Wednesday, October 21, 2009

第三章 意図と責任

 私は前作「責任論」において、責任とは能力に対する承認であると捉えた。そして責任能力とは要するにその人間に対する記憶能力への信頼でもあると考えた。
 人間には記憶に残りやすいことにおぞましいことも含まれる。それは倫理的に逸脱した事柄である場合が多い。ということはそれを否定的なフラッシュバックを誘うものである場合、我々はそこに「人間の記憶作用には倫理がかかわっている。」という真理を認めてもよいことになる。記憶の固定化には扁桃体が海馬にエピソード記憶とか場所記憶を収納するべく介在するとされる。反応学習的な記憶に関しては尾状核へと扁桃体がスムーズに記憶させるように取り計らう。扁桃体は情動を司り記憶を促進する。この扁桃体は海馬の先にアーモンド状に付着する形状になっている。海馬は扁桃体の付け根から大きく蛇行して尾状核を巻き込む形状に尾状核に付着する形状となっている。尾状核はほぼ球状である。
 記憶に残る他者の一言は必ずしもその者による意図的なことではない。しかしこちらから他者に何か語りかける時、その時の他者にとって有効な一言くらいにはなるように心掛け、それでいて自己にもその後恩恵を齎すような言辞、陳述内容を考えるだろう。それによっていい情報を聞き出せればもってこいであるからだ。
 発言とは社会ゲームにおいて私たちが全体者の意味を借用して、個の利己的な権利を行使していることに他ならない。そしてそれは全体者のあらゆる意味でのラング、他者への礼儀、同一共同体成員としての自覚の表明と引き換えに行使することが許された行為である。だから文章とは記述されるものであれ、発言されるものであれ一回性の表現となる。
 ニーチェの私が序で示した言葉(371)は自我とは幻想であり、我々の本質は利己的であるという主張に他ならない。このことは私たち一回一回の発言についても該当することである。しかしニーチェの説く人間の本質が逆に我々に責任倫理を生じさせるのであり、ニーチェはその本質のままで人間がいていいとは言っていない。要するにその本質に従順であるのに知性的であり、道徳的であるように振舞う人間の行為と精神の虚妄を言っているのであり、その点ではニーチェはカントと重なる部分が多い。例えば次の節を見てみよう。
「272 高貴であることの徴。_われわれの義務を万人にとっての義務にまで引き下げようなどとは決して考えないこと。自己の責任を譲りわたそうと欲せず、頒かち合おうと欲しないこと。自己の特権とその行使を自己の義務のうちに数えること。」
 ここで示されたテーゼは一つはカントのものである。われわれの義務とは万人の義務ではない、という謂いにはカントの「君の格律がいついかなる場合でも同時に法則として普遍性をもち得るような格律に従って行為せよ。」に対するアンチ・テーゼがある。しかしここでニーチェがカントを否定しているわけではない。寧ろカントが言ったこの言述の有効性を叫ぶ以前にまず足元を見よ、という主張としてこの述定がなされている、と考えた方がより説得力がある。というのは、万人の義務という事態が成立することが殆ど稀有なことであることと、もしそのようなものがあるとしたら、それは卑小な些細なことでしかないという予感がニーチェにはある。だから引き下げてはならないのだ。私は前作で責任は決して普遍的に規定され得るものではなく対立もすると言った。その意味では対立してこそ初めて各立場の責任は真理となるのだ。だから万人に通用するものとは、社会ゲーム上では然程重大なことではない。あるとすれば現代では環境問題くらいのものであろう。(それはそれで重大だが、今論点としていることに関しては然程重大ではない。)人類の責任であることの理解は寧ろ地域住民であり、ある固有の民族であり、ある固有の国民であることから派生する。だからカントが言った行為の格律はあくまでそういう認識を持った上でのことである。しかしニーチェはそのようにカントが言ってから人間は大してそのようには行動して来なかったということを知っている。そこでカント的行為の格律をもう一度復権させるにせよ、一度万人の理想という虚妄を打ち砕く必要を感じたのだろう。
「287(前略)_高貴な魂は自己に対して畏敬を持つのだ。_」
 そう言述したニーチェは人間が自己に課せられた能力を十二分に発揮することが人類にとっての責任であると言おうとしたかのようである。そしてその一つは苦労しなくても記憶に残るようなものを大切にすることであり、もう一つは努力によって記憶しやすくなるようなものも大切にすべしということであろう。
 つまりカントが言う義務とは納税とか勤労とかの社会ゲームとしての義務だけのことを言っているのではなく人間の理性能力の全てに対して注がれている。そしてそのような理想を追求するのには一度ニーチェ的な懐疑を哲学上で実践しておかなくてはならない。そのためには社会ゲームの本質をもう一度見極めておかなければならないのだ。つまり人類である前に一地域住民であり、市民であり、国民であり、ある民族の成員であるその現実からスタートしなくてはならないのだ。
 我々は無意識の内に何かを覚えていることが多い。一方ある程度自覚的に意識的に、つまり意図的に覚えることも頻繁だ。この二つは相補的に我々の生に反復されて立ち現れる。そして意図的であるという認識は一方で非意図的である多くの行為が我々の生活において散見されるからに他ならない。意図的であることは言語的に説明の尽くことの世界である。そして言語的に説明が尽くことの典型的な例として法というものが挙げられる。しかし法といっても法律のことだけではなく、言語行為に内在する文法規則とかあらゆるスポーツやゲームに内在する規則のことを考えてみよう。
 例えば会社に出勤するということを考えてみよう。会社には出勤時刻と退社時刻とが定められており、例えば遅刻したくないために寝巻きのまま出社した社員が次のような言い訳をすることは通常許されない。
「今日は電車が混んでいて、乗り遅れることのないように急いで会社に出勤することに夢中で、スーツに着替えることにまで頭が廻りませんでした。」
 ここには会社に出掛けるという行為を主体とした正当化が見られるが、通常会社に出社することとは遅刻しないで会社に到着するだけではなく、スーツに着替えて出社することも責任上含まれている。だから責任とは遅刻厳禁であるという触れ込みそれ自体に、それ以外の多くの社会ゲーム上で認可された一般常識が含有されているのだ。しかし少なくとも言い訳をする場合、その過失が意図的であったのか、そうではなかったのかということに関してはこのケースのように言及することは正当である。そこで今度は規則というものに内在する非言明的真理について考えてみよう。
 この意図的であること、並びに規則に関して大屋雄裕は「法解釈の言語哲学」において大きく取り上げている。
「一般的に、ある意図的行為は意図せざる行為を含んでいる。例えば「私が意図的に扉を開けるとき、私はそこにおいて腕を伸ばしてもいる。しかし、私は『腕を伸ばそう』と意図したわけではない。それゆえ、『腕を伸ばす』ことはそのときの私の意図的行為ではなく、扉を開けるという意図的行為において為された意図せざる行為にほかならない」(野矢茂樹のテクスト出自<著者注加入>)。そしてアンスコムが指摘する通り、私は自分の意図の内容を観察によらずに(without observation)知ることができるだろうが、これに対して意図せざる行為は、一般的に観察によって知られるしかない。このことは、「君は知らないようだが、.....したのだ」という表現が意図せざる行為においてしか成り立たないことにも示されている。そしてここから、行為の見方に一人称的なものと三人称的なものが存在することが導き出される。
「何をしたことになっているのか」は三人称的な視点から知られるのである。そして意図的行為は、「何をするつもりでいるのか」と「何をしたことになっているのか」という両方の知識に基づいて記述される。すなわち、一人称的観点と三人称的観点の双方から捉えねばならない。それに対して意図せざる行為は、もっぱら「何をしたことになっているのか」という三人称的観点から記述されるのである。」[野矢茂樹のテクスト出自<著者注加入>]
(「法解釈の言語哲学」171~172ページより)
 この三人称的な視点は本章の後で再び取り上げるが、ここで主張されていることは極めて示唆的である。それはサルトルが「存在と無」で示した対自的な視点は、実はこのような第三者の視点の把握から逆利用される意識であるということだ。自分の行為を意図したとしても尚、自分では気が付かない非意図性の下で俯瞰する意識が齎されるのは他者の視線に他ならない。それは自分ともう一人の相棒を加えてそれら二人を注視する他者の視線の存在こそが社会ゲームにおいて「私の責任」やら「あなたの責任」を認識させるものだからである。そしてこの一人称と二人称の視点が実は第三者の視線という三人称によって構図を与えられているという現実から社会通念というものが生み出されてきているのだ。
 スーツに着替えて出社しなかった場合、会社に出社するというマクロな責任を果たしたのだから、遅刻しないで出社する、スーツに着替えて出社するというミクロな責任を果たさなくてもいいということにはならない。そもそもビジネスは遅刻しないこととかスーツで出勤するとかの様々な付帯条件の集積によって成立している。それら全てが統合されて初めて出社することの意味が成立する。例えばもし三十分くらいの遅刻があった場合、その日特別のスケジュール(遅刻が絶対許されない)でもない限り、寝巻きのまま出社するよりはずっとましである。出勤という日常的行為には社会ゲームにおいてもとりわけ重要視され得る社会常識というものが存在して、その社会常識という名の全体者が前提されている。例えば葬儀に参列する時に、真っ赤なジャケットを着て参列することは日本社会では通常非常識とされる。そうならば、真っ赤なジャケットを着て葬儀に参列することが非常識ではない、常識に拘る必要はないという考えの故人やその故人の親族、葬儀関係者全員の全体者がその考えに従う(それは黒い喪服で参列するのもまた自由であるという)というモードにおいてのみ許されることだろう。
 かつてジョン・レノンが「セックスに関して自由な考えの人は、セックスに関して自由でありたいと願わない人たちに迷惑がかからない限りで自分たちに考えを実践する自由がある。」というようなことを言っていたが、私は本来喪に関しても性に関しても形式よりも心であると考える方なのだが、それでも尚、社会常識という共通コードが全体者として存在している以上、自分の考えを実践することは、周囲に迷惑がかからない程度に抑えておかなくてはならないという考えも一方であるのだ。
 例えば規則は厳然とある。そしてその規則は通常社会全体の同意によって成立している。それが時代遅れのものであるなら、我々はそれを改善してゆけばそれでよい。大屋の示した「よどみ」に対する解決として考えられている規則は、しかし例えば病気のことを考えてみよう。病気は通常医学界で認可された病気に限られている。だから「あなたは現代医学では病気ではありません。」と仮に医師が患者に告げたとしても尚、奇病というものはあり、それらは未だ医学界全体で認定されていないものも多い。しかし患者と仮に認定されなくても尚、苦しみに絶えてゆかねばならないという現実は多く存在する。そういうケースが多々あり得るという認識に法そのものも立たない限り我々は全体者というものの使用を見誤るということになりはしないだろうか?
 もしカントが言う義務が法体系的な意味合いばかりではなく、もっと根源的なヒューマニズムに根差したものであるのなら、規則遵守という観点外のものも網羅した義務というものが考えられるだろう。それは法体系において解釈することの出来ない前例のない現実の方がずっと多いのだ、という認識によってのみ獲得され得る、要するに人間に付与された能力そのものへの、つまり未知の事項に対して挑む可能性としての能力に対する責任倫理ということになる。
 ところで数年前のことだが日本人の若い男性が日本でイギリス人女性を殺害した事件があった。今から十年数年くらい前になるが、やはりイギリス人女性が日本で日本人男性に殺害された事件があった。あるいは日本人女性がアメリカで殺害された事件もあった。しかしその時に一人同国人が殺害されたからと言って殺害された側の国民全体がその犯人の国に対してルサンチマンを抱くということはないだろう。しかし例えばハロウィーンの時の服部君射殺事件を我々は今でも鮮明に記憶しているように、私たちは被害にあった事件に対しては鮮明に記憶する。だが逆に日本人の側が外国人を殺した場合、数年たったら忘れてしまうということは可能性としては大きいだろう。それを言うならやはり日本人はアメリカと戦争をした時、日本人によって殺された外国人のことを意外と早く忘れたという面はある。
 一体それでは何人くらいの人間が纏まって殺されたら殺された側の国の人はその犯人の国に恨みを抱くのだろうか?それは人数だけ(人数が多ければ多いほどそういう感情を抱くということはあり得る。)ではないかも知れない。というよりも例えば相手がアメリカ人だから日本人だから殺したという理由によるものなのだろう。しかし日本人が自分たちは拉致問題を声高に叫ぶのに、日本人によって被害を受けた人々に対しては冷たいと受け取られることがよくあるが、それはある程度当たっていると私は思う。
 それが国家レヴェルとなったら、例の従軍慰安婦補償問題をアメリカの上院議員が議題として提出してから日米関係に再び影が差してきていた問題と同一の事態であると言ってよいだろう。
 要するに責任の取り方の問題、あるいは被害を与えた側の態度の問題ということに尽きるのだろう。しかし同時に補償して貰おうと考えている側の立場を百パーセント忖度して応対するような国の代表者というものが一体いるだろうか?あるいは被害者家族に対して加害者家族が責任を感じることは必要なのだろうが、たとえ加害者の家族であっても人権というものはある。だから責任というものの在り方というものは時と場合とによって変更され得る。だからカントが言う義務とは理想である。しかしそのような理想に当て嵌まった生き方ばかりを人間がし得るわけでもない。その意味でカントに対して反措定的立場のニーチェの哲学に存在意義が出てくるわけだ。
 少なくとも意図的な行為に関しては謝罪だけでは済まないし、罰金だけでも済まないだろう。懲罰の対象となる。あるいは引き起こした事実の重大性から言えば過失であっても、それが意図的ではないからと言って罪が軽減されるということはないという観念が昨今では特に飲酒、脇見運転では言われるようになってきた。だからその非意図的であることで許される範囲というものが当然考えられるだろう。例えば先述の例で言えば寝巻きのまま出社した社員はそもそも会社まで辿り着けることの方が稀だろう。このような非意図性は懲罰の対象にはならないが、別の意味で社会通念上では厳しい目が注がれるという事態は容易に想定される。
 しかしもう一度あの殺される人の数の問題に戻ってみると、私たちはもしどのような個人でも戦場であれ、市街地であれ何事かに巻き込まれて死ぬ時は一人である。だから戦争で何人の人が戦死したかという数は残された人にとっての都合でしかない。例えばある戦死者とかある事故死者の遺族にしてみれば、当人同様個人的なことなのである。しかし大勢の同胞が殺されればたちまち我々は連帯意識としての民族意識を生じさせる。そして仕返ししたいと願いさえする。そういうことの応報が各国で散見される。要するに死ぬ当人にすれば個人的なことであるのに、それがある一定数かたまればたちまち社会的事実、歴史的事実となる。そういう意味ではそのように個人的死の集積、つまり一定数の塊はそれだけで政治的な意味を帯びる。そして民族意識とか国家意識を生じさせる。そのような個的な事実を政治的事実とするところに集団依拠的な同化意識の発生の現場がある。そして責任問題は途端に個人的なレヴェルから国家、民族のレヴェルに押し上げられる。しかし各故人に横たわる個人的な生命の消失としての事実は数の論理に置き換えられ、歴史的悲惨の事実自体に対する鎮魂の情を我々に強制するが、死者の各個人の魂への問いはどこかに忘れられがちである。政治の責任は数の論理において成立している。それは個人間に横たわる辛苦な事実を蒸し返さないような配慮でもあるのである。それがまた政治の意図なのだ。(鎮魂という行為はそれ自体で生きている者に安寧を与えよという死者に対する請求に他ならない。)
 辛苦を蒸し返さないということの意図は生きている人間の心を最優先にすべしという思想が漲っている。法は生きている成員に適用される。それはそれ自体で人間が性悪的存在であることを成員相互に了解し合っていることの一つの顕著な表出である。レヴィナスは次のように言う。
「(前略)エロス的なものと、エロス的なものを具体化する家族とによって社会的な生に保障されるのは、勝利の無限な時間である。社会的生にあって、<私>は消失することがなく、<私>はむしろ善さを約束され、善さへと召還される。勝利の無限な時間を欠いては、善さはただの主観性になり、狂気となってしまうだろう。」(「全体性と無限」下、219ページより)
 生殖の哲学者としてのこの時期捉えられる彼の論旨は、明らかに秘私的な営為である家庭の保持が、その安泰において社会的義務を、社会的奉仕を滞りなく遂行させるためのエネルギーを放出させる手段となっていることの承認としてレヴィナスはニーチェ流の揶揄を敢えて避ける。家庭と信頼と愛情のない成員には、本質的な善を遂行することが出来ないという主張としてレヴィナスは位置付けられるだろう。それはマックス・ヴェーバーの「(前略)来世を目指しつつ世俗の内部で行われる生活態度の合理化、これこそが禁欲的プロテスタンティズムの天職観念が作り出したことだったのだ。」(「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」287ページより)という謂いの本質的な意味が語るところの主張と同一のベクトルを持っている。生活態度の合理化とヴェーバーが言うところのものは職業人として社会人としての誇りがそのまま健全な家庭を築くという倫理と直結していたのだ。そこには市民としての連帯が国家レヴェルでの管理社会システムと目指すべき方向が合致しており、その事の承認として各成員がそこで秩序を維持することに邁進するのだ。このことがレヴィナスの言う「善さを約束され、召還されること」に他ならない。それは神との密約であり、契約であるという個人個人の自覚によって成立している。このヴェーバーとレヴィナスの視点の交差点には法というものが本来は主体的に構築される明文化する以前の自覚論的な合理的成員間秩序として捉えられているという点が極めて重要である。
 しかしカントが善意志を権利問題として主張し、ニーチェがそこに至るまでに幾多の障害があることを暗示した本質的法を曇らせる現世主義的な法秩序の網の目が、一般常識とか常套的慣例を生み出してきたのだ。慣例を生み出してきたもの、まさしくそれが第三者の視点(大屋が先述例において主張していた)の存在である。そして大屋は社会学者宮台真司の言を引用してこの第三者と権力との関係について触れている。
「宮台真司は『権力の予期理論』[宮台テクスト出自<著者注加入>]において、ある主体(i)とそれに後続して行為する主体(j)の関係における予期の構成によって権力の一般的な定義を与えている。彼によれば、もしjの反応がなかったならば選択したであろう選択と、jの反応を予期した場合に権力は体験される。ここで重要なのは、この権力記述が主体iの選好構造のみを用いて可能なことである。権力のさまざまな形態は、それを経験する主体の想定によって考察することができ、その中には実際には制裁を受ける可能性がないにもかかわらず機能する権力(妄想的権力)も含まれる。たとえ規範性を私の態度の問題として捉えたとしても、そのことがコミュニケーションの散乱を直ちに意味することはないのだ。
 宮台真司は、この権力の予期理論の立場から「一定の期待を任意の第三者が共有すること・への予期が社会的に共有されている事態」(宮台テクスト出自<著者注加入>)を<法>ないし<ルール>の存在と定位している。そして、特定の内容的な期待に関する<素朴な法>_例えば、「人を殺してはいけない」という期待_のみならず、特定の手続きを経由した任意の決定を受け入れることへの期待を対象とする<媒介方法>が成立することによって、「法テクストが、法テクストの改変を通じた法的手続の任意の改変可能性について明示的に言及するようになる法進化段階」(宮台テクスト出自<著者注加入>)として「実定法」を定位するのである。それは「『合理的手続を経由した任意の決定を学習すること』への期待を任意の第三者が共有すること・への予期が社会成員の大半に共有されている、という事態」(宮台テクスト出自<著者注加入>)が存在し、法制度が機能することになる。これが一次ルール(特に承認のルール)の結合として法を捉えるH.L.A.ハートの法思想「ハート・テクストの出自<著者注加入>」と平行関係にあることは、言うまでもない。」
(「法解釈の言語哲学」188ページより)
 大屋の取り上げた宮台の権力論とは、ある意味では威圧される脅威としてそこに立ちはだかり、そのことへの成員間での自覚の共有が「法テクストが、法テクストの改変を通じた法的手続の任意の改変可能性について明示的に言及するようになる法進化段階」を発生させることになる現実を言っている。しかしそのような進化がなされ得るのは、それを法として認可し付き従う成員の共通した行為が必要なのだ。そしてその行為は常に私、あるいは私たちという一個の自己に対する他者の視線とそれによる私あるいは私たちへの評価とか認識を前提する。つまり私という一個の自己にとってあなたは他者である。他者第一号である。しかし私とあなたの信頼はそれ自体で一つの社会であり、それは一個の自己である。しかし私とあなた以外にも多数の私とあなたにとってのあなたになり得る他者が存在する。それが第三者である。このことはもう一人の他者を加えて私とあなたともう一人にとっても同じである。また別の他者が控えている。こうして無限に進行する自己と他者の関係が先述した日本人としての、何々県人とか、云々市民とか地域住民とか、あるサークルのメンバーであるとかの意識の基礎としてある。つまりある全体はその一個の自を別の他に対して宣言するのだ。「これが私たちという一個の自己です。」という風に。
 レヴィナスの著作「全体性と無限」において翻訳(岩波文庫版)をした熊野純彦は次のようにその翻訳の解説で述べている。
「(前略)他者についてはどうだろうか。「他者と私たちとの関係において重要なのは、はたして他者を存在させる」ことなのだろうか。そうレヴィナスは問いかける。ひとが語りかける存在、すなわち他者は、あらかじめその存在において理解され、つぎに対話の相手になるのだろうか。そうではない。他者を理解することと他者に呼びかけることとは一体になっており、不可分な関係ではないはずである。
 他者を「理解」することも、もちろんありうることだろう。とはいえ他者はその理解を踏み越え、他者との「関係をあふれ出して」ゆくのではないだろうか。他者を理解するとは、かえって、他者が私のいっさいから逃れ出る存在であることを理解することである。理解された存在は、私の知によって「包摂されてcompris」いる。そうであるとするならば、そうした包摂の対象となりえないもの、それだからこそすぐれている「対話」の相手となる者をこそ、ひとは他者と呼ぶのである。」(「全体性と無限」下、解説330ページより)
 この考え方はレヴィナス当人の思想に由来する。例えば次の箇所である。
「ことばを語ることは視覚を拒絶する。ことばを語る者は自己についてイメージ以外のものを手わたすことができないとはいっても、語る者はじぶんが語ることばに人格として現前し、みずからが残すイメージのすべてに対して絶対的に外部的であるからである。ことばにあって外部性が遂行され展開されて、力をふるう。ことばを語る者はみずからの現出に居合わせるけれども、聞き手が獲得した結果として保持しようとする意味に適合することがない。ことばを語る者は、そうしなければ、語ることばによるこの現前が聴きとる者の意味付与(Singebung)に還元されてしまうかのように、語りという関係そのものの外部にありつづける。ことばとは、意味作用が意味付与を不断に乗り越えてゆくことなのである。その大きさが<私>の尺度を踏み越えている、ことばを語る者のこの現前は、私の視覚に吸収されることはない。それでもなお外部性を測ろうとする視覚に対して、適合することなく外部性はあふれ出てゆく。それこそがまさに高さの次元を、外部性の神的な性格をかたちづくるものにほかならない。神的なものは隔たりをたもつ。プラトンが『パイドロス』で設定した区別にしたがうなら、<語り>とは神との語りであって、ひとしい者たちとの語りではない。形而上学とは神とのあいだでかわされるこのようなことばの本質であり、それは存在のかなたにつうじるものなのである。」(「全体性と無限」下、249~250ページより)
 会話が第三者の視点を気にすることではなく、あくまで話者同士の共有空間を発話するためのテリトリーとして自覚しつつ、かつその空間共有の認可同意宣言であるのなら、まさに私とあなたの発言の全ては私とあなたの共有する時間の中でこの共有する空間で、私とあなたが共有する了解事項の確認と、私が知り、あなたが知らない、そしてあなたが知り、私が知らないことを共有の情報とすることにより成立する場であるなら、その意味作用の応報に全ては収斂され、私固有の私の思念やあなた固有のあなたの思念が生起してそれが主人になることはない。それは私があなたと別れてから、またあなたと後日合う時まで、あるいはあなたが私と別れてから、また私と後日合う時までの私一人の時間でのあなたとの会話の想起にこそ起き、あなた一人の時間での私との会話の想起にこそ起きる。それがレヴィナスの言う意味付与である。意味付与とは日常生活上では明らかに過去想起による過去事実の過去化に他ならない。場の共有(時間と空間の確保)とは要するに私を相互に乗り越えることである。そしてそれは再び到来する孤独確保意識の充実時間に向けられた自己‐他者共有の場への同化のことに他ならない。場の共有は良心の発動でもあるし、理性の確認でもあるし、要するに倫理的な行為なのである。
 私は前に人間が倫理的に行動することはそれ自体である程度自然に逆らうことであると言った。(「責任論」)しかしそれは自然を破壊することでは勿論ないし、ただ要するにウリクトの言うように「自然に干渉する」ことに他ならない。しかしその見方も同時に我々を自然全体と切り離して見た時の見方にしか過ぎず、私たちもまた自然の一部であるとも捉えられる。例えばカントは次のように言う。
「(前略)すなわち_「君の格律が自分自身を対象〔目的〕とする場合に、その対象が同時に自然法則と見なされ得るような格律に従って行為せよ」。絶対的に善なる意志の方式とは、実にこのようなものである。」
 要するにカントの言う自然とは自然の一部として人間が生活する上で彼流に言えば神から付与された能力(それは理性的存在者として善意志を発動することなのだが)を全うすることであり、それは自然を傍観し、何もしないことではなく、何かを自然に向けて発すること、なすことでもある。だから自然に逆らうこと(行為の格律として他律に身を委ねることではなく、意志的に他律を踏み越えること)ではなく、自然に拮抗することが理性に自然であるという主張に他ならない。それは自然という観念に対して意志レヴェルのこと、つまり意識的に努力することによって勝ち得るものをこそ意味付与することと、そういう高次のレヴェルに自然状態を置く考えである。それはマックス・ヴェーバーの社会認識にも受け継がれている。一つは「職業としての政治」の責任倫理性、そして彼の名著「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」中、「宗教的要求にもとづく聖徒たちの、「自然の」ままの生活とは異なった特別の生活_これが決定的な点なのだが_もはや世俗の外の修道院ではなくて、世俗とその秩序のただなかで行われることとなった。」という表現によく表されている。自然状態の認識はカントの言う自然法則という謂いに見られるオプシミズムとは異なっているが、その志向の先にあるものは共通している。
 しかしここで問題となってきた自然という概念について少し考えてみることにしよう。
「古代人の自然の考え方はわれわれのものとは異なる。われわれは自然を、人間による利用や居住によっていまだ汚されていない領域のようなもの、地上の未開部分の総称と考えがちである。このような考え方の兆候は古典文学のあちこちに見られるが、それは一般的な考え方ではなく、そうした考えに対する呼称もなかった。そのころの「自然」(nature)ということばは、「人間性」(human nature)という言い回しのなかで現在も使われているような意味、つまり、あるものの性質、何かになろうと何かをするという生まれつきの性向の意味があった。魚は泳ぎ鳥は飛ぶ、石は落ちるし炎は燃え上がり、種は芽を出すがそれは、そうするのが自然だからだ。古代ローマ人が自然(natura)ということばを使うとき、彼らは野生の風景や開発されていない田舎のことではなく、われわれが自然の法則と呼んでいるようなことを語っているのだ。
 古代が自然(natura)が、現代の自然の法則という考えとまったく同じかというとそうでもない。重要な違いのひとつは、自然の法則にはわれわれは従わなければならないが、自然(natura)はある行動を単に駆り立てるだけである。われわれは現代の意味での自然の法則を犯すことはできないが(もしできたとしたら、法則でなくなる)、古代で使われていた意味での自然(natura)の促しは無視することができる。人間はわれわれにとって自然でないことを自由に選ぶことができるが、石や炎、野獣はできない。
 この論理から、人間だけが堕落する能力を備えているということになる。多くの古代哲学者はどんな自然も善であると考えた。(それは中世を経過した時、彼等が後代を見届けたのなら、あるいは世界大戦を見届けたのなら考えを変えていたであろう。<著者注加入>)
 動物は常に彼らにとって自然である行動をしているのに人間はそうでないから、動物はこの点で人間より善良である。しかし、これはあらゆる人間が必然的に邪悪であって動物性が人間性よりも優れているということを意味するのではない。ほかの動物が本質的に人間よりも善良でまともであるという考え方は、基本的に近代の思想だ。その考え方は、古代の獣性崇拝主義と、人間のなかでは自然そのものが腐敗してしまったというキリスト教独特の考えが混合したものなのである。」(「人はなぜ殺すか狩猟仮説と動物観の分明史」マット・カートミル著、内田亮子訳、新曜社刊、70~71ページより)
 カートミルのこの叙述を採用すると、カントは幾分性善説的なオプシミストということになるが、カントは他の箇所でも何度も繰り返しているように、意志的な努力によって勝ち得る権利問題として自然を考えたのだから、それは容易く得られる資質ではない。それは後天的に発現される能力として人間に与えられているのであり、カートミルの言う自然の定義から言えば、自然に逆らったカートミルの謂いに拠れば自然の促しを無視した行為によってなのだ。そこに初めて意図という概念の重要性が浮上してくるのだ。
 人間が意図的に為し得ることには全て責任が人間の側にあるだろう。だから法解釈という側面から言えば、その法執行性において裁定矛盾がきたすことの多い場合、それはまさに法ではないから改善されるべきである。あるいは言語においてもそれが言える。
 デリダは言語の起源に着目し、それが記述されたエクリチュールと乖離している状況を差延と呼んだ。しかしこれは実は言語体系に依拠して人間が言語行為を行っているということから説明が尽く。つまりこういうことだ。我々は今述べたような自然という語彙を使用しながら、その自然という語彙が誘引する様々な意味を自然発生的に(それは自然という語彙を選択し記述した著者である私の使用意図をさえ超えて)連想させる。それはそもそもエクリチュールそのものがそれがなされた瞬間に私の意図を顕現させつつも(させなくても)それを超えた文字上の意味、普遍的な意味体系に組み込まれた現実、あるいはこういってよければ事実となって私の創造した概念記号配列は、それ自体で主張するということだ。これは形を変えた言語記述の持つ創造者の意図とは無縁の普遍的真理というディタッチメントに他ならない。デリダがどのような意図で差延と述べたかのかかわらず、彼の提示した概念が一人歩きするような意味で、ウィトゲンシュタインの私的言語も、クリプキの可能世界も私たちに提示されている。堤示されているという事実、それこそがその提示者の思惑とは無縁に重要なのだ。そして言語を堤示する者の責任とは、そのように文字記号配列そのものが一人歩きすることを容認し、後は解釈者の自由に委ねること、それこそが記述者の責任の取り方であり、意図であるべきだ、ということなのである。

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