Friday, October 23, 2009

第四章 二つの自然

 自然という言葉には二つの意味を人間が与えてきたことが前章で明確化した。本章ではそのことについて考えてみたい。そしてそれは人間による意図的なことを自然とするカント的自然を思惟の自然、そして非意図的な自然な流れというような自然を生理的自然と呼ぼう。何故生理的と言うかというと、それは人間にとって非意図的であるからである。自然の自然と呼んだ方がいい場合もあるが、そこには人間は存在していないというニュアンスが伝わるので生理的自然という風にする。
 さて人間が思惟の自然と言う時、どこかで理想値を設定している。そもそも理想という概念は人類が平穏な時期を迎えることのない切迫感溢れる状況下で、思惟したものかも知れないし、あるいはある程度窮状を克服し得た瞬間に見出したのかも知れない。ともあれ、思惟の自然は理性的判断(雨が突如降り出したら何処かで雨宿りをしようという意志決定をするようなこと)と言ってよいだろう。そしてそれは往々にしてそのようにいつも巧くゆくとは限らないという思念が背景にはある。
 哲学者のウリクトは行動を目的性に関して二つに分類して捉えている。一つは合目的(purposeful)、もう一つは有目的(purposive)である。前者はある系に特有の機能を遂行するという意味で使われており、後者は目標と意図的に目指すという意味で使われている。この捉え方を採用すると生理的自然とは前者で、思惟の自然は後者であると捉えられる。しかしカントが言った意志的であることはその場、その時の臨機応変な判断力のことだけではない筈だ。それは寧ろ善という行為体系を別枠でなすもう一つの価値システム論による自然であり、ただ個体に利益を運ぶという面の判断ではない。実存主義に多大な影響を受けた哲学者エマニュエル・レヴィナスは存在論から倫理への問いへと価値を転換しようとした。それは行動を個体利益に結びつける短絡的なことから利他的な判断をも含む倫理性へと至上命題を転換しようとした意味ではカント的善体系、価値システム論であると言える。
 理論神経生理学者のウィリアム・カルヴィンはある知覚判断(今向こうから何かが飛んできて、それがボールだ、と判断し得るようなこと)を幾つかの脳内の発火パターン(それを彼は時空パターンのクローンを作るコピー競争と言っている)そしてそれが石なのかりんごなのかボールなのかを一瞬で判断しているということとなる。つまり何かが飛んできたその場所が運動場であるならボールという可能性が高いし、山の中にある渓谷であるなら鳥かも知れないとまず思うだろうし、また野菜市場なら何か果物か野菜であると判断するだろう。しかし野菜市場にも野球チームを持っている職員もいるから、自分がそのチームのメンバーならボールかも知れないと思う。そしてそれらの幾つかがコピー競争をして一番相応しいものに収斂されてゆく。このことを彼は収束的思考と呼んでいる。しかし例えばカルヴィンも指摘しているが、動物の行動の多くはそのような判断を選択的になしているわけではない。既に何世代にもよる進化によってある程度決定されたパターンを踏襲しているに過ぎない。そしてそういう意味では人間も歩く時の足を前に出すし仕方とかそんなレヴェルでは一々考えて選択しているわけではなく、その意味では生理的自然を踏襲しているに過ぎないであろう。勿論最初は歩くことだって学習しているわけだが、既に獲得された能力の行使とは全てそういうことである。すると我々はカルヴィン言うところのコピー競争という熾烈な脳内での発火競争というものは、ある程度思惟の自然としての能力行使によってのみ使用されることになる。そして善体系としての価値システム論を曲がりなりにも所有しているということ、つまり生理的自然のみではなく、思惟の自然を能力として行使する比重の大きさこそ高等知的生命であるか否かの境目であることになる。そしてこれは合目的的な意味では生理的自然を行使する全ての動物に該当するが、有目的意味では高等知性動物にしか可能ではない。そして善体系という価値システム論においては、その中での分析的判断というものがあり、それは合目的的であり、臨機応変な判断は有目的的である。そして意図的であるということは後者においては日常的に捉えられ(生活の智慧的レヴェル)、前者に関しては人生目的的であるので、意図的であってもより高次の考え、要するに生活信条とか人生の理想とか目的という面での信念と言っても差し支えないだろう。
 記憶の面からそれらのことを考えてみよう。ご存知の通り人間にも長期記憶(場所、意味、エピソード)等の記憶と短期記憶(その場その時に応じた)がある。そして短期記憶とは取り敢えず室内の配置をして文筆家が辞書はどこに置いてあるかということである。しかし部屋の配置換えをしたら、それまで本棚をはじめとする書斎の様相は全て位置から何かまで変わるので、以前の辞書の置かれた場所に関する記憶は取り敢えず必要なくなる。
 尤も意外と長く同じ場所にあったのなら一々全部そういうことは覚えているものである。しかし短期的に色々な場所に仕事に出掛け、その場その時に対応して仕事をする者にとっては、そのような短期で終了する仕事上での細かい事項は忘却するリストで処理されてゆくだろう。そういう意味では記憶とはその人間の長期短期を巡る認識必要事項の内容如何で幾らでも変化するものである。
 さて意図的であることはカント的善体系という価値システムにおいては、長期的な記憶事項は人生全般に関わるが、短期的な記憶事項は生活上の必要性から要求される能力である。例えば大切な友人の存在は長期的な記憶事項に属するから、それは人生全般の人間の意志、例えば「あの男は自分にとって大切な友人だからいつまでも大事にしよう。」という意志は短期的な意図とは違う。人生全般を左右する意志であり、ある程度獲得された理想値(その人間個人にとっての)であり、それは変えたくはない信念のようなものであると言えよう。しかし同時に短期的な必要に迫られてその場その時必要なものもまたある意味では絶対的に大切なものである。そういう積み重ねが長期的人生の展望を獲得することに繋がるからである。そして意図というと、そういう短期的なことの方により日常生活では活用されることは確かだろう。それは思惟の自然においても、大切な友人が固定化されたものであると比すれば、流動的(例えば今まである店で野菜を買っていたが、別の場所に新しいいい店が出来てそちらの方が野菜が新鮮でかつ安いから今度からあそこで買おうというような意志決定を誘引するような意味で)、可変的である。状況判断的な意図である。
 つまり思惟の自然における最も自然な心的活動としての意図においては、固定化された信念と状況即応型の判断の二種があるということになる。しかしこのようなことは幾分相互に入れ替わることがあるだろう。例えば長期固定化された記憶における非選択性の信念は、あるものは(それは事物対応的な信念である場合が多いが)生理的自然の判断になることもあれば、思惟の自然の意図でも短期的な必要に回されるものもあるだろう。

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