Friday, February 25, 2011

第十五章 世界は意図に満ちている?/快苦と慣れ

 何故人間の目が頭の下に二つ左右あるのか、ということを哲学者永井均は不思議がっていたことがある。もし目が頭の全体に幾つも据えつけられていたなら我々に悟性なるものはなかっただろう、と氏が語っていたことが印象的に思い出される。
 確かに目がもっと沢山前後左右に据えつけられてあったなら、我々自身の想像力は今とは全く違ったものになっていただろう。第一後ろに振り返るという身体行為さえ必要ではない。しかしもしそういう風に我々が生まれついていたなら、それはそれで何とかなっている、そしてその事実に日常的には何の疑問も抱かずに、それが当たり前であると信じて生活していただろう。
 それはパソコンが普及して、それが当たり前になってしまった我々の生活と同じ様なことであったろう。
 かつて司馬遼太郎はエッセイで、もし現代社会に大正時代に生活していた人がいきなりタイムマシンで連れて来られたら、一週間と生きていられないのではないか、と述べていたが、私はそうは思わない。それは今生きている人でさえそういう人達もいるのだから、逆に大正時代から連れて来られた人の個々の性格や資質にも拠るだろう。つまり電子機器などの仕組みから使い方まで関心を持ったり興味を抱いたり出来るタイプの人と、そうではない人とに分かれるだろうし、余りそういうことに普段は関心を持たない人であっても、いざとなったなら、必死に習得する意志を持てる人とそうではない人とに分かれるだけのことではないだろうか?
 ジャレド・ダイアモンドの名作著作である「銃・病原菌・鉄」で紹介されたエピソードにqwerty配列のタイプライターの話がある。これは今のパソコンのキー配列である。我々は一度既に慣れ親しんでしまったキー配列に何の疑問も抱かないが、ダイアモンドによると、これは右利きの人にとっては苦痛な配列であるという考えもあったらしい。要するに使用頻度の高いキーが左に集中しているが故に、私は左利きであるが故に何の痛苦も感じないで済んでいるが、本来右利きの人にとっては使い難い筈だ、というのである。
 当書によれば「1932年には、技術的問題が解決され、効率的配列のキーボードが開発され、使用者によって速度は二倍、使いやすさも95パーセント向上することが示された。ところが、その頃には、qwerty配列のキーボードが社会的にすでに定着してしまっていた。過去六十年以上にわたって、キー配列を効率化したタイプライターやコンピュータのセールスマンや製造業者によって粉砕されてきている。」(㊦第十三章 発明は必要の母である 倉骨彰訳、草思社刊)
 このテクストは1997年の原著であるから、十四年それから更に経っているので、実に七十年以上もの長きにわたって、その慣習的なことに我々の身体感覚は指先からならされてしまっているのである。我々は不便さにも結構耐えられる先験的能力も備えている、ということになる。それは私自身にさえ経験のあることなのである。
 例えば私は左利きであるが故にかつて左利き用の挟みを購入したことがあった。しかしそれを利用しようとすると、既に私自身が左でものを切ることを右利きの挟みですることに慣れてしまっていて、既にそれを補正することが困難に感じられてしまっていたのである。つまり一旦慣れてしまったものを、「本来はそちらの方が便利である筈である」ことの方に補正することが容易になされ得る期限というものが一体あるのだろうか?
 つまりある時間的時点を越えたら、それは身体的メカニズムによってかなり補正が困難化していってしまうということがあるのだろうか?
 その意味では我々人類は既に言語行為を当然のこととして進化してきてしまっているが、ある時点迄なら、或いは今の言語活動よりも「本当は」便利なもっと有効な方法が我々にあった可能性はあるのだろうか?
 これはある意味では極めて自然科学的立証を必要とする問いであるが、同時に極めて哲学的問いでもある。何故なら我々は眼が頭の下、額の下に二つ左右にあるという事実に慣れきってしまっているが故に発想し難いことでも、或いは額にも、まさに三つ目小僧の様に目がもう一つあったなら、我々は今とは全く違った(だから容易に現時点でその際にそういう発想をするということを想像し難いことであってさえ)、しかし意外と実現したら、即座に慣れっこ(馴れっこ)になってしまう想像力というものがあるのかも知れない。
 それは我々の生殖システムの運命にも当て嵌まる命題である。
 例えば通常我々は性行為に快楽(身体的な意味での)を伴う。しかしセックスがもし今の様に我々に感じ取られる気持ち良さが全くなかったなら、我々は果たして子孫を繁栄させてこられたであろうか?
 その気持ち悪さ(仮に今の様に快楽ではなく痛苦以外のものではなかったとして)を克服する為の処方を編み出すということ自体を可能化させていただろうか?
 それは不可能ではなかっただろうか?あくまで我々は今現在気持ちいいからこそ、もしそれが気持ち悪くなりだしたなら、それを以前の状態に戻そうとするのであって、最初から一度として気持ちよくなかったなら、我々の祖先はその段階で子孫を繁栄させることが出来ず遠からず絶滅していたであろう。そして我々も当然のことながら生存してなどいなかった。
 しかし母親は、母体を痛めて出産する。これも確かである。私は男性に生まれたので、終ぞ経験し得ずに生涯を終えることだろうが、陣痛をはじめとする母体の痛苦がもしなかったなら、いやもっと積極的に出産自体が極めて気持ちよい、快楽的なことであったなら、我々は生存し得たであろうか?恐らく生物学者なら多く進化論的な合目的性に沿って「それはそれで、容易に子孫を儲けられるが故に子孫の数が溢れかえってしまい、早く絶滅していたであろう」と結論するかも知れない。しかしそれは私達人類の女性が陣痛がある、という事実を前提にものを考えるからである。実際はどうなっていたかはやはり定かではないだろう。
 精子の数は個数としては無尽蔵であるとさえ言えるのに対し、卵子の数はそうではない。生涯に女性が生める子供の数は男性に比べて明らかに閉経をも考慮に入れると、限りがある。
 ここにダーウィンも考えていた性選択の問題も絡むし、性的葛藤の問題も浮上する。
 しかしこの様な思惟を可能化することは、まず我々の前に当該の事実が存在し、それを因果論的に過去に遡及する形で考えるという習慣に根差す。仮にqwerty配列を無効化するくらいのもっと今よりずっとずっと便利なキー配列が考案され、それが未来に於いて定着していったとしよう。しかしデヴィッド・ルイス的に発想して、実は既に七十年以上も前にその配列が発見され、それが普及しきっていた世界なるものさえ実在するのだとしたなら、我々の世界とは、その可能世界の中のほんの一例にしか過ぎず、永遠にそんな配列など発見され得ぬ世界と、その世界の住人も、我々には終ぞ出会えぬであろうが、実在するということになる。
 しかしもしそういった思惟が恒常化してしまったとして、それが真に我々の未来へと向けられたヴィジョンを持つということに貢献し得るであろうか?
 その問題は当ブログには問い続けること自体に余りある命題である(それは今日本ブログで始めた「存在と意味・第二部 日常性と形而上性」に任せておくこととしよう。本ブログは進化論的視座を中心に、あくまで人類学的な考察<限りなく社会学的視点をも導入して>にとどめておきたい。又そうすることによって、ブログ「存在と意味」との協力関係を取り結ぶことが可能であろう)。
 しかし本ブログではこの命題が世界にとって意図的であるか否かという査定に於いては他の一切のブログに比して最高度に極めて哲学的な部分もある、とだけは言っておきたい。

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