Monday, October 19, 2009

第二章 言語と責任

 リチャード・ロジャースとオスカー・ハマーシュタインの作詞・作曲の映画「サウンド・オブ・ミュージック」の映画主題歌の一つ、Favorite thingは、家族の愛情、そしてその家族にとって日常的な親しみの持てるものを表現している。その歌で歌われた世界は、紛れもなく平和な家庭、つまり近代以降の市民生活によって保証された家族であり、扶養者から見れば責任ある態度、慎み、品格を求められるものである。まさに暖炉、食卓、音楽や美しい風景画とか静物画が飾られた応接間での語らい、そういう世界とは、実は多くの宗教的な闘争、戦争といった流血によって得られた成果である。あの映画ではその後にその平和に脅威が降り懸かることを描いていたが、まさに責任というものがあるとすれば、その時代とその時代に生きる人間の状況に支配される。
 さて前作「責任論」(同じブロガーにて「死者/記憶/責任」において掲載更新中)において私は「責任は善悪の判断に先行する」と述べた。そして善悪とはある集団の利害によって成立した責任と、もっと大きな人類に対する見知らぬ他者に対して向けられた良心といった現実を認識した後に立ち現れる倫理的な問題である。
 良心と人類に向けられた責任において初めて倫理は問題とされる。しかしある同一の目的において結束した集団(エゴイスティックな家族、親族、あるいはテロリスト集団、組織、あるいは現代社会のあらゆる利権団体、法人組織、会社といったもの全般)内においても尚責任は厳然と存在する。それらは決して人類全体へと向けられたものではない。
 つまり特定の時代に左右される責任は、人類全体に向けられており、逆にある特定の地域、集団に向けられる責任は倫理以前に利害が絡む。そこには例えば東京都民にとっての秋田県民とか、ある特定の自動車メーカーにとって別の自動車メーカーの利害は何の責任の範疇にはない。
 だからこの二つの責任は必然的に性質を異にする。さて言語活動においては、この二つの責任(前者をマクロ的責任、後者をミクロ的責任と呼ぼう。)に関してそれぞれ言語行為に対して異なった様相を与えるだろう。そして前者の責任においては後者の責任は等閑にされ、後者の責任においては前者の責任は等閑にされることが通常である。ではそのどちらの責任も担わないような無責任な言語行為というものもあるだろう。例えば友人関係にある人間間での発話とか、家族内の団欒の会話等であろう。この三つの異なった責任付帯様相における言語行為における発話言辞、発話陳述内容の命題論的な考察と、真理条件について考えてみようと思う。
 言語において説明責任として論理というものが求められる。しかし言語は論理以前のものである。論理的な言語が求められるとしたら、それは論理外的な言語行為が日常的には親しい者同士の無責任な会話に多く登場する。つまり論理は発生論的に言えば、言語獲得以後の要するに後発組なのである。だから論理的な枠組みとか秩序が言語を通して求められる場合我々は要するに論理というものが、言語の個々の約束事によって形成させられてきたということに気付くのである(尤も論理自体も、実は言語習得以前的な原型はあるのかも知れない。しかし少なくとも言語習得によって論理認識が完成していくということだけは言えるだろう)。
 論理外ということは非論理的というのとも幾分違う。非論理には論理に対抗するような趣があるが、論理外ということは論理を発生させる背景そのもの、場そのものをもう一度我々に見直させるようなものである。私は人類の言語獲得は、攻撃的欲求に対する良心の側の抑制力発動を責任という外的な存在者同士の暗黙の連帯と、見知らぬ他者に対する配慮という意識の発生に伴ってなされた、と考える。その意味では私は完全なる理性論者である。つまり知性は理性に支えられて論理やその他のものを産出してきたのだ。
 前作「責任論」では最後にカントを取り上げたが、私はカントが幾分近代意識と、近代人の獲得した権利問題としてだけではなく、人類の起源的な資質として善意志を捉えようとしていると述べたが、特にその理由については述べなかった。そこでそのことについて論理と論理外の関係を論じる中で触れてみようと思う。
 「(前略)或るものが目的自体であり得るための唯一の条件をなすものは、単なる相対的価値すなわち価格をもつものではなくて、内的価値すなわち尊敬を具えているのである。」
(「道徳形而上学原論」篠田英雄訳、岩波文庫116ページより)
 あるいは、
「根原的存在者〔神〕は、自然に普遍的法則を与える立法的な知的存在者であるのみならず、また道徳的な『目的の国』における立法的元首でもある」(「判断力批判」・413)
 とも述べている。カントは神を否定しはせず、それどころか極めて峻厳なものとして神を扱っているも、私は前作において彼が宗教的な意味合いからのみ、つまり信仰心からのみ神を扱っているのではない、と述べたが、それはつまり彼が人類が神というものを設定した、つまり完全なるものの支配という観念を生じさせたという事実において、それを否定しない、という意味からなのである。つまり私は人類が他の動物と異なって文明を築きあげたのを自分にない能力への嫉妬とその能力に匹敵した力を得たいと願望する意志によるものと「死者と瞑想」(同じブロガーにて「死者/記憶/責任」において記載)で捉えたが、実は私はそれだけではなく、前作「責任論」で述べたことでもあるのだが、良心とも密接な感謝の念が非常に重要な駆動力として作用した、とも考えているのだ。鳥のように高く飛びたいと願う気持ちは、知的好奇心を発動させる。それが人類が科学を文明を築くために発展させたことの起源であろう。しかしそれと同時に知的好奇心とか理解を得たいということの責任としての科学を有用化させるために、あるいは平和利用するためには感謝の念が要求される。自然の恵みそのものに対する感謝の念が、外部自然ばかりではなく内的な精神的充足というカントが言う道徳的な目的の国という理想をも神が司るという考えを生む。つまり人類はある日目的意識を生じさせたのだ。その時完璧な自然や我々への支配という観念を生じさせ、それが神という観念となって結実したのだ。だから神が人間のような姿をしていようが、スピノザ的に自然そのものであれ、その実体論そのものは恐らくカントにとってはあまり重要ではなったであろう、と思う。つまり彼は人類が起源論的に、そのような自然の恵み、つまり内的理解とか知的好奇心とか自体を齎した大自然の霊力そのものを彼は感謝の念として神という観念に代表させたのだ。その意味では理論物理学者で生物物理学者のシュレーディンガーの哲学的倫理にもカントと全く共通したものがある。ここで一つ定義しておこう。神という概念に代表される自然へに尊崇それ自体は実は我々の日々の行動や選択の中から決して感謝の念を忘れるべからずという道徳律から引き出されていることなのである。そして感謝の念とは神という謂いを通して我々が目に見える形で感謝の念を表す、つまり言語行為それ自体の中に神への感謝を位置付けようとする自然の一部である我々自身に対する、与えられた能力への責任そのものなのだ。だがこの章の始めに示したように人類は時としてそのことを忘れ同類同士で争い、血生臭い殺戮も繰り返してきたのだ。その歴史的な教訓から学ぶべきことは自然の恵み自体への感謝が我々の存在自体に対する責任である、とそれを言語で明示する必要性を銘記するということなのだ。それはそのような言語行為として常に念頭に入れておかなければ我々は直ぐにそのことを忘れがちである、ということをも意味している。
 だから神がいるのかいないのか、という問いは、感謝の念を忘れないようにしようという自覚の前ではそれほど大した設問ではないのだ、という主張をカントに私は読み取る。そしてそのような主張はカントだけの専売特許ではなく、先に挙げたシュレーディンガーにも該当する。そこでシュレーディンガーをはじめ何人かの先達の考えをここで改めて言語と責任という題目から考えてみようと思う。まずシュレーディンガーである。
「この現実世界のどこを捜しても、複数の意識を見ることの出来る世界などありえない。つまりこのように複数の意識という考えは、個々人の<空間的時間的な>多様性に基づいていて、たんにわれわれが構成したものにすぎない。だが実際のところ、このような複数の意識の構成[という考え]は、誤ったものである。複数の意識の構成を認めようとするがゆえに、すべての哲学は、理論的には拒絶することのできない、バークレーの観念論の無条件な承認と、現実世界の理論における観念論の無益さとの間の、絶望的な矛盾にくり返し陥ってしまうのである。この矛盾に対する唯一の回答は、われわれにとって有効な、ウパニシャド哲学の古代の叡智のなかにある。」(「わが世界観」ちくま学芸文庫、114~115ページより)
「(前略)バークリーの観念論はこの認識で満足しており、それなりに首尾一貫した矛盾のないものではある。私自身の肉体と同じ構造をした他の諸々の肉体を観察することによって、この観念論を乗り越えることができる。これらの肉体は、まわりの環境や他の肉体、さらには私の肉体と、物理的にはまったく同じ相互作用をする。この相互作用は、私の肉体がまわりの環境やこれらの肉体に対してする相互作用と同一のものである。この観察に関連した以下のような仮説によっても、この観念論は乗り越えることができる。それはすなわち、このような物理的現象は感覚と結びついており、この感覚は、その現象が私の肉体に影響を与えたときに喚起される感覚と同一のもであるという仮説である。「きみのように向こうに座っている者がいる。彼も君と同じように、ものを考えたり感じたりしている」。さてそのあとをいかに続けるかが肝要である。すなわち「向こうに自我(Ich)があり、それも私(Ich)なのである」と続けるか、それとも「向こうにもう一つの自我(Ein Ich)があり、それは君の自我と同じような第二の自我である」と続けるかの、いずれかである。以上の二つの見解を区別するものは、「一つの(Ein)」という単語、つまり不定冠詞のみである。この語が「自我」を普通名詞に格下げしている。なによりもこの「一つの(Ein)」という語が、観念論との訣別を修復不可能にし、世界をさまざまな亡霊で満たし、そしてわれわれを救いようのないアニミズムの腕のなかへと追い込むのである。」(同書、
119~120ページより)
 言語やその規則によって齎された論理性とか論理構築性によって今挙げたシュレーディンガーの言うような自我対自我の関係性を理解することは不可能ではないだろうか?意識は各個別において唯一のものである。それは一卵性双生児のよう遺伝子レヴェルで相同でも、仮に私のクローンが私の隣にいて尚、私と私のクローンは別人である。もし我々が神なる人間が考えた我々を生み出した霊力そのものへと感謝の念を忘れずにいるべし、という主張をここに見出すことは然程困難ではない。
 しかしニーチェになると、極めてシニカルとなる。
「234 良心の呵責とは、性格が実行に匹敵していないことの徴候。善行ののちにも良心の呵責はある。すなわちそれが異常なものであり、古い環境からは抜きんでているからである。」(「権力への意志」上、ちくま学芸文庫、236ページより)
 この言においてニーチェが示したことは前半はカント的な善意志と行動の性格との齟齬であるが、彼固有の言辞は後半部分である古い環境とは制度的な社会道徳といったものであろう。つまり近代国家の押し着せたものとは、キリスト教的な善悪の判断であり、市民社会のモラルである。しかニーチェはもっと人類にとって起源的なものを見据えているのだ。そしてそれを彼の生きた時代の現代人の中に読み取っているのである。
「257(前略)真理は残酷である。われわれは、これまであらゆる高度な文化がどのように地上にはじまったか、を容赦をすることなく言おう!なお自然のままの本性をもつ人間、およそ言葉の怖るべき意味における野蛮人、なお挫かれざる意志と権力欲を有している略奪的人間が、より弱い、より都雅な、より平和な、恐らく商業や牧畜を営んでいた人種に、或いは、いましもその最後の生命力が精神と頽廃との輝かしい花火となって燃え尽きんとしていた古い軟熟した文化に襲いかかったのだ。貴族階級は当初には常に野蛮人階級であった。その超越性は最初は物的な力のうちにあったのではなく、むしろ心的な力のうちにあった。_彼らはより全き人間であったのだ(このことはあらゆる段階において「より全き野獣」でもあった、というのと同じ意味である_)。」
 人間の攻撃的欲求を余すところなく表現した言であるが、ヨーロッパ社会のエスタブリッシュメントに対して痛烈な皮肉であると同時に、ベンヤミンがパリを現代都市像(遊歩道や建物、装飾品、家具等のモードを痛烈に皮肉った「パサージュ論」において示した。)を人間の欲望を表象した例として扱った精神を先取りしている。

 ところで第一章でも述べたことなのだが、人間が社会生活を営む上で原因があり、結果を齎すという自然状態という事態は極めて少ない。例えば不測の事態としての事故とかの類くらいのものである。経済指数、目標値、全ての業務は結果を予め想定して、それに向けて営まれる。それは教育のレヴェルでもそうである。我々の学校時代を思い出してもそうなのだが、教育は意味を教え然る後に記憶させるようなものではない。まず暗記させて、それを記憶事項としていつでも引き出せるようにして意味は後からついてくる、あるいは理解出来る時を待つ遣り方である。例えば九九がそうであるし、英単語とか英熟語、慣用句(イディオム)がそうであるし、宗教テクスト、例えば聖書がそうであるし、土佐日記、方丈記、平家物語や徒然草といった文学テクストの有名な序文や有名な節の暗誦は、まず闇雲に覚え、然る後に意味を習熟するような類のものだ。そういう意味では我々の日住生活ではあらゆる慣用のシステムの全て(パソコンの使用の仕方、携帯電話の使用の仕方)そのいずれを取っても、原因があって、然る後に結果が付いて廻ることよりも、まず遣り方をつかんで、然る後にそれを役立てることの方が多い。何とか苦労して最後にやっといい遣り方を掴むという事態は、恐らく開発業者とか研究者とかの業務内容において必要な苦労であり、私たちが通常本や小説を読むこともまた、殆どが結果が既に示されていて、それを摂取することであり、情報を摂取することも結果は既に判明していることである。自転車の乗り方を両親から教わる、あるいは何か便利な方法を他者から教わる。これら一切はプロセスを踏んで然る後にいい結果を出す自分の仕事を捗らせるために全て予め遣り方は決まっていて、それを教えあう、情報の遣り取りをするための道具が言語である。
 つまり我々の生活では遡及的因果関係として位置付けられるような方法や道具の方が結果の見えないものよりもずっと多い。だからこそ逆に意志という原因を理由に変えて、いい仕事の結果を出そうと努めるのである。
 例えばニーチェの次の節には今述べたような観念に対しての適切な例としてここに挙げることには意味があるだろう。
「277 畜群における誠実性の道徳。「君は認知されうるものであるべきであり、自分の内心を明瞭不変の目印であらわしているべきである、_さもなければ君は危険である。また、君が悪しきものであるなら、自分を偽装する能力こそ、畜群にとってはいけないものである。私たちは、隠密な、認知しがたい者たちを軽蔑する。_したがって君は、自分自身を認知されうるものとみなさなければならない。身を隠していなければならず、姿を変えうると信じてはならない。」それゆえ、誠実性の要求は、人格は認知されうるものであり、固定したものであるということを前提する。じじつ、畜群の成員が人間の本質に関して特定の信仰をもつようにさせるのが教育の問題である。教育は、まずこの信仰を作りあげ、その次にこれにもとづいて「誠実性」を要求するのである。」
 確かに人格は日々変わる。しかし最初に示した人格的な第一印象がその後の全ての人格に纏わる査定に影響を与えるものである。学歴社会ということもまたその一つとして位置付けられよう。本来学校システムを卒業してから後に習得したことの方が大切なのに、あるいは最近してきたことの方が大切なのに生涯、学歴は付いて廻るという要素も社会にはある。君が悪しき者であるなら、と捉えているところがニーチェらしい。つまり体制、権威の側につくことこそ彼にあっては悪しきことなのである。そして体制と権威は常に人格を不動のものと規定しかかる。つまり理想的形態、状態とは価値規範的な評定において、結果として既に用意されているものなのだ。ここにカントが「目的の国」と表現した、まさにパーフェクトな存在として神という概念を創出した人間の理想値設定行為を想起させずにはおかない。つまり体制に順応し、権威に付き従う人間を養成することこそが教育の国家レヴェルでの目的であり、そういう体制と権威に対する信仰を作り上げ、それに生徒たちの精神を当て嵌める作業こそが教育であり、誠実という観念は押し着せられたものとしてニーチェが捉えた仕方では、体制と権威からその目的によく合致した成員に対して付与された称号なのである。だからこそJ・L・オースティンが述べた否定主導型の語彙、言説が成り立ち得るのである。このことについては大屋雄祐が恰好のテクストを世に問うている。「法解釈の言語哲学」(勁草書房刊)はそのことについて大きく取り上げている。

「(前略)例えば「赤い」という言葉がある性質の表現であって、「赤くない」という否定語の役割はその欠如すなわち性質の共通性を担うことになる。オースティンが否定主導語の典型と見たのは、「本当の」(real)という言葉であった。
 
「本当の」という言葉の主導権を握っている(wear the trousers)のは否定的用法なのである。すなわち、あるものが本当のものである、本当のこれこれである、という主張に一定の意味が与えられるのは、どういう場合にそれが本当のものではない、あるいはなかったとされうるのかが特定されることによってでしかない。(.....)この事実こそ、「本当のと呼ばれ、またそう呼ばれうるすべてのものに共通する特徴を見出そうとする試みが、きまって失敗する理由なのである。「本当の」という言葉の機能は、何かを肯定的に特徴づけることではなく、本当ではない可能なあり方を排除することにある。[オースティンのテクストの出自表示<著者注加入>]


実在概念の場合にも同様に、否定的契機のはたらきが逆転している_それが野矢の指摘である。(野矢茂樹の論理を説明している。<著者注加入>)「本当の」と同様、「正常」という言葉もまた否定主導語に他ならない。「いったい、『正常な状態』とはどのような状態のことだろうか。健康状態が正常であること、鉄道の運行状況が正常であること、テレビの映りが正常であること、ある人物の言動が正常であること、.....。いったい、これらすべてに共通する『正常さ』という特質など、見出されうるだろうか」[野矢のテクストの出自表示]<著者注加入>]いや、存在しない。存在するのはことがらに応じてさまざまに規定され得る異常な事態であり、それが存在しないときにのみ「正常」という言葉が使われるのだ。そして、「正常な知覚」である「実在」、すなわち典型的には見えていることと想定される「実在」という概念についても事情は同じである。正常な知覚の諸特徴が存在するのではなくさまざまに異常な知覚が想定されるのであり、そしてそういった異常の不在が実在性の意味なのである。(後略)」(144~145ページより)
 
 ここで問われていることとは、敢えて否定主導で言辞することの意味である。それはどういうことかと言うと、ある異常事態というものは話者同士でア・プリオリに前提された会話内容である場合、そういう事態を想定しつつも、それはそれに該当しないという言辞を持つ時に、この否定主導語を用いるのだ。するとこういった場合の否定主導語使用という現実は、予め否定主導によって異常ではないと主張され得る対象の性質を弁護する意図であるか、あるいは異常な事態にもかかわらずその異常さの横行という現実における救いを見出そうとする意図であるかもいずれかであると考えられる。そして重要なこととは「これらすべてに共通する『正常さ』という特質などない」という考えである。ある観点に関して陳述がなされ、それに関しては正常であるという言辞が齎されているだけであり、そのことの主張とはすなわちある発言(ある言辞となって陳述内容を表明することを以後発言とすることにする。)がなされる時、それはその発言を話者がすることの意義を表明している限りで、その真理は有用であるという考えがそこにはある。このことと関連するかどうかは定かではないが、エイヤーの「その陳述の意味の部分では全然ないけれどもその陳述の真偽には関係のある観察‐陳述が多数存在するのである。」(「言語・真理・論理」序論、227ページより)という言述は示唆的である。何故なら意味とはある発言がある言辞をある状況下で発せられる時に聴者が受け取る理解によって成立するものである。その意味では発言とはそれ自体ではなく、その発言を聴者が命題論理的にも述語論理的にも納得することに他ならない。ということは、その発言が陳述としての意味内容として示された命題自体は全く別個の発言によっても示し得られよう。つまり発言の数だけ常に命題の持つ真理の示し方の数はあるということになる。このことの意味は同じくエイヤーの「言語・真理・論理」の「(前略)物質的事物に関する陳述を検証するために要求されるものは、精確にこの、あるいはあの感覚‐内容が生じたということなのでは決してなく、かなり漠然とした範囲の感覚‐内容の中のどれかが生じたということなのである。なる程我々はかような陳述を我々がどんなテストをしようともそれに対して成立する観察をすることによって、テストする。けれども実際に我々がどんなテストをしようともそれに対して、条件や結果においてある程度ちがってはいるが、同じ目的を果たしうるような他のテストが無限個存在するのである。そしてそのことは、物質的事物に関する任意の陳述が与えられた場合、正にこれだけがその陳述によって含意される観察‐陳述であるといえるような陳述の組は決して存在しないことを意味するのである。」(序論、220~221ページより)という箇所にも見られる主張であると言える。つまりここで言うテストとはまさに発言そのもののことである。そしてその発言はまた全く異なった発言からも、同一の観察‐陳述内容を示し得るのだ。ということは一個の発言というものは恣意的なものでしかないということになる。それは要するに観察‐陳述内容の唯一性と観察‐陳述それ自体の非唯一性とが共存していることを意味するし、同時に解釈の多様性をも示唆するものである。そのことは「事実は存在しない。あるのは解釈だけである。」というニーチェの言葉をも連想させる。しかしエイヤーは同時にこうも言う。
「「事実的な意味」という表現は、私の基準を満足する陳述の中、分析的でない場合に適用したのである。」(序論、226ページより)
 この述定には、陳述内容(陳述指示性)と陳述意図の唯一性が主張されている。つまり陳述する意義とはその発言が非分析的であることにおいて命脈を保っているのだ。それはその事実に対して向き合う発言者の立場の唯一性を表しているのだ。このことは意思疎通がその場その時の一回性において意味も、文脈構成も、意思疎通意義も存しているというデヴィッドソンの視点へと直結する。そしてそのことで陳述されることと陳述することの明確な分離を意図した発言であるということが明確化する。
 元来エイヤーは例えば感覚されるものと感覚することを混同してはいけない、とする。例えば感覚することとは、感覚される事物が我々に対してある知覚映像を規定することであり、その強制的な映像内容を把握することであるが、感覚それ自体には「それがどのような見えるか」という感覚する主体の心の状態、つまり意味作用的な脳内の発火現象が不可分であるからだ(脳内の意味作用という謂いはアンセルメとマジストレッティーが採用している)。
 エイヤーは感覚‐内容という図式を与えているその事実において既にそれらを一括りのものとして認識している。この考え方はギルバート・ライルの「心の概念」の心と行動の不可分離性へと関連付けられる。ライルはその人間の行動と心は別のものであるとして、その人間の行動からだけでは心の中はブラックボックスであるという従来の考えに対して懐疑的に論証する。そしてある行動を採ることはそれ自体でその行動を支える心の状態そのものであるとする。ということはある行動が例えば机の上の鋏を取ることであるとすれば、我々はその鋏を取る人が鋏を視覚的に把握していて、それを使用したいと考えていると判断してよい。ということはエイヤーの言う感覚はライルの言う心であり、エイヤーの言う内容とはライルの言う行動ということと同じである。感覚とはそれを外界からにせよ、内的にせよ思念することにおいてなされる意識の事実であるから、それは要するにその意識の事実を伴った対外的な行動(ただ座っているだけでも目を瞑っているだけでも)に直結するのである。その点でエイヤーの考え方はライルと共通している。
 このことは生物学者のリチャード・ドーキンスの「遺伝子の川」、「ブラインド・ウォッチメーカー」での「全ての知覚現象が鮮明で完璧ではなくても、薄ぼんやりとしているだけでも、映像が認識出来るという意味では、目が全くない場合の感覚よりはずっとましである」という考えにも関連してくる。何故なら感覚することとはその感覚が呼び起こす精神的な内容であるから、その精神的なこととは向こうから怖い人が来るから近づかないようにしてどこか別の場所へ退避しようという行動に結び付く。そしてその時、その怖い人に対する把握と同時に扁桃体その他によって情動作用を我々は抱くのだ。つまり事物認識には同時にその事物に対する情動という精神的内容が共存している。勿論その時、別に怖い人でなくても、電車の中から見える風景でもいいし、ある蛍光灯でもいい。それらもまた風景そのものや蛍光灯そのものに対する映像把握と共に、自宅に帰ったら風呂に入るとするかとか今日は一日よく仕事したな、とかいうような知覚映像そのものを主体にすれば雑念が必ず入り込んでいるのである。もし我々に目がなければ別の手段で外界の事物を認識したであろう。しかし我々は眼を持っているし、近くに近づかなければそれが蹲った猫かただのちょっと大きめの石かどうかはっきりしないような視力であってさえ、その地面に事物があると認識し得るのとし得ないのとでは全く生存上のメリットという観点からは差は歴然としているという主張によって彼は創造説の主張する、進化のプロセスに対する懐疑へ(目が全く見えない状態から完璧に見える状態までの途中のプロセスということには意味がないから、進化論は無効であるとする創造説の考え方に対する批判としての)意見をしたわけである。
 しかし我々はある事物を観察していても、その時の心の内容は百パーセントその事物に対する関心だけではない。それを言うなら絵を描く時画家はモデルを注視していてさえ、その注視を通して過去の記憶を呼び覚ましたりするであろうし、あるいは色々な想像、連想も働かしているだろうし、絵を描くということは手も動かすだろうし、目も動かすだろうし、兎に角関心がいかにある対象に注がれていても尚、それは百パーセントではないことの方が通常である。しかし同時にそういう事実(事情)と、そこに座るモデルが画家に齎す映像内容(事態、状況)を認識することというのは常に両立しているのだ。
 その意味では画家が認識し、把握するモデルに関する知覚映像は視覚能力行使的な意味では画家に責任がある。きちんと見るのかそうではないか、ということに関しては。だから画家が描く絵のような主観的な表現ではない何か計測機械のメーター表示といった事態であるなら我々はその視覚能力行使の纏わる責任は計測値を観察した人員の責任である。
 ということは発言に戻るが、発言はその観察‐陳述内容の述定という意味では陳述内容の真偽という側面では発言者にその真偽に関して発話することの責任は課せられているのだ。ということはその意味ではある発言を支える「感覚‐内容はそれ自身では常に精神的でも物体的でもない」(同書、哲学上の主要な論争の解決、190ページより)という主張から、発言することは感覚‐内容という社会的事実に対する容認であり、そういった事実を支える社会に参加していることを宣言しているという意味を我々は導き出せるのだ。
 つまり感覚‐内容を精神的にすることは個人の自由であるが、それが仮にある物体の動きそれ自体だとしても尚、それを感覚することは「物体に対している」ことであるその時点で、「物体に関わる観察者」という一個の事実となるのだ。その時あのウィトゲンシュタイン「論考」の有名な「一 世界は、成立していることがらの全体である。」、「一・二 世界は事実の寄せ集めであって、物の寄せ集めではない。」、「二・〇四 成立している事態の全体が、世界である。」という主張の意味が明確化されるのだ。つまりここでウィトゲンシュタインの述べることとは、事実に向き合う我々には生きているという事態そのものにおいて各瞬間に我々自身の責任が課せられているという主張でもあるのである。
 例えば野球場でもないのに路上の向こうからボールが飛んできた場合、咄嗟の判断でそれを避けることをするのは我々がその場に立たされていたのなら、我々自身の避ける能力行使をする行動に関しては我々の責任なのである。だからこそエイヤーの次のような述定に意味が生じてくるのだ。‘Domitian took pleasure in torturing flies.’(「ドミシャンは蝿をいじめて楽しんだ。」)という文章におけるように、痛みとかこころよさを精神的なものであるというのが適当であるような用法においては、それ等の言葉は感覚‐内容ではなく論理的構成を指示しているのである。何故ならば、この用法で苦や快を引き合いに出すのは、人々の動作を引き合いに出す方法の一つであり、それは結局は感覚‐内容を引き合いに出すことであるが(後略、本テクスト「しかし我々はある事物を観察していても」以降からの文章によって示された謂いへと連結される。)」そのことは、感覚‐内容に対する名辞行為として、後付け的意味付与として「痛さ」とか「心地良さ」とかいう具合に名指されるのである。そしてそれは説明責任的な意味合いを帯びる。例えば体の不調を医師に訴える患者のケースを考えてみれば、彼は医師に対して体のどの部位がどのように痛いかとか不調であるかということを論理的に説明して初めて医師は処方を案出することが可能なようにである。
 そしてこの心の内容に関する説明責任という事態はそれ自体で社会的事実としての心の存在を物語る。元来ライルが心と呼ぶことそれ自体は、彼が行動という概念と結び付けることにおいてであり、それは幾分言葉自体が指示する領域が茫漠としてい過ぎる。その意味ではエイヤーの言う感覚という概念規定の方がよりこの社会的事実ということの確認の観点からは理解しやすいように私には思われる。
 例えばこれから外出しようとしている時に、部屋を見回し机の上にあるボールペンに目を留める時、心の中では外出のことで一杯であるのだが同時に机の上のボールペンの知覚映像を私は心に留める。そしてその時ふと何か思い付いたり、メモをする必要のある時に書くものを所持して出掛けることには意味がある、と思えば、私はそれを外出着の上着のポケットに忍ばせるであろう。それはある心の内容に支配された雑念を抱きながらでの感覚‐内容という知覚内容においてさえ、それに対する認識の確固とした自立を意味する。私たちは常に何かに没頭しながらも、同時に何かをしているのだ。だから患者が医師に処方して貰いたい場合、適切に医師に病状を伝える責任は患者にあるのだし、例えば車を運転していて、「赤信号になったのですが、車の運転に夢中で気が付きませんでした。」とか「酒がおいしくてつい飲み過ぎて、気持ちよかったので車を運転してはいけないということに気がつきませんでした。」と言うような事態は、その行為に没頭していることにはならないのである。まず運転するということは赤信号を確認することも含まれるのだし、また酒を飲んだ時には車を運転することは許されないということは、酒を飲む行為のマナーに関しても含まれていることなのだから、それは言い訳にもならないのだし、言語それ自体の使用の仕方に纏わる社会的事実としての責任の所在をただ忘れて去っているだけのことなのである。言語使用とは要するにそのような言語が示す社会的事実の示す意味の理解をしていることの責任において認められる行為でもあるのだ。つまり運転するというマクロ的な責任には信号を確認するというミクロ的責任(前方の車に対してある車間距離を取るということもまたミクロ的責任である。)を含有するのだし、また酒を飲むというマクロ的責任にはそういう時には運転をしないというミクロ的責任(他人に迷惑をかけないということもまたミクロ的責任である。)が含有されているのだ。そしてそのミクロ的責任を包み込むマクロ的責任をある語彙使用においては宣言しているということがまた一つの社会的事実であるし、その語彙にはそのような意味があるのだという了解をもってその語彙を使用することが社会的責任であるということもまた一つの社会的事実なのである。

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