Monday, February 28, 2011

第十六章 世界は意図に満ちている?/快苦と慣れ②

 「部分化する観光都市モデル」は我々が居心地のよさを、修正不可能である様に思わせる惰性的性向に根差しているし、又性行為を巡り快楽と、出産時に味わう母体の痛苦自体も、それが出産後にはけろりと痛みが退くが為に又ぞろセックスに対する欲望が沸々と沸き起こるという様な相も変わらぬ快楽志向(嗜好)を我々が惰性的に理性以外に絶えず携えて生活している、ということを意味している。
 ミシェル・アンリが「精神分析の系譜」(大阪大学での講義録)で示している情感性(「身体の哲学と現象学」でも充分示されていた)や自己触発といった語彙は、まさにそういった惰性的な身体的記憶、しかもそれをもう一度味わいたいという欲求と関係がある様に思える。
 例えば我々は京都、奈良、鎌倉といった古都に対して期待するものが、個人差よりは、より一般的に日本人にとって故郷の様に思えるものによって形成されているのではないか、とそう思える。勿論日本人にとって味噌汁は地方毎に少しずつ全部味も違おう。しかしそれでも尚全国何処に行っても味噌汁が飲めるということこそが日本であり、そのことに対して、それこそが一番嫌いであると言う人の方が圧倒的に少ないのではないか?
 その意味ではこういった伝統文化的なコードへの追随とさえ思えないある種の我々による同化といったことは、記憶が身体的に、幼児体験的に遡れるものであればあるほど、それが理想の環境の様になっていってしまうということかも知れない。
 だからこそ部分化された観光都市モデルが日本を、何処に行っても山形には山形なりの、福島には福島なりの、仙台には仙台なりの良さを我々に求めさせる。
 それはやはり家庭とは寛ぎのあるものであった方がよい、と多くの人達が考える様な意味での安らぎとか憩いといったことの基本に横たわっているのではないか?
 だからある忙しない都会の喧騒を目の当たりにしてさえ、そういった環境で育った人にとって、それが一番安らぎを与えるものとして存在し得る。だから快苦の規準とは、そういう風に個々人によって極めて振幅の大きいものであり、ある個人にとっての快は別のある個人にとって痛苦以外ではなく、その逆もあり得る。
 そしてそれはまさに身体的記憶(響きとか匂いとか、或いは言葉の語呂<方言など>や、要するに外界から授受するクオリアの様々な在り方として)と密接で、それが想像力の在り方自体に個人差を与えている。 
 恐らく現象学者で天才的作家でもあったミシェル・アンリが自己触発とか情感性と呼ぶものとは、そういったことではなかっただろうか?
 そしてまさに個々人にとって異なるクオリアの在り方を我々に与えているところの環境とかそれを形成させるのに大いなる役割を持つところの自然こそが、世界自体となって、そういう風に個々人に異なった感慨を全ての事物が与えるという事実こそが、世界の非意図的な意図である、と言えないだろうか?
 その意味では我々個人が、存在者が意志するところの意図とは全く違った様相で世界自体が意図を持って我々存在者全体へと対峙している、と少なくとも私には感じられる時がある。それは特に極めて大勢の生活者や就業者達が集う大都会の喧騒の渦の中にいる時にそうである。否京都や奈良や鎌倉などを闊歩している時ですら、同じ名刹を同じ様な関心で訪れるあらゆる世代の人達の行動や表情を眺めていても感じることである。
 ある人達にとってある名刹は極めてゆるりと寛げる雰囲気であるが、別の人達にとっては全く別の名刹がそうなのである。そして私などの様に薬師寺とか唐招提寺の様な名刹にそれぞれ固有の池などを探索することに寛ぎを見出させている。西大寺には西大寺に固有の池があった。つまり池の佇まい自体に、我々は名刹の固有性を嗅ぎ取れると私は考えているのである。
 それは鉄道ファンにとって駅舎とか、駅構内の建築構造自体が、ある都市とかある地方の固有の特色を象徴している様なものとして認知し得るということとも相通じる。そして私はあの上野駅の駅舎にロマンを感じるとか、久里浜駅の駅舎に懐かしさを感じるとか、要するに個々人に異なった寛ぎ方を与えている。まさにその様に個々人で異なる寛ぎ方は世界には千差万別あるという事実こそが、世界が非意図的に意図的であろうとしている様に私には感じられるのである。
 これはある意味では極めて紀行文学的感慨であるかも知れない。しかしこの紀行ロマン的な感慨を我々に与えているのも文化という側面もあるだろう。しかしもっとダーウィンの自然選択的な真理とも大いに関わっていると思われる部分も確かにある。
 大都会東京には様々な場所があるが、ある一群の人達はある場所に、別の人達は別の場所に屯する。このパターンとは案外流動的ではあるものの、沈殿して定着している、とも言える。新宿のゴールデン街に集う人達の性格は大体似通っているとも言えるし、京王プラザホテルの喫茶で談話する人達も大体似通っていると言える。それはどういう会話をするかということで決定されている。これこれこういう会話をするには、これこれこういう場所が相応しい、従ってこれこれこういう場所を一緒に歩くのなら、こうれこれこういう友人、知人と共にが一番いいという選択は個々人である筈である。それはある歌曲がBGMとして流れてくるのが相応しい場所、逆にある場所にはある歌曲がBGMとして流されることが相応しいということがあるのに似ている。それは全く個人毎に差違はあるだろう。しかしその差異はやはり同意よりは遥かに小さいのではないだろうか?つまり概ね一致し得る相応しさに対する判断があるのではないだろうか?
 つまりその概ね一致し得る判断があるからこそ、一方では多種多様な憩いの場所があるにも関わらず、それらが案外余りにも対立することなく、共存している、ということと、モラルとかエシックス(倫理)が我々によって相互の暗黙の同意の如く何時の時代にも存在している(アンチモラル的、アンチエシックス的人生さえ、そういった同意を積極的に求めているとさえ言える。つまり反社会性にとっては、社会性が自己をアウトサイダーとかアウトローとして際立たせる存在として積極的に必要なのである)のではないだろうか?

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