Tuesday, November 15, 2011

第二十二章 時代的転換期から考える人類の将来Part4 オタクを成立させる土壌とは何か?

 オタクという語彙は日本にしかない。何故なら例えばアメリカという国はある部分極めて絶対主義的(シュプレマティズムとアートでは言うが)であり、且つプラグマティックな実力主義社会であるから、必然的に個人が個人に固有の能力である限りではマニアックであるくらいが常識なのであり、それを一々語彙化する必要などないからである(しかしアメリカはその熾烈な能力実力主義に対する解毒作用として宗教心が深く根差しボランティアが発達している)。
 従って日本の様なある程度お上から通達される「これよかれ」とされるモラルとか価値観から個人内部で逸脱するものをオタクと言う事で、何かそこに新たな価値が見出せるかも知れないと模索してきたここ十数年の間のサブカルチャーから発せられたムーヴメントは、それだけ日本がお上通達的枠組みに縛られてきたという事を意味している。
 だから例えばアメリカでは個人内部で価値とされる事に熱中するという事実に対して何か固有の隠微さも、マニアックさなども全くないと言っていい。つまり日本人にとってのオタク的心理には少なくとも日本人自身からすれば何処か後ろめたい、隠微で背徳的な匂いがあるのだ。そしてそこにそこはかとない美学を感じ取っているとも言える。それは例えば性とは包み隠すものであるという意識があるから、逆に女性の着物を剥ぎ取っていく事に愉悦がある様な意味で公に於いて却って承認を得ていない事の方に心理的な価値が置かれるという事も見逃せない。
 しかしオタクである当人とかその共感者の間では隠微さも陰湿さも背徳性もない。それを価値として受け取る当人達にはそれは極自然なことである。だからこういうことをもお上は価値としては認めてこなかったという抵抗の意図、或いは極めて皮肉めいたお上通達依存性への侮蔑がオタクカルチャー的世界の享受者にはある。いやあった。かつてその抵抗の意図を理解した人が例えば東浩紀だったりしたわけだ。
 しかし寧ろここ十数年の間の世界のウェブサイト上での様々なディヴァイスやツールや端末種の進化自体は既にかつて考えられた非オタク的なるものへの激しい侮蔑を象徴していると言えないだろうか?
 例えば価値としてこれこれこういうことは公にしていいし、これこれこういうことは陽が当てられて然るべきであるとする倫理や通念からすれば陰湿で根暗とされるカルチャー自体が、そのカルチャーを自然なものとする人達にとって、それでも公ではなかなか認められないから自嘲的にネクラという語彙を自分達を定義する上で発生させてきた背景に、それだけ価値自体が固定化して無味乾燥なものであったという批判がある。それはそう直に告げることなくカルチャーの増殖によって示されている。
 仮に野球を観戦するのが凄く好きであっても、異様にキャッチャーに意識が釘付けになるという見方も一種のオタク的精神である。要するに何か関心ある対象が異様なもの、奇異なもの、一般の人達が関心を注がないことというだけではなく、皆が関心を注ぐ対象の中のどんな要素に意識がかかりきりになるかによってオタク度が推し量られるとしたなら、オタクではない普通の見方が一番存在理由のない陳腐な見方だということにもなる。
 しかしそういったオタクが珍奇な存在として言われてきた時代は去りつつある。

 私がこの世に生まれた時当然ながらPC端末も携帯電話もなかった。しかし今の青年達の大半は生まれた時既にそれらが存在した。そして今赤ん坊である子供達は生まれた時既にスマホ等それら端末全部が揃っている。彼らはそれらを直ぐに使いこなす。今の子供は情報摂取に於ける記号的理解にあざとい。それは私達の世代が子供の頃とは大きく異なる子供の感性である。
 その感性の到来を示したアーティストが村上隆だった。彼は生の賛歌を既に実際の自然観察に於いてではなくアニメやサブカルムーヴメントそれ自体に見出して、その出会いを物語性として捉えた。その捉え方自体も記号的理解を前提としたものだった。それが現在の子供達にとって自然であると多くのコレクター達が判断したからこそ、世界的アーティストとして君臨出来たのだ。村上を知った青少年達の中のアートサークルの人達は、そこからウォーホルなどの存在に次第に系譜的に遡行してアート史を理解していくだろう。
 人は文学に目覚める時歴史的経緯に沿って関心を持つわけではない。例えば日本文学に目覚めた青少年はまず現代の文学の何がしかから影響を受け、然る後その文学者が影響を受けた前世代の作家に目を留め、次第に系譜的に理解していく。その中で少数の者だけが自分でも小説などを書こうとする者も現れ、中には文学史に関心を持ち文学研究者になっていったりする。
 同じ事は端末利用にも言える。端末の利用の仕方にあざといグッドユーザーは現代のプログラマー達の意図を即座に理解してどんどん巧くビジネスに応用してカスタマイズしていく。それは子供の内からそれらに習熟している人の中から現れる。
 同時に実際にその中には実際に現代のスマホがどの様な経緯でこの世界に登場したかを考える様になるだろう。しかしそれ以前にまず機器を使いこなす段階がある筈だ。その際にはコンピューターの歴史をチューリングマシーンからノイマン型、エニアック、MS-DOS、オフィス2000などと順を追って理解しているわけではない。それは文学に目覚めた少年少女が平安時代から時代順に読み物を読んで理解していったのではないのと同じだ。
 そしてその中で幾人かはビジネスにそれらを利用し、幾人かは機器製造の歴史に関心を持ちプログラマーなどになっていくだろう。
 だがプログラマーは自分で作った機器に耽溺しない。それをマニアックに使いこなす事には関心がない。それはグッドチェイサーたるグッドユーザーに任せておけばいい。従って必然的にグッドユーザーだけが最先端のプログラマー達による新開発された端末機器利用に習熟していく。
 現代は既にサブカルチャーオタクは大勢居るが、その中で際立ってカルチャーの内容に明るい人は極限られる。しかしサブカルオタクという存在規定自体が古びてくれば、かなり流動的であるはあるだろうが、グッドレシーヴァーはコンスタンツに出現していくだろう。
 東浩紀は哲学科出身の批評家なので、必然的に受け手に対する送り手の意識で全ての評論を書いている。それは「動物化するポストモダン」から「ゲーム的リアリズムの誕生」迄一貫している。しかし宇野常寛はそうではない。彼は既に受け手としての生活に全ての論旨を置いている。この違いは大きい。つまり宇野は既にウルトラマンであれ仮面ライダーであれリトル・ピープルであれ全て受け手の視点から書いている、つまり純然たるプロ批評の取るスタンス自体を採用していず、それらを受け手として享受するサブカルや文学オタクの立場から書いている。郊外文学が受け手にとって自然な環境であるという視点で文学も捉えている。
 それは最新の機器を開発するプログラマー達の視点ではないということを意味する。例えば最新機器を開発するプログラマーは最高に習熟したグッドユーザーの意見を取り入れる。彼らは常に新機種を開発する事に忙しく、一旦市場に出された全ての機器利用の利便性まで習熟しているわけではない。第一余りにも多くのアプリが存在するので、開発者自身が全ての利便性を知る事が出来ない。だが各アプリ毎に異なったニーズに対応したグッドユーザー達は次第に一旦市場に出された機器の利便性に応じて全機器に売り上げに於いてヒエラルキーを作っていく。それをプログラマー達は指標にして新たな機器開発へと勤しむ。
 宇野が評論家としては東批評の持つ受け手一般のリアリズム的感受の違いを送り手達がどう反応していったかという視点からではなく享受者の立場で書いていているのと同じ様に新情報端末機器開発者達を誘引しているのはグッドユーザーである。それは生まれた時点で既にスマホなどが全て登場していた世代が大人になる頃にはより加速化しているだろう。
 従ってオタクという語彙をより初期に使用した東批評的世界は既に時代的役割を終えて、今宇野評論が情報機器端末のグッドユーザーの様にサブカル、文学マニアの立場から送り手の意識を誘引していく様な文化の在り方こそが普通になっていった時、我々の生きる現在の時代ではオタクという語彙自体が死語になっていく事だけは間違いない。つまりPC端末利用を一切しない老齢者が居なくなっていた時既にこのオタクという語彙も死滅する。
 だからオタクを成立させる土壌とは全ての機器開発やサブカル、文学創造等が送り手の視点からのみ成立していた時代に於いてであり、受け手のグッドユーザーによる誘引という時代様相に於いてはオタクが成立する基盤がなくなるのだ。何故ならある機器や作品を享受するのが極一部の人達だけである時代などとっくに彼方へと後退しているからである。
 これからの時代のエリートは生まれた時、幼い時から馴染んできた機器や文化の受け手の中から時々出現するその機器開発の歴史や文化の歴史にまで視点を移行させていく中で登場する開発者だけでなく、寧ろそれ以上にグッドユーザーの中から次代の開発目標を探し当てる事が出来る(それによって開発者を刺激する)天才である。そしてそれは既にオタクという隠微な響きなど不要な真の意味での機器や文化に対する理解者、習熟者という言わば言語解析者なのである。そしてそういったエリートが出現しやすい環境を整備する意味でもオタクという語彙を死滅させていく必要があるのである。

Sunday, November 13, 2011

第二十一章 時代的転換期から考える人類の将来Part3

 私は毎日自宅で研究並びに詩作する生活をしているので、当然ながら日本国内のことしか具には語れない。従って本ブログで語る人類学的な予測はあくまで私自身の主観である。そして多くの日本人は海外の著名な哲学者や思想家、批評家の言う事なら傾聴に値するが、そうでない無名の市民のものは少なくとも権威化された価値はないので、適当に聞き流しておこうと思うだろう。それはしかしある程度は致し方ないことではあるものの陥穽でもある。率直に学者一般は知名度が上がれば確かに文明一般への提言を求められるが、それは確かに知性的な意味では的を突いていると言える部分はあるものの、やはり専門家としての偏り、つまり一般的視点から見て妥当ではない判断も多いと考えていた方がいい。
 例えばフロイトにせよアインシュタインにせよ、彼等の確立した学説は偉大であっても、同時に彼等の思想的提言迄が優れて歴史的価値があるとは限らない。
 しかし今回は日本社会の現況から見てネガティヴな意味でこのままその点が改善されないままで居たなら、どういう様相で未来の社会がなっていくかという面から考えてみたい。

 日本では小泉構造改革以降明確に変化した事実がある。それは端的にエリート養成に於ける一般市民からの提言を阻止するという不文律が確立された事である。
 要するに規制緩和路線の前提的な社会意識が東大を頂点とするエリート養成に関しては批判一切をご法度にしてきたという事だ。これが学界全体を支配するアカデミズム、つまりexclusiveな一部のインテリ達だけによる決済、つまりその理解を一般市民がしていくこととは関わりなくエリートはエリート内部だけで純粋培養されていって然るべきであるという思想である。元来アメリカはそういった視点から社会基盤が成立してきた国家であるが、日本はそれを完全に踏襲してきたという事だ。
 この点では東大出身の全ての著名論客に例外なく垣間見られる態度である(宮台真司、中島義道、東浩紀、斉藤孝、茂木健一郎その他大勢居る)彼等は基本的にエリート学者としての上から目線を社会的追随的にも反社会的にも一見正反対に見えながらその実全く構造的には特権意識の上でものを述べている。僅かに批判的視点を携えている人は東大出身者では立花隆氏と姜尚中氏くらいである。
 かつて東大教授を担当した建築家の安藤忠雄氏は東大生は受験勉強だけに明け暮れてきたので、必然的に人の気持ちが分からない歪な性格の学生が多いとテレビでもはっきりと述べていた。これは東大生一般に言える事なのである。従って東大出身者とは真実のエリートコースから脱落した人にとってはかなり熾烈な人生のドロップアウトが約束されている。それはオウム真理教に東大出身者が大勢居た事からも理解しやすいことではないだろうか?つまり一般企業では東大出身であるというだけで特権的意識を持って全てに(社会に対してさえ)臨んでいる新入社員は使い物にならないという不文律があって、従ってソニーの様な一切の学歴を伏せて新入社員を採用する企業以外では東大出身者であると分かった段階でリストから外すということは常識である。
 にも関わらず未だにトップエリートは東大学閥が最も多く人脈を構成している。東大以外の有名大学では慶応、早稲田、京大などがやはり多いが、慶応大学は圧倒的に経営者、早稲田と京大は東大に対するアンチ意識が比較的強い反体制的エリートを多く輩出してきた。
 しかしもっと問題として取り上げたい事は、こういった一般企業とか一般社会とエリート達との間の分裂した様相が実際の政治経済にも大きく影響を与えている事だ。
 つまりもしかなり悲観的に日本の将来を考えるとすると、それは極度に分極化した社会の到来が益々加速化するという事である。勿論只単に文化的な美とか偉大な芸術作品を産出させるという観点から述べるなら社会様相が安定化していず不安に支配されたり、極度の差別構造があったりした方がいいのかも知れない。事実「風と共に去りぬ」などの名作の背景には南北戦争があったわけだし、ハイデガーやサルトルなどの偉大な哲学の背景には戦争や不況といった現実があったわけだ。つまり戦争による退廃的気分とか歪な差別構造が「ルーツ」やカウンターカルチャーでの偉大なロックミュージックなどを生んできたという意味では社会の不安定要因は却って個としては偉大なる文化的遺産を生む契機でさえある。
 しかし社会全般から言えばやはりそういった人類の危機は回避させたいものである。何故なら極度に結論すれば人類がもし明日にでも絶滅するなら、却って真に偉大な思想や哲学はそういった様相から必ず生まれると思われるからだ。しかしそれを全ての人類が望んでいる筈はない。
 私が懸念する社会の到来は極度に全ての知に対して分極化した社会の到来である。それは電子機器利用に関してまず既に予兆している。実際に今販売されている全ての電子機器を一切のカスタマイズせずに購入し利用したらかなり高額な回線無線使用量を取られる。従ってかなり用意周到に利用目的と利用意図を明確化してから初めて必要なアプリのみを自分にとって最大に利便性があって安価で利用出来る様にカスタマイズしていく必要がある。しかしそれはあくまでかなり通信全般に明るい人にのみ可能な事なのである。と言うのは真の意味で身体の移動すら覚束ない老齢者にとってそれら各種端末利用が有効に機能しているとは情報開示的にも言えない(そもそもPC端末自体利用していない老齢者は数多い)。本来なら老齢者こそ通信は利用利便性を享受すべきであるのに、である。
 ウェブサイト、通信全般の上級ユーザーとはそれ自体存在様相としてはエリートなのである。それと全く同じ構造が学閥的学問のアカデミズムにも言えて、一体専門家がどの様な研究をして、日々学問全体がどの様に展開し進化しているかなどということは一般市民には情報開示的にはなかなか分かり難い様になっているのだ。又その為の啓蒙機関も良心的な形で、つまり安価で時間をゆっくりかけて行える機会は極めて少ない。つまり老齢者人口が益々増加していき生涯学習が叫ばれている割には依然専門家による仕事自体の啓蒙は極めて限定的なのである。
 ある程度アカデミックな教育を良心的なカルチャーセンターや著名文化人主催の私塾などで受けた人であるなら、最初に述べた様に有名学者とか偉人であっても見識的には誤りがある場合がある(例えばジョージ・バーナード・ショー<劇作家>はナチスを初期は支持していた)という懐疑主義を容易に携え得るだろう。しかしそういった見識を持たない市民は昨今の極度のTPP参加に対するアレルギーに見られる様に(或いは遺伝子組み換え食品に対する極度のアレルギーに見られる様に<この部分では日本人は完全にシャーマニズム民族性を露呈している>)偏見に満ち満ちた、しかしそれでいて異様に権威化された存在に対しては無自覚無条件に信奉するという態度を形作っている。
 しかし概してそういった教育機関は昨今の不況状況ではかなり経済的余裕のある人しか受講出来ない。しかも毎年東大その他の著名大学からは院生を卒業させてきているので、そういった若手講師をどんどん講師採用しているが、しかしそれらのトライアル自体を理解出来るだけの情報を一般市民は持っていない。この点でもいきなり高度な講義内容に接して一回はそういった講義を利用しても再度そういった場所に行く事を断念してしまうケースも多く見受けられる。
 要するに電子機器利用に関しても学問に関しても上級者と下級者との間のリテラシーディヴァイドは益々開くばかりなのである。そしてこういった開きが顕在化していき、その事実への反省がないままに現況が進展すれば、やがて社会は全てに関して二極分極化構造を呈する様になろう。
 それらのペシミスティックな予想から我々が教訓として学ぶべきは、実はいい意味でのオタク性、評論家である宇野常寛の主張する様な意味での個人的な趣味の延長上での追求という事自体も今よりももっと啓蒙されていて然るべきである。しかし当然の事ながら同じ様に青年世代や中年世代と老齢者がそういった命題に意識的であるかと言えばそうではない。つまりこの世代間ツール、オア、デヴァイスリテラシーディヴァイドの軽減をどうしていくべきかという事を、啓蒙機関並びに啓蒙者の育成と共にどう対処していくべきかという事が現在社会の二極分極化社会のいい意味での到来を阻止するウィズダムを養成していくものと私には思われる。
 次回はいい意味でのオタク性とはどういうもので、それは如何にして社会で共有され得る意識にしていくべきか、に就いて考える。

Monday, October 3, 2011

第二十章 時代的転換期から考える人類の将来Part2

 前回私はフェイストゥフェイスな対人関係はここぞという時の関係者内での意思決定、合意ではなくなりはしないと述べた。しかしその意思決定は常に結果だけ知らされ情報開示されることで批判に晒される。そして直ぐにその決定が好ましいか否かが判断される。そういう社会に益々人類は突入していっている。もし余りにも芳しくない結果が情報として齎されたならカダフィの様な運命を結果を出した責任者は辿ることになるだろう。
 それは既に文字情報が瞬時に駆け巡る世界の構造に於いて極めて自然である。

 又前回最後に述べた北海道と沖縄の文明的違いであるが、総じて全国が沖縄化していくことはあり得ないだろう。つまり地域共同体の文化が濃厚に残存する沖縄流は次第に消滅していくことだろう。そして北海道流の敢えて他人には干渉しない様にしていくという相互のライフスタイル、それを前回示した様にグローバリティと呼ぶなら、まさにグローバリティに則って世界全体が機能していく道を人類は求めるだろう。
 例えば京都、大阪、岸和田、東京の下町、鎌倉などは濃厚に共同体的雰囲気が文化として残っている。しかしそれはあくまでその地域だけのものであり、他地域出身者には関係ない。そして地域的特色として田舎歌舞伎とかそういったものは全国に残っている。そしてそういった非文明化された文物に対する憧憬の念は誰しも持っている。しかしその地方文物的文化が全国規模で改めて見直されるということはあり得ないに違いない。
 何故ならそれらはあくまでその地方、地域に生まれ育った人達によってのみ育まれてきているものであり、途中から引っ越してきた人達とは無関係に営まれているからである。

 次章では再び五百年後の世界で何が残っているかを考えるが、ある意味ではコンパクトに地方地域の文物がイメージ化されて説明がつき、万人が理解しやすい様なマニュアルが全国的規模で紹介されて、そのマニュアルの利便性自体が高く評価されることはあるだろうが、全国に観光都市の持つ存在理由が広まることはない様に、それはあくまで余暇に於ける旅行プランの一環としてのみ我々に潤いを齎すものであり続けるだろう。
 総じて人類は益々グローバリティに加担していく道を選ばざるを得ない。そういった意味では沖縄に基地負担を強いてきたある種の国家全体の利益の為に一地域だけに犠牲を強いる仕方は消滅しないだろう。只時々その犠牲を肩代わりすべきであるという考えは齎され、交代するということはあるかも知れない。
 何故そうであるかと言えば、共同体的非文明的文化、文物が我々にある種固有の郷愁と幻想を与え続けていても、それらが所詮全体を構成するものではないということは、言語的特殊性にある。沖縄でしか通じない言語が日本全国の広まる可能性は薄いし、北海道は逸早くそういった地方、地域の特殊な文化を抹殺する方向で進展していった場所である。
 勿論北海道でも方言は沢山残っている。しかし北海道では東北地方ほどの訛りも固有の語彙も少ない。東京よりも方言は癖がない。それは言語学的なグローバリティを実現させてきた土地と言ってよい。

 言語とはある部分では最も特色のないものの方がより個性の強いものを凌駕して伸して行くという傾向がある。英語が世界を制覇したのはフランス語やドイツ語よりも無個性的であるからである。勿論個性を純粋客観的に査定することは出来ない。しかし少なくとも英語がフランス人によってもドイツ人によっても日本人によってもそう変わりなく使用され相互に通じるということの内には英語自体が地域的地方的特色が色濃く言語自体に反映されていないからである。勿論英語にも方言はあるし、地域毎に使われる語彙に違いはある。しかしそれでもその方言的な地域的特色や地域毎の違いが英語という言語自体に大きく影響を与える様なものではない。それは日本語でもそうである。

 しかし沖縄の方言はそうではない。そもそも琉球語自体が別の言語である。従って沖縄の方言が日本全国を制覇出来ないことに沖縄出身者が不満を異様に募らせる時とは即ち沖縄が日本から独立する時である。それが著しく沖縄の人達にとって不利益であるなら、依然沖縄は共同体的幻想を日本全国にイメージ的な郷愁として与え続けるに留まろう。

 フェイストゥフェイス的対人関係と、その密室的決裁が重要案件では支配的でも、それらは即座に情報開示されることで批判に晒されるという事実は、ある意味では時節を得た判断を益々決裁者に求められるということ以外ではない。決裁という行為が決定的なものであるのではなく、相対的に批判対象である様な時代では、トップリーダーが各界でどんどん新陳代謝するスピードを加速化していくことだろう。それは総理大臣がころころ代わる様に全ての世界でそうであるということだ。そして二度とカリスマ性を帯びた名君主が幅を利かせるということに逆行することはないだろう。 従って昨今のロシアの状況は時代に逆行しているが故にまたぞろ大統領に返り咲くプーチン氏に悲惨な最期が待ち構えていると予言する向きも多いに違いない。ロシアは北朝鮮同様、民主主義が成立し得ない国家であり民族であることは明白だ。
 すると全世界がころころと為政者が交代する日本化をきたし、それでいて時々悲惨な最期を迎える為政者を生み出すサムタイムズ・カダフィ化(チャウシェスク化でもいいし、フセイン化でもいいのだが)という歪な起伏に富んだ世界状況が未来に於いて予想される。

第十九章 時代的転換期から考える人類の将来Part1

 私が何故人類が徐々に分岐していくと予想するかというと、ここ数十年の人類の歴史の推移を見るにつけ、今現在は大きな分岐店に差し掛かっていると思えるからである。
 一つには自然環境的に世界的規模で温暖化が進行して、それがでは一体本当に人類による二酸化炭素放出が原因であるかは統一された見解はない。要するに文明自体が引き起こしたのかそうでないかの結論は出ていない。
 既に十月に入ってから雪も降ったが、この夏季から突然冬季に突入する様な気候的温度的な急激な転換が次第に春と秋をもっともっと省略する様な形で恒常化していくと、人類の感性が次第に今迄あった様なタイプのグラデーション的変化に対応するものから、突如真逆のものへと転換するものへと変化していくかも知れない。
 要するに二値論理的な論理性を益々思考習慣的に際立たせていく可能性が大である。

 世代的には日本では戦争を思春期から幼少期に体験した七十代以上の人達、戦争を全く経験していない六十代以下の人達、しらけ世代、新人類世代、就職氷河期世代と来るが、それ以後の人達にとって、ポスト就職氷河期世代以降の人達は生まれた時に既に大半の電子機器が存在した。そしてゲームソフトに馴染んでいる。彼等は恐らく八十代になってもゲームソフトを楽しむだろう。オンラインショッピングやATM使用が当たり前の世代の人達にとって実際政治的現場でもビジネス的現場でも重要な案件はフェイストゥフェイスで決定されてきていて、それは端的に密室談合的なことであり続けたにも関わらず、決定事項と連絡事項だけで成り立っているウェブサイト上での記号的遣り取りの持つ形骸的建前的な世界の様相が支配的に感性へ侵食しているとすれば、やがて一切の電子機器から得られる情報を形而上的価値のもの以外ではないものとして、真実のコミュニケーションは実際に相対する言葉の遣り取りで行うべきであるということを知る為に益々秘密主義めいたものになっていく可能性がある。
 これは昨今のマスメディア主導型世論形成、世論誘導的な社会の在り方に於いて益々一見開かれた社会、つまり情報開示社会である様に見せかけ的には振舞いながら、その実一部既得権益者、つまり政治であれビジネスであれ実権ある人達だけによって密室で決定され、しかしそれをあたかもウェブサイト上では情報開示されているものだけが真実であるかの様に振舞う情報の遣り取りが白日の下に展開されている様相を演出している、二面性を強く持った社会に移行しつつある様に思える。
 事実ニュースで報道されることはプロセスではなく全て決定されたことだけなのである。

 しかし人類の感性は今はまさに青年世代の人達だけがユースフルな機器として端末利用しているが、次第に足腰の弱った老齢者達こそがオンラインショッピングから融資、株取引等を履行する利便性の下にウェブサイトの利用用途自体が進化していき、同時にタブレット端末によって電子書籍化された文章の世界が主流化していくと、文学的詩的感性自体がウェブサイト上での文字記号の戯れに伴って進化していき、政治やビジネスに於ける一部既得権益者達によるフェイストゥフェイス的密室談合の現実と二面的に共存していくそんな時代が益々未来に対して見えてくる気はする。

 詩や文学は益々ヴィジュアライズされていくだろうし、観念的記号化されていくだろう。絵文字や写真、デザインといったヴィジュアル的効果と共存したメッセージへと変貌を遂げていく。勿論アート展覧会表現、映画、形而上的哲学書物はそれらと並存して受け継がれていくだろうが、それらの長時間的メッセージ伝達(間接的な学習)と、時間節約的メッセージ伝達(直接的学習)とは分化していく可能性が大きいのではないだろうか?


 又話題を少々転換させると、人類はある部分では気候や風土で異なった文明の様相を展開させてきた。ロシア、北朝鮮型のデモクラシー不在型のファッショ統制国家は、日本では北海道では然程珍しいことではない。北の大地では当然気候風土に適応して生存していくことが第一に求められているが故に、隣人や都市部での他人への親切は義理的には成り立ち難い。それは冬季の自然環境の厳しさに対応した表情、感情節約型(情動エネルギーの温存の為の智恵)の対人的態度が常習化されている。
 その点では沖縄の共同体的隣人間共感は対極にある。端的に人類は北へ行くほどグローバリティが自然なものとして通用する。逆に南に行くほど共同体的隣人間共感は増す。
 これは文明観自体に地方差、地域差を齎している。

 しかしウェブサイト上での言語記号の遣り取りは、そういった地方差や地域差を一見無効化する様に振る舞い続ける。しかしその事実は逆に実存的にある固有の地域に人間が生活するというリアルを全く不変なリアルのまま押し留める。要するにそれらは決してウェブサイト上での記号の戯れから影響を受けない。それこそが身体的エロスであり、リビドーであり、実存の人間の生活である。
 しかしでは昨今それが実現しつつあるかと言えば、そうではなく昔から人類は言語記号を持った瞬間からそれは運命づけられていた。詩の世界では確かにゲーテ的な形而上的リアリティが時代を飛び越えたものとして今でも認識されているという事実と、より音リズム的で理解しやすい金子みすず的世界が現代ウェブサイト時代で身近なリアリティをメッセージ的に獲得していることがあたかも無関係の様に振る舞いつつ、内実的には同じ人類による言語への接しという形で共存している。
 民族差、文化差は恐らく記号の戯れという形で意味化されて伝わる。しかしその意味を作っている当の人間は何処か固有の土地に住まい、その地域的な風土と環境から物事を考えている。
 同じビジネスでも東京、横浜を中心とする関東地方と、大阪、京都、神戸を中心とする関西とでは違う流儀があるだろう。それは東北地方や北海道、四国や九州でもあり得る違いである筈だ。そして全ての市民はその地域毎に異なる不文律の中から考える。現実は常にある固有の状況に支配されているからだ。自分自身が住む家屋や隣接する地域の環境から何かを発想するからだ。しかしその違いを無効化させるグローバリティが言葉にはあって、たとえ北海道であれ沖縄であれ全く異なった文明的様相から発信して言葉化されたものの世界では形而上性がクローズアップされる。しかしその事実は、では実際に政治やビジネスでフェイストゥフェイスで履行される密室談合的関係者オンリーによる決済という現実をいささかも変えないどころか、益々メッセージ的固有の状況の無効化と共存しつつ、他との違いを際立たしていくことだろう。
 情報摂取自体が益々情報端末を通して個的なものとなっていっても、実際のビジネス的リアリティによって重要な決定事項を巡る対人関係は閉鎖的に専門化されていく。その溝は益々広がり、形而上的な価値創造と、リアルな社会の動向とが断続並行的に進展していくことは未来に於いても避けられまい。

 もし何らかの形で人類はより地下へ深く沈潜していく生活形態を取るなら、いずれ山岳地方で日本の様な地震の多い国では、有産階級による高地土地独占と、地下沈潜庶民との間で種分化され齎すかも知れない。
 しかし種分化してさえ、言語的にはグローバリティを維持したままであったなら、却って聖書のバベルの塔ではないが、既に古代で言語的分化を果たした時点で文明や言語圏の分化は決定づけられていたのだから、その言語によって文明を全て構築してきた人類が言語によって崩壊する可能性は、寧ろ種分化的な事態が進行していった時、海洋移動生活人類、地下沈潜人類、山岳高地独占人類による三つ巴の戦争によってかも知れない。
 次回は地下沈潜と山岳高地土地独占と海洋移動という三形態へと分化していく可能性の思考実験から実際に今地球上で存在する民族分化から考えていこう。

Friday, September 2, 2011

第十八章 地球上で生存(サヴァイヴァル)を賭けた人類の進化論的分岐可能性に就いて

 前章で示した国家規模のヴィジョン、倫理的基準に対するヴィジョンといった分岐が人類を民族的に閉じたレヴェルで推し進められている可能性は充分にある。例えばカリフォルニア州で実施されている同性婚の制度も、アメリカ全土に広がる可能性は小さい。そういった意味では同性の親同士の遺伝子合成ベビーが精子だけ何処から調達したら可能である(つまり卵子と子宮を役割分担することによって女性同士のカップルの子供は可能である。男性同士のカップルの場合はどうなるのだろうか?)。
 そういった倫理的規定、制度的な在り方への自然であることの認識は民族的に閉じていずに、同性婚を容認し得る世界市民とそうではない市民との間で亀裂が生じてくるという可能性はかなり大きい。つまり社会モラル毎の世界的に二つに分岐していく、という可能性である。
 
 それに対して人類全体が自然災害による地球環境の激変に伴って大きく幾つかに生活形態が分岐することを契機に、次第に遺伝子レヴェルでも分岐していく、つまり種分化的可能性さえゼロではない。
 例えば日本で言えば首都圏直下型地震、東海沖地震、富士山噴火型地震、南海地震が同時併発的に勃発して巨大な津波が沿岸部をすべて10キロ以上陸地を浸食していってしまい、次第に海の面積が地球的規模で拡大して、国民は陸地で住むことが出来るのが、一部有産階級だけになっていき、それを見越して既に沿岸地域では地下生活を余儀なくされた市民が多数派になっていたとしよう。日本では地下建造物の技術は優れている。しかし同時に地下へ送電するのには多大のコストがかかる。従ってある深さ以上は当然限界がある。
 しかしそこで日本人の中で突然変異的個人が現れる。それがルシフェリンが異常発現した個人であったとしよう。彼は身体全体が幼い頃から発光体になっていたのだ。しかも彼は夜型人間だったのだ。
 必然的に夜型人間のみ一切の太陽光を浴びずに生活し続けても精神的に異常をきたさないでいたとしよう。そして次第に更に深い地点迄地下生活者の居住区域は進展する。
 そして次第に日本人は三つへと生活形態が分離していく(それは日本だけでなく世界的規模になっていったとしよう)。
 つまり僅かに残存した陸地で生活していく有産階級、そして地下生活を余儀なくされ且つ一切の太陽光を浴びずに生活することで精神異常にならない階級の人達(下流社会的人達)そして体育会系のそのいずれにも属さぬ水軍的魂の人達は、既にアデン湾で活躍していた海賊の一味となって世界中で海洋生活人類として陸上生活有産階級とも地下生活下流社会の中でも自己身体発光体によって電気が少なくとも照明レヴェルでは不要な人類によって暖を取ること以外では一切電力エネルギーを必要としない人類(当然全ての電力エネルギーは地下農場維持だけである)、移動もさして大きなコストを必要としない人類とも決別した生活形態を採っていたとしよう。
 人類は陸上生活者、地下生活者、そして海洋生活者へと完全分岐していったのである。すると次第にこの三つの人類は種分化をきたし、相互に子孫を繁栄させることなく閉じた系として生活する様になり、当然連絡もとらない様になっていくのだ。そしてその子孫になるにつれ次第に相互に他者人類存在を知らない様になっていく。
 
 同性婚を成立させるモラルの人類と、そうではない保守人類とが文化レヴェルで分岐していく世界的規模の人類分岐可能性と同じくらい、この種の地震と津波、そして原発依存型生活者と、そうではない人達による分岐可能性はある。原発依存型の人達は陸上生活を営む。尤も或いは彼等こそ太陽光発電をするべきなのかも知れないが、そもそもそれだけの平地を獲得出来ないでいたとしたら(せいぜい埼玉県くらいの平地だけが沿岸部として残存しているわけだから)原発にしか依存出来なくなっているだろう。すると核廃棄物を発展途上国の地下に買うということも出来なくなっている(そもそも地球温暖化で世界の島々は海洋へと沈没しているわけだから)ので、地下へとそれを廃棄しようとする段になって初めて地下生活を選択して突然変異ルシフェリンがウィルスの様に広まった地下生活人類と邂逅し、そこで争い事が生じる。勿論海洋生活人類は始終海賊行為をして生計を立てていたので、当然陸上生活人類もそうおいそれと外国へと渡航することを海洋レヴェルでは断念している。当然貿易はままならない状態となっている。空路だけが残されているが、そもそも貿易がままならないレヴェルで国家間のバイラテラル、ユニラテラルな関係自体が閉塞化している。結局国際社会とは物資面ではなく、あくまでウェブサイト上での文化交流オンリーになっている可能性すらあるのだ。
 世界史だけを相互に語る自給自足オンリーの世界市民の完全独立生活形態だけが世界を支配しているのだ。
 この三つの人類へと生活形態が分岐して、種分化していく可能性の壮大なる思考実験は今始まったばかりである。次回はその詳細を分岐していく時期から、完全分岐した時代への歴史的経緯から考えてみようと思う。

Friday, April 22, 2011

第十七章 五百年後の世界では人類の遺産の何が残っているだろうか?Part1

 人類の未来を考える時四五十年先なら何とか見通せるとも言えるが、五百年となると中々創造がつき難い。そこで五百年前の世界から現代迄のことを参考にすることは無意味ではあるまい。つまり人類は何を求めてきたかということはここ五百年の人類の歴史から換算していけば、今後を見通す鍵くらいは見つけられよう。
 徐々に偉大なる先人を遡っていくと、ヨハン・セバスチャン・バッハ(1685―1750)、アイザック・ニュートン(1642―1727)、ディエゴ・ベラスケス(1599―1660)、ウィリアム・シェークスピア(1564―1616)、ガリレオ・ガリレイ(1564―1642)、レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452―1591)という風になる。すると今から丁度五百年前に偉大なる仕事をしたのがダ・ヴィンチということになろうか?
 それから現代までのことを考えると、それは加速度的に都市文明が構築され人口が増加し、科学技術が進歩した時代だったということになる。
 しかし同じ加速度的進歩が人類に今後齎されるかということになると、疑問を抱かざるを得ないという考えも考慮に入れると、人類はどういう風に進路を決定していくのだろうかという思念に及ぶ。
 しかし少なくとも世界全体が宗教とか哲学とかだけに加担して、科学技術なんでもうどうでもいいという方向に行くとはとても思えないし、芸術や文学や演劇だけに現を抜かすという方向に行くとも思えない。恐らく相変わらず科学技術は最前線で我々の文明を維持しようとしつつ、芸術、文学、演劇などを人々は楽しみ、音楽や絵画を鑑賞したり、映画や舞台を楽しむということは変わらないだろうし、スポーツは依然エンターテインメントのトップポジションに君臨し続けることらだろうし、野球やサッカーを観戦しながらビールを飲んだり、ロックコンサートを聴きながらビールやハイボールを飲んだり、ジャズを聴きながらワインを飲んだりということは変わりないだろう。クラシック・コンサートも今迄の様に礼服に身を包んで行くという習慣も残るだろう。
 しかし重要なことはここ数十年の間にあったIT情報化社会による国際的な国境の無化はそのまま継続され、恐らくビル・ゲイツ、スティーヴ・ジョブズ、スティーヴ・ウォズニャック、マイケル・シュミット、ジュリアン・アサンジ、マーク・ザッカーバーグ等が思想家として歴史に刻まれ、実際に文筆業としての思想家は一エッセイストして数行だけしか歴史書には登場せず(エドワード・サイードも)、哲学者もご他聞に盛れず、ガンディーやマザー・テレサは宗教家として残り(人道主義者はそういう側面から人生を考えていたが故に)、孔子、ゴータマ・シッダールタ、老子、荘子、イエス・キリスト、ムハンマドといった人達は神話的存在となり、今の様に聖典は残るだろうし、音楽家で世界を席捲した一部の人達は音源も残るだろう(チャーリー・パーカー、マイルス・デイヴィス、エルヴィス・プレスリー、ザ・ビートルズ、シカゴ、クィーン、マイケル・ジャクソン他)。
 只我々の生活上でずっと残ってきている車がどうなるかということは極めて興味深いことである。今迄の様に世界中の誰しもが車を乗り回すという方向に行くのだろうか?
 それは車だけでなく飛行機もである。ここら辺がエコ的観点で気になるところではある。
 映像的な世界、つまりヴィジュアライズされたイメージの世界は益々世界を席捲していき、多機能モバイルが携帯電話とパソコンの境界を無化し、要するに移動生活は益々世界規模となっていくだろう。宇宙計画がどうなっていくかということだが、世界中で宇宙にまで旅行出来る人達はやはり一部であるということは、宇宙旅行の是非とは別に変わらないという気はする。それは宇宙に全ての人類が等しく関心を注ぐとも思えないからである。
 生殖医療・遺伝子治療も益々盛んになり、デザイナーズベイビーも今よりもっともっと増えるだろう。しかし同時にそういったこと自体への反発心も一部では根強く残る気はする。不妊治療とサロゲートマザーの共存、そしてそういったこと全体への臓器移植などをも含めた医療合理主義に対する人類の中での一部の反発心を持った人々との間の延々と繰り返される思想的対立は今よりももっと表面化していくだろうし、クローンベイビーも今よりももっと多くなるという気もする。
 地域的な紛争はずっと絶えずに残るとも思われるし、時々今でもしている米軍による空爆もなくならないだろう。もっとも五百年後も依然アメリカが世界のトップリーダーである可能性は五分五分といったところかも知れない。しかしもしアメリカ以外の国が世界のトップリーダーになっていても、尚今の様な世界秩序の様なものは維持されるだろう。
 又民族というものもなくなりはしないだろうし、民族固有の言語も少なくとも現在維持されてきている国家公認の公用語は残っていくだろう。それに対して案外クリオールやピジンなどは然程隆盛を極めないだろうとは予想される。それを無化しているのが航空技術の進歩であろう。今現在船によって世界的規模の移動をする人はことビジネスではいないからである。今よりももっと世界都市空間は均質化していくことは避けられまい。そして各国の文化遺産に対する観光産業という形で民族宗教や伝統行事は残っていくのである。
 これからは鉄道自体もトンネル(海洋や山岳も含めて)などの建設によって益々無国境化されていくことだろう。そういう意味では世界が全ての市民にとって徐々に未知の部分が少なくなっていくことだろう。勿論これからも自然の脅威は地震、津波、雪崩その他幾つも起こり得るだろうから、当然人が住める地域とは世界全体からすれば、今とそう変わりないとは言えるだろうが、人類は世界的規模で農業その他の食の確保を考えていくだろうから、森林伐採などを国際法的に罰則を設けるなどして対処していくということは考えられる。
 延命医療が人類の身体を益々サイボーグ化していくという方向も考えられるが、その点でもそういった疾病対策と障害克服に関しても尚、徹底的合理主義で考える国家規模の医療ヴィジョンと、非合理主義者が徹底的に論争していくという絵図は思い描ける。
 その根拠は次回以降考えていくことにしよう。

Monday, February 28, 2011

第十六章 世界は意図に満ちている?/快苦と慣れ②

 「部分化する観光都市モデル」は我々が居心地のよさを、修正不可能である様に思わせる惰性的性向に根差しているし、又性行為を巡り快楽と、出産時に味わう母体の痛苦自体も、それが出産後にはけろりと痛みが退くが為に又ぞろセックスに対する欲望が沸々と沸き起こるという様な相も変わらぬ快楽志向(嗜好)を我々が惰性的に理性以外に絶えず携えて生活している、ということを意味している。
 ミシェル・アンリが「精神分析の系譜」(大阪大学での講義録)で示している情感性(「身体の哲学と現象学」でも充分示されていた)や自己触発といった語彙は、まさにそういった惰性的な身体的記憶、しかもそれをもう一度味わいたいという欲求と関係がある様に思える。
 例えば我々は京都、奈良、鎌倉といった古都に対して期待するものが、個人差よりは、より一般的に日本人にとって故郷の様に思えるものによって形成されているのではないか、とそう思える。勿論日本人にとって味噌汁は地方毎に少しずつ全部味も違おう。しかしそれでも尚全国何処に行っても味噌汁が飲めるということこそが日本であり、そのことに対して、それこそが一番嫌いであると言う人の方が圧倒的に少ないのではないか?
 その意味ではこういった伝統文化的なコードへの追随とさえ思えないある種の我々による同化といったことは、記憶が身体的に、幼児体験的に遡れるものであればあるほど、それが理想の環境の様になっていってしまうということかも知れない。
 だからこそ部分化された観光都市モデルが日本を、何処に行っても山形には山形なりの、福島には福島なりの、仙台には仙台なりの良さを我々に求めさせる。
 それはやはり家庭とは寛ぎのあるものであった方がよい、と多くの人達が考える様な意味での安らぎとか憩いといったことの基本に横たわっているのではないか?
 だからある忙しない都会の喧騒を目の当たりにしてさえ、そういった環境で育った人にとって、それが一番安らぎを与えるものとして存在し得る。だから快苦の規準とは、そういう風に個々人によって極めて振幅の大きいものであり、ある個人にとっての快は別のある個人にとって痛苦以外ではなく、その逆もあり得る。
 そしてそれはまさに身体的記憶(響きとか匂いとか、或いは言葉の語呂<方言など>や、要するに外界から授受するクオリアの様々な在り方として)と密接で、それが想像力の在り方自体に個人差を与えている。 
 恐らく現象学者で天才的作家でもあったミシェル・アンリが自己触発とか情感性と呼ぶものとは、そういったことではなかっただろうか?
 そしてまさに個々人にとって異なるクオリアの在り方を我々に与えているところの環境とかそれを形成させるのに大いなる役割を持つところの自然こそが、世界自体となって、そういう風に個々人に異なった感慨を全ての事物が与えるという事実こそが、世界の非意図的な意図である、と言えないだろうか?
 その意味では我々個人が、存在者が意志するところの意図とは全く違った様相で世界自体が意図を持って我々存在者全体へと対峙している、と少なくとも私には感じられる時がある。それは特に極めて大勢の生活者や就業者達が集う大都会の喧騒の渦の中にいる時にそうである。否京都や奈良や鎌倉などを闊歩している時ですら、同じ名刹を同じ様な関心で訪れるあらゆる世代の人達の行動や表情を眺めていても感じることである。
 ある人達にとってある名刹は極めてゆるりと寛げる雰囲気であるが、別の人達にとっては全く別の名刹がそうなのである。そして私などの様に薬師寺とか唐招提寺の様な名刹にそれぞれ固有の池などを探索することに寛ぎを見出させている。西大寺には西大寺に固有の池があった。つまり池の佇まい自体に、我々は名刹の固有性を嗅ぎ取れると私は考えているのである。
 それは鉄道ファンにとって駅舎とか、駅構内の建築構造自体が、ある都市とかある地方の固有の特色を象徴している様なものとして認知し得るということとも相通じる。そして私はあの上野駅の駅舎にロマンを感じるとか、久里浜駅の駅舎に懐かしさを感じるとか、要するに個々人に異なった寛ぎ方を与えている。まさにその様に個々人で異なる寛ぎ方は世界には千差万別あるという事実こそが、世界が非意図的に意図的であろうとしている様に私には感じられるのである。
 これはある意味では極めて紀行文学的感慨であるかも知れない。しかしこの紀行ロマン的な感慨を我々に与えているのも文化という側面もあるだろう。しかしもっとダーウィンの自然選択的な真理とも大いに関わっていると思われる部分も確かにある。
 大都会東京には様々な場所があるが、ある一群の人達はある場所に、別の人達は別の場所に屯する。このパターンとは案外流動的ではあるものの、沈殿して定着している、とも言える。新宿のゴールデン街に集う人達の性格は大体似通っているとも言えるし、京王プラザホテルの喫茶で談話する人達も大体似通っていると言える。それはどういう会話をするかということで決定されている。これこれこういう会話をするには、これこれこういう場所が相応しい、従ってこれこれこういう場所を一緒に歩くのなら、こうれこれこういう友人、知人と共にが一番いいという選択は個々人である筈である。それはある歌曲がBGMとして流れてくるのが相応しい場所、逆にある場所にはある歌曲がBGMとして流されることが相応しいということがあるのに似ている。それは全く個人毎に差違はあるだろう。しかしその差異はやはり同意よりは遥かに小さいのではないだろうか?つまり概ね一致し得る相応しさに対する判断があるのではないだろうか?
 つまりその概ね一致し得る判断があるからこそ、一方では多種多様な憩いの場所があるにも関わらず、それらが案外余りにも対立することなく、共存している、ということと、モラルとかエシックス(倫理)が我々によって相互の暗黙の同意の如く何時の時代にも存在している(アンチモラル的、アンチエシックス的人生さえ、そういった同意を積極的に求めているとさえ言える。つまり反社会性にとっては、社会性が自己をアウトサイダーとかアウトローとして際立たせる存在として積極的に必要なのである)のではないだろうか?