Saturday, October 17, 2009

 前作「責任論」(同じブロガーにおいて「死者/記憶/責任」において掲載更新中)では主に人間の活動を支える責任に関して考察したのだが、あまりにも責任という観念の広大さから、色々な分野の例証をし過ぎた傾向もあり、色々心残りだったので、今回行為と意図を中心に見てゆくつもりなのだが、これは形を変えた「責任論2」でもある。行為には意図がつきものだが、意図せざる結果を生むことも多いという意味では行為と意図はそれ自体切り離して考えるべき部分もある。しかし非意図的な結果、あるいは非意図的な行為というものもあるだろう。例えば街でいきなり暴漢に襲われた時に示す行動は非意図的である。しかし意図して失敗することもあるし、意図以上の結果を招くこともある。非意図的な結果を招く場合、そのように意図してそうするよりも責任は軽そうに感じる面もあるが、結果をこそ重んじる場合にはそういう言い訳も通らないこともある。例えば明らかに誰か特定の人を殺す目的である行為を行っても尚、相手が死に至らないこともあるし、逆にある行為を行って何も殺すつもりまではなかったのに、相手が死んでしまうということもあるだろう。そういう場合責任というものの取り方はどうすればよいのだろうか?齎した結果、例えばその死んだ被害者の被害状況からも罪状判断というものは変わってくるのだろう。
 しかし日本人は例えばよい行いをその人間の性格的な寛大さとか気前よさとかから履行することを好み(要するに性善的な行い好み)、逆にカントが提唱したそういう性格的な自然判断よりも、義務的意識的判断を優越したものと看做したそういう考え自体にある種の抵抗を感じざるを得ないであろう。そして日本人にとって「心から」ということは、どこかその人間の人のよさから発していることを重要視するとことがありはしまいか?その点では法治国家としての体裁を整えてはいるが日本は未だ人治国家であるかも知れない(そのような指摘は井沢元彦氏も以前どこかでしていた)。
 しかしでは西欧ではどういうことが考えられているかと言うと、例えば論理学一つとっても、そこに見られるのは明らかに神という視点、そして神に唯一の知性的存在者、精神的存在者として認可された人間という考えが厳然と背後には息衝いている。
 西欧哲学には幾つかの流れがあるが、一つは論理学の系譜、もう一つは哲学史的な文献学、系譜学的な哲学の二つがずっと存在し続けてきたと思われる。(他にもトマス・アクイナス等の形而上学があるが、それは西欧全体の精神性に大きく影を投げかけているが、私は著述手法に着目して今捉えているのだ。)前者の存在としてはゼノン、アリストテレス、ヒューム、フレーゲ、ラッセル、カルナップ、エイヤー、クリプキといった人たちのことである。そしてもう一つの流れでは、ホッブス、ルソー、ヘーゲル、ニーチェ、デリダ、ロールズ、ネーゲルといった人たちである。プラトン、ロック、デカルト、カント、フッサール、ウィトゲンシュタイン、ハイデッガーといった人たちはその二つの中間を行き、その偉大さで群を抜いていると言える。
 例えば論理学主体の考え方に対してニーチェは、彼等が考える客観は、やはり自分が批判する西欧形而上学の基本的スタンスである自我によって構成されたものにしか過ぎまい、という観念があるだろう。彼は「「自我」_このものは、私たちの本質の統一的な管理と同一のものではない!_まことにそれは一つの概念的な綜合にすぎない。_それゆえ、「利己主義」からの行為など全然ない。」(「権力への意志」(371)より)と言っているが、それは当然のことながら論理実証主義者たちによって引き継がれてきている系譜に対しても突き付けられる。例えばその系譜上の代表的存在であるA・J・エイヤーは次のように「言語・真理・論理」で述べている。
「バークレイが≪物質的事物はその感覚は知覚されずには存在しない≫として理由は、手短のいえば次の通りである。彼は≪事物はその感覚される諸性質の総和にすぎない≫こと、第二に≪感覚されうる性質が感覚されずに存在すると確信すると確言することは自己矛盾である≫ことを主張した。これ等の前提から≪自己矛盾を来すことなしには<事物が知覚されずに存在する>ということは出来ない≫という結論が出て来る。しかし彼は≪事物は、如何なる人間もそれを知覚していない時にも存在する≫という常識的な仮定は確かに自己矛盾的ではないことをみとめたし、また実際自分自身その仮定が真であると信じていたものだから、≪事物は、それがなお神に知覚される限りにおいては、如何なる人間によっても知覚されない時も存在しうる≫とみとめたのである。そうして≪自分の学説を<事物は如何なる人間もそれを知覚していない時にも存在する>ことは非常に確からしいという事実を調和させるためには、自分は神の知覚をたよりにしなくてはならない≫というこの事情を彼は、人格神の存在の証明を構成するものとみなしたようにみえる。しかし本当のところ、この事情はバークレイの推理にあやまりがあったことを証明しているのである。何故ならば、物質的事物の存在を確言している命題は、議論の余地なく、事実的な意味を持っているものである故、超越的な神の知覚のような形而上学的本体を用いてそれを分析しようというのは、正確なことではありえないからである。」
 エイヤーが神の知覚と呼ぶ事態とは、明らかに神による全知全能の視点ということである。そしてそれを認める限りでの人間の視点は神に次ぐものである、という常識にエイヤーは立ち向かおうとしているのがこのテクストであると言える。しかしそのように立ち向かうという意識には当の批判対象に幾分拘泥している、という面も必ずあるものである。だからそれが例えば今例証したことから言えば、エイヤーの存在意義であり且つ限界でもあろう。そしてその意味では本テクストも大いに存在意義を持ちたいと願いつつも自ずと限界もあることだろう。そしてその限界がまた私を次のテクストへと向かわしめるのだ。
 私は前作で示した図式の内、意識‐欲望=感情(情動)の中間に位置することになる行為は、その上部に控えている責任と抱き合わせとなっていると考える。そしてもしニーチェやエイヤー等の立場を超えた態度の積み重ねから真に我々が神から自由になった時代の人間として行為を考えるなら、神からの恩寵であるとされる人間的資質と、それに依拠することなく、意志的に決定される合理的判断というものに、責任はあるだろうという考えが前作の基本的なスタンスであった。しかし行為には責任を含有したものと、全くそうではないものとの間に様々な階層があることも確かである。そしてマックス・ヴェーバーが悪魔と契約した政治家の姿勢に関しての定義において、我々はよい結果を出すためには嘘もつくことがあり、また嘘も方便であるとして生活しているし、絶対嘘をついてはいけないとされる場面でも嘘は大いに活用されてきたということは歴史が証明しているのだ。
 この論考では我々は責任ある行動、行為に内在する嘘のないケース、嘘によって命脈を保たれているケース、責任のない行動に内在する嘘のないケース、嘘によって命脈を保っているかのように一見見えるケースなどを例証して考えることが主たるスタイルとなるであろう。

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