Tuesday, October 27, 2009

第六章 自由の定義

 私たちの社会は既に築き上げられたシステムを死守することが目的であるかのような装いになっている。だから個人の幸福感は社会機能維持の観点からの義務遂行以外のことは全て自由時間の、しかも法的な秩序を乱さない限りでのプライヴァシーの尊重によって命脈を保っている。現代人のプライヴァシーとは限定された自由の行使であると言ってよい。しかし自由とは本来システム化されていなかった人類の社会においてさえ、限定されたものであった筈だ。要するに自由とは一面限りない無限性を秘めているような錯覚を我々に齎すのだが、その実極めて合理的な社会機能維持に対する貢献と引き換えに付与される限定的なものでしかない、というのが実像である。だから逆に仮想界とは、そのこと自体を説明しようとしても不可能なものであると捉えたカントの思惟の中には、行動的な自由が限定的であるからこそ、思念の自由が保障されているのだ、という主張としても読み取れるのである。だが行動的な不自由が齎すものに友情というものがある。友情の心理と欲求には、本質的に家族に向けられた責任と愛情、あるいは全くの他者に向けられた責任と社会意識と異なった自由がある。それは家族や親族とも他人とも異なる隙間的な自由である。
 私の母は言ったことがある。適度に親しい人間同士多数で飲む酒よりも、ずっとごく親しい者同士特に二人で飲む酒の方がずっと美味いし、楽しい、と。そうである。適度に親しい者同士の触れ合いでは必然的に社会的なヒエラルキーが介入してしまうものである。しかし真に深い友情はそうではない。友情は個人的であればあるほど社会的なヒエラルキーとは無縁のものだからだ。人間は実はこのような面において真の自由を感じる。それは職務に邁進することの責務と義務履行に伴う権利としての家族保有ともまた異なった純粋他者社会性とも、身内とも異なる自由の時間ではないだろうか?またそのような友を持つことは、真に愛情ある家庭を持つこと、あるいは真に生き甲斐ある仕事を持つことと同じくらいに貴重なことで、人生そういう出会いは配偶者や仕事同様そう数多くは遭遇しない。またそういう出会いこそ意図的に出会えるというものでもない。だからと言って日頃の自己努力の全くないところでもあり得ない。それはある程度日常的な心掛けから来る出会いでもある。
 人間は日常的には常に感覚的メッセージを受け取り、与えている。それは自然に対してもそうだし、自然からもそうだし、他者に対してもそうだし、他者からもそうである。それは意図的である場合もあれば非意図的である場合もある。しかし選び取ったものを捨てるか大切に保有するかという決断、決意、意志の全ては意図的なことである。それは苦労して勝ち取ったものでも、偶然選んだものでも(偶然もまた日々の努力の必然である。)同じことである。知覚によって得られたことを糧にするのも忘却するのも選択であり、それは意図的であれ、非意図的であれ意志的なことである。だからある他者に対して採る態度もまた感覚的メッセージであるし、緑の森林を見て感得するクオリアもまた感覚的メッセージの受容であり、その森林の中で呼吸することは自然に対して個体レヴェルでなす感覚的メッセージの自然に対する付与である。
 受容すること、受領することは自然からにせよ、他者からにせよ、それ自体で語らいであるという意味では等価な生理的自然現象であると言える。フランスの哲学者でカントよりも二十年くらい先輩のコンディヤックは、知覚においてあるクオリアを感受することを、あるいはそれを一つの自然からのメッセージとして受領することを、あるいはそれを自然の主張として受け取ることを観念の記号という表現をした。それはある意味では自然に対する記憶と意識の共同した「構え」の作業に他ならない。「構え」を抱くことで初めて我々は自然に対して特定のクオリアを個人ごとに抱き、それを認識力として把握して、そういう「構え」から自然に接してカントが最高原因とか最高目的と題したような思念を持つ。それは価値規範的な価値システムの構築と言ってもよい。それは自然科学者たちがある自然のメッセージを重要なこととして重視しながら、同時にある時には別の現象に対してはあっさりと無視するように決め込むことにおいても言えることである。クオリアとは感覚の記号であるとさえ言える。またそのような認識こそがバタイユがそのように統合することで「明晰さに不都合がないわけではない」と言った(「宗教の理論」付録、総体を示す図表及び参考文献より)ことは、個々の人間の意図とその連鎖自体の非意図性、想定外性あるいは個々の自然現象の自然科学的物理法則遵守性と、その組み合わせの非統一性、あるいは偶然性といった事態を言っている。だから我々が日々眼にする風景とか世界という認識にもそのことは言える。我々は決して予定調和的に自然とか外部世界と接しているわけではないし、その都度の事情において常に流動的に意図しているわけだが、同時に全ての生の時間を予定通りに運ぶことは出来ないし、そのように意図しても必ず不測の事態が発生し、またそのことに対して驚きもしない。未知性とはいつまでも未知であるわけではなく、やがて既知性取り込まれてゆくが、その既知性の中にも無限の未知性は控えているし、それに気付くこともあれば、見過ごすこともあるのだ。だからこそ真の自由とは既知であると決め込んでいたものに未知性を見出すことに他ならない。また真の自由とは解放されることばかりではなく呪縛することである場合もあるのだ。だから寧ろ晴天の霹靂のような遭遇とか知遇とか邂逅とかは、強制的な自然とか外部世界からのメッセージである場合も多いのだ。
 例えばある日突然我々にも死が訪れるかも知れない。例えば道路を歩いていて突然暴走してくる自動車に追突してその瞬間死を一瞬意識した次の瞬間には息絶えているかも知れない。そういう場合死した場合どのようなケースでも同じと捉えて来たのが科学とされている。しかし幸福に満ち足りた瞬間の死と、例えば受験の合格発表を見に行く時の不慮の死、プロポーズの返答を恋人の確認しに行く時の不慮の死は、果たして結果を知って死ぬ時と同じ死に方なのだろうか?科学では霊魂はないとされている。しかし霊魂は不在であっても尚、無は一種類ではない気が私にはする。満ち足りた幸福の絶頂で死ぬ場合と、結果とか成果を見ずに死ぬ場合と、あらゆる肯定的、否定的なメッセージを受け取ってから死ぬのとでは同等の意識の消滅なのだろうか?だがそう考えること自体が、ただ生きて意識を有する側の我々のただ単なるエゴなのだろうか?
 だからこそ哲学者は自由を問うのだ。自由とは価値規範である。あるいは価値論的システムの認識が生む論理なのだ。そして自由という可想世界において初めて論理と倫理が一致するのだ。
 例えば空間にも記憶があるとしてみよう。すると我々が脳内の活動において記憶するシステムが理解しやすくなるとは言えないだろうか?例えばただ単なる物質には我々のような意識はないだろう。しかし意識を支える根底的な構造それ自体に我々もまた他の一切の物質や空間同様晒されていると考えることで、逆に我々の生の意識という問題を特化して考える困惑から解放される気が私にはするのだ。つまり我々の意識にある無の思念に内在する空間それ自体の記憶能力のようなものと等価のものが立証されれば、我々の記憶もまた物質それ自体の低次の意識とか記憶に支えられた高次の我々独自の機能の意味も我々固有の価値システムとしてではなく、自然全体の価値システムとして理解しやくすくなるのではないだろうか?
 あるいはこういう風に考えてみよう。まず我々はしばしば犯罪をなす者がいるから法律が必要とされると考えるが、法律があるからこそ犯罪をなす者が出現するのだと考えてみよう。裏切りとは他者を欺かないという道徳律があるからこそ出現するのだとも考えられる。悪とは善行という功徳があるからこそ出現する逸脱なのだ。怠惰とは勤勉という美徳が生み出したものであるとも言える。あるいは憎しみとは愛情があるからこそ生まれるものである。妬みは尊敬心が生む。つまり全てのネガティヴ要因とは、その正反対の肯定的価値規範の存在が誘発する逸脱であり、規格に嵌ることを拒否する自由という観念が生み出したものである。あらゆる束縛、呪縛、緊縛からの逃避が生んだ事態なのである。
だから逆に法のない世界では犯罪はないということになる。あるいは挫折とは成功という事態が一方であるからこそ出現する事態であるような意味で、逸脱者は正当者並びに順当者の存在が生むものである。だからそもそも規格に嵌ることを美徳とする観念のない世界では逸脱や脱落という観念は生じ得ないのだ。愛される者がいればこそ愛されない者が出現し、嫉妬が生まれるのだ。愛のない世界には嫉妬もない。解放感というものがあるからこそ、束縛が生まれるのだ。解放され過ぎると人間は束縛を求め出すのである。価値、規範、節制、蓄積、秩序、規格(制)というものの存在は逆に無駄、逸脱、消尽、蕩尽、無秩序、緩和という措置が生むのだ。本来そういうネガティヴな事態を未然に防止するために儲けられたと考えられている措置の存在がその逆のネガティヴな事態を招聘するのであって、その逆ではないのだ。ということは勝利とはそもそも敗北を容認する形でしか成立しない事態であり、また勝負の参加者は全員自ら敗北する可能性をも引き受けているのである。つまりたった一人の勝者の存在を他の全員の敗者が容認することを予め承諾する形でこそ勝利が成立するわけだから、法律とは法に則った成員をではなく、犯罪に手を染めるものを排除していくことの全成員間に内在する暗黙の欲求を容認する形で設置されているものなのだ。
 では何故そのように我々はネガティヴな事態を招くことを承知で、そのような価値規範を設置するのだろうか?一つには我々は決して心底勝者だけを自ら率先して望んでいるわけではないのだ、という事実が挙げられる。勿論我々は進んで敗者になりたいとは望まない。だからと言って決して勝者へと進んでなりたいとも通常は思わないものである。例えばある仕事で成功する者とはその成功に見合う実力に対して与えられる称号であり、社会からの承認である。その意味ではその称号を得るまでの日々には多くの苦悩と挫折があり、それと引き換えに手中に収めた勝利という事実があるのだ。すると勝利の獲得には必ず勝利することが容易ではない苦悩の日々と経験が控えているのだ。だからこそ我々はある意味ではそこそこの成功、そこそこの幸福を寧ろ積極的に求めるのである。つまり勝者に付帯してくるストレスとか敗北に対する極端な恐怖を味わうくらいなら、いっそそこそこの勝利と幸福に身を委ね、それ以上望まないように行動するのだ。つまり勝利には必ず大きな責任を伴うということを全ての成員は承知している。そこで寧ろ勝者を讃えることの方を他の全ての成員から讃えられ過大な責任を負うことよりも選択するのである。
 つまり真の自由とは大いなる責任を伴い、多大なストレスを生じさせやすいということを我々は知っているからこそ、全てに関して敗北を喫すること決して望みはしないものの、どのような勝者であっても尚、部分的には必須の敗北をも確保しておくように心掛けるものなのだ。だからこそ勝負に参加することを他にも自己にも承認するのは、敗北しても構わないという意識を払拭する必要を感じない場合のみなのだ。もし敗北を味わうことが絶対忌避すべき事態であり、尚且つ勝利する可能性が希少であるのなら、我々はそうおいそれとは勝負には出ないという選択をするであろう。ここでもまた自由に付帯する責任という事態に対する躊躇が生じるのだ。敗北して責任を取ることの多大なストレスとデメリットを回避するために我々は責任を負うことをしばしば躊躇し、多大な自由と権力を放棄してでも、小さな自由と安楽な束縛を望むのだ。その方が安定していて尚且つ責任を負いやすいというメリットがあるからなのだ。そういう意味では社会では勝負とはしばしば多大な責任を他人に押し付けるがために積極的に小さな勝者か小さな敗者になるべく自分の将来を選択するためにこそ大きな勝者を選ぶことに賛同するのである。
 先述の論理から行くと、責任が無責任な行動を、秩序ある調和が破壊や無軌道な行動を、慈悲心が残酷な行為を、良心が悪意を、平和が戦争を産む。すると我々はその規範がどんなに必要欠くべからずに思われる事項であっても尚、その規範を逸脱せざるを得ないケースが存在し得るということを物語ってもいる。つまり規則が違反を産むのは、規則に従うという従順に対する反抗心が不可避的に芽生えるからだ。人間は強制されることを最も嫌う動物なのだ。ということは同時に権力を手中に収め、自分以外の他者一般を強制をすることもまた好きな動物であると言える。つまり攻撃欲求の存在が片や拘束し、強制をし、片やそれを受けた側からは反抗するという循環図式を産むのだ。そしてその循環真理を承知で我々は勝負し、ある時は主体的に勝利を望み、ある時は消極的に勝利を望み、あるいは小さな勝利を望み、ある時は率先して敗北を望む。特に重責を担う役職に関しては、回避したいと願う場合もある。勿論その逆で出世することを切に望む場合もある。それはその時の勝負に臨む際の人間の立たされた心理的状態と関係がある。
 強制する側にはある程度の責任を負っている。強制される側に対する管理責任である。しかし人間は常に管理する側に廻りたいとは限らないことは先述の通り、責任転嫁したい、重責から逃れたいと望むそこそこの権力獲得に甘んじたいという心理もあるからだ。だから反抗することで、既に確立された権力の図式に懐疑的になることで、自分の存在理由を見出そうとする。それは重責を負う者に責任を委託しておきながら同時に、それが行過ぎると自分の側に権利を取り戻そうとする心理によって裏打ちされている。責任を逃れることは同時に権利を主張することがたやすいという状況を好むからなのだ。
 重責を担った人間には権力も多大に付与されるから、必然的に他の多くの成員からは権利主張よりは義務履行性に対する注視が注がれることになる。権力はそれ自体で一個の大きな権利だからである。支配下にある者たちからの注視に耐えられない者は常に反抗する側にいたいと望むのだ。
 重責から逃れて権利を主張するのにもってこいの態度は自ら弱者を名乗ることである。そして弱者とは常に多数の連帯を望む。実は社会に蔓延る官僚主義の心理的様相とはこれと全く同一のものである。しかしその事実は個人性と個人の自立とはそれだけ難しいということを物語ってもいるのだ。
 つまり程よい自由を獲得しつつ、多大な自由を放棄することで自ら重責を担う側の者から付与される権利を主張することに自由を見出すということは、彼らの多くが重責を担う者には権力という多大な権利を手中に収めているが故に反抗するという自由を放棄せざるを得ないという事実を熟知しているからなのだ。反抗することで無限の自由の権利があるかのように感じられることを望むという彼らの心理には、重責者には権力の獲得と引き換えに弱者に与えられた結束という自由を放棄せざるを得ない孤独の事実を熟知しているという背景があるのだ。集団に同化しつつ、プライヴァシーを確保することは、集団の利害を保守することで多少の自由を放棄しつつ、集団で獲得した権利を享受し、その権利の行使に自由を見出しているからである。しかし権力者という重責者には、結束は通常許されない。つまり弱者固有の権利の主張がままならないのである。だから責任転嫁とは要するに、弱者の結束の権利に自由を見出し、そこに安住することが特権的な立場であることを主張し、その主張と共に安住の自由を確保するという心理がある。
 だから人間の中にあるヒーロー志向とは要するに責任転嫁の弱者の権利主張でもあるわけである。しかしヒーローとは期待を裏切れば途端に可愛さ余って憎さ百倍にもなり得る。
 ここで意図という事態を巡る様相を纏めておこう。
 意図には望んでそうするという積極的な場合(例えば市会議員とか都知事に立候補するというような)と、外部的圧力に抗する形で致し方なくそうする場合(他者から嫌がらせを受け、それに対処する形で嫌がらせを未然に防止しようとするような)、つまり消極的な動機に裏打ちされている場合とがある。責任は前者により大きく負わされ、後者では権利がより大きく与えられる。
 権力者にとっての権利とはしかし同時に義務でもある。つまり義務を行使する限りでの権利こそが彼の権力として他の全成員から認可されたものである。つまりそこには権力者ならざる全成員の権利の享受を守るという大義名分がある。
 
 ここで少し観点を変えて意図と非意図について考えてみよう。私は論文「死者と瞑想」(同じブロガーにて更新中のブログに記載)において人類が他の霊長類とは分かたれて、独自の進化をきたしたこと根拠の一つとして健康な時にも死を意識することが出来る(このようなことが例えば保険制度を人類に産んだのだ。)ことと、喪の際に社会的地位とは別個の死者と親しい者に喪参列の優先順位を設けた、その一種の「思い遣り」によると考えた。実はこのことは次のような人間の能力に帰する。それは組み合わせる能力である。例えば住居は、そこに住むという行為と、そこに住む者を特定するということ(ここまでは他の多くの動物でも可能である。)、そして何よりその住む場所を固定すること(これも他の多くの動物でも可能である。)を外部環境と別個の内部環境を保持することで実現することである。しかしそれもまた鳥類にも可能である。しかし重要なことはそれらの行為の一つ一つを組み合わせて住居を作り、それを集合させたものとして社会を構成することが出来るということは一つ一つの行為を別個の物として認識する能力があるということでもあるのだ。
 つまり端的に言えば組み合わせる能力というものとは、即ちいざとなれば分解も出来るということであり、引いてはそれら一個一個の分解品を要素として認識し、その要素間の違いを認識、峻別することが出来るということをも意味する。私は人間以外の多くの動物でも確かに幾つかの要素を組み合わせることも出来るが、その数に限界があるし、尚且つ一個一個の要素をその存在理由という観点から説明することが出来る人間はそれらの要素の性質と組み合わせた時に発揮する機能や作用を理解する能力があるということである。その能力に至って初めて我々人類は住居の集合体(実はこれは他の動物でも多く見られる。)を作ることが出来、更にその集合体を一つの社会と認識して法を形成する(これもまた多くの動物で可能である。)ことが出来、更に社会の法に従わない者を罰する(これもまた多くの動物で出来ることである。)ことが出来、そして無法者に対して罰するばかりではなく時には見逃す(これはそう多くの動物には出来ないだろう。)ことさえ出来る。実はこうした一連の行為の発展には、一個一個の行為の意味に対する理解なしにはなし得ない。
 確かに幾つかの行為の意味は多くの動物で理解されているだろう。しかしそれら同士の連関とかあらゆる連関からの逸脱とか、その関係の全てを意図的、非意図的な事態として理解出来るかということとなると人類では容易であるが、他の動物では困難であるかも知れない。
 喪の際に社会的地位とは無縁な死者の近縁者を優先させることが出来るということは、社会的地位、親しさといったあらゆる関係概念とかあらゆる階層が多層的に入り組んでいて、しかもそういった一個一個の関係の違いが理解出来るということを意味するから、このような能力はもしそれが理解出来るのであれば、たとえその者に言語行為がなされていないとしても尚、言語習得させることの可能性さえあるということを意味する。
 時と場合に応じて異なった優先順位、階層的秩序を考えの中に導入する能力こそ、要素間の組み合わせと分解の双方を難なくこなす能力を促進し、またその能力の進化が各個別の優先順位の峻別を認識する能力を促進するのだ。そしてそのことと反抗する権利の認識とは関係がある。組み合わせたものとは結果である。しかしその結果作られたものを分解するということは齎された結果に対する懐疑を抱く能力の行使に他ならない。それは要するに与えられた結果に甘んじることを潔しとしない抵抗心、反抗心の存在を意味する。
 そこで権利は与えられるものであるが同時に獲得するものでもあるという観念を人類に与える。それは強制的に付与されることを潔しとしないという主体的な行動にこそ価値を見出す能力の発動に他ならない。この権利があることにおける二つの異なった様相に対する理解、つまりただ単に与えられることと、主体的に他者から分与されるように主体的に働きかけるということの違いを理解する能力は、ただ単に強制されることを潔しとしない抵抗心と反抗心に根差すものであるとも言える。つまり主体的に行動する、自然に干渉するというような考えが権利と義務の配分において、主体的に権利を獲得することに必然的に付帯するある種の労働義務、あるいは義務を履行することで獲得する権利という観念の認識を持つ能力が労働を円滑に運用させることが出来るにはどうしたらよいかという工夫を見出すことへと繋がる。
 もし人間が特権的にある文明進化能力があったとしたなら、それは各個別の秩序、優先順位、階層性を共存させ、時と場合により使い分ける能力に起因すると考えても間違いではない。それらはつまり異なった要素、事態、事情を重ね合わせて考え、時には組み合わせて一個の秩序にする能力と抱き合わせのものである。例えば複雑な文章における統語能力といったものは、埋め込み分とか修飾方法の工夫とか様々な言語能力と、その言語認識を基調とした論理的なメカニズムの進化能力はそういった能力が発現された成果と見ることも出来る。だから本章の表題である「自由の定義」とは自由とは決して一律なものではなく、相対的なケース・バイ・ケースであるということと、個人ごとの選択(つまり大きな自由と大きな責任か、小さな自由と小さな責任かというような)に応じて異なった様相を自由という一個の概念から派生するという事態自体を把握するということに他ならない。
 つまりある自由は別の観点から言えば不自由を意味する。例えば権力はそれ自体で大きな権利なので、他の小さな権利を放棄しなければならない、結束することが弱者よりも困難になるという不自由を背負い込むことでもある。つまり全面的な自由というものはあり得ないという厳然たる真理の前で我々はしばしば自由の定義に対して翻弄されるのである。
 つまりもし自由というものを定義するとしたら、各ケースに応じて常に変化すること、そして前面的な自由とはあり得ない、だから一律に自由を定義することは不可能であるということを認識すること、そして自由には責任が多く付き纏うという、即ち定義を巡る条件に関して多くを割かねばならないという事態の把握をすることがまず優先されるということである。それは人間が外部から付与されたものだけでは満足しないことと、組み合わせることと全要素を別個のものとして認識することが抱き合わせとなっていることが密接に関わって、定義とは一律には困難であると理解する能力が人類にはあることを意味する。

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