Sunday, February 26, 2012

第二十四章 「~したい」と「~しなければいけない」から考える文明的発展プロセスとその事実への懐疑Part1

 経済社会、つまり貨幣経済による交易や売買は国家成立以前に既に人類に於いて実践されていたとされる。このことは例えば最も基本的なまず食べて生活していく、何処かに定住して職業を持って、それで金銭的遣り取りで生活必需品を入手するという生活形態が定着してからの人類の普遍的な行為である。しかし何故それだけでよくて国家という規模の法的規制が人類にとって必要だったのだろうか?
 もし我々は基本的に何処かに住んで、食料を摂取して生活していくという欲求を第一欲求と名づけるなら、それは言語上では「~したい」ということの基本だと言ってよかろう。食べて生活していく為に仕事をする。そしてその折に金銭的な報酬を得る。そしてそれで生活必需品を購入するというシステムが紙幣などが発明される以前に確立していて、麦による貨幣交換行為から純粋銀貨(ギリシャ時代)、そしてそれを薄めた鋳造システムによるコイン(ローマ時代)といったものを経て、中世、近代を経過して現代へと至る過程では帝国であれ共和国であれ何であれ国家形態というものが確立して、国交ということが成立し、その間に軋轢や共同戦略などの全てが世界史で散見される。
 しかし何故敢えて国家形態が必要とされたかと言うと、それはある部分では金銭に換えられないものとしての価値というものへの着目が人類の先験的能力として備わっていたからだ、と言うことも出来る。
 「~したい」は極基本的な生活を成り立たす為のものである内は価値以前的なことである。食べたい、住みたいという欲求は、それを満たす為の就業という行為が求められ、それは止むに止まれぬ以前に強制的に全ての成員を放り込む。
 しかしそれが一定程度充足されると、今度は只管金銭を獲得する為だけに生活しているわけではないという反省も齎される。確かにいい家に住みいい食事をする為に必要な全てはある程度金銭的交換価値から獲得出来る。それこそが第一次欲求のある部分では果てしない欲望を我々に自覚させる。そしてそれは現代社会での金権政治から資本主義的退廃の全てを招聘してきた。その間に戦争なども勃発してきたわけだ。
 しかし人間は脳科学的にも証明されているが、腹側線条体などによる発火現象が他人の幸福を確認した時に得られるということからも、正義的、道義的な価値というものを嗜好する傾向を先験的に持っていると言える。
 例えば認知的不協和の軽減などの心理学実験からも判明している様に人間は報酬額の大きさだけから価値を判断していない。明らかに少ない報酬で必死に考えて得たことからの方が脳内発火現象的にも「喜び」を得ていることは既に証明されている。
 これは人類が一定程度の他者に対する優位を得たいということで必死に仕事でも何でも頑張るということに於いて本性的悪を発動せずに進化してこられなかったという事実以外にもう一つ、しかし本性的悪だけでも人類は満足してこなかったという事実をも我々に認めさせずにはおかない。
 金銭的高低、報酬額といったことに左右されない、それどころか報酬がより少ない或いは完全なるヴォランティア的状態でなければ満足しないという側面も人間にはある。これを仮に第二次欲求と呼ぼう。
 すると第一次欲求が一定程度充足される状態が維持されることの中で、次第に我々は初期段階、つまり第一次欲求充足如何での段階で「~したい」と考えていたことは第一次欲求充足とその維持に伴って「~」の部分で大きな変換をきたすことを証明している。
 それは価値的なことであり、物理的な自己欲求充足とは違うレヴェルのことである。例えば芸術などを鑑賞したいということもこの内に含まれる。勿論現代社会ではこの芸術などにも金銭は絡むが、本質的にこれは基本的生活維持という観点での第一次欲求ではない。既にある者にとって価値であっても別の者にとってはそうではない、或いはそうである必要もないし、その様に強制されないという自由選択の問題であり、その段での欲求を第二次欲求と呼ばずして何と呼ぼう。
 そしてそれは「~したい」ということの「~」の部分の本質的移行、転換を意味する。
 しかしこの移行過程で我々はもう一つの事態に遭遇する。ある者にとっての価値と別のある者にとっての価値が違っていいということの内にある価値観自体の衝突や対立は実は生活が安定化した段階での各社会成員の間での均衡というものを破壊する傾向へと社会を持ち込む。そこで必要とされるものは各利害調整的な法であり、法整備されることを可能化しやすい合理主義的なものとして国家という形態が必要とされる。その時我々は常に「~したい」ということだけでなく、「~しなければいけない」ということを巣食わせていくこととなるのだ。
 これは外部的な自己に対する強制による不可避的言語上での進展である。
 勿論言語学的にも哲学的にもこの「~したい」と「~しなければいけない」ということは同時的に認識されていた筈だということは言えよう。勿論それは正しい。しかしそれは少なくともギリシャなどのポリス国家群発生以降に定着していった考えであり、それ以前的には「~しなければいけない」は法整備的なこと(勿論それは貨幣経済施行ということの内にも在った筈だし、もっとそれ以前的にも殺人などに対して在っただろうが、それは国家法的なことではなく見せしめとか不文律的なことであったとも思われる)から派生する以前の親族内のみでの言語上での発信秩序である。
 道徳的倫理的な内的な根拠に基づく「~しなければいけない」は確かに国家法整備的な秩序に従わねばならぬということから派生するその構造とも違おう。しかしそれは少なくとも他人と顔を突き合わせたり、擦れ違ったりすることが珍しいことではなくなる段階での都市空間整備以降の他人へ向けて発信されるその謂いと、それ以前的な親族間でのその謂いとでは本質的に全く内的な意味での発信行為的意味でも違おうが、前者はある程度国家成立以降でこそ成立していくと私は考えるのだ。
 第二次欲求はしかしある部分では完全に定着していくのは、この他人と擦れ違うことが当たり前となっていく社会形態以降であると考えられる。何故ならそれは第一次欲求的なことで、その実現へ向けて発進される仕事の確保とか居住空間の確保というプロセスだけでは成立し得ないとも言えるからだ。ところがある一定程度の社会的地位や生活維持能力に伴って日常的平和を獲得すると、我々の意識は自分と同じ様な状態を獲得している他者全般へと意識が向かう。そこに対話とか会話も成立する。
 そこで第二次欲求として他者と運命を共にする、とか他者と金銭的にもだが、それ以外の価値的な共感としても協力し合うとかの、要するに同僚関係から友情に至る迄の獲得欲求を生じさせる。先程述べた芸術などの鑑賞とは実はこういった他者との共同的価値、価値共有、と言うことは社会内では価値を共有し合えない成員も大勢居るし、それらの他者との折り合いという形での対人的なメソッドも考案していく必要に迫られるということを意味するが、要するに他者との共存という形でのみ発生する価値という位相から捉えられるべきものなのである。そして文化とはここから熟成への道が用意されている、と言えるのだ。
 するとここで次の様な図式が考案される。

第一次欲求の充足の為の貨幣経済→第一次欲求充足→第一次欲求充足の為に必要とされる都市空間の成立※→その都市空間で出会う他者との間の対話の成立→他者との間で親族間や家族内でだけ通用すること以外の価値の共有

※<第一次欲求充足→第一次欲求充足の為に必要とされる都市空間の成立、の段階での様々な貨幣経済上での不正などが国家秩序成立を促したと捉えることは取り敢えず可能である。>

 つまり我々が「~したい」ということの「~」の内容の進化と変転と、「~しなければいけない」ということの親族間での不文律的なことから他者をも巻き込み、或いは親族家族内での秩序とは別個の社会内存在としての価値規範から勘案される「~」の内容の進化と変転というものが共に考えられることとなろう。
 そしてもしジャレド・ダイアモンドの主張する(「銃・病原菌・鉄」)様に部族社会、首長社会から国家へと法整備的な追従自体が進化していく過程から考えれば、我々が現在「~したい」やら「~しなければいけない」と考えている極感性的な余暇に旅行をしたいとか観光名所を訪れたいとか、仕事を終えてから同僚や友人と共に飲食をして過ごしたいとかの欲求は第二次欲求であり、それは一つの都市空間定着後の文化的営みということとなり、それは必然的に他者間で成立する価値規範、そして意思疎通的にも倫理的思想的にも、あくまで無私的な部分、つまり親族内エゴイズムとは本質的に異なった位相にある内的自覚であると言えよう。
 それは仮に思想信条的にも個人的な価値規範でも違える他者とも妥協的に時には共同していかなければいけないという意味での「~しなければいけない」ということの親しい間柄での告白ともなろうし、国家法という形で我々が好むと好まざるとに関わらず関わらずにはいられない納税義務とか様々な形での市民としての義務という位相での言語上での発信ということになろう。
 「~したい」ということも確かに独身者にとって結婚したいということが原初的なことである様な意味では既婚者にとってはそれはある程度充足されている(勿論現代社会ではそこに既に不協和の様な心理的事態が発生していて、離婚とか色々な事態も在り得るわけであるが、それでも一応進化的には充足されると捉えるとして)のでより高次の段階へと欲求が進化し、それが第二次欲求であると言える。そこに友情とか余暇で過ごす趣味の時間、自分自身が社会的に強制される(引越しをする時に住民票を作る様な意味での)ことではない自由選択的な価値という問題が全て存在する。
 そしてそれは貨幣経済が交易交換行為が定着して以降複雑な分業システムに社会が移行して、その合理的社会機能維持の為に国家が成立し、国家観、国民意識、民族意識が成立して以降とみに顕在化し、明確化する価値によることである、ということは今日趨勢である、と思われる。
 次回は言語行為上でどの様にこの第一次欲求から第二次欲求充足のプロセス進化に於いてその質的違いが顕現されているかということを言語現象学的に、言語分析哲学的に考えてみよう。

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