Sunday, October 25, 2009

第五章 遡及的因果関係と真理について

 二つの自然を私は生理的自然と思惟の自然と呼んだが、思惟の自然はややもすると誤りを犯すことがあるとはカントが考えていたところである。そしてその否定的認識において彼の哲学の多く登場するのが思弁哲学である。そして彼はそれに対して実践哲学を対置する。そしてカントはマックス・ヴェーバーの謂い(「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」大塚久雄訳、岩波文庫版、325ページより)を借りれば「愛なき義務の遂行は感情的な博愛よりも倫理的に高い」という考えをヴェーバーのピューリタニズム自体がこの考えを受容したのではないかという考えを正当化するような謂いを自身に著作で述べている。(「道徳形而上学原論」篠田英雄訳、岩波文庫版、165~166ページより)
「人間が、自分の単なる欲求や傾向に属するところのものをいっさい勘定に入れないような意志を我が物であると主著したり、そればかりかいっさいに欲求や感覚的刺戟を無視してのみ生じ得るような行為が自分自身によって可能であり、それどころか必然的であると考えるのは、このような訳合いによるのである。かかる行為の原因性は、叡智者としての彼のうちに、また可想界の原理に従ってなされるはたらきや行為のうちに存する。しかし人間は、このような可想界については、この世界では理性だけが、しかも感性にかかわりのない純粋理性だけが法則を与えるということを知らないのである。(中略)それだから傾向や衝動(従ってまた感性界における自然全体)による刺戟は、叡智者としての彼の意欲の法則をいささかも損じるものではない、それどころか叡智者としての人間は、彼の傾向や衝動に対して責任を負うものでなく、またこれを彼の本来の自己すなわち彼の〔純粋な意志〕に帰するのではない。(後略)」
 ここでカントは二つの主張を行っている。一つは意志それ自体は傾向(性格とか資質)とか欲求それ自体を克服する可能性のある能力行使の権利を人間に与えているから、それ自体の価値はディタッチメントとして全ての現象から独立した非固有名詞的な価値規範であるということ、つまりだからこそ自分独自の功績に帰することは許されない、要するに個人性とは無縁の価値システムに組み込まれ得る真理であるということ、そして第二には意志そのものは傾向や欲求とも幾分対立し、またそれらに従属せずに、寧ろ制御する立場にあるものだが、彼の言う叡智者としての意欲(彼は「判断力批判」において意欲を目的の質量と捉えている。)の法則は肉体的実存、あるいは生理的身体条件に従順な怠惰を要求するような傾向や衝動には左右され得ない決意であり決心であるということ、そしてその傾向や衝動そのものは人間の個の価値システムにおける実像であるとするには及ばない、つまりそれら低次のものを遥かに上回る高次の価値システムをこそ人間の価値評定とすべしという考えである。このことは自然科学のディタッチメントを人間の意志的価値システムに応用したような趣があり、それだからこそバートランド・ラッセルはカントを数学的哲学者と呼んだのである。(「西洋哲学史」より)つまり数学とは実存的な諸現象によって何ら左右され得ない普遍に裏打ちされた、寧ろ諸現象そのものさえも厳密に個別的に検証されれば数学的数値に置換され得るという信念による数学的真理によって成立した学である。
 ところでカントは感覚界と対置するような形で可想界を設置して、それを感覚界よりも上位に、価値システム的に位置付けたのだが、その姿勢は諸現象による一見真理に相反するような出で立ちをさえ包み込む普遍的真理の存在に対する信念であり、それは幾分プラトニズム的視点の採用である。つまり数学的真理とは厳密なのであり、それは安易な応用不可能性を訴えるべき真理なのだ。そのことはソーカル事件というものを連想させる。
 カントが感覚界と可想界と言った分類を試みたことを連想させるジャック・ラカンの現実界、象徴界、想像界といった分類はカントの感覚界をラカンの現実界に、そしてカントの可想界をラカンの想像界に接近しているものと認識してもあながち間違いではないニュアンスがあるのだが、ニューヨーク大学物理学教授だったアラン・ソーカル(1955~)が権威付けに数学・科学用語を不適切に使用した哲学者を批判するために同じように科学用語と数式をちりばめた出鱈目の哲学論文を執筆して、これを著名な学術誌に送り見事に掲載された事件のことである。そこでラカンを初めとする大勢のフランス現代思想系の哲学者たちがその批判の矢面に立たされたのだ。批判された思想家たちは挙ってソーカルの挙をモラル的な背信行為であると批判したが、ソーカル自身は思想家たちが数学や物理学をその意味を理解しないまま模倣していることへの批判だったと後にコメントしている。(この記述の多くはWikipediaによるソーカル事件に関する記述引用である。)
 ソーカルの判断に見られるように、現代社会は既に科学の力によって「これが便利なものです。これが人類にとって欠くべからず文明の利器です。」という宣言によって、築き上げられた文明を維持することが至上命題と化している。そこからはそう容易には逸脱出来ない。数学の法則も物理の法則それ自体もそうだが、もっと身近に多くの例がある。例えば電気以外にもしかしたら夜電灯をつけることの出来る便利なものがあるのかも知れないが、最早電気以外の手段は模索されない。車もそうだし、もっと古いものでは貨幣経済システムもそうである。つまり我々の生活とは一旦手に入れた便利な生活手段を維持することを社会の至上命題と課しているわけである。それはそのような便利を手に入れることではなく、既に獲得された便利さを維持することの方に比重がかけられているのだ。この遡及的因果関係こそ社会の実像である。そのことはヘーゲルによってもある程度主張されていたが、より明確な意図をもって示したのはバタイユだった。彼は」「宗教の理論」において<産業の飛躍的発展>で
「基本的に言って媒介作用による世界は、仕事=作業[oeuvres]の世界である。そこでは人は、ちょうど羊毛を紡ぐのと同じ仕方で、救済に値するよう、神の国に入れるように生きる。すなわち人はそこでは、内奥次元に応じ、激烈な衝動に促されて、計算を排除しながら動くのではなく、むしろ生産の世界の諸原則に応じて、来るべきある結果を目がけて動くのであり、その結果のほうが瞬間における欲望の充足よりも重要なのである。」と言っている。そして「仕事=作業がその結果としてもたらすことは、やがてついには神性を_そして神性への欲望を_、また新たな事物の俗なる性格へと還元してしまうということである。神的なものと事物との根本的対立、神的な内奥性と操作の世界との根本的な対立は、仕事=作業の価値との根本的対立、神的な内奥性との根本的な対立は、仕事=作業の価値を否定することのうちに際立つ_つまり神の恩寵と諸々の功徳との間に、関係が皆無であると断定することのうちにはっきりと浮き出るのである。」
と述べている。この辺りから最終章までの全てはバタイユのこの論文の結論的な主張を理解するのに最も相応しい箇所であり、かつその主張には多分にマックス・ヴェーバーの論理を継承する意図も感じられる。その証拠に論の最後に彼が啓示を受けたテクストの羅列においてヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を挙げている。バタイユの論理では近代以降の社会システムの維持に対して躍起になる人類は、その昔神的な驚異の支配の前でたじろぐ人類が、自らの手によって作りつつある文明を、自然そのものと自然の脅威に対して拮抗する意図において自らの創造物を消尽すること、そして一つ一つの目的に対してその場その時に対処する意図が連なった時に、自分たちでも思いもかけない方向へと差し向けられつつあるという現実、つまり非意図的なシステム社会維持の現実に翻弄されるその姿である。そしてその視点とは即ち人工が自然に拮抗する筈の有用な対象であったことから今や人工というもう一つ自然の脅威に晒されている人間の行く末に対する着目があり、それこそがマックス・ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」論理の結論に該当する考えである。
 例えばソーカルが主張するような意味で数学的真理はそれ自体自然からも独立している。しかし自然に内在する多くの数学的事実は、自然の処々の偶然を一旦受け入れれば、偶然自体に内在する処々の事実は数学的真理に忠実な筈であるという自然科学者の認識的信念に基づいている、と言うよりも数学者たちの信念を構成する必要条件である。
 マックス・ヴェーバーが主張することとは、アメリカ社会が既に彼の存命中に経済効率一辺倒の非宗教倫理的なシステム社会維持を目的としたもう一つの自然(人工の自然)となっていることの警告によって終了するあのテクストの構成の仕方そのものから読み取れる。つまりこういうことである。あのテクストの翻訳者の大塚久雄の「ヴェーバーが言おうとしているのは、宗教改革後の一時期に、複雑な歴史の織りなす織物のなかの一つの、しかし大切な横糸か縦糸かを禁欲的プロテスタンティズムがつけ加えた、そういうことなのであって、宗教改革ないしは禁欲的プロテスタンティズムが資本主義文化をつくり出した、などといったことでは絶対なかった」(岩波文庫版、訳者解説409ページより)のである。
 つまりここで私が言いたいのは個々の出来事とか対処において意図的であるような行為の連鎖が次第に我々の意図を離れて、まるで生理的自然が我々を不随意に誘引するかのような全体的な方向の流れを決定してしまうという、ある種の真理である。私たちは最初にはこれこれこういうことをしようと企てたが、その行為の連鎖が最初は予想もつかなかった我々自身に対する竹箆返しを外部自然や我々自身が構築した人工物(社会も含まれる)から我々は享受することになる、ということは最早個人レヴェルからも地球規模の人類の立たされた課題からも明白である。しかしその事実を我々はただ単に運命と神の視点に委ねてもまずいのだ。つまり自分たちの招いた事態の落とし前は自分たちでつけるという義務に対する意志を明確化しておかなくてはならないのだ。
 ヴェーバーの捉えた宗教倫理からの離脱を来す予想外の西欧資本主義社会の現況に対する詠嘆と、そこまで西欧人たちを誘導した真理の意味とは、バタイユの「宗教の理論」の最終節において彼がヴェーバーの当のテクストを解説した次の一節がベストであろう。
「マックス・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」
マックス・ヴェーバーのこの有名な研究は、初めて正確に蓄積の可能性そのものを(つまり富の生産力の発展へと用いることの可能性を)、現世といかなる関係も考えられない神的な世界の措定に結びつけた。その現世においては、操作的な形態(計算、エゴイズム)が、富の栄光ある消尽を根底的に神的次元から切り離しているのである。マックス・ヴェーバーは、トーニー以上に宗教改革によって導入された決定的な変化を強調した。それこそが仕事=作業=行いの価値を否定することによって、また非生産的な蕩尽を非難することによって、根本的に蓄積を可能にしたのである。」(湯浅博雄訳、ちくま学芸文庫版、160~161ページより)
 つまりバタイユはヴェーバーの論理の背後にカント的な善意志の問題を明確に意識して読み取っているのである。カントの目的自体の普遍的な国とか最高原因などという概念とは、実は人間が処々の事態に対しては明確な意図をもって臨むのにもかかわらず、そういいった一連の行為が連鎖されれば、その時必ず自然全体とか外部状況とかの全てが我々自身へとある返答をしてくるし、その一つがネット社会のシステム維持自体に困窮する(しかしネット社会を排除することは最早不可能である。)我々の実像において証明されるのだが、つまりそういう輪廻的にも感じられるところの必然性のことである。それはソーカルがポスト・モダニストたちを批判した数学的真理の安直な引用を戒める思惟の自然を超えた生理的自然にもある意味では近い数学的真理それ自体のディタッチメントにも等しい。そこで我々はどこかで一々の行為において意図的たらんとしつつ、全体的な抗し切れない流れには運命を感じざるを得ないのであるが、だからこそ尚のことを善意志によって後悔の念に苛まれないような心掛けをすべしという主張としてもカントの「道徳形而上学原論」は読み取れるのだ。そして明らかにバタイユの論の全体的主張はヴェーバーのプロテスタンティズムの敬虔主義的な部分を資本主義の起動性の一員として捉えた考えが、背後にカント的な倫理をも含んでいることの発見によって鍛えられていると私には思われるのだ。
 そしてそのバタイユの論理にもまた遡及的因果関係としてのテクストの在り方に対する検証姿勢が読み取れる。テクストはそれ自体我々に既に結果として差し出されている。しかしその結果に我々の生きる時代の視点から独自の原因性を付与することは我々の時代の義務である。そしてその遡及的因果関係を踏襲することで、一々の意図に対する全体的な非意図という真理を読み取ることはカントも、ヴェーバーも、バタイユも全てのテクスト創造者たちに共通したスタンスであったと断言してよい。そしれそれもまたレヴィナスの言う翻弄というものの正体なのかも知れない。

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