Monday, February 27, 2012

第二十五章 「~したい」と「~しなければいけない」から考える文明的発展プロセスとその事実への懐疑Part2

 前回の図式をもう一度ここに例示しよう。

第一次欲求の充足の為の貨幣経済→第一次欲求充足→第一次求充足の為に必要とされる都市空間の成立※→その都市空間で出会う他者との間の対話の成立→他者との間で親族間や家族内でだけ通用すること以外の価値の共有

※<第一次欲求充足→第一次欲求充足の為に必要とされる都市空間の成立、の段階での様々な貨幣経済上での不正などが国家秩序成立を促したと捉えることは取り敢えず可能である。>

 実はここにもう一つ厳密には入れなければいけないことがあるのだ。前回は敢えて内容的に込み入るので避けたが、今回はそれがテーマである。
 それは「第一次欲求充足の為に必要とされる都市空間の成立※→その都市空間で出会う他者との間の対話の成立」の間に都市空間=国家統括的空間に居住する為に国家法を遵守する習慣の定着

 他者と対話獲得する為に必要なことは、国民としての義務を果たすことである。それは国家成立以前的な首長社会迄に通用した不文律や伝承的法とは違う。そこで明文化された法律が説明論理的に理解されている必要が生じてくる。又そこで初めて平等の権利などの命題が個人内部に強制的に移入させられる。そこで我々は倫理的な命題、もし仮に法律が何らかの事情で国家都市空間上で混乱したりした場合でも、それなりに「自分の判断で」他者に対して善であり得る様な他者への接しを持とうという意識はこの段階から発生すると考えられる。
 それは第二次欲求実現の為の対話パートナーとしての他者というものが金銭報酬目的であるだけではない存在であったからである。
 しかしそれは一面では親しさの獲得であるが故に、国家法自体が都市空間が緊密化していけばいくほど生活者としてのストレスは大きくなり、そのボヤキ的意味合いでの獲得された親しさの中で「~したい」という感慨的意見を親しくなった他者へ告白する心の余裕を与える。
 その「~したい」というのは自由を獲得すること、つまり経済的余裕や時間的余裕を獲得することで限られた人生の時間の中で国家法から監視される様な雁字搦めではない形での自由な時間(それは経済力の構築によって可能となる)を得たいという「~」の内容である。
 それは国家法からの労働者に対する監視からの解放を意図的に画策した、つまり勤労、労働をより過度にこなすことで、逆に自由を獲得するという考えである。
 この時第一次欲求的な「~したい」の「~」とは全く切り離されたより高次の「~」の内容が得られる。
 つまり「~したい」ということはあくまで「~しなければいけない」ということ、この場合であるなら国家法遵守ということを通して、或いはそれを伴って初めて実現し得るものとして認識されている。そしてそうでないものなどないという認知は全ての「~したい」という謂いの実践者には得られている筈なのである。
 それが権利と義務の同伴ということである。尤も第一次欲求に関してはもっと本能的なことであり、最低限の食べて住んでいくことだが、第二次欲求に至って初めてより文明社会の到達点から文化へと移行し得る価値的行為が出現するのだ。
 勿論或いは最初から第一次欲求も第二次欲求も同伴されていたかも知れない。しかし少なくとも部族社会や首長社会の時代の人類は対話や会話で第二次欲求的内容がしやすい社会の雰囲気、或いはそういうことを許容する空気(嫌な言葉だ)はなかったし、今でもニューギニアに残存する首長社会などではそうであろう。
 こういった国家成立以前的社会では対話、会話は心の内部の個人にとっての対外的対社会認識的なことによって外面的には決定付けられる。仮に個人内部で主観的なことが考えられていても、それを容易に話題にし得る社会とそうでない社会とはあり得る。首長社会以下部族社会などでは心の内部を話題にすること自体が奇異に感じられるということはあり得る。
 従って倫理や道徳に関する正義論などが成立する社会全体の許容度はこれらの社会では生じ難いと言えるだろう。逆にそういった会話や対話が滞りなくなされていく様になるのなら、その時こそ国家法や国家体制というものを第二次欲求を滞りなく社会成員皆が考えることが出来る様に社会は移行していくだろう。尤も現代では既に行政単位的にそういった社会の人達が国家を形成することがまかりならないということもあるので、彼等は文明社会、つまり既存の国家へ帰属する様に部族首長社会から脱出を図る様になるだろう。
 倫理的命題は第一次欲求が充足されることが曲がりなりにもサヴァイヴァル的な臨界点をさ迷っているということのない状態、つまり定住状態、職業分化体制の定着などによって得られる対話や会話での「~したい」が高次の娯楽的、精神的ゆとりや充実感を求めるものに変貌していった段階で得られる。それは親族内だけで閉じた親族、一族郎党のサヴァイヴァルにだけ意識が向かっているのではない状態、つまり完全な他者、他人を身内と同じくらいに重要なレヴェルで取り扱い、友情や同一職業人としての横の繋がりが極自然に持てる状態から問われ得る。
 それは内発的要求が高まって臨界点に達したから皆の総意で国家を作ろうということであるよりは、もう少し各部族首長社会間の軋轢などによって自然と闘争状態が長く続いたりして、その懐柔策として各首長による討議などによって徐々に形成され、その後曲がりなりにも国家法的体裁が整えられ、通貨単位も統制されるに至って初めて各国家成員、つまり国民の間に他者と身内を等価に見做す公平の原理が導かれ、その通念の中から各自自然と倫理的命題を保有することが出来る様になっていった、と考えることが自然である。
 即ちいきなりデカルトのレス・コギタンスなどの命題的問いが噴出しているわけではないのだ。
 だから日常的な言語行為が常に部族社会や首長社会を存続維持していく為の裁定やら各命令系統による指示等だけに費やされている内は、高次の精神的内容の会話や対話は成立し得ない、と言うより仮にそういった心の奥底では誰しもがそういったリッチな内容を待ち望んでいても、それは余程周囲に誰も居ない、狩猟などを終えて帰路などで同僚同士で時たま交わす程度のものであったろう。
 しかし例えば現代社会では喫茶店などがあって、そこでビジネス目的だけではない会話や対話は日常的に見られる(これは19世紀くらいに市民社会の確立と共に促されたのであり、それ以前は地方などの共同体的な会合以外ではあり得なかっただろう)。
 纏めよう。
 「~したい」というのが「食わせてくれ。もう三日も食べていない」と言う時の「~」は第一次欲求のものである。そしてそういった餓死してしまう寸前であるということは現代でも十分あり得る。大震災などに見舞われた時にそれを誰しも経験した筈だ。
 しかし仮に大震災に見舞われても人生の本分、人生の幸福感の全てが唯食べて寝て働くだけであるとはどんな単純作業に従事する者も思っているわけではない。
 その精神的余剰の様なものの中に我々の生を生として見つめる眼差しがあり、それが第二次欲求以降の価値倫理である。
 要するに第二次欲求は損得の問題を凌駕する、損得の問題では推し量れぬ心の満足の問題なのである。
 従ってそれが良く作用せずに病理的に作用すれば犯罪へ行くし、ヒトラーの様な歪曲化の極地に至ればホロコースト迄招聘する様な事態にさえなり得る。
 我々は教育レヴェルで幼い内からナチズムをおぞましい歴史的事実と教わる。その段階で「~しなければいけない」という倫理的命題を有無を言わさずに心に叩き込まれる。
 日本は敗戦国である。その際に戦争は悪であると叩き込まれる。しかし原爆も悪であれば大陸侵略も悪であり、相互に悪を発動させる戦争に於いて自民族軍の都合を優先させることはどの国も同じである。南京大虐殺は中国側による誇張もあると近年日本人は考え始めている。それは全く間違っているとも言えないが、依然日本軍の所業を正当化すべく余地もない。勿論日本人自身が私も含めて対外的悪をも含めて領土と民族の独立を保持してきたことに感謝の念を抱くことは自由だし、権利である。しかしそれはどの民族にも内在する心理であるし、その「どの民族も」という観点こそが公的基準への倫理的要請である。
 「~しなければいけない」は公的基準の倫理的要請に於いて考えられる。それは現実生活に於いてである。国家というものが自民族という意識を植え付けるが故に、国家間という観念も生じるのだ。
 「~したい」も従って第二次欲求以降のものは、単純な欲望の充足ではなくなる。そこにはしかし同時にヒロイズムやナルシシズムも介在してくる。自らの本能的欲望を抑制する自己犠牲にはヒロイズムとナルシシズムも無縁ではいられないからだ。
 しかし生まれもって制限された条件でしか生を全う出来ない運命の者も当然世の中には存在する。そういった自分自身の立たされた生まれてきた時からの条件、つまり環境やDNAに対して感謝の念を持つことは重要だが、どの人類の個人、生物物理学的には個体も全て固有であるが故に権利的理念的平等の下に捉えられる。
 勿論権利的理念的にそうであるかが実質的に社会内存在としては不平等であるという現実と同伴している。従って「~したい」や「~しなければいけない」ということは当然こういった社会内不条理や矛盾を前にして重複させなければいけないという感覚で臨まれる場合もあるし、極自然にそういった感情に包まれることもある。
 つまり第二次欲求は哲学倫理学的要請というものが何か固有の専門家の間でだけ共有されるべきではない、という形で各国家成員に於いて自覚されることが自然であるということを誰しも否定し得ないという地点での思考や思惟を常に促進するものとして考えられ、そこからあらゆる個別的実践がなされるのだ、と言ってよいだろう。
 つまり対話や会話が「何かの為の手段」ではなく、それ自体が目的化されたものとして考えられる地点から許容され、それを無駄であるとか不合理であると捉えることがないという認識(もしそんな認識があれば、それこそが貧困な考えだと見做せる様な認識)に於いて考えられる社会は国家成立以降であり、その国家体制のあらゆる試行錯誤に於いて有史以来の人類史を考えることが出来る。そしてそれは国家的危機に直面した時代であればあるほど、精神的余剰を排除してはいけない、或いは「今そんなことを楽しんでいる時代ではない」という押し付け的意見を胡散臭いと言って憚らぬ意志も又求められていると言えるのである。

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