Tuesday, November 15, 2011

第二十二章 時代的転換期から考える人類の将来Part4 オタクを成立させる土壌とは何か?

 オタクという語彙は日本にしかない。何故なら例えばアメリカという国はある部分極めて絶対主義的(シュプレマティズムとアートでは言うが)であり、且つプラグマティックな実力主義社会であるから、必然的に個人が個人に固有の能力である限りではマニアックであるくらいが常識なのであり、それを一々語彙化する必要などないからである(しかしアメリカはその熾烈な能力実力主義に対する解毒作用として宗教心が深く根差しボランティアが発達している)。
 従って日本の様なある程度お上から通達される「これよかれ」とされるモラルとか価値観から個人内部で逸脱するものをオタクと言う事で、何かそこに新たな価値が見出せるかも知れないと模索してきたここ十数年の間のサブカルチャーから発せられたムーヴメントは、それだけ日本がお上通達的枠組みに縛られてきたという事を意味している。
 だから例えばアメリカでは個人内部で価値とされる事に熱中するという事実に対して何か固有の隠微さも、マニアックさなども全くないと言っていい。つまり日本人にとってのオタク的心理には少なくとも日本人自身からすれば何処か後ろめたい、隠微で背徳的な匂いがあるのだ。そしてそこにそこはかとない美学を感じ取っているとも言える。それは例えば性とは包み隠すものであるという意識があるから、逆に女性の着物を剥ぎ取っていく事に愉悦がある様な意味で公に於いて却って承認を得ていない事の方に心理的な価値が置かれるという事も見逃せない。
 しかしオタクである当人とかその共感者の間では隠微さも陰湿さも背徳性もない。それを価値として受け取る当人達にはそれは極自然なことである。だからこういうことをもお上は価値としては認めてこなかったという抵抗の意図、或いは極めて皮肉めいたお上通達依存性への侮蔑がオタクカルチャー的世界の享受者にはある。いやあった。かつてその抵抗の意図を理解した人が例えば東浩紀だったりしたわけだ。
 しかし寧ろここ十数年の間の世界のウェブサイト上での様々なディヴァイスやツールや端末種の進化自体は既にかつて考えられた非オタク的なるものへの激しい侮蔑を象徴していると言えないだろうか?
 例えば価値としてこれこれこういうことは公にしていいし、これこれこういうことは陽が当てられて然るべきであるとする倫理や通念からすれば陰湿で根暗とされるカルチャー自体が、そのカルチャーを自然なものとする人達にとって、それでも公ではなかなか認められないから自嘲的にネクラという語彙を自分達を定義する上で発生させてきた背景に、それだけ価値自体が固定化して無味乾燥なものであったという批判がある。それはそう直に告げることなくカルチャーの増殖によって示されている。
 仮に野球を観戦するのが凄く好きであっても、異様にキャッチャーに意識が釘付けになるという見方も一種のオタク的精神である。要するに何か関心ある対象が異様なもの、奇異なもの、一般の人達が関心を注がないことというだけではなく、皆が関心を注ぐ対象の中のどんな要素に意識がかかりきりになるかによってオタク度が推し量られるとしたなら、オタクではない普通の見方が一番存在理由のない陳腐な見方だということにもなる。
 しかしそういったオタクが珍奇な存在として言われてきた時代は去りつつある。

 私がこの世に生まれた時当然ながらPC端末も携帯電話もなかった。しかし今の青年達の大半は生まれた時既にそれらが存在した。そして今赤ん坊である子供達は生まれた時既にスマホ等それら端末全部が揃っている。彼らはそれらを直ぐに使いこなす。今の子供は情報摂取に於ける記号的理解にあざとい。それは私達の世代が子供の頃とは大きく異なる子供の感性である。
 その感性の到来を示したアーティストが村上隆だった。彼は生の賛歌を既に実際の自然観察に於いてではなくアニメやサブカルムーヴメントそれ自体に見出して、その出会いを物語性として捉えた。その捉え方自体も記号的理解を前提としたものだった。それが現在の子供達にとって自然であると多くのコレクター達が判断したからこそ、世界的アーティストとして君臨出来たのだ。村上を知った青少年達の中のアートサークルの人達は、そこからウォーホルなどの存在に次第に系譜的に遡行してアート史を理解していくだろう。
 人は文学に目覚める時歴史的経緯に沿って関心を持つわけではない。例えば日本文学に目覚めた青少年はまず現代の文学の何がしかから影響を受け、然る後その文学者が影響を受けた前世代の作家に目を留め、次第に系譜的に理解していく。その中で少数の者だけが自分でも小説などを書こうとする者も現れ、中には文学史に関心を持ち文学研究者になっていったりする。
 同じ事は端末利用にも言える。端末の利用の仕方にあざといグッドユーザーは現代のプログラマー達の意図を即座に理解してどんどん巧くビジネスに応用してカスタマイズしていく。それは子供の内からそれらに習熟している人の中から現れる。
 同時に実際にその中には実際に現代のスマホがどの様な経緯でこの世界に登場したかを考える様になるだろう。しかしそれ以前にまず機器を使いこなす段階がある筈だ。その際にはコンピューターの歴史をチューリングマシーンからノイマン型、エニアック、MS-DOS、オフィス2000などと順を追って理解しているわけではない。それは文学に目覚めた少年少女が平安時代から時代順に読み物を読んで理解していったのではないのと同じだ。
 そしてその中で幾人かはビジネスにそれらを利用し、幾人かは機器製造の歴史に関心を持ちプログラマーなどになっていくだろう。
 だがプログラマーは自分で作った機器に耽溺しない。それをマニアックに使いこなす事には関心がない。それはグッドチェイサーたるグッドユーザーに任せておけばいい。従って必然的にグッドユーザーだけが最先端のプログラマー達による新開発された端末機器利用に習熟していく。
 現代は既にサブカルチャーオタクは大勢居るが、その中で際立ってカルチャーの内容に明るい人は極限られる。しかしサブカルオタクという存在規定自体が古びてくれば、かなり流動的であるはあるだろうが、グッドレシーヴァーはコンスタンツに出現していくだろう。
 東浩紀は哲学科出身の批評家なので、必然的に受け手に対する送り手の意識で全ての評論を書いている。それは「動物化するポストモダン」から「ゲーム的リアリズムの誕生」迄一貫している。しかし宇野常寛はそうではない。彼は既に受け手としての生活に全ての論旨を置いている。この違いは大きい。つまり宇野は既にウルトラマンであれ仮面ライダーであれリトル・ピープルであれ全て受け手の視点から書いている、つまり純然たるプロ批評の取るスタンス自体を採用していず、それらを受け手として享受するサブカルや文学オタクの立場から書いている。郊外文学が受け手にとって自然な環境であるという視点で文学も捉えている。
 それは最新の機器を開発するプログラマー達の視点ではないということを意味する。例えば最新機器を開発するプログラマーは最高に習熟したグッドユーザーの意見を取り入れる。彼らは常に新機種を開発する事に忙しく、一旦市場に出された全ての機器利用の利便性まで習熟しているわけではない。第一余りにも多くのアプリが存在するので、開発者自身が全ての利便性を知る事が出来ない。だが各アプリ毎に異なったニーズに対応したグッドユーザー達は次第に一旦市場に出された機器の利便性に応じて全機器に売り上げに於いてヒエラルキーを作っていく。それをプログラマー達は指標にして新たな機器開発へと勤しむ。
 宇野が評論家としては東批評の持つ受け手一般のリアリズム的感受の違いを送り手達がどう反応していったかという視点からではなく享受者の立場で書いていているのと同じ様に新情報端末機器開発者達を誘引しているのはグッドユーザーである。それは生まれた時点で既にスマホなどが全て登場していた世代が大人になる頃にはより加速化しているだろう。
 従ってオタクという語彙をより初期に使用した東批評的世界は既に時代的役割を終えて、今宇野評論が情報機器端末のグッドユーザーの様にサブカル、文学マニアの立場から送り手の意識を誘引していく様な文化の在り方こそが普通になっていった時、我々の生きる現在の時代ではオタクという語彙自体が死語になっていく事だけは間違いない。つまりPC端末利用を一切しない老齢者が居なくなっていた時既にこのオタクという語彙も死滅する。
 だからオタクを成立させる土壌とは全ての機器開発やサブカル、文学創造等が送り手の視点からのみ成立していた時代に於いてであり、受け手のグッドユーザーによる誘引という時代様相に於いてはオタクが成立する基盤がなくなるのだ。何故ならある機器や作品を享受するのが極一部の人達だけである時代などとっくに彼方へと後退しているからである。
 これからの時代のエリートは生まれた時、幼い時から馴染んできた機器や文化の受け手の中から時々出現するその機器開発の歴史や文化の歴史にまで視点を移行させていく中で登場する開発者だけでなく、寧ろそれ以上にグッドユーザーの中から次代の開発目標を探し当てる事が出来る(それによって開発者を刺激する)天才である。そしてそれは既にオタクという隠微な響きなど不要な真の意味での機器や文化に対する理解者、習熟者という言わば言語解析者なのである。そしてそういったエリートが出現しやすい環境を整備する意味でもオタクという語彙を死滅させていく必要があるのである。

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