Tuesday, February 1, 2011

第十三章 人類の転換点から読み取れることPart2

 現代社会の実相はある意味では相手の出方に対して裏をかく仕方が極自然であるか否かということが勝負を決すると言える。要するにウィンドサーフィンの波乗りのタイミングに近い。
 IT業界に於ける世界的潮流はその波乗り的なタイミングによって勝敗を決してきた。例えばアップルは元祖のパソコンメーカーであるが、方式のユニヴァーサリティ自体はマイクロソフトに大きく水を開けられた。そのマイクロソフトに続いて成功を収めたのはグーグルだった。マイケル・シュミットの検索システム、ポータルサイトビジネスは世界的成功を収めた。しかしその後発組として最も成功を収めたのはアップルであった。i-Podやi-Padに於いてパソコンと携帯電話との連携プレイを確固としたユーザーニーズに直結した功労はアップルに軍配が上がる。しかし創業者でCEOであるスティーヴ・ジョブズの病気が原因で、株式相場が急落した。当然生き馬の目を抜く当業界では、フェイスブックのマイク・ザッカーバーグが日本でミクシーが先見の明があった様な意味で特権的アイデンティフィケーションシステムとして世界に先駆けた。
 要するにあるコンセプトやアイデアは端的に前時代の通念や常識の範囲から少しだけ逸脱することによって達成される。つまりマイクロソフトとグーグル、フェイスブックへのヒーローのバトンタッチ劇の間には重要な出来事があった。それはホームページからブログへの時代的移行、そしてツイッターの登場であった。
 ブログは無料のシステムだし、ツイッターは匿名的参加を可能化するシステムであり、現在進行形的な仕方で参入することが出来る。しかしそれが定着すると次第に特権化された閉じたコミュニティもあっていいという見解が出る。それがフェイスブックであった。
 似たことは文壇にも画壇にも詩壇にも俳壇にもあり得る。ある一人のカリスマ的な独断的毒舌家が三年から五年間世間を席捲したとしよう。すると次第に反社会性と反アカデミズムへの戦略的スタンスは世間一般に定着していく。例えば最近ではオタク的なアートがすっかり定着してしまった。その中で荒木経惟や森村泰昌、かつて異端的であったフランシス・ベーコンがすっかりオーソドックス的地位を獲得していった。
 異端的地位であったアートや写真やパフォーマンスが一定の社会的地位を獲得するに従って我々は次第にある種の表現的スタティズム、つまり本来のオーソドックスを求め始める。最初は潜在的に次第に顕在的に。そこでアートでも映像でも写真でも、「本来本流とか主流とは何であったか」というクウェッションが提示される様になる。
 そこで我々は今主流化して定着したかつての異端を異端化していた主流自体が既に傍流化してしまっている事実へと覚醒する。
 チュニジアの政権転覆を招聘したのがツイッターやフェイスブックであったことは記憶に新しいし、それが飛び火してエジプトのムバラク政権転覆へと民衆のパワーは炸裂している。これらの政治的メインストリームをメインストリームにしているのは、ある部分ではノーベル平和賞の劉暁波氏受賞劇であり、Wikileaksでもあった。
 世界が既に管理者、統括者の手から一般民衆の無言のネットインフォメーションへと移行しつつある。そしてある経営者が、日本ではユニクロの様にある種の巧い時代の波乗りサーフィンの様にニーズの谷間を掻い潜る様な臨機応変なタイミングを虎視眈々と狙っている。しかし当然のことながら、自分の資質に見合った形でしかその波乗りに参画することは出来ない。あくまで何か起業することを奮発させるモティヴェーションは自分の時代全体への憤懣やるかたなさから発生する。時代の迎合は短期間しか功を奏さない。
 本来的オーソドックスも異端性も常に一定期間を個々持続させながら反復する。勿論あるモードが前時代のモードの再来であったとしても正確には相同ではない。恐らく少しだけずれている。70年代に流行したミニスカートと相同のスタイルが再燃することはないだろう。それは各分野毎の専門的知による時代毎の決定がある。
 少なくとも現代社会では上から目線的な管理統轄システムが瓦解しつつあるとだけは言えよう。それは一旦最下層から反目的な眼差しを獲得したら、どんなに清廉なモティヴェーション保持者であれ、権力基盤ががたがたになっていくであろう、ということだけは確かである。
 アート界ではかつれレオ・キャステリー・ギャラリーが最前線であったが、今ではガゴシアン・ギャラリーがアルベルト・ジャコメッティ、草間弥生、アンディ・ウォーホル、ロイ・リキテンシュタイン、ダミアン・ハースト、村上隆といった第一線、或いは古典的アーティストを扱っている。この種のギャラリートップポジションの世代交代劇は頻繁に起きている。彼等は常に最前線自体が何に照準を合わせるべきかだけを模索している。
 それはある意味では時代が彼等全体の手によって恣意的に作られてきているということを意味する。只政治的宗教的にはアメリカの影響力が弱体化しているにも関わらず相も変わらずアート市場はアメリカ主導型であることが一つの大きな矛盾点となっているのは、政治的バランスと文化的位相とのずれであろう。つまりその政治宗教的世界動向と、そのムーヴメントを尻目に展開される一種の文化的発信力自体の二重性が、今日の現代社会の矛盾でもあるし、可能性でもある。つまりアメリカのIT産業全体のクライアント的な誘引力は既に米国外的であるし、常にアジアであり中東でありアフリカであり南米である。
 ヒズボラ、ハマス、アルカイダ、アルジャジーラといったイスラム圏的ムーヴメント自体が今後フェイスブックやWikiLeaksとどう連携プレイを演じていくかということも見ものである。
 それは主流と傍流の二極乖離的二元論から、次第に主流と傍流の相互共存、主流と傍流の多元化と、ロールプレイング自体の交代的な反復といった複雑化した展開だけが期待出来る、ある部分では予想のつかなさ、それは多分に刻々と推移しつつある偶発的イヴェントの類発性だけが今後の展開を推測し得るところの反ケインズ理論的な展開が世界的規模で顕在化している人類の転回点、或いは転換点から微視的変化への覚知的未来予想を各人に強いる時代の到来と位置づけることも可能である。
 つまり大局ということが成立し難い状況下で常にオタク的ニーズ全てを捨てずに持ち駒として温存していくそのストックメンテナンスが我々に多様的な価値を再認させてくれる様なシステムである。要するに簡単に選択肢を狭めるなということと、容易に見通しを効かすことの出来なさが偶発的イヴェントの持つ次代への展開可能性を見逃すな、ということである。それは絶交のタイミング自体が常に推し量れないという諦念の受容であり、タイミングを無視して遂行しつつ、時として成果が顕在化してきた時だけ指揮権発動するということと言おうか?

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