Saturday, March 21, 2015

第三十八章 便利さの追求と過当競争が齎していること

 SNSの進化は日を追う毎に過剰さを増している。あらゆるゲーム的機能との融合等を含めると日々企業がより自分達のSNSへ市民の気を惹く為にありとあらゆるディヴァイスを提供してくる。だがユーザーは何か一つのSNSの仕方に慣れると、それをも超える便利さや豊富な機能のものへとそうおいそれとはシフトし難くなる。従って利便性、便利さ自体とは一体どういうことなのか、ある機器Aよりある機器Bが優れていて便利である理由とは何なのか自体を把握する事に我々は時間を取られてしまい、肝心のその機器の使いこなしにはなかなか到達しないという喜劇的状況も齎される。SNSだけでなく、あるSNSをする為により便利なPC機器迄探し出すと、もう既にSNSをする事自体が目的化してしまい、例えば色々と調べものをしてあるブログに記事化していたことが、もう記事化する事自体が目的化し、しかもブログ来場者を増やす事の方に比重が移行し、調べものをする為に本を読む時間が無くなってしまうという本末転倒的事態が到来する。
 便利さの過当競争が一体どういう機器やツールがより便利なのかを益々混乱させ分からなくさせてしまう。
 其処で重要となってくることは一体自分はどういう機能の便利さを優先させるか、ある意味では何を目的にSNSをするのか、何を目的にPCを利用するのか、何を目的にあるゲームに関わるのかを徹底的に明白にして、凄く金をかけてでも便利さを追求する部分と、そうではない部分、つまり多少今迄の様に不便の侭でもいい部分とを認識して、全てに対してアップ・ツー・デートさを求めないということだ。いっそ皆が使っているからという理由だけでは何もしないという決意が必要なのだ。
 あるSNS機能に対して、其処には無い別の機能や有用性を追求すれば必ず別のSNSが作られる。だが一から始めるSNSは其処から又新たな仲間を物色しなければいけない。その物色する事自体が目的なら、それでもいいが、一定期間以上自分をフォローしてくれていたフォロワーをTwitterで大切にしたいなら、それを継続してし続けながら、その仲間とLINEを時々するという様にすればいい。結局全てを最初からし直す必要迄はない。勿論そのやり直しが目的ならそれでもいい。
 ある便利さAは別の便利さBを生む様になっている。だが必ずしもBがA全てに勝っている訳ではない。別の意味では便利さBが便利さAにあった部分を損なっているかも知れない。だがそれを知る為には一度は便利さAに固執せず、便利さBを知る為に便利さAから離れる必要がある。だがそれを全ての新ツール、ディヴァイスで試すことは出来ない。従って当然何処かで何かを諦め、何か特化された目的に応じて便利さをチョイスする必要がある。それは趣味で聴く音楽の選択でも言える。全世界の全ミュージシャンの音楽を聴く時間は我々にはない。従ってある部分からはある程度一度絞った関心領域の音楽を中心にそれに付随する関係する、似たモードや傾向のものを物色する様になる。
 アマゾンで何かを購入する場合でもyoutube検索する場合でも、自分で選んだテイストに傾向の近いものを表示するシステムが完備され、似た傾向のものを検索しやすい様にウェブサイト自体が計らっている。しかしそれも一定程度の時点で断念する必要がある。
 だが今日浅田次郎がニュースヴァラエティ(テレ朝)で語った日本社会にかつて在った和の心の復権、今と個より未来と集団というテーゼは現代社会では切実味はない。実際には科学技術とテクノロジーに人類がついていけないという部分があるし、そのことで自殺する人も居るかも知れないが、やはりそれはきっかけであり、自殺の根底的根拠ではないと思われる。つまり重要な事は自己でチョイスする決然とした意志の欠如であり、それは時代と関わりなくどんな状況でも自殺を自己へ誘引する可能性はある。
 確かに加速度的な科学テクノロジーの進化が社会を忙しくしているかも知れないが、その忙しさで却って余暇が増えているとも言えるからだ。
 勿論テクノロジー自体に振り回されるなら本末転倒だが、ビッグデータシステムで監視カメラや盗聴システムが利用されることを全人類が抵抗を試みるとも思われない。大半の市民はその有効利用に期待を寄せている。
 だからこそ先述の様に自己決裁、つまりある部分では有用性をとことん追求するが、別の部分ではそれ程は追求しないという追求の進化と、その為に別の部分での進化の断念を自分なりに決定させていく意志だけが現代社会の利便性と科学テクノロジーを共存していく為に必要なことなのだ。
 ビッグデータは無差別テロ等を未然に阻止する為に必要な方策だと多くの市民は思っている。少なくとも犯罪を起こそうと思っている様なタイプの市民以外であるなら。だが確かに誰にでも小さな出来心とはあり得るので、そういった場合にどんな小さな悪戯も発見されてしまうという事へのある種の恐怖とは常に背中合わせで居るしかなくなるが、立小便も出来ないという事は、かなり過疎エリアではあり得ないし、一定の住宅街ではそう容易に立小便も出来ないことくらいは仕方の無い事として、日頃からそういう事をせずに済ますだけの用意だけは全てに於いて行っていくべきなのだろう。
 前回示した様に正論と邪論が刹那的なメッセージ発信願望で共存している様なTL自体に自然さを汲み取る現代人は、ある意味では過去には無かった禁欲性を取り込んでいくしかない。つまり生活スタイルは時代毎の社会全体の要請から変化していかざるを得ないのだ。だからこそ自分は一体何を追求し、何をそれ程は追求しないかという断念を含めた決意が必要だと言えるのである。

1 comment: