Monday, January 26, 2015

第三十七章 正論と邪論の混淆した情報社会

 TwitterではFacebook以上に重要な存在理由がある。それはツイート自体が自分自身の関心領域等へのオタク的興味で行う事以外に、色々な時事世相的な発言、それ以外でもぼやきからジョーク、駄洒落等に内容の層が広く、凄くテーマを絞り込んでその内容だけをツイートし続けるツイーター以外にも大勢居るのが、多様な要するにテーマを一つの絞り込まないタイプのツイーターが居る。そして彼等は正論から邪論、あらゆるツイートをするので、その玉石混交的部分にこそ凄く重要な意味があるのだ。正論だけとか2ちゃんねる的な邪論だけでない、それ等どれもが一人のツイーターに於いてもだし、誰もが閲覧するTLにも共存しているところに凄く閲覧する意義があるのだ。
 凄くよく考えて書くツイートと、その時の気分や思い付きだけで書くツイートが併存していること、そしていずれが正しいとか本格的だとか説得力があるとは言い切れないこと、つまり凄く考えて凄く詰まらないことしか書いていない場合もあれば、その逆で気分に任せてかなりいい事を書くこともあるし、正式なことと、全くその場凌ぎ的でインフォーマルなこととが何の矛盾もなく脈絡も無く併存しているという状態自体が凄く意味のあることなのだ。SNS一般は恐らくミクシーもFacebookもLINEもそういう意味としてTL自体も、それを閲覧することも意味があるし、存在理由があると言える。
 一人の人間の考えとか思想というものが如何に矛盾しているかという事自体は手に取る様に分かるという意味でもそうだし、逆にどんなに矛盾していても、自分のある日のツイートに関しては他人のツイートと違って手に取る様にその矛盾の理由を察せられるのに、他人のツイートに関してはそうではないという事もよく分かる所にも存在理由がある。
 ところで話は変わるが、音楽ではクラシックミュージシャンよりジャズミュージシャンの方がコードに関する知識は上だ。だがもうこれ以上人類は新しいコードを見つける事が出来ないか、と言えばそんな事はない、きっと新しい発見は今後も為されるだろう。
 楽理上で一つの音と一つの音(ドとレとか)の間にも無限分割的に異なった音が存在すると考える向きがあるらしいが、私はそうでないかと思う。もしそれが正しいなら、ドとレの間を十分割させて、丁度ドから三つめの目盛で、レから八つ目の目盛の音と、音階の違うもっと低い音階の何等かの音(無限分割的な意味での音)と相性が良くって聴いていると心地良いということはあり得るのではないだろうか?
 このことはSNS一般では正式と非正式な呟きが併存していること、本気とジョークとも隣接している(人は本気で何か言った直ぐ後にジョークを言うこともあり得る)こととか、ぼやきをしたかと思えば希望に胸を膨らませたことも呟くことが出来るということと似ていないだろうか?
 つまり音という聴かせる為のものの無限に分割し得ること、そして和音、和声ということがかなり恣意的に聴いている者にとって心地よく感じられること、そしてそれが未だ無発見のものもきっと多く含んでいるに違いないということは関係がある気がする。
 この全く雑然な様でいて、或いはきちんとした美音の構造とか心地良さの仕組みが存在するのかも知れないけれど、只我々は未だそれを知らない、発見していないだけなのかも知れない、ということと、SNSの呟き傾向が整然として決定されているのではなさということは何処か共通性があると言えないだろうか?
 例えば人の感情はその時その時で全く意味は違う。同じ切なくて泣いているという状態であっても、切なさ、哀しさ、可哀想さ、後悔の念を持っている意味は全て違う。その時何に対してであるか(悲しいにせよ、不快で怒りを感じているにせよ)その事態や事実の違いに拠って全く個別的である。そのこともツイートの性格がばらばらでも、それを呟いた本人にとってのみよく気持ちが分かるということ似ている。構造的には全く同じである。だから当然真理的には言葉とはその言葉を齎すその時々の感情的気分なのだ。
 ある音を凄く聴き心地良く聴けるということとか、そうではないということも、実はこのその時々での感情の固有の理由とも関係があって、あるコードを美しく感じるということはその時々の気分に拠っても違うだろう。只プロの演奏家は常にそれでも全てのコードを相対的に把握することは出来るのだろうが、プロでもある時には弾きたい曲があり、別の曲は弾きたくならないということはあり得るし、又美しく心に響くコードもその時々で違うだろう。
 この気分の問題で必ずしも同じコードが何時も同じ様に心に響くのではない、ということは、SNSで一日の内に一人の人間が凄く正論も呟けば、邪論も呟くということ、そのことときっとかなり深い所では結びつき得る何かがあるのではないかと思えるのだ。
 そして現代人は社会全体にも気分があることをよく知っていて、だから個人的にも自分のある日の呟きを反省的に読み直してみたり、或いは人のことを知りたくてある他人のある日の呟きを読んでみたりしたくなる、ということなのだ。現代社会では正論と邪論が常に入り混じっている事の方を自然と感じられる、少なくともSNS利用頻度の高い人はそうである、ということは言えるのではないだろうか?
 その点では近代迄の人達より現代人はより正論と邪論の何の矛盾もない共存、併存、つまりその正統性からすれば矛盾自体を自然に感じる感性はどの社会成員もずっと近代等の成員より優れているとは言えるのではないだろうか?

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