Monday, March 3, 2014

第三十一章 生活空間とBGM・資本主義/経済自由主義・社会倫理と個人の価値Part1

 現代社会の都市空間はある程度意図的に作られている。全てのインフラが意図と目的を持っている。従ってその都市空間で快適に生活する為には、その個々の時代に於ける社会全体の意図を反映している都市空間のインフラを利用していかなければいけない。
 ATM全般を巧く使いこなさなければ生活していくことは困難だし、PC端末でもPDF端末でもその利用を滞りなく履行出来なければ様々な情報発信から受信、色々な事の申し込みも出来ない様になっている。そういった意味では神経学的な協働性を無視して現代の生活空間を生き抜くことは出来ない。つまりあるマナーで良かったことは、時代の変化と共に次第にマナーの善悪も変化していき、その時代と共に移行しつつあるリアルに逆らうことは出来ない。あらゆる差別語とされた語彙を気軽に使用することは既に出来なくなっているし、生活空間に様々なユニヴァーサルデザインをあしらっていることを否定することも出来ない。
 一つ大きく今迄ずっと変わらなかったものとは、大型スーパー等で使用されるBGMであろう。銀行や郵便局等で使用されるミューザック(Muzac)と同様大型スーパーでは売り場が日常食品売り場であるなら必ずと言っていい程1920~1930年代のディキシーランドジャズやジョージ・ガーシュウィンのチューンを利用している。そういった売り場で1960年代のロックの名曲や反戦フォークの名曲(例えば『花がどこへ行った?』や『風に吹かれて』等の)をかけていることは少ない。それは偶然ではなく、そういう風に仕掛けられているのだ。デパートが出来て全盛期であった時代の名残から、そういう売り場では販売促進、消費者へ消費を気持ち良く促す仕組みとしてそういった選曲が為されているのだ。
 しかし同時に我々の感性はそういった売り場でのBGMの選曲が恣意的であるから、全く違う音楽を聴きたいと迄は通常思わない。何故なら全てのTPOということを考慮に入れる処があるからだ。だから本質的にはどうしてもディキシーランドジャズやガーシュウィン等よりジミヘンやジャニス、ドアーズが聴きたければ、それはCDやウェブサイトからYoutube等を通してダウンロードすればいいと考えているのだ。
 これはある部分では我々がパブリックスペースとプライヴェートスペース、パブリックタイムとプライヴェートタイムという認識を持っている証拠である。
 我々は臨床精神医学的な解析も恐らく可能である様な精神安定維持の為の知恵と工夫を個人でも持っている。そして大型スーパーの売り場でそういう音楽を耳にすれば、そのBGM選曲をする人の意図を理解し、汲む様に脳が働くのである。そしてそういったTPO的な意図を恣意的であるけれど、悪意であるとは受け取らない様に主体的に心がける様にも脳が働くのだ。
 しかしそれとプライヴェートに聴く音楽、聴いて感動出来る音楽は異なっていていいのだし、マーチの様な曲が相応しい式典の時にムーディーなジャズが流れていれば、それがアイロニーとかギャグとかパロディ的意図以外なら、相応しくない、場違いであるとそう受け取る感性も持っている。
 このことは言ってみれば、感性というものが自分自身に拠る完全チョイスということと、そうではなくパブリックな状況で相応しいものとを明確に区別することが誰しも可能だということを意味している。これは神経生理学的な協働性とも言える。又臨床精神医学的な協力意図でもある。これはつまり個人の価値とはそれ自体を社会や他人から強制的に禁止されない限り(この条件は絶対的に重要であり必要であるが)、決して何もかもその個人の価値に公的なインフラが従っていなくても、その部分では進んで協力し、又その様にプライヴァシーとパブリシティとを分けておくということに不快感よりは、進んで協力する部分も我々にはある、ということを意味している。
 しかしそれはあくまで個人の価値を否定されない限りであることは重要であるが、それでもそのインフラの持つ様相が余りにも何時迄経っても変わり映えがしない侭であるなら、少しはリニューワルすべきではないかとか、模様替えをすべきではないかと感じる感性も持っている。だからこそ時々どんな店でも新装開店をするものだし、それを利用者や消費者、購買者や来客は希望していることを経営者達も知っていて、それを実践するのだ。
 これらの社会インフラの時々行われる模様替えという行為は、当然食品売り場でのBGMでも行われるだろうし、編曲に拠っては過激なメッセージの歌曲でも徐々に流される様になっていくということは大いにあり得る。そしてその際にはかなり重要なこととしてその流される場所と場所の持つ意図とか状況に即した編曲が必要だということである。
 知覚生理学的、神経生理学的な心地良さを極端に逸脱したことはオーディトリー的にもヴィジュアル的にも我々は決して望まない。これは確かである。余りにもその場その状況に相応しくない色彩や物質、或いは生き物(例えば一般的にギャラリーや美術館にはこれを持ち込むことは禁止されている)、大音量の音楽や聴いていてその場に相応しいとは思えないと誰しもから感じられると予想されるものは忌避されるということは絶対的に言えている。
 だからこそ逆に批評的な美学からすれば我々の日常的感性とは極めて多くの悪しき制約をそういったTPO認識、それはかなりの度合いで民族国家モラルとか時代性に加担しているし、それらに制約を受けているものだが、そのステレオタイプへ謀反を起こしたいという気分にもなるし、それをある程度声高に叫ぶ必要性を思想的批評的に持つこともあり得る。そしてある部分ではどういう時には体制的なTPO認識に従い、どういう時にはそういった固定化されたTPOに対して無思考的だと批判すべきかという個人の価値判断とがどう拮抗すべきかということへの個人毎に持たれる信念や信条というものが必要となってくるとも言い得るのだ(しかし価値ということ自体は別ブログである『価値のメカニズム』で言及していくつもりである)。
 唯今回の論述で重要なこととは、我々は知覚生理学的、神経生理学的な精神神経の安定を常に誰しもが望んでおり、そういった外的なインフラから多大の精神神経的な影響を受けるということもよく知っていて、ある部分ではどんなに反体制的な人間でもその都市空間や生活空間での公的な意図へ協力する部分があり、だからこそ逆に個人的な価値としてはそれらとは一切そりの合わない、そしてそれら全てのインフラの持つ存在理由を否定する様な過激なものを嗜好するということもしばしばあるのだ。そしてこの様に公的制約と個人の選択の自由を使い分けることで、却って精神の安定と、神経学的な平衡を維持しているということを誰しも知っているのだ。
 つまり却って反抗したり抵抗したりする為には積極的に否定する前提としてのインフラからの制約を必要とするということである。従って最初から余りにも野放図に全てが許されているというインフラの状況では却って保守的な嗜好というものが個人の価値としても芽生えてしまうということも充分あり得るとは言えるのだ。
 勿論それはあくまで外界の知覚情報に左右される我々自身の内実的な真理として言っているのであり、基本的に雁字搦めの都市空間や生活空間の荷重なる制約、つまり商売をするにも何をするにも全て決められているということを我々が望んでいる訳ではないとは言い得ることであるのだが。

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