Wednesday, January 21, 2015

第三十六章 幼稚化を相互に容認し合う現代社会

 自己顕示欲的快楽を示したく、そしてそうすることによって世間が騒ぎ自分の発言権が増すという幻想で爪楊枝を商品に見立てたものに刺して世間を騒がせる愉快犯が19歳青年だったニュースは其の数日間はさして重大な犯罪ではないからこそ逆にマスコミは騒然となった。勿論それもイスラム国に拠る日本人誘拐人質身代金脅迫youtube動画に拠って一気に吹き飛ぶ。だからアンディ・ウォーホルが世界中の市民が誰しも15秒だけは有名になれる時代と言った事は刹那的な知名度的栄光を求める人類の幼児化、幼稚性に根差している。だから誰しもがTwitterで本音を暴露し、ブログで日記を公開する(日記とは人に読ませる目的で本来書かれているものではないにも関わらず)という私的行為の露出願望が現代人にはある、ということだ。自己生殖器を晒す映像をネット動画として投稿したりして、自己内、分析哲学命題である現象性自体を誰しも持っていることそれ自体を露出するマゾヒスティックな願望が人類に共有されていることの根拠として、あらゆる大人的態度、大人主義、管理者的節度への感性レヴェルでの極度の信頼出来なさが現代人の深層心理を支配しているという事が言える。
 全世界の全人類世界市民がエゴイストでオナニストであり得て、その事実自体をメッセージ化することが可能となったウェブサイトとSNSと動画投稿社会世界性を持つ現代人は、実は核戦争、つまり20世紀中盤に実現してしまった広島・長崎の事例に対して、誰しもが潜在的にはノーモアヒロシマ、ナガサキ的前提で生活している。誰しもがどんなに理性を失っても核戦争だけは避けておかなければサヴァイヴァル自体が覚束ないと自覚しているからこそ、そのストレスは誰しもが過大であるが故に、時折ガス抜きを求めていて、それは刺激的な動画(以前ならイラク元大統領フセインの処刑動画等から最近ではイスラム国の処刑動画等)を発信していく側も、それを好奇心で検索し視聴する側も何処かでは結託し共謀的(狂暴的でもある?)に存在し続けているのだ。
 現代人はナッツ姫事件でも顕著な様に既に全人類的規模で我慢しなくなってきている。只その精神的傾向を何とか隠蔽し得るか、その隠蔽を潔しとしないかの差でしかない。この世界的な幼稚性傾斜の現象を核戦争抑止ストレスに起因するガス抜き的ミニテロリズムと呼ぼう。それは相互の幼稚性を容認し合う事で相互に(加害者も被害者もそのテロの傍観者全員を含めて)相互の過大な責任を回避し合っているという風に理解することも出来る。
 前回はゲームソフト等の過激なイメージ実現というサブカルシーン的現象自体をリアル、つまり現実社会や現実の政治動向やテロリズム自体が模倣するという視点で考えたが、人類全体が大きな被害を回避する為に率先して小さな我慢し得なさ、我慢せず一切合財をぶちまける欲望だけは小出しにしつつ容認し合っているのだ。
 これは人類にとってもし人類が未だかなり長期に渡って地球上に君臨し続けるならオナニスト達の春の季節であるが、人類がやがて絶滅するのならオナニスト達の冬にあると言っていい。
 最近日本語で「皆迄言うな」と全部言い切ってしまうなとオナニズム抑止的キャッチフレーズをよく言う様になった。同時に逆切れという語彙が、悪い事をしている側がそれを抑止しようとする側へモンスタークレイマー化した発言をすることを意味していて、それを頻繁に日本人が言う様になっている。これは一種の顕著なオナニスト達の春か冬をよく示している。
 ところで人類が建造物を個々別々の造る様になった最大の理由は風雨から体表を守る為であるし、その事をかつてデズモンド・モリスは裸のサルと評した。だがもう一つ重要な理由がある。それは無意識に誰しもがインシストタブーを回避しようとしたからである。だから現代社会でも性教育も必要だという声もあるが、同時にそれへ躊躇する声も多いのは、あくまで性に関する事は公言し合う性質のものでないと皆が心得ているのは、家族全員が同じ空間で生活する洞窟や竪穴式の穴居生活では性行為の確保が困難である事で個々独立した家屋を造る様になった事の意義を無視していく方向にあると知っているからである。つまり野放図に何でも心の内を家族内でも語り合う事は、子供の側だけでなく大人の側もインシストタブーを冒してしまう性悪的性質が誰しも持っていると知っているので、それを予め回避しようとしているのだ。全てのプライヴァシー確保の必要性とはこの事実に起因している(だがそれを敢えて冒そうとする一人遊びの公開性に関しては次回の記事に委ねる)。
 ある意味では人類にとって核戦争やエスニック・クレンジングは20世紀に一定程度実現させてしまった。ヒトラーやスターリン、ポル・ポト等に拠って大量虐殺は実現してしまっているし、当然のことながら広島・長崎へ原子爆弾が投下されたことで核戦争の糸口は示されてしまった。だからそれ等を回避したいという願望は全人類が共通して暗黙に携えている。周知の事実としてそれ等が人類を絶滅へと誘う事を暗黙に全人類世界市民が心に保持しているのだ。核戦争のボタンとエスニック・クレンジングや粛清的大量虐殺がアメリカ合衆国やナチス、ソ連、カンボジア独裁政権、ボスニア・ヘツツェゴビナ紛争等に拠りパンドラの箱を開けてしまった事を人類は知っているので、そして今再度初期人類の様に家族全員で穴居同居生活に逆戻りする事が出来ないと知っている。それを回避させる為の唯一の方策は小さな幼稚性を敢えて目を瞑って放任しておくことによってガス抜きをしていくしかないのだ。誰しもその悲劇的事態に陥った時には犠牲者になる人達へ哀悼の意志を持ちながら、喉元過ぎれば次第に元の平常時の生活に戻って行く事を承知していて、どうする事も出来ないので静観していくという態度を取り敢えず取るしかない。
 それが現在の人類の実情なのだ。だから相互に幼稚性を容認し合う格好のツールとしてTwitterやLINEの様なSNSが世界的に選ばれているのであり、その露骨な自己暴露への反省的意識から社交的知性を取り戻す為にFacebookが世界的に選ばれているのだし、時折シャルリ・エブドやイスラム国に人質になる犠牲者が出ても、そういった時々土竜叩きを要請される様な突発的事態全てを回避する事は、核戦争ボタンを押すか、相互に憎しみの連鎖でエスニック・クレンジングを回避する事と引き換えに諦める、つまりそれを諦められないのなら行く処迄行くという選択肢しかない、と全人類世界市民が知っているのである。
 今回はかなり否定的諦観的な態度で現況の世界情勢を語った。だが次回は本ブログでは初めてSNS利用のオナニズム公開的な人類心理の肯定的発展可能性的視野から論じてみよう。

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