選別された生存者間での競争があり更に絞られる)やがて成功例の中の標準値としての形状とかあらゆる生命システムが不動点を求められてゆく、という考え方である。これは自然自体もまた自然の将来を見越すことが出来ないと私は捉えたのだが、自然のその場その時の偶然的な変化の集積によって形成される自然全体の長い歴史的時間によって(突然変異は千世代に約一回だけ突然変異個体が現れるという。そしてこのような突然変異個体でしかも自然環境に巧く適応した個体の出現しない種で、しかも自然環境の変化に対応し切れない種は絶滅してゆくのだ。)徐々にその種の形質としてある突然変異の遺伝子レヴェルでの(尤もダーウィンの時代には未だ遺伝子の詳しい構造は理解だれていなかったが、後に大勢のネオ・ダーウィニストたちがダーウィンの進化論を現代の常識に当て嵌めて行った。)性質として定着してゆく、それを自然選択と言うのであった。
 このダーウィンの考え方は自然科学者の側から齎された自然相対説である。そして竹田の主張するフッサール像が正しいとすると、フッサールは哲学の領域でまさに、人間が客観的真理があると信じて疑わないその不可避的思考傾向それ自体とは何であるか、何故発生するのかを問うたのだ、ということなのだ。竹田の指摘を採用するとフッサールとは我々のつい抱きがちな「唯一の正しい答えが存在する筈だ。」という真理希求型の不可避的思考傾向(この事実はカントも捉えていたが、カントはその事態を客観的には捉えていなかった。ただ主観的に述べていただけである、とは当の竹田を初めとする大勢の論客の一致するところである。)そのものの存在に極めて鋭く着目した哲学者であるということになり、それは要するに私の考えるダーウィン流の自然相対説としての生理的自然自体の相対性を人間の思考傾向にまで拡張したことになる。
 フッサール以外に現代で最も大きな影響力を与えたルドウィッヒ・ウィトゲンシュタインが挙げられるが、彼はその方法としては科学者の認識をもった哲学者として極初期から世界の限界とかそういう表現を好んだ。しかし彼の視点の中心は専ら言語とか道具とか、要するにある種社会記号的なものの使用という側面であった。フッサールはその点行動レヴェルの使用側面からではなく、行動を誘引する内的な信念のレヴェルから相対性を洞察した哲学者であると言えるだろう。だからこそフッサールは「前言語状態」というような表現を多用したのだった。つまりフッサールの相対性理論とは「信じることの本質とは何か」なのだった。
 ダーウィンは哲学者でなかったので人間の表情に関する論文は残しているが、人間の心については殊更取り上げてはいない。彼の遺作はミミズの研究論文であった。寧ろあの相対性理論で有名なアインシュタインの考えを先取りしたのはエルンスト・マッハである。ここら辺の事情は茂木健一郎著「脳とクオリアなぜ脳に心が生まれるのか」(加えて前章で私が<我々が見ている今現在の光によって知覚している映像は厳密に言えば過去の姿である>ことと、今見ていると思っていることは実は脳内のニューロンによる処理によってある段階を踏んでいるのだが、見ている当の私にはある瞬間のように感じられる現象である相互作用同時性等の科学的解説もこのテクストに詳しい。)にも詳述されているので参照されたい。
 ところで私はフッサールを生理的自然自体の相対性を人間の思考にまで拡張したと竹田の主張をも考慮に入れて言ったが、そのことを端的に示す箇所を一つ引用しておこう。
「告知を理解するということは、告知について概念的に知ることでもなければ、言表の種類について判断することでもなく、聞き手が話し手がしかじかのことを表現する人格として直観的に統握する(統覚する)こと、端的にいえばそのような人格として知覚することに過ぎない。私が誰かの話しに耳を傾ける場合、私は彼をまさに話し手として知覚し、彼が物語り、証明し、疑い、願望したりするのを聞くのである。聞き手は告知する人物自身を知覚するのと同じ意味で、告知を知覚する_ただ告知する人物をまさに人格たらしめている心的現象を、他人がありのままに直観することはできない。普通一般の心的体験の知覚をもわれわれに与えてくれるので、われわれは他人の怒りや苦痛などを≪見る≫のである。このような言葉が完全に正確であるのは、たとえば外的な身体的事物をも知覚されたものと見なす限りにおいてであり、一般的にいえば知覚の概念を十全的な知覚、すなわちもっとも厳密な意味での直観の概念に限定しない限りにおいてである。知覚の本質的性格が、事物ないしは出来事をそれ自身現在するものとして把握する直観的思向のうちにあるとすれば_なおこのような思向は、概念的表現的な把捉を全然伴わなくても可能であり、それどころか非常に多くの場合、現に与えられているのであるが_聴取(kundnahme)は告知の知覚に過ぎない。ただし最前ここで触れた本質的な相違があるのは勿論である。聞き手は話し手が何らかの心的体験を表明するのを知覚し、そしてその限りで聞き手はこの〔話し手の〕体験を知覚するのである。しかし聞き手自身は、この話し手の体験を体験するわけではない。聞き手は話し手の体験については、なんら≪内部≫知覚をもたず、≪外部≫知覚をもつに過ぎない。十全的直観による存在の現前的把握と、直観的ではあるが不十全的な表象に基づく存在の憶測的把握との間には、大きな相違がある。前者の場合は体験された存在であるが、後者の場合は仮定的(supponiert)存在であり、このような存在には真理は決して対応していない。〔話し手と聞き手との間の〕相互理解はまさしく、告知と聴取のなかで展開される両者の心的作用の、なんらかの相関関係を要求してはいるが、しかし両者の心的作用の完全な相等性を要求してはいない。」(「論理学研究2」みすず書房立松弘美、松井良和、赤松宏訳、44~45ページより)
 この論点は戦後の哲学者(日常言語学派の流れを汲む)サールの考え方にも受け継がれている。そしてこの部分はジャック・デリダによって「声と現象」で引用して批評されている。(そのことに関しては後で詳述する。)
 つまり私たちはある他者の語る言述をその言述が語られる文章、発話された言辞の叙述性を通してしかその言述された意味を把握することは出来ないのだ。だから通常自分がその話者の語りを聞く立場にある時、話者の日常的な行動パターンとか人間性をよく知る場合には多少なりとも彼の語る例えば「昨日花見に行ったんだよ。」というような内容を具体的な映像を交えて想像することは可能だが、それが発話者が語り伝えようとしている映像と合致しているかどうかは疑問である。また通常話者の伝えることを聴者が勝手に想像することを話者はちっとも苦痛には思わないものである。つまり語りというものにはこの種の理解され得ることと、理解され得ないことの共存という事態が予め了解され合っており、またその了解が得られている場合にのみ会話というものが成立するものなのだ。と言うことは、即ち生理的自然として相手の語る内容の具体的な体験が必ずしも聴者に理解されなくても、その体験を語り伝えるという話者の意志さえ伝わればそれだけで半分意思疎通的な意味合いからは成功したと言い得るという了解もまた成立しているのである。それは要するに思惟の自然としては具体的理解の正確一致性を無視しても尚意思疎通することの意味は失われないというコミュニケーションの前提条件をここでフッサールは示しているのである。このことを竹田青嗣は、知覚における物に対する了解においてフッサール用語の<存在妥当>とか<明証性>とかによって説明している。
 例えば私たちはある事物を「あれは云々だった。」とどのようなものを目撃しても(つまりあまりきちんと確認して見なかったような場合でも)それなりに判断する。例えば私たちはどのような日常的場面においてもその場その時なりの、そういう時に確たる関心を持ち何かを知覚しているのではない場合では、その時の別のことに気をとられているそぞろな感覚や知覚をある種の生理的自然に委ね、無関心な気分でやり過ごしていることも多い。またそのような日常の状態がしばしばあればこそ、「もっときちんとあの時見ていればよかった。」と言ったような色々な後悔(例えばちょっと眼を離した隙に自分の子供が車に轢かれたといった悲劇を体験すると)することにもなるのだ。またそういう気もそぞろな事態があるからこそ逆にその時の事実に対する客観的事実を求め、あるいは意思疎通で他者と相互理解が得られないような事態が発生するからこそ、一番正しい真理というような客観的物差しを求めてしまうのだ。
 このことを竹田は「(前略)世界の存在(あること)は<主観>にとってのみ現れ出るような事実性である。だから、客観世界の秩序や法則とは、それ自体として存在するものではなく、諸<主観>に現われ出る<世界>の、現われ方の共通項にほかならない。つまり、客観世界とは、本質的に、相互主観的関係の網の目の中に浮かぶ、唯一同一の世界、という信憑の像なのである。しかしまた、この相互主観性それ自身も、結局<意識>のうちの信憑の構造なのである。」(「意味とエロス」ちくま学芸文庫49ページより)と言う。
 ここで竹田が主張することは、客観世界とはそういうものがあるのだ、として何事かを理解し合う者同士の(それは顔を見ないで相互の論文やメールを読んだりし合う仲間同士であれ)、あるいは何かについて語っている者同士であれば、意思疎通とはある話者がある陳述をする場合、その真偽がどうであれ、相互に発話されることの内容を信じ合うということを前提になされているのだ、ということなのである。それはある意味では真偽を超えたこと、つまり信頼という事態の存在事実についての言及なのである。この発言もまたサールの哲学(「言語行為 言語哲学への試論」勁草書房刊)の論点と一致している。そして大屋雄裕の「法解釈の言語哲学」での<よどみ>を感じる場合の法に対して法解釈者同士が論説し合う意味という観点からの大屋の論点と同一のベクトルを持っている。意思疎通とはある普遍的であると思われている秩序に対する何らかの疑問なしにはあり得ない。つまり全ての事態なり事実なり真理が相互に了解されているのなら全てのコミュニケーションは必要がなくなる。実は我々は何の普遍的であると言われていることにおいても、その普遍性を全面的に認めることがそう容易く出来ないという生の事実があるからこそ他者を必要としてその疑問を相互にぶつけ合うのである。もし疑問も不確実性も、未知性も何もなければ我々は意思疎通し合う必要などないのだ。それは丁度ダーウィンが自然自体がこの先何が起るか分からないと捉えていたこととも繋がるのだ。
 だからこそ逆に早急に何かことを運ばなくてはならない時(ビジネスも政治もそういうことがしばしばある。)我々は何とか現実と折り合いを付けて辻褄合わせをしようと画策するのだ。特に何か大義名分が必要とされるような何らかの厄介な処理事項に直面した時我々はしばしばそこに理屈を付けて正当化しようと試みる。そのような習慣的な処理をすることの背景には我々がどこかで「どのような事柄にも何か一つ必ず正しい選択というものがある筈だ。」という信念があるからに他ならない。(私自身はその場その時の最良の決断、判断、選択はあると考えているが、今述べている論点においてはそのこと自体に懐疑的になることの意味がある。)つまり常に正しい答えがある筈だという心的な判断において我々はそう判断しながら自分の記憶をも常に今現在の都合に応じて編纂している、いや改変しているのだ。 
 例えば昨日路上で10メートルくらい先に見たものが蹲る猫だったと思い、その時一緒に居合わせた友人二人に私がそのことを告げたとしよう。するとその二人の友人が私に「そんなものいなかったよ。」と言ったとしよう。すると私は畳み掛けるように「ほらあの時いたじゃないか、あの歩道にさ、猫が。」と確認しようとする。それに対して友人二人は私に「あれはただの石ころだったよ。」と答えたとしよう。すると私はその信頼出来る私の友人二人が口を揃えてそう証言するのだから、恐らくそれは正しいだろう、と思い私自身昨日は少し疲れていたのかも知れないと思い、私自身それまで正しいと思っていた記憶内容を修正しようとするだろう。それが性質の悪い私の友人の私に対する悪戯であったとしても、私が尚その友人がそんな嘘を付く筈などないと信頼している限り、その証言を信じて疑わないであろう。つまり他人の証言の信憑性そのものもまたその他人の私にとっての信頼度に比例して高まるものなのだ。私がある友人の語る事実が仮に誤りだったとしても尚、私はその友人が私に対して悪意で嘘をついたとは思わないだろう。それはその友人に対して私はその人間的誠実性に対する信頼を寄せているからである。そういう場合私はその友人が仮に私に対して誤った情報を教えたとしても尚、彼の言ったことだから客観的な基準に合致した陳述であると、そのこと自体(彼の報告の誠実性に依拠した信憑性)には疑いを差し挟むことはないであろう。その時にその友人の誤りに気が付かなかったなら。
 このことにも関係があるが、竹田は次のように述べている。少々長いが引用しよう。
「つまり<客観>それ自体は、つねにすでに間=主観的な存在妥当の構造なのである。しかしここで注意すべきなのは、今ある<主観>にとって、このことはべつに意識されているわけではないという点だ。(この点は、私が第七章において知覚行為の経験としての位置づけ作用<過去化>のことについて述べたことに関係があると思われる。<著者注加入>)(中略)
 たとえば、暗い部屋の中でものを見るとき、それが確かにひとつのカップであるかどうか”あいまい”な場合がある。ひとはこのときことさらそれをカップだと思い込もうとしたり、否認しようとしたりはしない。それ(存在妥当)は必ず<主観>のむこう側(外部)から、確かなもの、あいまいなもの、そうではないものといった相で<主観>にやってくるのだ。ではそれをもたらすものとは一体何か。
 フッサールの「明証性」という概念は、この場面で<主観>に妥当(ものがあるというう確信)をもたらすものとして導かれている。
 
次にわれわれが明らかにせねばならないことは、基礎づけられた判断を求める努力、ないし基礎づけの作用である。というのは、基礎づけの作用において、判断の正当性、すなわちそれの真理性_逆に基礎づけの不成功のばあいには、判断の非正当性、すなわち虚偽性_が証明されるはずだからである。(略)そして、基礎づけないし認識の意味を、いっそう厳密に解釈するなら、われわれはまもなく、明証という理念に到達する。(『デカルト的省察』)
 
 幾度でも繰り返さなければならないが、フッサールの言う「真理性」とは、客観存在の確証の基礎づけではなく、存在妥当の基礎づけを意味する。ものごとが真に客観存在するか否か、そういう問いはじつは倒錯している。そうではなく、ひとが、これは確かに「ほんとう」だとか、これは違うとかいう判断を行うこと、それ自身の基礎づけだけが、問い得るのである、と。
「明証性」とは簡単に言えば、反省作用の中で確かめられた対象存在の動かし難さ、である。それは、ただ、何度繰り返しても同じ対象として意識に生じるという「反復」の事実性によってのみ支えられる。
 たとえば、夜、うす暗い部屋で目を醒まし、テーブルの上にある白くぼんやりしたものを目にして、カップがあると思うとしよう。この<妥当>は、昨日<私>が寝るまえにコーヒーを飲んだという記憶が、何度繰り返しても確実なものとして「反復」されるとき、いくぶん間違いないものとして生じる。この記憶があいまいなときは、別の仕方で<妥当>が求められる。たとえば<私>も、もっと近づいて形を確かめたり、それを手にしてみたり、また灯りを点けてみたりするだろう。
 これらの行為は、それぞれの「明証性」を形造る。明証性が動がし難いものとして現われるほど、<私>は判断の確信を強くする。ところで、ここで注意すべきは、存在妥当がこのような明証性に支えられている限り、それが対象存在の最終的な客観存在に到達することは論理的にあり得ないということだ。これは現象学において事物存在の<超越>といわれる観念であり、<還元>の方法がもたらす全く論理的な一帰結である。
 
 ......われわれの知っているように、事物世界の本質には次のことが属している。すなわち、この事物世界の圏域においてはいかに完全な知覚といえども、或る絶対的なものを与えることはないというのが、それである。(『イデーン』第四六節)

 これは、さしあたって次のようなことだ。<私>は、昨夜の記憶をたよりに、あの白いものは形や位置から見て、確かに昨夜<私>の使ったコーヒーカップだと「確信」する。しかし、この「確信」は、どれほど「完全」なものに近づこうと、ひょっとすると当のコーヒーカップでないという可能性、つまり存在妥当の可疑性と変更可能性を決して最終的には排除できない。このカップは夜中に誰かが似たものと取り換えたのかも知れず、また<私>のほうに記憶違いが全然ないとは、「絶対的」には言えないからだ。
 明証性の中で現われ出た<事物存在>は、こうして、最終的に「絶対的なもの」を与えることは決してない。これが外在的な事物の<超越>存在に達し得ないといったことではない点に、私たちは十分注意すべきである。(「意味とエロス」52~55ページより)

 ここで竹田が示したフッサールの「イデーン」中の引用を含む解釈は、明らかに彼がフッサールにおいて最も注目してきた超越論的主観性の問題である。勿論最後に示されているコーヒーカップが誰かによってすり換えられた可能性をも我々が考慮すれば、この世にそれが絶対正しいと信じるべき何物も残されてはいないだろう。しかしひょっとしてどっきりカメラのような悪質な悪戯をも考慮すれば確かに私の部屋に置かれた電気スタンドも、ベッドも偽者である可能性を百パーセント主張するわけにはゆかない。しかしそのことは私のような分際の人間に対してそこまで手の込んだ悪戯をする必要性もメリットも全くこの世には存在し得ないにもかかわらず、そのような悪質なことをする者がいるのなら、寧ろ我々はそのようなことには目くじらを立てずに、どっきりカメラのカメラマンに対して微笑んで苦笑するくらいの度量を持て、というシニカルなアンチ懐疑主義的主張さえ読み取れる。つまりこういうことである。悪質で手の込んだフェイクとは、世の中には何でもありなのだから、確かにあり得ないことではないだろう。しかしそういうことをも考慮に入れた疑惑を四六時中我々は態度として採ることは不可能である。ならば寧ろ騙されるものは騙されたままでいた方がよい、という近頃元首相やら著名な作家によって持て囃されている言葉を使えば鈍感力を採用する方が理に叶っているということになる。
 人生は失敗と挫折と後悔の連続である。それに嫌気が差したなら自殺するしか手はない。しかしカントによれば自殺は自己に与えられた能力を発現させる使命を怠ったアンチ理性であり、アンチ善意志であることになる。忘却に対する後悔は人から騙された時よりも自己内での努力を怠ったことに対する反省において寧ろ強度があるだろう。公務とか社会的義務における忘却は記録を確認することとか、最も信頼すべき同僚に聞いたりすることで未然に防止出来る。しかし自己内での能力発現という意志においては、殆ど絶対的に対他的な態度の採り方同様後悔の念を残す。人類に日記なるものが存在することの根拠は人間が細かいことをどんどん忘れてゆくという自然の傾性があるからである。また不思議と我々は忘却したものの方に記憶しているものよりもより価値を見出そうとする。何故か忘れたことというのは重要なことであれ、下らないことであれ、記憶しているものよりもずっと光輝いて感じられるものなのだ。そこに我々が過去を想起し、反省することの意味もあるのだ。
 忘れたことの中でも重要なことであるならもう一度思念上に浮上するものだ。しかし本当に取るに足らないことであるなら忘却しても尚、それが光輝いて見えたとしても、それは過去への追憶に付き纏う幻想にしか過ぎない。関心という事態はそれだけ我々にとってより輝かしいものへの接近を内的にも生理的にも心理的にも希求している状態を我々が日頃持つということを意味する。存在の欠如とか自由とか欲望そのものが全体へ向おうとする「欠如」(サルトルの謂いで、竹田もちくま学芸文庫中258ページで指摘している。)という心的幻想こそ我々を忘却することを追い求めさせ、忘却しないで済む方策としてパソコンを発明させたのだし、後悔のない人生を送りたいという欲望を抱かせるものこそ過去に対する意識であり、記憶なのだ。
 私はよく疲れて仮眠を取ろうとすると、そういう時、つまり寝入り端の時に限っていいアイデアが閃いたりする。しかしそれが睡魔に負けてしまうとそのまま忘却のリストに混入させられる。しかし本当にいいアイデアならもう一度、つまり自分にとって関心事に対する要求を満たしているものであるなら、必ずもう一度浮上してくるものである。その時には確かにあの時の、つまり寝入り端の時のものと多少異なった形態を採っているかも知れない。しかしそれはそのアイデアがある程度の普遍性を保持している証拠なのだ。だが忘却したことに対する追憶がそれを美化するという作用それ自体は人生にとって決して悪い作用ではないだろう。(あまりに執着しすぎて神経症に陥りでもしない限り)何故ならその忘却をするという事実に対する覚醒と、本当に大切なことであるなら忘却しないようにしようと我々が心掛けるきっかけを作ってくれるからである。

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