Saturday, October 17, 2009

第一章 理想値へのパラメーター・セッティング

 我々の社会では全ての成員は各自の特殊意志によって勝手に行動しているわけではない。そこでは全ての行為にある秩序が伴われている。どこにでも用を足していいわけではないし、どこに寝てもいいわけではないし、どこを歩いてもいいわけではないし、どこで休んでいいわけでもない。あるいはどこで食べてもいいわけではないし、要するに全ての行動はTPOによって随時判断しなければならない。そしてその基準は時代毎、地域毎にも異なる。私はそういった社会の約束事を前提に、法体系を遵守しながら、行為をし(それは成員の権利であると同時に義務履行でもある)生活することそれ自体を社会ゲームと呼ぶ。
 社会ゲームにはその時代毎に、地域毎に全体的な社会の目指す方向性があり、その方向性に対してその時代毎の、地域毎の理想値を設定する。国家とか民族共同体(言語共同体)には独自の時代的要請がある。それは他国、他民族共同体との相関的な立場から派生するものである。そして勿論その理想値は母国語によって考えられ、設定される。
 また当然のことながら、社会ゲームにおいては職業毎の理想値の内容は異なるし、その基準値も異なるであろう。また地域毎の理想値は、その固有の地域的事情から国家とか民族共同体全体の理想値とも異なってくるのは当然のことであろう。
 さてこの章で問題にするのは、その設定値に対して全ての成員がある「構え」を構成すること、ある「備え」を構成することそのものである。それを私は一個の遡及的因果関係と捉えたいのである。つまり各成員は成員全体が構成する同意事項(それを今後全体者と呼ぼう。)に対してパラメーター・セッティングするのである。パラメーター・セッティングとはあるどのような状況にも対応してゆけるように能力を付与されている存在者が、特定の状況や固有の事情においてその状況や事情(例えば言語であれば日本では日本語しか通じないという)に適合させ自己をその特定の状況や事情に合わせて巧く対応してゆくことを言う。
 全ての成員の同意事項として典型的なものは法である。そしてその時代毎の、地域毎の固有の同意事項とは各職務に対して求められる理想値である。例えば今日の公務員には、官僚には、政治家には、企業家には、起業家には、サラリーマンには、主婦には、評論家には、作家には、自営業者には、自由業者には、というように、暗黙の社会全体からの要請に受け答えるべく理想値が自然と定まってくる。この定まる事態そのものも社会全体への理想値設定に関する職務毎のパラメーター・セッティングであると言える。だから個々の職務においてはそれが公務であろうと、私企業や自由業の職務であろうとも、全て理想値が設定されてゆくという意味では同一の状況下にあると言ってよい。そしてその中で各成員は理想値に少しでも近づけられるように努力するのだ。要するに目標達成に勤しむのである。ここで社会ゲームにおいて二つの歴然とした事実が認められる。

①理想値を設定する。(目標設定)
②理想値に近付ける。(目標努力)

 ここで問題となってくるのは、各職務においては個々に固有の理想値に近いことが業務上の職務上の責務、義務という観点からは理想であるが、その理想及び理想値の所在(相対的社会認識において他の多くの価値観の中から敢えてそれを選択することの必然性を支える社会的要請によって自ずと決定される至上命題の内容)とは、隣接する領域の職務とも異なるわけだし、全く異なった世界の何らかの職務とも共通性があるわけなのだし、要するに「同」と「異」とが常に関わっている。要するに理想値の所在とは、全成員のパラメーター・セッティングによって、ある「構え」、あるいはある「備え」を作る。それが安易な通念となればステレオタイプ化してくるが、事実プロの世界ではどの局面からも、固有の理想値は内部からも外部からも要請されてくる。要するに我々は社会人として社会ゲームとしての個々の領域での段取りをし、各個別の段取りを見守っているのである。その段取りに従って各成員は固有の任務に取り組み、その職務遂行の理想値に対する距離の短さ、あるいは超過分が評定上の好ましさの基準となる。要するに勤務評定基準、報奨対象となるのである。その際その奉仕的内容と分量が報奨対象となるのであって、個人的な人間性ではない。しかしある理想値において超過をきたすと、その理想値に関しては評価されるが、別の理想値においてはその業務内容と業務量は距離が隔たることになる。
 ここでもう一つの定義をしておこう。

③理想値とは予め設定された結果である。
④理想値目標達成が責任遂行の称賛に値する行為である。
⑤しかし同時にある理想値の達成は別の理想値からの隔たりを意味する。

 つまり私たちは社会ゲームにおいて、理想値という結果を予め設定し、その結果へと向かって、逆に原因を作り(どのようにしたら、よい結果に結びつくことが出来るかを考える)プロセスを踏襲するわけである。社会ゲームにおいては全ての目標値は、理想値であり、押し並べて予め与えられた結果である。そしてその結果に合わせて全ての行動がパラメーター・セッティングされる。例えば自然科学での実験とは全てこれに該当する。つまりある仮説という結果に対して「そういう結果になるにはどうしたらよいか」という観点から実験内容が考案され、立証される。しかしいくら趣向を変えて実験しても、仮説が立証され得なければ、その仮説が間違っているとして別の仮説が立てられるわけである。
 期待値というものが仮説に対して与えられるが、それはある仮説が正しいとしたら、その仮説に沿った最も順当な値とはどのようなものであるか、というパラメーター・セッティングによって期待値とは定まってくる。しかしその段階では未だ仮設は証明されていないので、仮説を立証するために実験が行われなくてはならない。そしてもしあらゆる実験結果が期待値に近付けば、その仮説は正しかったということになる。

 理想値を得ることと、それに立ち向かうことは責務的な邁進を形作るから意図的である。意図的行為としてのみ職務は本来位置付けられる。しかし職業においても、それは決して遊びではないものの、いい意味での「遊び」が必要なのだ。それはどういうことなのだろう。ある行為を外部からの強制であると感じて行うのと、そうではなく主体的に行うのとでは、本質的に行為が成果に直結した部分では差が出てくるのだ。成果とはただ設定された理想値に対して従属するだけのものではない。理想値はあくまで便宜上のものであり、最低限としての標準値としての理想値はあるのだが、それ以外の多くの余剰に、理想を理想として認識され得る余地があるのである。要するにどんなに厳しい職務でも、それを楽しんでするのと、仕方なくしたのとでは結果には違いが出て来るのである。勿論苦しんで行為することもある。しかし同時に苦しむことを嫌がることからはいい結果は生まれないし、苦しみながらも一方でその苦しみ自体を楽しむ心の余裕も大切である、ということである。そのように楽しむことも出来るということはある種の適応力、対応能力を意味する。つまりそれもまたパラメーター・セッティングの一つであるということである。

 また本章で私の考え方をはっきりさせておこうと思うのだが、それは言語獲得をした人間の、あるいは幼児が言語習得する際の、あるいはただ単に大人がかつては自分もそうしたのだが、いつしか忘れ去ってしまったことについてのことである。
 基本的に意味とは言語が作るものではない、というのが私の確信である。つまり言語活動とは意味把握する主体(人間)によって言語を駆使しているのであって、その逆(つまり言語自体が人間を駆使しているということ)ではないということである。一頃記号学的解釈の下そのような学説も流行ったこともあったが、それは間違っているということである。確かにメタ言語とか高次の言語活動というものはあり得るが、これらは全て基本的な意味把握という生物学的前提において行われているに過ぎないことなのだ。つまり意味把握とは全ての言語使用者としての成員が個的にある普遍的思念に対してなす内的理解であり、その内的理解を意味的な長期記憶とその都度のワーキング・メモリーを使用することを通して顕現させ、そしてそういう前提の下でメタ言語活動、高次の言語使用、叙述、記述、発話を行い得るのであり、その逆では決してないということである。ただ私たちの言語活動においては、メタ言語、高次言語認識の方が大人社会では、あるいはビジネス社会、専門的業界では主流を占めている。しかしそれらも基本的な人間の意味把握と、長期意味記憶の引き出しを通して常に全速力で高次活動へと赴いているだけのことなのだ。そしてここでもまたパラメーター・セッティングが登場する。
 幼児は辛いということがどういうことか知っている。しかし勿論最初はそれを「つ・ら・い」と他者に伝える術を、つまり音声的語彙伝達方法を知らない。それがある時それを「つらい」と言えるようになる。自分の内的感情を「つらい」という意味に置き換えることを学習するのだ。この置き換え、つまり日本人であるなら「辛い」という語彙を音声的に顕現させることで当の感情を伝えることをするようになる。これが意味の獲得である。つまり意味は内的感情に対する理解と把握を語彙という規則に当て嵌める時に発生する。アメリカ人とかイギリス人ならIt’s hardとか、I’m not fine.とか言うのである。
 この日本人なら日本語を、アメリカ人なら英語で内的感情把握を他者に伝える術を身に付けてゆくことそのものもまたパラメーター・セッティングなのである。
 
 さて意味とは何かということについて考えてみよう。何故そういうことが今必要であるかと言うと、意味把握という事態こそが発話意図、そして集団内での、あるいは社会全体での理想値というものへと向けて意図的に人間が行為を行う際の重要な動機付けとなると思われるからである。
 古都とか城下町とかで盛んな伝統工芸とか老舗旅館とか各種伝統的な営業活動において、その特殊な技術、文化、あるいはそれ等全てを網羅する精神、世界観、認識力といったものを継承することを旨とする人々にとって一人の職人、職業人にとって三十年という年月は「未だ」であり、「弱冠」であり、「ほんの」三十年であろう。これが自然科学における常識となると(哲学ではそこまで流動的ではないが、思想潮流という意味ではかなり三十年という年月は長い。)三十年とはかなり長く、それくらい過去と言えば大昔である。
 そういう意味では三十年という誰が経験するとしても同じ長さのこの年月は決して精神的には同一ではない。勿論科学者にとってとか職人にとってとかで言うところの職業的認識という共通コードとしてではなく、もっと個人的な人生のレヴェルから言っても、この年月を表す数名詞の意味は全く異なる。発話すること、記述すること、内的な思念をすることに関しても、何に関しての三十年であるかということがその意味を大幅に変える。つまり意味とは特殊なケースとして予め限定されたものほど固定化されており、低次の単純表現によって示されたものほど流動的である、ということが了解されよう。しかし単純な表現、単純な概念がある特定の集団(家族も含む。)において使用される場合、それはその集団内での了解事項、その集団内での同意事項にやはり使用者はパラメーター・セッティングしているのであり、それは決して私的な言語使用ではないのである。

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